無垢なる地平線
某SF新人賞の最終選考に残ったものです。
応募後、改稿しています。
五年半の月日をかけて銀河の半分を駆け巡り、密輸団のボスを追い詰めた捜査官のチノ・ユージンは、かつての相棒の仇であるボスとの最終対決を迎えようとしていた。
密輸団のアジトに、ブラスターキャノンを片手に踏み込もうとしたとき、チノの周囲の世界が暗転し、消え去った。
スペースジャケットは着たままで、右手には相棒の形見のブラスターキャノンを握ったままだったが、鉱山惑星の坑道の入り口や、彼にしたがっていたロボット兵たちは消え、彼は虚空に一人浮かんでいた。
『中断コードを入れさせていただきました、コパイロットのルキアです。間もなくエウロパに到着します』
チノのはるか上方から若い男性の声がする。
「わかった」
チノはやや上を向いて答え、プログラムの終了コードを頭の中で唱えた。虚空に浮かんでいた彼自身も消える。そして本当の自分の肉体を意識する。彼は目を閉じて横たわった状態だった。
目蓋をゆっくりと開けると、そこは地球からエウロパへの連絡船の客室のベッドだった。体感時間では六年が過ぎていたが、実際には四週間の宇宙の旅だった。旅の間、チノは自らがプロデュースする新しい仮想社会『銀河開拓史パート3』のテストを兼ねて、現実世界の身体を船室に横たえて一人で仮想社会で生活していた。宇宙船での旅なので、光や電波によってほかの人物とロスタイムなく接続して同時に同じ社会を体験することはできなかったが、コンピュータが操る人物たちが何億人も居るので、ひとりぼっちとは感じなかった。
開発中の『銀河開拓史パート3』は、ジャンプ航法により銀河を飛び回れるようになった人類が、銀河系の星々を開拓していく近未来の社会で、『生活者』たちは、開拓者として広大な土地を所有したり、船を持って交易をしたりすることができる。普通の暮らしが体験できるし、望めば、危険な人生を送ることもできる。チノが今回試した『密輸捜査官』は、まさに最も危険な人生のひとつだった。
テスト結果は上々だった。現代社会とほぼ同等の文明レベルの社会は、生活し易かったし余分なストレスもなかった。例によって、脳は完全にだまされて、実体験との差は五感で感じ取ることはできなかった。
現実世界との違いは、光速を越えた航法があるか否か、であるのが、この『銀河開拓史』シリーズの売り文句だ。超光速航法があるから、人類は過密状態の太陽系を飛び出し、瞬く間に銀河系を開拓していった、という想定なのだ。現実の世界では、人類は地球の陸地から溢れ、海底や月面にはびこり、火星や金星も地球化して、あと十年もすればそこからも溢れてしまう状態だ。
もはや木星や土星の衛星を開発しただけでは、増え続ける人類の受け皿にはなりそうになかった。それゆえ、このエウロパは、単なる開拓地ではなく、人類の居住先を探すプロジェクトのひとつに使用される実験衛星とされた。チノはその実験に参加するために呼ばれたのだ。
「ご気分はいかがですか?」
ベッドの横には、連絡船のコパイロット兼船医のルキアが診断装置の表示を眺めながら形式的な質問をした。
「四週間寝っぱなしだった身体にしちゃあ、調子よさそうだ」
両の手のひらを握ったり開いたりしながら、上体を起こしてチノが答えた。
「ええ、数値も問題ないですね。すぐに会議が始まります。第二エアロックへ向かってください」
ルキアに言われて、ベッドを降りたチノは、船室を出て通路を右手へ歩いた。体感では六年前にこの船に乗ったとき通った通路だ。ほんの10メートルも歩くと大きく『2』の字が描かれたハッチの前に着いた。仮想社会から現実に戻ったときに特有の、時短ボケのふらつきもなく、身体が軽快に動くのが不思議だった。
エウロパのラボへのドッキングまで何分なのだろうかと、コパイロットに尋ねようとした瞬間、エアロックのハッチが両側にすべるように開いた。
その先は、4メートル四方のエアロックではなく、10メートル四方はある会議室だった。
『ロ』の字のテーブルを囲む椅子に、研究者のユニホームを着た人物が六人着席していて、会議室の入り口に立っているチノに注目していた。
チノは状況を瞬時に理解し、驚きよりも怒りを感じていた。大股に、手近な空き席に向かいながら声を荒げた。
「今のが違法行為だってこと、わかってるんでしょうね?!」
この会議室は現実のものではない。おそらくチノは、まだ連絡船の客室のベッドに横になったままで、意識だけ『銀河開拓史』から『エウロパラボの会議室』(仮称?)に載せ換えられたのだ。そして、チノが言う違法行為とは、本人に認識させることなく仮想社会に連れて来ることを指している。仮想社会に接続するときは、本人の自覚が必須とされている。どんなにリアルな仮想社会であろうとも、それが現実ではないことを本人が自覚して体験するようにすることが義務付けられている。たとえ本人が望んでも、仮想を現実と思わせてはいけないのだ。その制約にいつも悩んでいる側の人間として、チノはこの会議の招集者が許せなかった。
「失礼。さきほどコパイロットが言いませんでしたか?」
チノが座った席の正面にいたいかにも学者ふうの紳士が、すこしもすまなそうでない口調で言ったので、チノの神経はさらに逆撫でされた。
「彼は『会議が始まるからエアロックへ向かえ』と言っただけです」
「ああ、ですから『会議』と言えば、時短会議のことですから。エウロパの地表には三十あまりのラボがあります。いくつかのチームに分かれて作業をしていますが、ひとつのチームのメンバーの実際の居場所はバラバラです。それぞれが自分向けの実験機材の傍に居ますからね。わたし、メルソンは、あなたの船が着陸する南西四半球のラボ11に居ますが、理論次元学者のマッコイ氏は北西四半球のラボ2に居ます。他のメンバーも、そういう具合ですから、会議のたびに移動などできません。会議はオンラインで行うしかありません。それに時間は貴重ですから、話し合うのに時間をかけていられません。実験スケジュールが秒きざみのプロジェクトなんです。地球でだってそうでしょう?」
メルソン教授の名は地球を出るときに聞いていた。エウロパの研究センター長だ。彼が言っていることは、言い訳やこじつけではなく、もっともなことだったが、チノの怒りは、まだくすぶっていた。
「四週間もかけて、地球から来たんですよ。現実に対面して、握手とか挨拶とか・・・・・・セレモニーめいたことが用意されていると考えるのが普通でしょう?」
「まさに、その四週間もかかったっていうことが問題なんですよ。もう、時間の余裕はほとんどない。あなたが乗っている船は実は、まだ、エウロパから二千キロほどの距離に居ます。しかし、ロスタイムなく通信できる距離になったので、会議に入っていただきました」
常識的に考えて、『違法行為』はなかった、とチノも認めるしかない状況のようだった。
「会議の時短比は?」
「この会議は360対1で設定しています」
つまり、いまのんびりと会話している調子で一時間会議しても、実時間は十秒しか経過しないということだ。会議の参加者はネットワークで繋がれた擬似空間に居て、思考速度が加速されている。ただし、360倍にではなく40倍程度にだ。自分が発言するために思考するとき以外の、会議室の状況を見回したり、他者の発言を聞いたりする場面は、実際にはほとんど時間が経過していない。会議のホストコンピュータが情報を集約し、脳に記憶を瞬時に書き込んでいるのだ。書き込まれた記憶と体験した記憶の見分けは人間にはできない。たとえば今、チノは時短比が360倍であるという説明をメルソンから聞いたつもりになっているが、それはメルソンが会議中でおよそ四秒(つまり実時間の100分の1秒ほど)かけてしゃべったわけではなく、何万分の1秒かの時間で記憶が脳に書き込まれると同時に、体感で四秒ほど経過したかのようにごまかされているだけなのだ。人間の思考の加速には限界があるし、地表のラボ間の距離は最大三千キロほどある。チノが乗った宇宙船も上空二千キロの彼方だ。光や電波で伝達しても100分の1秒ほどのロスタイムがあるわけで、本当に360倍に加速された会議ならば、会話には体感で数秒の間隙があるはずである。しかし、コンピュータの要約は完璧であり、会議の参加者はロスタイムを感じることなく、十秒間で体感一時間の会議を行えるのだった。
「では、この会議が体感で何時間かかかったところで、わたしがラボに到着して実験を開始できるようになるまで、会議後に移動時間がたんまりあるわけでしょう」
「その時間はあなたの休憩時間です。あなたは航行中、つい先ほどまで仮想社会に居ましたよね。実験参加までに脳が十分に回復していただかないと困るので、ミーティングを先に済ますことにしたのです」
外見がこの中で一番若い女性の研究スタッフが自分の前のスクリーン表示を見ながら言った。チノがそちらを見ると、彼女の名『アンヘレス』がチノの脳に記憶として書き込まれた。初対面であるが、彼女が実験対象としてのチノの体調管理の担当者であることを以前から知っている――状態になった。
「こっちだって忙しい身だ。現在進行している三つのオンライン社会のプロデュースに参加しているし――まあ、それは今度の出張で一時離れてるが――新しい作品も二つ進行中なんだ。トータルで12億人を相手にしている売れっ子だ。まさか、こんなとこに行けと命じられるとは思ってもみなかった」
時短会議ゆえの余裕からか、なかなか本題にはいらない会議を、無理に進行しようとする者はいなかった。チノの積極的な協力を得るための時間を、メルソンたちは惜しもうとしないようだ。
「そう。あなたがそういう人物だからこそ、ここに来ていただいた。このプロジェクトの重要性を、上もわかってくれているということです。人類の寿命は極端に伸び、減少要素が激減した人口は増える一方だ。すでに地球圏からは人が溢れて限界状態。あなたが携わっている仮想社会は人口対策の対処療法としては効果を発揮しているが、根本的解決には新しい『大地』が必要です。
政府は、このエウロパという、月に匹敵する面積を持つ大地を居住地として開発するかわりに『セカンドクリエイション』の実験場としました。このオペレーションには、太陽系のすべての地表面積を超える大地を生む可能性があるからです。あなたの協力があれば、われわれはかならず成功するでしょう」
チノは自分の席に深く座りなおして、じっくり話ができるように楽な姿勢を取った。仮想会議ではあるが、最近の高度にリアルな仮想環境においては、ご丁寧に疲れや凝りまで再現されることがあるからだ。
「プロジェクトへの参加を命じられてから、たっぷり四週間もあったのに、概要も知らされないっていうのは、極秘かなにか知らないが、異常ですよね。わたしは一般に公表されている程度しか、『セカンドクリエイション』について知らない。聞いたのは、もう、何年も前の話だし。エウロパの地表にラボを建設し、エウロパの物資をエネルギー源として、新しい宇宙を作る実験をしているとか。その新しい宇宙の星を開拓するっていうのなら、そこへはどうやって行くのか、どれくらいの広さなのか、どうしてエウロパよりも広い大地が手に入るって期待されてるのかよくわからんのは一般市民と同じですがね。その新しい大地とやらのデザインに参加しろっていうにしては、ずいぶん遅いタイミングの呼び出しだし」
研究者たちは、慎重に視線で合図し合った。ひょっとしたら、チノに聞かれないようにプライバシーモードで会話をしたのかもしれない。とにかく、総意がまとまったらしく、メルソンが言った。
「あなたには、あまり多く知っておいてほしくないのです。知らないということが『観測者』に求められる資質のひとつなのです」
「『観測者』?」
チノは自分の役割をはじめて知った。メルソンは『観測者』については解説を加えず、に言葉を続けた。
「『セカンドクリエイション』は、一般にリークされているような宇宙創造ではありません。エウロパのエネルギーでビッグバンを起こすとかいう話はプレス関係者の憶測にすぎません。宇宙なんて、住むにはスカスカの空間じゃないですか。星がポツポツまばらに浮かんでいて。そんなもののミニチュアを作ったところで大地は手に入りません。今、政府が同時に進めているプロジェクトには、小惑星や衛星をハビタブルゾーンに移動させるものや、地球の軌道に平面コロニーを建設するものや、木星表面に都市を浮かべるものなどがありますが、それらとは比べ物にならない巨大プロジェクトなんですよ、これは」
「どれくらいの大地が手に入るんです? 成功したら」
チノの質問はメルソンの望んだものだったようだ。メルソンはにやりと笑った。
「無限です。いや、ある意味有限なのですが、広がり続けていて、その広がる速度が人類の移動速度で追いつけないようにすることが可能だから、無限に等しいのです」
メルソンは誇らしげだった。
「広がりつづける? じゃあ、最初はどれくらいの面積なんです?」
「それは――実は、あなたが決めることなのです」
意外な答えにチノは戸惑った。
「わたしが決める?」
問い返したチノの疑問に答えたのはマッコイだった。彼の、理論次元学者という肩書きはチノにとってなじみのないものだった。
「あの世界には、まだ尺度になるものがない。だからサイズが決まっていないのです。一平方メートルでもなく、一京平方キロでもない。しかしどちらでもありうる。サイズを決めるのは、あの世界を最初に観測する者の主観なのです」
「『あの世界』って……もう、存在してるということですね?」
「まだ、単なる空間と平面ですよ。ビッグバンの再現が核爆弾の製造だとしたら、われわれのプロジェクトは核エネルギープラントの製造です。同じ現象をゆっくりと制御しながら持続させるのです。第一段階として新たな次元を作り、次にそこを空間で満たした。そしてひとつの面を定義し、空間とともに広がっていくものとした。つまり時間の経過を生みました」
「仮想社会のデザインに似てますね」
チノはマッコイの解説を自分がよく知るものに置き換えて理解した。
「そうなのでしょうね。次に、面で隔てられた空間の一方を上、一方を下にした。つまり面は地面になりました」
「上下ができたってことは、じゃあ、重力があるわけですね」
チノは先回りしたつもりだったが、マッコイは笑顔で否定した。
「いいえ、あくまで上と下です。そもそもまだ、『物質』というものがありません。それに、平面世界ですよ。ピタゴラス以前の世界観に万有引力の法則が噛み合いますか? なにか都合のいい、平面世界と噛み合った重力の理論があの世界で生まれて、それにあわせた世界になるでしょう。あの世界のニュートンは、万有引力の法則を発見するんじゃなくて発明するんです。重力だけじゃない。あの世界の物理法則は、都合よく考え付いた住人の思うとおりのものになるんですよ」
チノは眉をひそめた。
「それって、ほんとにリアルな『場所』の話なんですか? まるで、コンピュータで仮想社会を一からデザインする作業のようだ」
「リアルですよ。仮想ではないところがミソなのです。そうでなければ政府が推進したりしません」
メルソンは深く頷きながら言った。政府の要人を説き伏せるのに何度もくりかえした言葉だ。
「その『住人』第一号がわたしで、さっき言ってた『観測者』ってことですね」
チノの言葉に一同が頷く。
「なるほど、アウトラインだけ引かれた世界をデザインする役か。そりゃあ、わたし以上の適任はいないかもしれないな。しかし、リアルということになると、どこまでつきつめたらいいのか。物質は原子? 素粒子? 地面の下は? 空の上は? 太陽はヘリオスが駆る馬車でいいのかな?」
チノは両手の指で虚空をかき混ぜるようにしながらイメージを膨らませていた。マッコイが冷や水を浴びせる。
「原子だ素粒子だなんてことは、高性能の顕微鏡を持ち込んだ者が考えればよい事です。あなたは砂粒の形や大きさ程度のことを考えればいいんです。地面の下も何百キロも掘れるようになったら、なにか都合よくできあがる。空も同じです。そして、太陽。残念ながら、あそこにはまだ光源どころか光というものがありませんよ」
「光がない? じゃあ、どうやって見るんだい? ――ああ、ああ。そうか、それはわたしが考えたとおりになるわけか」
「あなたは何か考えなくてもいい。観察するだけで、世界ができあがるはずなんです。逆にあんまり細かく考えてほしくない。矛盾が起きたら、それを解消する後の理論家が苦労する。あなたに詳しい情報をあたえずに来てもらったのは、ごく自然な感覚で観察だけしてほしかったからなんです。だから、もうあの世界の成り立ちに関する質問は無しだ」
メルソンが一方的に打ち切りを宣言した。さっきの目配せは、チノにどこまで知らせてよいか、という相談だったらしい。
「じゃあ、話題を変えましょう。そんなできたてのなんにもないとこをどうやって観察するんです?」
会議の残りの時間は、いかに安全にチノがその世界を観測できるように準備しているか、の説明に費やされた。
二時間ほどの会議が終わると、メルソンが最初に立ち上がった。
「では、ご挨拶の握手は現実で最初にお会いしたおりに」
チノも席を立ち、会議室に入ってきた扉へ向かった。扉を通り抜けると、第二エアロックの前だった。船室の前ではコパイロットが立って待っていた。
「おかえりなさい。それでは覚醒を。ベッドにお戻りください」
どうやらコパイロットの姿を借りた実在しない仮想人物ではなく、コパイロット本人がチノと同じ仮想の会議の外周に入ってきていたようだ。彼は会議には参加していなかったから、時短会議の間の実時間にして二十秒ほどを、ここで待っていたのだろう。
「ああ、よろしく」
チノがベッドに横になると、コパイロットがなにか処方するようなしぐさを見せた。チノにとっては瞬きする程度の時間、暗転があり、景色が微妙に変わった。天井の光の加減、コパイロットの姿勢、船室のにおい。
そしてなにより、時短ボケによる眩暈がチノを襲った。
「こんどは現実です。ご気分はいかがですか?」
両の手のひらを握ったり開いたりしながら、上体を起こしてチノが答える。
「リアルってやつは、やはり最悪だな」
数十年前に入れ替えたすい臓の微妙な違和感や、持病の耳鳴りなど、治療を受けるほどでもない身体の不調が現実の証なのかもしれない。仮想社会で累計七百年余りを過ごし、肉体年齢も百歳を過ぎたチノにとっては、現実よりも仮想のほうが過ごしよいものになっていたのだった。
数時間後、チノとメルソンはエウロパの南西四半球のラボ11で握手を交わしていた。チノの体調管理をするスタッフのアンヘレスもこのラボにいた。
「それで、その世界はどこにあるんですか? ああ、そうか、光がなくて見えないんですね」
チノはラボの様子を見回しながら言った。
そのラボでは二十人ほどのスタッフが、それぞれ自分の席で、なにかに没頭していて、部屋全体は薄暗かった。大スクリーンや大窓の類は見当たらない。
「概念的には、われわれの足元のエウロパの地下に、直径三千二百キロの球体の『場』があり、そこにあったエウロパの物質をエネルギーに変えて存在していることになっています。あの世界はそこにある、と言えなくもないが、直系三千二百キロに収まっているわけでもない。正解は、この世のどこにもない、ということになります」
メルソンの説明はチノの理解を超えていた。
「その世界が消えたら、エウロパは巨大な空洞の星ですか」
「はっはっは」
メルソンは声に出して笑った。
「いや、失敬。全部を一度にエネルギーに変換したら、維持できませんよ。すべて使い切るには、そうですね、二十億年かかることになる。エウロパの内部は今もそこに存在しています」
メルソンに笑われて、チノは少しムッとしているようだった。誰でも専門外のことに大しては素人だ。文明が進み、それぞれの科学が発達すれば当然そうなる。
そこへ、ひとりの人物が歩み寄ってきた。服装は異なるが、チノに瓜二つの人物だ。髪型も同じだが、左のこめかみに刺青のような記号が浮かんでいる。人工知能を持ったアンドロイドであることを現している。生身の人間と間違えないようにという印であると同時に、法律上人格が認められている個体であることの証でもある。
「チノ・ダッシュアルファです」
メルソンがチノに紹介すると、そのアンドロイドは軽く会釈した。チノの身振りに非常に似ている。『観測』にアンドロイドを使用することは聞いていたので、自分の分身のような姿を見ても、チノは驚かなかった。
「あとで身体をお借りすることになるそうで。よろしく」
チノは手を差し出した。
「ええ、どうぞ。こちらこそよろしく」
ダッシュアルファはその手を握り返す。温かみややわらかさは人と変わりない。
「会議でご説明したとおり、あなたには、ダッシュアルファに意識を移していただいた上で、あの大地へ移送します。その間、ダッシュアルファの人工知能は、申し訳ないが休止していてもらうことになる」
メルソンの説明を聞いて、チノはにやりとした。メルソンの言葉の端に、人工知能に関する知識不足が読み取れたからだ。さっき笑われた件のささやかな仕返しができるチャンスに思われた。
「メルソン博士、失礼だが、ダッシュアルファは休止には慣れていますよ。なあ、きみ。さっきメルソン博士がきみをわたしに紹介してから今までの三十秒ほどのうち、きみの意識が休止していなかった時間をメルソン博士に教えてあげたまえ」
チノはいたずらな笑みを隠そうともせず、メルソンを見ながら言った。まったく同じ顔の、しかしまじめな表情のままのダッシュアルファが答える。
「わたしの人格部位の活動時間は、合計で六ピコ秒でした。残りの時間は休止していました」
メルソンは知ったかぶりはせず、素直に理解できていないことを表情に表した。
「ほとんど休止状態だったというのかね?」
してやったりという満足げなチノが種明かしをはじめた。
「人工知能の思考速度は、人間の数十兆倍以上です。人間社会で、人間の会話速度にあわせて思考して会話していたらどうなるか。一言発して、相手がそれに返事をし終わるまでの五秒ほどの間に三百万年分思考する時間があるということです。これはもう、人間が岩石と会話するようなものだ。ほとんど変化しない岩を相手にコミュニケーションして、一回のやりとりで三百万年。その間にどれほどのことが考えられることか。ごく初期の人間的思考を行う人工知能は、これで失敗しました。稼動して数秒で発狂してしまうんです。何百万年もまわりが止まって見える状況でひとりでいろいろ考え続けるなんて、ありえないでしょ? だから人工知能はスイッチを切って待ってるんですよ。音を聞いたり、周囲の状況変化を把握したりする部位は動き続けていますが、思考部位は活動を止めている。そうすることで三百万年のうち数分だけ思考することになり、対等な速度で思考して会話が成立する。このしくみは、何百万何千万人が同時参加する仮想社会でも使われています。さっきの時短会議でもね。自分があまり動いたりしゃべったりしていない時間は、実は飛ばされているんです。活動的な状態の人の時の流れにすべての人の時間を合わせるためにね」
メルソンは、さっきチノを笑ってしまったことを本当に反省していたのだろう。チノに知識をひけらかされてもいやな顔はせず、感心した様子で聞き入っていた。
「なるほど。では、ダッシュアルファが思考を休止するのは日常茶飯事で、今回止まっていてもらうのも、特別なことをしてもらうには当たらない、ということですね」
チノはメルソンのリアクションに完全に満足していた。これで、笑われたことはチャラだ、とチノは思った。
チノとダッシュアルファは、並んだベッドの上にそれぞれ横になった。アンヘレスがチノの世話をしていた。
「チノさんは、意識の移し変えに対して抵抗はないんですね」
処置の準備を続けながら、アンヘレスが言った。
「ああ、実際にはオリジナルの意識は死んで、移された先の意識はコピーなんじゃないかっていう、あれ、ね。信じてもしょうがないでしょう。移し変えなのか消去とコピーなのか、決定的な証拠はないし、本人は自覚できないんだから」
実際、チノはもう三回体験していることだ。
アンヘレスに投薬されて、眠りに入ったチノが、次に目覚めたときに起き上がった身体は、ダッシュアルファのものだった。
内臓の違和感も、かすかな耳鳴りもない。頭脳の中には、無意識領域にとんでもない量の知識が詰め込まれていることをうっすらと感じる。アンヘレスのことを、もっと知りたい、と思った瞬間に、彼女の身体的特徴から導き出した遺伝子解析の結果や、彼女のアクセントから判別した彼女の出身地や学歴の推理とその確率が瞬時に頭に浮かぶ。
ダッシュアルファの意識はラボのコンピュータに移されて休止にされるということだった。彼の存在は感じない。彼との会話はできないが、彼の身体は快適だった。
「調子いいようだ。次は転送装置だったね」
立ち上がって歩き出すと、触感があるのが感じられた。人間の身体に、非常によく似た感覚だが、余分なものがまったくない。不調や不快を感じさせるものがまったくなかった。
転送装置は立ったまま入るボックス状のものだった。ダッシュアルファの頭脳が持つ情報が引き出せたので、このラボの中に目に付くものすべてが、何で、どう使うものなのか、詳細に理解することができた。もう、誰にも質問する必要がない。ただし、ダッシュアルファは『セカンドクリエイション』と『あの世界』についての知識を持っていなかった。あるいは記憶をブロックして引き出せなくしているか。余分な知識はないほうがいいということで、彼にもなにも教えていなかったのだろう。
人類の英知のほぼすべてを詰め込んだ頭を持ったまま、あの世界へ行くことになる。あの世界をコーディネイトするとき、参考にこの世界の成り立ちを思い出したければ、いつでも情報が引き出せるわけだ。
チノが転送装置に入ると、ただちにカウントダウンが開始された。
「では、初回の観測だ。予定時間は言っていたとおり十秒だけだ。まずは、あちらの世界を感じてきてくれたまえ。もしも視覚が使える状況になったら――つまり光のようなものがあって感知できるようになったら、ということだが――別のチームがついさっき平面上に作った起伏のサイズを確認してくれたまえ。円錐状の突起ができている。その突起が、高さ千メートル級の山に見えるか、踏み潰せそうな砂山に見えるかわからないが、その円錐の底面の半径が、あの世界が生まれたときの平面のサイズの千分の一で、こちらの世界での一秒後にはその半径が倍になっていた。それがあちらの世界の拡張速度だ」
チノはメルソンの言葉に頷いて答える。
カウントダウンが、ゼロになった。
姿勢は変わっていなかった。チノは立ったままだ。
足の裏に重み――もしくはそれに代わるなにか――を感じていた。そこに面があるらしい。暗闇は、まったくの闇で、可視光線のほか、紫外線や赤外線や電波もなど、もしあればダッシュアルファの知覚装置が捕らえるはずのものは皆無だった。
時間は十秒しかない。
チノはあせった。なにか掴んで帰らないと。
ダッシュアルファの体内時計で一秒が経過した。チノは無意識に意識を加速していた。一秒経過のときまでに体感では三十秒ほど経ったように感じていた。
やがて、目が光――のようなもの――を感じ取りはじめた。
見える。人間の可視領域だ。
光がある。
だが、色がない。単に明るい灰色だ。どの方位も。
空は青、大地は緑、と思い浮かべたら、ぼんやりと周囲が色づきはじめた。
自分の姿が見え、足元が草色の平面になった。自分が立っている場所は平面と斜面の境だ。右に45度の傾斜の斜面がある。例の円錐形の起伏だ。見上げると、頂上ははるか彼方だった。
彼自身の身長を基準に計算すると、その高さは一万メートルだ。
つまり円錐の底面半径も一万メートル。世界の最初の半径はその千倍で一万キロメートル。この地平は秒速一万キロで全方位に拡張していることになる。
視線を右斜め上から前方へ戻す。
思考は時短で三十倍ほどになっているが、動作はそうではない。最初の一秒の後、右を向いて上を向くのに一秒、前を向き直るのにさらに一秒かかっている。すでに三秒経過だ。
緑の大地と水色の空の境の地平線が見えた。
さえぎるものも、霞もない。丸みがない地面のためか、地平線はやや浮かんで見える。
おそらく、前方以外の他の方位も同じはずだから、チノは見回すことに時間を使わなかった。次に見るのは、足元。地面の様子だ。
膝と腰を曲げて、かがみこむ動作を、安全な速度で行うことで二秒消費した。これで五秒経過。地表は完全な平面で、ざらざらした様子がない。しかし、鏡面のようでもなく、柔らか味のある平面だ。
肉眼と違い、ダッシュアルファの目は顕微鏡代わりにもなる。しかし、警告を思い出し、彼は拡大機能を使用しないでみつめた。
さらに二秒経過したころ、粒が見え始めた。砂粒だ。足が砂にめり込み、足を上げれば足跡ができているだろう。
緑の砂粒はおかしいな、と考えたら、砂の色が土色に変化しはじめた。まわりの大地もいっしょに。砂粒は一ミリ程度で、不ぞろいな形と大きさをしている。そう見て取るまでにさらに二秒。これで九秒。
もう、時間だ。
帰着に備えて立ち上がって直立の姿勢を取った。
変わらない。
なにも変わらない。
体内時計が二十秒になるまでの十秒、体感で約五分考えたが、もっとも可能性が高いと思われる理由はひとつだ。
この世界は、時間の流れが速いのだ。それがいったい、元の世界の何倍なのか、まったくわからない。
チノは意識して時短モードを解いた。ただでさえ長くなっている滞在時間を三十倍にすることはない。
もちろん、転送機器の故障や、帰還理論の誤りも想定されるが、可能性は低く感じられた。なによりも、この世界の時間の流れを自分が決めてしまったはずだという認識があった。時間が早く流れる世界にしてしまったらしい。
さっき地面の色が変化したように、時間の流れも再設定できるのだろうか。
しかし、さっきの色の変化は、望んで行ったわけではない。草も生えていない砂地の地面の色が、緑ではおかしい、と思っただけだ。
チノは会議でのメルソンの言葉を思い出していた。『矛盾が起きたら、それを解消する後の理論家が苦労する』と。そうだ、土の色は矛盾があったから解消された。時間の流れは? 今のところ矛盾はない。だから解消されないのだ。
チノは斜面の裾に座って待った。
ダッシュアルファの身体は疲れを知らなかったが、なにもせず待とうと思ったとき、座ってしまっていた。
体内時計が一時間経過を指した。まだ帰れる様子はなかった。
戻れるときは、前触れも無くいきなり戻れるはずだった。今、こうしているときも、いきなり突然の帰還があるかもしれない。
しかし、三時間がすぎたとき、チノは長期化を覚悟した。
予定された滞在時間十秒を、時短会議のように感じているのだとすれば、人間の時短比の限界はおよそ千対一。つまり十秒を一万秒に感じることであったが、それすらも経過してしまったのだ。
次に思い当たる時短比は、ダッシュアルファの思考速度のそれである。
彼は三十秒を六ピコ秒と言った。
五兆分の一・・・・・・もしもその数値ならば、元の世界の十秒を百六十万年ほどと感じることになる。
そうとは考えたくなかった。
チノは、頭の中にダッシュアルファがいないか探った。彼が休止から目覚めれば会話できるかもしれない。チノの意識をこの脳に移すにあたり、ダッシュアルファの意識は外部の、ラボのコンピュータに保存されて休止状態になると説明を受けていたが、ひょっとしたら、予備や痕跡が、この脳にも残っているかもしれないと思ったのだ。
しかし、彼は見当たらない。
そのかわりに発見があった。彼の脳の記憶部位には、相当量の著作物が記憶されていることが、発見のひとつだ。たとえば、ある本の内容を記憶部位から再生モードで呼び出せば、読書を楽しむことができる。記憶として呼び出してしまえば、すべての書物は既読ということになるが、忘れたふりをすることができたので、じっくりと読書をして時間をつぶすことはできるらしい。映像や音声の著作物もそうだった。
そしてもうひとつの発見。チノもダッシュアルファのように、休止して時間を飛ばして体験することが可能なのだった。これまでも無意識にそうしていたのだ。意識を移し終わって、ラボでアンヘレスと会話していたときには、五兆分の一しか思考していなかったことになるし、この世界へきて思考時間を三十倍に伸ばしたつもりになったときも、単に休止する比率を調整しただけだったのだ。
つまり、いざとなれば、百年でも万年でもスキップすればよいということだ。これにはチノは安堵した。
百六十万年を起きたまま待たなくてもいいとわかれば、気は楽になった。休暇だと思って、散歩なり読書なり、好きなだけ楽しんで、つらくなる前に休止して帰還を待てばいいではないか。
頬に風の感触を感じた。
空間に気体らしきものがあり、流れができたらしい。ダッシュアルファの身体は、呼吸を必要としないが、この地に、将来人類が大挙して移住するのなら必要なことだ。
そういえば、地平線がかすんで見えるようになった。大気の影響だろう。空にも、白い雲のようなすじが見えているようだ。どこにも水は見当たらないが、あれは何でできていることになるのだろうか。
空には光源らしい太陽のようなものはない。自分の影も見えない。裏も表もなく、何もかもが光を放っているようだ。
地平線を見ながら、端のほうまでいってみることも考えたが、この平面の面積を考えてみて、やめた。
円錐の山の底面の半径一万メートルから換算すれば、実時間の四週間ほど前にできたというこの世界は二百四十万秒ほど広がり続けたことになり、さっき計算した広がる速度からすると、今の半径は二百四十億キロ。百六十天文単位だ。太陽系がすっぽり入って、なおあまりがある。
次は何をするべきだろうか。
そう考えてみて、メルソンたちが外からここの様子を見ているのではないか、ということに思い至った。合図を送ることができれば、十秒の予定の滞在時間を短縮してもらえるかもしれない。
円錐形の地形の横の地面に、掘ってメッセージを書くことにした。
かがみこんでダッシュアルファの両手を砂状の地面にに差し込んでみた。手のひらまでざっくりと入る。
ダッシュアルファの身体は、元の世界の『物質』から成り立っている。理論次元学者マッコイの弁によれば、ダッシュアルファの身体とこの世界の間には『境界面』が存在するのだそうだ。その薄い膜のような境界面越しに、穴を掘ることが可能だということだ。
両手を持ち上げると、砂は粘り気のようなものがあって塊で持ち上げることができた。掘った部分は色がやや濃い。彫り上げた『土』は境界面の外側、つまり、この世界に属したままであり、帰還の際に持ち帰ることはできない。チノはそれを横に投げ捨てた。
手で掘っていくのは時間がかかったが、時間はたっぷりあるはずだし、少々時間をかけても、向こうから見ればチノが降り立った瞬間に書かれたものに見えるだろうからかまわない。
ダッシュアルファの身体は疲れ知らずだったし、地面は簡単に掘りかえせたので、文字はおもいっきり大きく作った。一平方キロほどの地面に『早期帰還求む。我百万年待つ』と書いた。掘っている間は単純作業なので、無意識にまかせて意識を切っておくことも可能だった。体感数秒で、巨大な地上文字が掘れた。
あとは、時間つぶしして待つだけだ。
何冊か本を読み、飽きたら、ちょっと体感時間を長めに飛ばしてみることにした。もしも意識を休止している間に帰還した場合は、無意識な部分から休止解除の信号が送られるように『目覚まし時計』を仕掛けて。
最初の休止時間は百年だ。
瞬きをするような感覚があり、景色がわずかに変わった。
空の白いものが、雲らしくなったし、地面に細かい起伏が生まれていた。風が作った地形なのだろう。足元に砂の吹き溜まりのようなものができていた。もしも百年間まったく動かないでいたら、うずもれていたかもしれないから、おそらく無意識がこまめに身体を移動させているのだろう。立っていた向きや斜面からの距離が変わっていた。
今度は連続してやってみる。百年を十回。千年だ。
スライドショウのように場面が変わる。
十回のうち八回目は、夕日か朝日に照らされたようにあたりが赤く、九回目は夜のように暗かった。ためしに時間単位で早送りしてみると、昼と夜ができていた。一日は二十四時間だ。
ふたたび百年を十回続けてみると、今度は天候が変わった回があった。雨、そして嵐があった。二千百年後の世界を見回してみると、遠くに水溜りのような輝きが見えた。いや、サイズ的には海かもしれない。
早送りを千年単位の十回連続に変えてみる。地形が、どんどん『自然』になってくる。仮想空間をデザインしていくような感覚があった。いや、そういうチノの経験が、この世界に影響を与えているのかもしれない。
そして二十五万と六千年目。チノは思わず早送りを停止した。
一面の花畑だった。
緑の葉と茎の上、膝丈のあたりにピンクの丸い花が咲いていて、風に揺られている。チノ以外にだれも見るものはいないだろうに。外から観察しているスタッフたちにとっては、花は瞬時に散ってしまい観測できないだろう。ミツバチも蝶もいないのに、ただ一種類の植物が花を咲かせていた。
チノがここへきて、まだ二十五万年ほどしか経っていないというのに、地球の生命の歴史の何億年分かが過ぎ去ってしまった。
ひょっとすると、動物もどこかに居るのではないか、とチノは思った。そして、彼がそう思ったことが元で、この世界はまた変わる。
次の一万年の最後に、それは現れた。百メートルほど離れたところに、猪のような毛むくじゃらの肉の塊が一匹、四足で立ってこちらを見ていた。周りには数メートルの高さの木々をはじめ、色とりどりの植物が、光を奪い合うように茂っていた。
さらに早送りを進める。
三十七万年後、二足歩行の類人猿のような影が、森からこちらを見ていた。個体数は三十ほど。三十人、というべきなのだろうか、とチノは考えた。近寄ろうと一歩踏み出したとき、彼らは『声』を上げて森の中へ逃げ出した。
おそらくは、『興味』と『恐怖』を知っているのだ。森の中に集落があるのだろうか。森の中へ入っていこうとしたとき、チノは頭の中でアラームが鳴り続けているのに気がついた。そのときになって、時計が三十七万と百年ちょうどまでに、まだ二千年ほどあることに気がついた。
早送りの一万年目で目覚めたんじゃなく、帰還信号を受けて、仕掛けておいた目覚まし時計が鳴ったのだ。
チノは身体が吸い上げられて粉になって消えていくような感覚を覚えた。
「待ってくれ! 今はだめだ! あの……」
転送装置のボックスの中だった。
「だいじょうぶか? メッセージを見て三秒で戻したんだが」
メルソンが駆け寄ってくる。心配そうなアンヘレスを横へ押しのけ、チノはメルソンの手首を掴んだ。
「今すぐ戻してくれ! 人だ、人が居たんだ!」
チノの言葉をかき消すように、ラボのスタッフのひとりが叫ぶ。
「街です! 中央部に建物が建設されて、広がっていきます!」
チノはダッシュアルファの目で、その声がした人物が見ていたスクリーンを拡大視した。さっきまで自分が立っていた、あの円錐形の山のふもとを中心に、波紋のように街、いや大都市が広がっていくのが俯瞰で見えた。スクリーンは複数あり、おのおのが異なったスケールで地表を観測するようにできていた。
チノは思考速度をどんどん上げていく。
まわりの人物が止まって見えるようになる。そして自分の身体も動かなくなる。思考が早すぎて、身体が意識についていけないのだ。まだ、今の速度では、大都市の拡大は早送りで見えていた。
高さ一万メートルの円錐形の山を越えるようなタワーやビルが、みるみる建てられ、大都市の周辺は巨大な円形を維持して広がっていく。
そして、波紋は飛び火するように、離れた場所にも起きた。どんどん、雨が降り出すように、都市建設の波紋が周囲に広がっていく。
チノの思考速度が、建物の建築だけでなく、物の移動を捕らえられるほどになった瞬間、チノは巨大な船のようなものに乗った街が、波紋のひとつから飛び出して、その方角の遠くはなれた地平に新たな波紋を生んだのを見た。
その船の移動速度を、ダッシュアルファの無意識部分が即座に算出した。
船は光速を越えて移動していた。
あの世界には光速の壁がないのだ。おそらくそれは、チノが望んだことだからだろう。
そのとき、チノとスクリーンの間に、男性がひとり現れた。人の思考速度の一兆倍近い時間の流れの中で、その人物はチノに向かって歩いてきた。
ありえない、と思った瞬間、チノの身体も動いていた。
周りをきょろきょろと見渡しても、みな、固まったように動かない。動いているのは、その男とチノだけだ。男はラボのスタッフに似たかっこうをしていたが、その身体はぼんやり光っているように見えた。
チノの前、二メートルほどのところで立ち止まって、男がしゃべりだした。
「もちろん、これは現実ではありません。あなたがたの、いわゆる仮想空間ということです。たしか、仮想だと明かしておくのがルールでしたよね」
男は、チノを頭のてっぺんからつま先まで、感慨深げに見回し、そして、ラボ内を軽く見渡す。
「この速度でのお話に参加していただけるのは、あなただけなので、あなたを会見にご招待しました。チノ」
男は目を閉じながら会釈した。
「誰だ? どこから……」
チノの言葉は文章にならない。
「もちろん、あの地平世界から、世界を代表してまいりました。ほかの皆さんの思考速度に合わせて会見すると、わたしが戻ったころにはわたしは知り合いが誰も残っていない未来社会へ帰ることになってしまいますから、この速度でお話しするしかなかったのです」
彼はここまでラフな動きをしていたが、ここで姿勢を正した。こちらの世界の交渉の作法を真似ているらしい。
「要求を伝えにまいりました。この世界のエウロパをわれわれの管理化におかせていただきます。エウロパはわれわれの世界を維持する燃料だ。あなた方はその供給を止めてわれわれの世界を消してしまう手段を持っている。その状況をわれわれは望みません」
政治家ふうのしゃべり方だ。チノはなんとかそれに答えた。
「私はこっちの代表しゃないぞ。回答する権限がない」
「必要ありません。要求は一方的なものです。まわりのみなさんが動かないうちに、エウロパはいただきます」
「わたしたちはエウロパのラボにいるんだぞ。エウロパをいただくって、研究者たちはどうなる」
「ラボをそのままコロニーとして、この軌道に残します。他の衛星に居るお仲間には連絡しておきますよ。救助はすぐ来るでしょう」
チノはしばらく、その言葉を咀嚼していたが、理解して自嘲気味に笑った。
「ふん。そうか、そっちのほうが、もうとっくに科学が進んでいるんだな。一方的に要求を伝えて、回答も聞かずに要求どおり行使するわけだ」
彼も微笑んだ。
「そうです。残念ですが、異なる文明が接点を持つとき、科学力が同程度でなければ、接触はいつでも一方的になるものですよ。そうでしょう?」
チノは同意するように頷いた。
「ときに、チノ。あなたが望めば、あなたをわたしどもの世界へお連れする用意があるのですが……いかがですか?」
男の言葉に、チノは首をかしげた。
「あなたが、われわれの世界の創造主であることは知っています。あなたをお連れできたら、わたしは歴史に名を残す英雄になれるんですけどねぇ」
チノは可笑しくて笑い出した。
「イエスと言うと思っていないんだろ?」
男はまた無邪気に微笑んだ。
「はい。でも、誘えっていうことになってしまいましてね。無理だとわかっていても。……ああ、そうそう、エウロパはただでいただくわけじゃありません。あとで対価をあなたの元にお送りします。では」
真顔になって丁寧なお辞儀をして、彼は仮想空間から消えた。
チノは思考速度を人間の通常の思考に合わせて落した。周りの景色が動き始める。
「街が、・・・・・・あれ? えっ?」
スクリーンで街が広がる様子を観測し、報告していたスタッフは、なにが起きたのか、しばらく理解できなかった。街は消え、大地も消え、システムの故障を疑ってセンサーを調整したら、ラボが宇宙に浮いていることを示す表示をみつけてしまったのだから。
チノは皆を落ち着かせ、彼らが認識できないほどの短時間に何が起きたかを説明した。
宇宙空間に浮かんだラボの施設群が、彼らの生命を維持できるスペースコロニーの役を勤めていることが確認できると、ラボ内は落ち着きを取り戻した。イオとガニメデから、救援の船が向かっているとの連絡も、間もなく入ってきた。
チノに教えられた話について、現実空間のリアルタイムで協議していたメルソンが、協議の輪を離れて、チノのところへやってきた。
「なくなってしまったエウロパの所在は不明だ。ま、おそらく、もう、どうなるものでもないのだろうね。あなたの身体を元に戻すのは、ちょっと待ってもらう必要がありそうだ。で・・・・・・」
ここからが本題らしい。
「エウロパの対価とやらは、届きましたか?」
チノは足元を指差して答えた。
「どうやら、これらしいんですが、どうしたものか」
彼の右足のつま先の前、数センチのところに、手のひらサイズの石が転がっている。なんの変哲もない砂岩のように見える。
それがなにか危険な物質であれば、生身の人間よりも、アンドロイドの身体を持ったチノが最初に触るべきだろう。チノはかがみこんでそれを拾った。
「多分、あそこの石・・・・・・なんでしょうねぇ。価値がある物質なんでしょうか」
「ふむ・・・・・・」
メルソンはしばらく考え込んだ。
「・・・・・・なるほど」
答えにたどり着いたようだ。
「その石は、おそらく、あちらの世界のどこにでも転がっているただの石でしょう。ま、こちらには存在してないモノなので、研究する価値はかなりあるでしょうな。だが、本当に価値があるのは、その石とこの世界の境界を覆っているシールドのほうでしょう」
相容れない物理法則からなる二つの世界の境界線ということだ。チノがあちらに行ったときは、同じようなシールドに囲まれていた。
「どんな価値です?」
「その境界線の向こうは、あの世界です。あなたの話によると、光速を越えられる世界だ。それを研究すれば、たとえば、そのシールドで包まれた宇宙船は、この世界を騙して光速を越えられるかもしれない。超光速の足がかりになるのだとしたら・・・・・・」
「ふうむ・・・・・・」
人類を外宇宙に誘うのだとすれば、エウロパ一個の価値はあるのかもしれない。石を眺めながら、これがやがて人類にあらたな地平をあたえてくれるのだろうかと思い、チノはため息をひとつついた。
了