第一章14.非熱の灯火
「だってあなたは最初から人を殺す覚悟ができていたんだから」
言葉の意味が分からず戸惑っていると男は押し入れの方から何かを取り出す。
それを見た瞬間に彼の意図は理解した。
見えたのはランドセルだった。
いや、彼が本当に見せたかったのはその中身だ。
彼はランドセルから目的の物を取り出す。
「これ、どうするつもりだったんですか?」
「それは…………」
あのランドセルの中に入っているものなど一つしかない。
彼が手に持って見せてきたのは一本の包丁だ。
「安心してください。僕は責めるつもりはありません。つぼみさん、あなたは賢い人だ。子供だとは思えないくらいに。だから人を殺せばどうなるかわかっていた。それが自分にとって最大の自己防衛になると思ってそうしたんですよね」
恐る恐るこくりと頷いた。
「……確かにあの日殺すつもりでした。私がこんな風になった原因を……あの子を殺すことはあくまで手段でした。そうすれば私は罪には問われるけど助けてもらえると思って覚悟を決めました」
「それと同じです。今回も自己防衛をしたに過ぎない。あのまま連れてかれれば再び酷い扱いを受けていた。だから殺すことであなたは自分の身を守った、そうでしょう?」
間違っていない。
人として間違った行いかもしれないけれど、私はそれを間違いだとは思えない。
思えない、はずなのに……。
「けど……けどっ、私は……!」
「あなたが今感じているのは罪悪感ですか?」
「…………そうだったらこんなに考えなくてよかったのかもしれません……無いんです、罪悪感。無いからこそ怖いんです。人の道を外れたのに罪の意識がない私自身が」
「罪なんて曖昧ですよ。この社会における罪は法律を破ること。けれど法に書かれてなければ何をしてもいいのでしょうか?」
「違う……はずです」
「僕もそう思います。本来罪というのは人を傷つけたものが感じなくてはならないものだ。あなたを散々虐げてきた彼らには罪悪感があったと思いますか?」
「いえ……」
あるはずがない。
奴らが私を見る目は嘲笑と侮蔑しか感じなかった。
「それは彼らが罪だと思ってないから。虐めについては法の定義も曖昧だから彼らは自分を悪くないと思っている。あなたがどれだけ傷ついても」
過去の怒りを思い出し、拳を硬く握りしめる。
繰り返された苦しみを思い出し、歯を強く食い縛る。
「命を落とした君のお父さんはまだ未練があったかもしれない。生きる目的があったかもしれない。もっと生きる幸せを感じたかったのかもしれない。だけどそれは幸せを感じられる環境あってこそだ。だから僕は思うんです。人の生きる目的を、生きる幸せを失くさせることも殺人と同等以上の罪だと」
「……それでも、今の法律ではそれを裁けません」
「……理不尽ですよね。どれだけ苦しめられても助けてくれないくせに、自分で解決すれば牙を剥く」
私が意味も分からず苦悩していた理由を彼は淡々と明らかにしていく。
ずっと残っていた心の靄が晴れ、私が怒りを向けるべき相手が明確になっていく。
そして男は私を煽った。
「壊したいと思いますか? そんな理不尽な世界を」
「憎くはあります。……けれど壊してはいけないとも思います。気づかないだけでその世界に守られている部分もあると思うから。結局のところ、私が諦めるしかない訳です」
「本当に、あなたは賢い人だ」
褒めてくれるのは素直に嬉しい。今までの私が肯定されているみたいだ。
もしかしたら自分が間違っていたのかもしれない、そんな風に思うこともあった。
けれどこの男はわたしを肯定してくれる。
「けどそんなに自分を悲観しないでください。あなたは心が砕かれるほど過酷な環境での生活を耐えて、最後は死に逃げることなく戦うことを選んだ。全てを解決するために、自身を守るために殺人という壁を越えられる、その覚悟のある強い人です。守ってくれない法など信じるに値しません。もっと自分を信じていいんです」
不思議だ。滅茶苦茶なことを言っているのに、彼の言葉を聞いていると自信が出てくる。
出てくるけれど……それでもまだどこか不安なんだ。
私は否定の言葉を口にしようとする。
「それでも私は……」
だがその口は止められてしまう。
「それでも自分を認められないなら、僕があなたの側にいます」
「……ぇ?」
「あなたの全てを受け入れます。僕だけはあなたを守ると約束します。絶対に裏切らないと約束します。ずっと一緒にいると約束します。だから、もう少し戦ってみませんか?」
なぜ、そこまで言いきれるのだろう。
なぜ、自分なんかにそこまで言えるのだろう。
数日前まで赤の他人だった相手に、よくもそこまで信頼を寄せられるものだ。
私は真底思った。この人は、本当に……。
「…………ずるい」
「ずるいですかね?」
「ずるいですよ。根拠もないのに絶対なんて言葉で言いくるめようとして」
「すみません……まだ、信用できませんか?」
「……できません」
「そう、ですか……」
「だからちょっとこっちに来てください」
机を挟んで向かいに座る男を手招きすると男は側まで立ち寄ってきた。
「座ってください」
「あっはい」
「そのまま動かないでください」
正座をしてじっと待つ男を見る。
私はそのまま腹部に顔を押し付け、手を回した。
有り体に言えば抱きついた。
「えっと……つぼみさん?」
「少しの間黙っててください。そうしたら信用してあげます」
籠った声で言うと男はそのまま黙っててじっとしてくれる。
これで見られなくて済む。
ずっと堪えていた、溢れそうなほどに溜めてきたこの感情を。
男の服が濡れる。私の顔も濡れる。
それらを濡らしているのは私の瞳だ。
「………………ひっく……ぅ……」
男は何も言わずに背中に手を置いてくれた。
何も言わず、本当に受け入れてくれた。
どれほどの時間泣いていたか分からない。
その間も彼は微動だにせず待ってくれていた。
ひとしきり泣いて暫くして、私は手の力を緩めた。
まだ男は黙ってくれていたけれどこのときだけは声をかけて欲しかった。
今の私から声をかけるのはなんとも恥ずかしい。
何て声をかけようかしばらく迷って、ずっと聞こうか迷っていたことを聞くことにした。
「名前、教えてくれませんか」
「あれ? 言ってませんでしたか。それは申し訳ない」
さっきまでのことはなかったかのようにいつも通り謝る男。
すぐに謝るのは美徳だがこんな年下相手に下手に出過ぎるのもどうだろうか。
まあ、そこが良いところでもあるのだが。
彼は淡々とまた名刺でも渡すかのように丁寧に答えた。
「春瀬白と申します。呼びたいように呼んでください。まあ今まで通りでもいいですけど」
それが私を助けた男の名前。
普通の名前なのに他の人にはない特別を感じるのは、やっぱりこの男だからだろう。
「春瀬白……白さん」
「はい」
「私は信じます。今の話も、これからもずっと」
私はもう逃げない。
この人は私を裏切らないと分かったから。
だから私はこの気持ちを、胸を張って言いたい。
「たった一人だけ、私を助けてくれた、私の好きな人をもう疑いたくありませんから」
男は少しばかり驚いた表情をしながら、あまり間を開けずに応えてくれた。
「それは……とても光栄なことですね」




