第一章 02.名も無き森
お立ち寄り頂き有難うございます。できれば、少し我慢して一章分読んでいただけると、感激の至りです。
ガルベーラ国の最南端にあるアマリス村の周囲をぐるりと囲む、名もなき森。
その森の広大さは、この地域一帯の村々に等しく恵みをもたらしてもあまりあるほど。反面、脅威でもある。移動手段は馬か徒歩しかないが、整備の行き届いていない森を進むため馬という選択はとれず、徒歩での移動を余儀なくされる。人の足で進むとなると、昼夜を問わず真っ直ぐに走り続けても10日はかかる広さだ。その道中で命を落とす者も多い。自然にできた落とし穴、背の高い雑草に視界を遮られる獣地帯、長旅での疲労、気候変動。
そんな森を歩く人影がひとつ。毛皮のコートに身を包み、自身の身の丈の半分はあろうかという獣を背負った影。まだ登りきらない朝日にうっすらと照らされた、澄んだ夜空のような群青色の髪は、頭の低い位置で緩く結ばれている。群青の上に散らばった無数の赤が背負っている獣のものであろうことは、影の右手に握られた小刀が物語っている。
その影は、道などない薄暗い森の中を、ただ呼吸するかのように進む。決して体格が良いわけではない。身長こそ高いものの、見た目に表れるほどの筋肉はついておらず、寧ろ細身な部類だろう。
それはまだ幼ささえ感じさせる、女だった。
アデル=トルサス。彼女は、冬の近づく足音を聞きながら、村への帰路を辿っていた。
深い森に囲まれた孤独な村、『アマリス』。周辺の村や町から隔絶されたアマリス村では、自給自足が基本となっている。動物をしとめ、畑をたがやし、川から水を汲む。
アデルもまたそのルールにのっとり、間近に迫った冬を乗り切るべく、森での食糧調達に勤しんでいた。
手っ取り早いのは、森にすむ獣を狩猟すること。獣を狩るのはリスクもあるが、その分見返りも大きい。肉は食糧に、骨は簡単な武器に、皮は加工して売れば金になる。
とは言え、やはりリスクが高いため、本来であれば狩りは避けたい。特に、早朝や夕方以降の視界の悪い状況で、女一人での狩猟など、ご法度である。
アデルから狩猟以外の選択肢を奪ったのは、ガルベーラ国で長年続いた、国民全てを巻き込んだ内乱である。国が南北に真っ二つに分かれて争いあった結果、食糧は国に取り上げられ、貴重な労働力は戦闘員として駆り出され、大切な自然は破壊された。
そんな内乱が収束したのがちょうど一週間前のこと。人民を食い潰し続け、生活基盤を破壊し、自然を損壊させ、人の心を蝕み続けた内乱は呆気なく終焉を迎えた。
得るものなんて何もなかった。貴族同士の見栄の張り合い、利益の取り合い。結果、全てを失った。家族も住居も職も失った放浪者の数は増える一方である。
都心部ですらそんな状況の中、国の端の小さな村ともなれば、救いの手など差し伸べられることはない。アマリス村だけでなく、多くの小さな村が食料不足に陥り、飢えに苦しんでいる。
ーー少ない人数で早急に食糧を調達するためには、手段を選んでいられない
この思考が、内乱が残した負の遺産であり、争いが終息した今もなお犠牲者を増やす引き金となった。
森の外からやってきた狩人が行方不明になったのは、今から10日ほど前のこと。森には、他の地域には生息しない珍しい獣が多数存在する。恐らく、その珍獣が目当てだったのだろう。貴族の目にとまれば多少なりとも金になり、そうでなくとも立派な食料になるといった具合だろうか。しかし、狩人は獣を見つけるどころか、跡形もなく消息を絶った。あれから、立て続けに複数の行方不明者が出ている。最初に消息の掴めなくなった狩人、行方不明の狩人を追って森へ入った仲間の狩人、さらに、行方不明者を探すための捜索隊の隊員数名。
飢えが、貧困が、人々の心を眩ませた結果だ。
ーー今日もまた、犠牲者が出るのだろうか
アデルは、まだ薄暗い朝の空を静かに見上げ、どこにも行けない言葉を飲み込む。やるせなさか、悲しみか、怒りか、飲み込んだのは何だったか、もう分からない。
ーーなんだか少し、歩き疲れた
もう少し食料調達を続けるつもりでいたが、沈んだ心を持ち直すことができず、ただただ歩き出す。
自然と、とある池の畔に行き着いた。何か特別な場所という訳ではないが、アデルにとっては幼い頃から通いつめる憩いの空間である。池はさほど大きくなく、岸から岸まで、最長の距離を取っても泳いで渡れるほどの大きさで、深さは一階建ての建物ほど。静かで、木々のざわめく音や、風に揺れた水面の微かな水の音が心地よく耳に届く。それでいてよく陽のあたる場所。
アデルは、一番見晴らしのよい、いつもの場所に腰をおろした。ゆっくりと辺りを見渡し、ほんの少し心が穏やかになっていくのを感じる。
ふと、向こう岸に何か大きなものが転がっているのを見つけた。四日前にこの場所に訪れたときには無かった何か。動く様子は無い。
アデルは何気なくそれに近づき、落胆する。また、心が沈んでいく。
それは人だった。この森にすむアマリスの村民はおよそ300人、その全てを覚えているが、見たことのない顔だ。森の外からきた人だろう。歳はアデルと同じか、少し上、20代半ばといったところか。擦り傷、切り傷、打撲傷。深い切り傷。服はあちこち破れ、その意義を失っている。奇跡的に、見えてはいけない部分は見えていないものの、ほとんど全裸のため、鍛え上げられた筋肉が惜しげもなく披露されている。立派な体格の青年だ。
死んでいるのだろうか。
ーー死んでいてくれればよいのだが。
アデルは青年の横にかがみ、生死を確認する。虫の息だが、生きている。
ーー見なかったことにしてしまおうか
人のいいアデルに、無視することはできなかった。
うつ伏せに横たわっている青年の背中を何度か叩く。返事はない。が、その筋肉質な背中がほんの少し、浅い呼吸に合わせて上下しているのが伝わる。きっと、放っておけば死ぬだろう。
ーーこのまま死んだ方が幸せだろうか
今初めて会った青年の幸せを想像する。名前も素性も経歴も、何も知らない青年の幸せなど、アデルに図れるはずもなく、時間ばかりが迫る。もうすぐ農作業を始める時間だ。
村につれて帰り治療を施すか、このまま野垂れ死にさせるか。悩む余地などなかった。
アデルは、その青年をどうやって村へ連れ帰るか、頭を悩ませるのだった。
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