第一章 01.大蛇の住まう森
大陸の一番南の国、ガルベーラ。その最南端に位置する、最も小さく孤独な村「アマリス」。大陸地図はおろか、ガルベーラ国のみを描く地図にさえその名が記されることはない。深い森に囲まれ、自然との共存なしには生きていけないような、大自然の中にポツンと存在する村である。そこに住まう人間はわずか300程。対して、獣の数は知れぬほど。
森には、ある呼び名が存在する。
――大蛇の要塞
小さな村を囲む、名もなき森に与えられた俗称。この森にまつわる噂を端的に表した俗称であり、最近ではこの呼び名と由来を知らない者はいない。
『その森には大蛇が住んでおり、森の奥へ進むことを決して許しはしない。侵入を試みた者は全て丸呑みにされ、生きた痕跡すらも残らない。大蛇は森の深くにある村を守っており、その村にたどり着いた者は一人もいない』
これは、現『大蛇の要塞』をモチーフに書かれた書籍の冒頭部分である。短い物語をいくつも詰め込んだ、所謂短編集である。
物語はどれも、それぞれの理由から森へ立ち入った主人公たちが、壮絶な死を遂げるものばかり。森へ立ち入った者は皆等しく行方を眩ませる。獣に襲われて、沼でおぼれて、彷徨い疲れて、誰に知られることもなく朽ちて行く。
この書籍は、ガルベーラ国内で爆発的な人気を有している。理由は二つ。一つは、心理描写が非常に丁寧で繊細であること。死から目を背ける者、受け入れる者、抗う者。死を目前にした人間の多様な死生観を生々しく描いた作風が話題を呼んでいる。二つ目は、ほどよいリアリティーがあること。この書籍は、フィクションとノンフィクションの間にあり、絶妙なリアリティを持っている。物語に登場する人物の多くは実在し、主人公たちが立ち寄った町や村、施設は今もなお顕在である。
ただし、肝心のストーリーは実際に巷で囁かれている噂をもとに作成されたている。
――その森には大蛇が住んでおり、森の奥へ進むことを決して許しはしない
その噂が囁かれるようになったのは、ガルベーラ国において長年人民を悩ませた内乱が収束して間もない、冬の冷たい空気が漂い始めたころ。
最初は、ある狩人についての噂だった。
珍しいもの好きで有名な狩人がいた。固有種の多く生息する現『大蛇の要塞』の噂を聞きつけたその狩人は、冬が来る前にと、食料も持たずに森へ出かけた。森の様子だけ確認し、当日中には仲間のもとに戻る予定だったその狩人は、三日経っても戻ることはなかった。心配した仲間の狩人は、明日には戻ると言い残し森へ足を踏み入れ、行方が分からなくなった。その後、二人の狩人を探すため捜索隊が派遣されたが、森の奥に足を踏み入れた隊員数名も未だ戻ってきていない。捜索隊の報告によると、誰の遺品も、形跡すら見つかっていないという。この噂は『狩人の神隠し』として知られている。
その次は、度胸試しで森に立ち入った若者8人の噂だ。
いつの時代にもどこにでも存在するような、好奇心とその場の雰囲気に身を任せて森へ立ち入った8人の若い男女がいた。『狩人の神隠し』を聞きつけ、面白半分で森に入った。その後、若者たちを見た者はいない。若者たちの両親を含めた、若者たちの故郷の村人と国の捜索隊が捜索を行ったが、行方不明者を増やしただけで、ただの一つの形跡も見つけられなかったという。この噂には名前すらつくこともなく、次々と同じような噂が流れた。
噂を聞きつけた学者、迷い込んだ幼児、それを追いかけた母、奇奇怪怪を求める物書き、スリルを求めた冒険家、通報を受けた国の警備兵や捜索隊の隊員たち。
その全てが――まるで「大蛇」に丸のみにされたかのように、跡形もなく消えた。
こんな噂が、どこからともなく湧いて出る。
どれが本当でどれが嘘か、一つ一つの噂がどれだけの信憑性を有しているのか定かではない。が、少なくとも、森に入ったまま行方不明になった者がそれなりの数存在するのは事実で、複数ある森の入り口にはどれも、死んだ証拠すらない人々へ捧げられた花束が置かれている。亡くなった者の名前まで添えられているものもある。
やがて、それぞれ独立して語られていた噂たちは、一つの噂に収束された。
『その森には大蛇が住んでおり、森の奥へ進むことを決して許しはしない。侵入を試みた者は全て丸呑みにされ、生きた痕跡すらも残らない。大蛇は森の深くにある村を守っており、その村にたどり着いた者は一人もいない』
森に立ち入った誰もが、跡形もなく姿を消していく。
――まるで、大蛇にでも丸飲みにされたように
森の奥にたどり着いたものはいない。
――まるで、その森の奥への侵入を阻んでいるかのように
事実と嘘と幻想が入り混じり、誕生した噂。
森に入った人間が何の痕跡も残さずに姿を消したことは事実だ。けれど、『大蛇の要塞』に「大蛇」は存在しないだろうし、森の奥に存在するアマリス村は「大蛇」に守られてもいないだろう。すべて、そう見えるという話だ。
実際のところは定かではないが、立ち入った人間は、森に住まう獣や自然にできた危険地帯で命を落とし、発見されていないだけだろう。何人もの侵入者を続けざまに丸呑みできるほど大きな蛇など、存在するものか。森の中では、獣に食い殺されたり、自然災害に見舞われたり、沼に沈んだり、そういったことが起きているのだろう。結果として、森の奥にあるアマリス村にたどり着いた生還者がいない、そんなところだろうか。
冬の冷気の漂いと共に囁かれ始めた『大蛇の要塞』の噂は、春の訪れを感じる頃には有名な話となっていた。『大蛇の要塞』に挑戦する者が一時的に増加したが、結局は噂と犠牲者を増やすだけとなった。『大蛇の要塞』一帯を治める貴族も、これはもしかしたら大変なことになっているのかもしれないと重い腰を上げ、消息の途絶えた人数を確認し、その冬の間に54名弱の犠牲者が出ていたことが明らかとなった。
貴族は簡単に解決を放棄し、御触れを出した。『大蛇を退治した者には、惜しみない褒美を与える』と。犠牲者はますます増加した。
最初の噂から約2年、その間213人もの人間を食らった「大蛇」は今日、なんの前触れもなくその正体を衆目に晒すこととなった。
これには、かつてこの国で起こっていた内乱を収めた『英雄』が一役かっているのだとか。
嘘か誠か確かめられない以上、『大蛇の要塞』についての噂がまた一つ、増えただけの話だ。
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