六章 混迷と光明
一
紙の匂いに包まれていた。簡易式の折りたたみ机の上に可能な限りの書籍、書類を広げていた。やはり、警視庁の一室よりも、この場所の方が小市民としては落ち着く。
六畳の空間であったが、ありえないほどに資料が整っている。殺人に関する書籍だけでも十冊、毒物は六冊、薬・農薬・化学物質は五冊、医学書なども豊富だ。僕は手に取ってもいないが、死体の写真ばかりが載っている写真集もある。
そんな四法院の部屋で、僕は膨大な情報を整理していた。
変わった友人の室内だから特別に意識はしなかったが、改めて見ると異様な室内である。
当たり前だが、他にも本はたくさんある。戦史、軍事、宗教、哲学、演劇、経営、金融などだ。
刑事からすれば、怪しいの一言だろう。容疑者として疑われた時も、この室内の物で散々な扱いを受けたらしい。取調べを聞くだけで、警察組織がどれだけ自供に頼っているか分からせるものだった。
その容疑者経験を持つ友人は、御堂の捜査結果を記した紙を見て目を細めている。
既に事件が起こってから、五日が経とうとしていた。
拘置所という犯罪現場の環境が環境だけに、調べる人も物も限られている。御堂の指揮する捜査陣は、これ以上ないほどに調べ上げていた。
いくら調査の対象が少ないとは言え、河野の過去、村中の過去と釈放後、水森の交友関係、天野尚司と天納グループなど、徹底的に調べ上げられていた。
河野の報告書に目を落とした。
河野は、高校を卒業して上京した。上京した時は、まだまだ不景気で職には就けなかったようだ。そして生きる為に、その日暮をすることになる。
アルバイトを転々として、かなり悪質な業者に捕まり社会的底辺を這うようになった。
その頃の月の平均収入が約十二万と記されている。家賃が五万五千円。本当に、じり貧だったろう。
献血に行くことで、ジュースやお菓子、そして映画や漫画を読んで、娯楽気分に浸っていた気持ちが分かる気がした。通っていた献血所は、池袋と記されていた。
献血に通い始めて、派遣先の職場で村中と出会ったらしい。その半年後に、老夫婦惨殺事件が起こっている。
その後、無実を訴えつつも起訴され、押し売り弁護士が登場して有罪になっている。
交友関係については、さらに調べたが他には見つからなかった。天野の企業とは、接点は見つからなかった。
ほぼこれで全てと言って良かった。
村中の報告書に目を通した。
東京都出身の村中は、高校を中退してすぐに薬物に手を出した。学生時代からシンナー、トルエンに手を出し、マリファナに行くまで時間は掛からなかった。そして、覚醒剤に手を染めると落ちるのは早かった。シャブを手に入れるために、盗みを繰り返した。だが、盗みはばれることなく、警官の巡回中に職務質問を受け、窃盗よりも覚醒剤取締り法で逮捕されることになった。
そして、それから二年後に河野と出会い、事件を起こすこととなる。
逮捕後、河野に殺すと脅された事で協力は緊急避難措置ということと、積極的に捜査への協力姿勢と自白が全容解明に繋がったことを評価され、刑が大幅に軽減された。
刑期を終えた村中の出獄後の捜査は進んでいた。
村中は、出獄した当日に都内のホテルに泊まっている。夜に誰かと会っていたようだが、その人物は結局割り出せなかったようだ。
おそらく、この人物がブラジルへの手引きをしたに違いない。この人物が分かれば、全体像が見えるのだろうが、周到に計画を練っていたことと、時間が経ち過ぎていると云う事もあり、どうしても割り出せなかったようだ。
翌日、中国経由でブラジルに入国した。その後、どういう経緯かは分からないが、ブラジルの大手企業に入社している。その内情を探ると、入社当日に会社から多額の金銭を受け取っている。その金額、一二七万へアイス(約四七〇〇万)。会社に事情を聞いたところ、村中は技術者として引き抜いた金額だと説明を受けた。薬物中毒であった村中に、そのような技術がある訳はない。
仕事内容を聞いたところ、それに関することは企業秘密だというところから教えてもらえなかった。
詐欺の可能性もあることから、ブラジル企業に注意を促すにとどまった。
ブラジル連邦共和国とは、外務省を通して村中の身柄については交渉中である。
水森総一に関しての書類に目を通す。
被疑者であった水森総一は、約二六〇〇万の借金があった。それが原因で、一年前に奥さんと離婚していた。それ以来、子供とも会えていないようだ。
その借金は、ギャンブルで作ったものだということは判明している。借金を膨れ上がらせたのは、飲み屋の女も少なからず影響していた。
女に事情を聞くも、熱くなり易くセコイ男で、ブランド品などは買ってくれないとボヤいていた。その為、肉体関係まで至っていないと女も証言している。
抱えている問題は、こんなものであった。正直、河野を殺害する動機がない。死刑囚を殺害して何を得ることが出来たのだろう。個人の意思とは思えず、借り先を調べるとすべて天野傘下の金融屋であったことで事態が動いたように思えた。
天野尚司及び、天納グループに関する情報。
捜査陣は、水森と天納グループ傘下の街金、闇金との関係を探ったが、都合の良い借り手という以上のものは出てこなかった。
だが、根気強く捜査した結果、利息すら払えなくなった水森に近づいた人間がいた事が判った。その人物が、天野と関係がある人物であれば組織的な関与が疑われる。
組織的な関与を証明するには、取締役ぐらいとの関係を証明したい。御堂は、組織的な犯行だと考えている。そうでなければ、監視カメラのメモリーに細工など出来るものではない。
四法院はどう考えているかは分からないが、御堂は天野を終始疑っている。
天納グループに主力を割いて調べ上げるが、どうしてもこの事件の発端となる河野・村中との関係が浮かび上がらなかった。さらに、殺害された老夫婦との関係も無く、河野を殺す動機が見つからない。
自分が天野CEOであったなら、死刑囚の河野を殺さねばならない理由はなんだろうかと考えてみる。家族はいない。この人の人生とは会社だと言っても過言ではない。自分自身と言える会社とその地位を脅かすものがあれば、どんな手を使ってでも阻止するだろう。
だからこそ、河野に何かを握られていたと考えるのが自然だった。
だが、冷静に考えれば死刑囚だ。手を下すまでも無い。どんな重大な発言も力を無くし、何を言われたとしても意味を持たないだろう。
動機。動機さえわかれば・・・・・・。もしくは、関係が見えれば・・・・・・。
四法院は、布団に横になり天井を見ていた。
その様子から四法院も関係性は見えていないようだ。何も語らないことから推察するに、自分と同じ闇の中にいるのだろう。
関係性が見えたとしても、今のところ証拠がない。犯人は、水森だと指している物ばかりなのだ。そう言えば、犯人は河野ではなく、村中が真犯人だという物的証拠もない。
いや、Nシステムがあるか。だが、Nシステムを証拠とするなら、警察上層部を説得しないとならない。それは、御堂に任せるとして、全ての人間関係を浮かび上がらせることが必要なのだ。
解らない事は沢山ある。何故、首吊りに見せかけたのか。それに、自殺の偽装をしたのに、両胸の傷は何の為につけたのか。その意図がまったく読めない。
僕は、河野の献血が無性に気になった。捜査でも、日本赤十字に献血資料が残っていることは確認されている。東京で献血した頃から、村中とも出会っている。考え過ぎだろうが、無性に調べたくなった。
「四法院、献血が怪しくないか?」
僕の言葉に、四法院は無反応だ。
「聞いているのかい?」
四法院は、数秒の無反応の後に、首だけこちらに向けた。
「献血かい?」
「この献血会場に行ってみないかい?」
「行かなくても、献血会場ですることなんて分かっているじゃないか」
「そうは言っても、行ってみないと分からない事もあるかも知れない。周辺の建物とかも関係しているかもしれないしさ」
四法院は、貧しい二十代の頃を思い出したくないのか、露骨なまでに嫌な顔を向けた。
それでも僕は、強引に四法院を付き合せる事に成功した。
二
翌日、昼過ぎに池袋に到着した。
「こんな早朝に行かなくても、夕方でも十分だろ」
「昼間じゃないと、責任者が居ない場合があるだろ」
「それはそうだが・・・・・・」
眠そうに目を擦る四法院は、まるでやる気が無い。
「血を採られて、何が楽しいんだ。血液分の重さは減っているのに、体は採られる以前よりも重く感じるし、善意を施すのに針を刺されるし・・・・・・」
ブツブツと聞こえるか聞こえない声量で呟いていた。
池袋駅の改札から徒歩一分。その献血所はあった。ビルの窓に大きく献血の文字と赤十字のマークが張ってある。
四法院の足取りが重い。そんな四法院に理想を語ることにした。
「いいじゃないか。僕らの血で他人が助かるんだ。善意の血が、病で苦しんでいる人の所に届く。いいじゃないか」
四法院が、冷えた視線を向けている。
「何?」
「あのさ。永都は、赤十字、血のことをどこまで知ってるの?」
僕は、しばらく考え、思い出した情報を整理して口にした。
「赤十字は、アンリー・デュナンによって作られた。人道・公平・中立・奉仕などを掲げている。日本赤十字は、西南戦争で官軍と西郷軍の凄惨な戦闘が元で、日本赤十字の前身となる組織が出来たことは知っている。組織運営は、主に寄付金で賄われているんだったっけ?国や地方自治体からの補助金もあるだろうが、清潔な団体ということくらいかな」
知ってる知識の全てを、さらりと詰め込んだ。だが内心は、息切れをしている様な感じだった。知っている単語を、自然にかつ高尚に繋ぎ合わせた。知恵の裁縫を短時間でするのは、結構な体力を消費することが今わかった。
会心の言葉だが、四法院の顔に変化はない。
「上出来だ。献血だけの組織。病院もある団体、と言わないだけマシだ。いや、一般人の知識としては、賞賛に値する」
「で、四法院は何を知っているんだい?」
「ちなみに、日本での血液事業は、赤十字が独占している。昔は、民間のミドリ十字と日本製薬などがあったが、輸血後肝炎を引き起こす黄色い血が社会問題になって、赤十字が独占することになった」
「黄色い血の問題って?」
「一九五五年には商業血液銀行が乱立し、売血者を登録して必要に応じて、その登録者を病院に派遣したりしていた」
「派遣業って、そんなに早くあったのか?」
僕の軽口を四法院は受け流した。
「売血者は頻繁に供血する。ひと月に五十回以上なども多くあったそうだ。血の成分では、血漿よりも赤血球の回復の方がより時間が掛かる。赤血球が回復しないうちに、再び売血すると赤血球の少ない血漿ばかりの目立つ血になる。そんな血に輸血効果などほとんど無い。効果が無いだけならともかく、有害だった。輸血後に肝炎などの副作用を招く恐れが高かった。この頃の政府は戦後だったが、日本人の犠牲など赤紙ほどの価値も無かったらしく。決定打になったのは、アメリカ大使ライシャワーが襲われ、重症を負って輸血された際に血清肝炎に感染した。この血液が肝炎だった為に売血の弊害が世に知られることになったそうだ」
「さすが政府」
この一言しか言わなかった。
戦争で国民の血を世界にぶちまけて、学んだことはアメリカへの御機嫌伺い。結果、動くきっかけがアメリカ大使の感染。日本医療のメッキが剥がれ、本質があらわになった。そして、日本国民よりも海外の大使一名の方を重要視した。だからこそ、迅速な対応が出来た。日本とは、そういう国なのだろう。
「ちなみに、赤十字が集めた血が、どのように流通しているかわかるか?」
僕は、首を横に振った。
「善意で集めた血液だが、それは病院に販売されている」
「ハぁ~?血って売ってんの!?」
驚きのあまり声が裏返った。
「ちょっと待ってくれ。献血って、無償で集めておいて売ってんの?」
赤十字には、国庫、地方自治体、様々な団体からの補助金など、金銭的には他の団体とは比較にならぬ程に潤沢だろう。何より、国内では血液事業を独占している。だから、僕は、輸血などのような公の物は、各病院が必要に応じて受け取っているのだろうと思っていた。
四法院が簡単に説明を始めた。
「たとえば、全血二〇〇ミリリットルは、約五千円で売っている。高価な血液製剤などは数十万円だそうだ。もっとも、赤十字にも言い分があるだろう。献血ルームの場所は一等地、人件費に、採血をするのも只ではない。消耗品の医療キットは、メーカーから買わないといけない。その上で、事業としての利益は追求しないといけない。赤十字は、事業の安定こそ第一に考えているからな。必要経費に、暴利は乗せないまでも、実利を上乗する。そう、厚生省からの役人を天下りさせるほどの利を」
「天下りね~。そう言えば、理事官の名には、元厚生省の………と云うのが確かに目立つな」
「まっ、赤十字も巨大組織だ。善意のボランティアから選出するよりも、国に顔が利く元役人の方が、組織にとって有益ってもんだろ」
「確かに」
悔しいが、納得せざるを得ない。能力とは、理想や理念、情熱や人格とはまったく別のものだ。得てして、清廉な人格者ほど組織運営には向かないものでもある。
横断歩道を渡りながら、四法院が呟いた。
「正に、生き血を啜って生きてるんだよ」
「そこで巧いこと言われてもな~」
四法院は、過度な表現をしているのだろうが、それでも腐臭が漂っているように思えた。
献血所の入っているビルの前に立った。ボランティアらしき人間が、プラカードを持って立っていた。そこには、四種の血液が不足していることが強調して書かれていた。
ビルに入って行き、献血ルームに到着した。白を基調として、要所に木目と木製の机などが置いてあり、清潔な印象を受ける。
室内には、多くの新聞、雑誌、漫画に埋められ、菓子などが置かれていた。受付の奥には、ジュースの自動販売機のボタンが点灯したままで設置されている。いくらでも水分を補給しても良いと言う事だろう。
二人とも、それぞれに受付に向かった。
献血申し込み書類を受け取り、その書類を書いた。後に、献血経験の有無を聞かれ、問診のようなことをされた。
長々と献血についての説明をされる。HIV検査目的での献血は禁止との説明を受けた。言いたい事は分かるが、献血してもらい、さらに感染症予防を考えれば、それぐらいのことをしてもいいように思う。人道、公正、奉仕を謳っているんだ。負傷者を救援したいが、HIV患者と未感染者に対しての予防へは力を貸せないように聞こえた。
血さえ貰えれば、協力者個人の知りたいことなど知ったことではないらしい。その様に感じた。
説明が終わり、四法院と合流する。非常に事務的な口調の説明によると、血液検査後に血を採られるらしい。
四法院の受付はとっくに終わっていたらしく、壁紙を眺めていた。
「四法院、何をしているんだ?好きな本に囲まれているのに、一番興味を引いたのは掲示板かい?」
四法院は、掲示板をじっと見ている。掲示板には、様々な用紙が張ってあった。
何を見ているのかが気になり、掲示物に視線を移した。そこには、日本赤十字の理念や活動、献血の不足状態の深刻さ、骨髄移植への協力、そして献血前の血液検査で何を調べるかが記されていた。
血液型(ABO型、Rh型)、不規則抗体、梅毒、B型肝炎ウイルス、C型肝炎ウイルス、エイズウイルス、ヒトTリンパ球向性ウイルス1型、ヒトパルボウイルスB19、ALT(肝機能)。必要により、赤血球の詳しい型、白血球抗原(HLA)、血小板抗原、血漿蛋白、サイトメガロウイルスの検査を実施することがあります。
また詳細な血液型の検査や輸血副作用の検査のため、赤血球型、白血球型(HLA型)、血小板型や血漿蛋白の遺伝子検査を行う場合があります。
そう記されていた。
四法院は、掲示板から目を離して口を開いた。
「そう言えば、永都。面白いことがあった」
「なんだい?美人のお姉さんでも居たのか?」
「これだ」
一枚のカードを指で挟んで差し出した。それを手に取り見てみた。
何かの番号、氏名、献血回数、血液型、献血した日時、献血した種類が記されていた。
「四法院。これ」
「そうだ。面白いだろ?」
それは、九年前の献血データが記されていた。九年前、四法院があまりの貧しさに献血ルームで漫画を読み、菓子を食うしかなかった頃の三回の来血データが残っていた。
「年金とはエライ差だな」
皮肉を言うと、四法院が笑った。
「そりゃそうだ。赤十字からすれば、俺らはカモで、商品の原材料だ。民間企業の顧客情報と同じで重要なデータだからな」
そう言っていると、お互いに名前を呼ばれた。医師の簡単な問診、血液検査に入った。
それからは、早かった。
お互いに、別々に案内されベッドに横たわった。僕は、血小板を取られている。四法院は、新鮮凍結血漿を採取しているようだ。
お互いに、赤い血が医療機器に吸い込まれ、血液成分を分離して淡黄色の液体がパックに溜められていく。
四法院を見ると、既に惰眠を貪っている。僕は、献血が終わるまで読書に勤しむことにした。
そして、約一時間後。
僕たちは、身体の怠さを感じながら献血ルームを後にする。
「四法院、メシ食って帰ろうよ」
「同感だ。帰ったら、俺は寝る」
「僕は、受験生のために数学の過去問を解かないといけないんだ」
「そうか、頑張れ。もう俺は、赤十字に儲けさせてやったからヨシとするさ。今度の献血は、また九年後にするよ」
そう言って、池袋の騒がしい通りを抜け、旨いが人気の無い和食店に入った。
「おばちゃん。銀鱈定食」
四法院が、嬉しそうに注文した。
三
四法院の部屋に帰るとお互いに仮眠を取った。血を採られた所為か、気怠さと満腹感で睡魔に襲われた。
帰ってくるなり、四法院はさっさと寝ている。自分も、睡魔に抗うも勝てず、布団に倒れ込んだ。男二人が六畳の部屋で寝ている。一見、異様な光景だろう。
この睡魔に抱かれることは、どんな魅力的な女性に包まれるよりも幸福感に包まれるようであった。
どれほどの時間が経ったか分からない。薄暗い部屋で、体に睡眠の適度な痺れのような満足感が広がっていた。
四法院は、既に起きて机に向かい、事件の資料を読んでいる。
枕元の携帯電話を開いて、現在時刻を確認する。夜九時………。帰ってきたのが夕方だから、かなりの時間寝ていたようだ。
「四法院、何をしているんだい?」
四法院は、無言で書類を捲っている。上半身を起こして、あくびをした。気合を入れて立ち上がり、布団をたたみ、片付けてある折りたたみ机を引き出した。
塾を休めるのも、あと二日。その直後、すぐ国立大志望の講義が入っている。過去問を解きながら、分かりやすい説明を考えないといけない。センター試験対策は既に済ませてあるが、二次はこちらも油断をしていると足を掬われることがある。
出来るだけ早く正確に解けるように、受験技術だけを教えてきた。教師がいくら綺麗ゴトを並べようとも、受からなければ何の意味も無い。
去年の各国立大の二次の問題を机に置いた。
「ヨシ」
シャーペンを持つと、腕慣らしから、偏差値の低い学校の問題から取り掛かった。
六十分の問題を二十分で解く。この辺りの問題であれば、問題ない。問題集に毛の生えた程度。流れるように問題を解いていく。
「なーッ!わからん!全然、わからん!」
突然、沈黙していた四法院が頭を抱え叫んだ。
またか。高校時代からの付き合いで、四法院の奇行には慣れている。
「どうした?」
冷静な声で尋ねた。
「事件のことをずっと考えているんだが、まったくわからん!」
両手で頭を掻き毟る四法院の姿は珍しかった。いつも冷静で、感情の起伏は少ない。そんな四法院が、追い込まれているのだ。
事件の見解について、一言も発しなかった四法院が、堰を切ったようにしゃべりだした。
「何なんだこの事件。整合性がまったく無い」
「整合性の無い事件だってあるだろう。例えば、道で擦れ違っただけで、撲殺したり、絞殺したりする犯人がいるじゃないか」
「そんな犯人の場合は、快楽殺人であったり、誰かに依頼されていたりする。だが、これはまったく違う。何らかの意図が見える。しかし、その目的はまったく見えない。いいか、河野を殺すなら、何で死刑囚にする必要がある?ひっそり山中に誘き出して殺せばすむ話だ。刑に服する危害があるなら、交通事故を装って、業務上過失致死でもいい」
確かに言うとおりだ。死刑にした上で、拘置所の中で殺す理由なんてまったく思い付かない。
「それに、老夫婦惨殺事件と河野殺害事件に繋がりがあるのは明白なのに、その両事件を繋ぐ人物が浮上しない。河野殺害に村中の関与は見えない。老夫婦事件に、水森刑務官を始めとして、天野の息がかかった者がいない。日本でも有数の資産家が、河野を殺す理由がわからない。何よりも河野の胸の傷、あれには意味がある筈なんだ。それなのに………。何の意味があるんだ。元来、犯罪とは、その行為によって必ず利益を得る人間がいる。こんな大事件なら尚更だ。それなのに、利益を得た人間がまったく浮かんでこない」
利益どころか、みんな被害を被っている。
天野が第一被疑者だが、利益を得たとは言い難い。東京拘置所矯正監も失態を曝す事になった。利益ということ一点では、ブラジルに逃亡している村中堅太郎だが、今回の河野の事件には関与仕様が無い。
村中堅太郎の受け取った金は、ブラジルの地元企業から出ているらしいが、老夫婦殺しの報酬だということは誰の目にも明らかだ。その黒幕に辿り着く欠片は手の内には無い。
「タレコミの電話。村中を海外へ出した人物。村中に渡った金の出所。水森刑務官の背後関係。それら全てが闇の中だ。肝心な所は全て潰されている。だから、事実ばかりで、何故、殺されたのかがわからない。目的、動機、それぞれの関係が見えていない」
御堂の捜査に抜かりは無い。警察には特に辛口の四法院も、捜査にケチはつけていない。
「なんで、富豪が死刑囚を狙う?そもそも犯罪なんて、金、女、恨みが原因だ。言ってしまえば、その三要素しかない。天野氏には、莫大な資産がある。女にも不自由してないだろう。そんな対極の人生を歩んでいる二人に、接点などいくら探しても見つかるはずも無い」
四法院は、苛立ちを隠さなかった。完全に心の迷路に迷い込んでいる。
こうなると四法院に気休めを言うのは逆効果だ。自分で自分を精神の壁で覆いつくす。その壁の厚く頑丈なことと云ったら、こっちにまで闇が電波するように感じるほどだ。
だから、僕は最上の対策を採り、放って置くにした。
自分も一週間も休ませて貰い、久々の講義が受験対策なのだ。脳と意識を探偵から、講師に変えなければ勤まらない。
苛立つ四法院には触れず、目の前の過去問に目を落とした。
代数幾何の図形の問題。ここはチェバ・メネラウスの定理を使い、高速処理すればいい。ものの一分で解答に辿り着く。この微分の問題も、基本問題だ。
四法院を見たが、電池が切れたように座っている。
また、別の大学の試験問題に視線を落とした。
これは、試験時間が九十分。ひと目見ただけで、なかなかの問題が揃っていた。さすが、旧帝国大学だけあって、私大とは趣向が違っていた。
「これは・・・・・・」
わからない。いや、まったくわからないという、そういう問題ではない。
「四法院、この問題解けるかい?」
そう言って、行き詰っている友人の息抜きを兼ねて、問題用紙を渡した。
「その問6だ」
四法院が右手を差し出して、用紙を受け取った。
渡した問題は、このようなものである。
四法院は学歴こそ無いが、馬鹿ではない。
体質が異常な為に、社会に適応できていない。
「僕は、一つは分かるんだが、もう一つが分からない。三点で接する円が二つないといけないんだが、一つしか見えないんだ」
四法院は考えている。
「一つは、そこに記してある用に、そこしかない。でも、もう一つの円って、どこ?」
それぞれに接する円の一つは、既に書き込んである。
だが、円A、Bと直線Lに接する円が、もう一つあると出題者は言う。どう考えても見えない。円の位置さえ分かれば、この問題は難しくない。
解き方なら、知っている。こういう問題は、知識じゃない。見えるか見えないかという、至極パズル的要素の強い問題。ま、見えたからって、解き方が解らなければ解けないんだが・・・・・・。
既に、三十秒が過ぎている。もう一つの円を探すだけなら、十分な時間だろう。
「四法院、分かるかい?」
四法院は、まだ問題を眺めている。
四法院が飽きるまで、自分は他の問題をしていようと思ったその時、笑い声が室内に響いた。
「ははっ、そうだ。コレなんだ。コレ!」
四法院は、満面の笑みを浮かべて、足をバタつかせて喜んでいた。
「永都。解った。全て、解けた。俺は、これまでの欲求不満をこれから吐き出しに行ってくる」
僕は、四法院が何を言っているのか、さっぱり解らない。
「ちょっと待て、三点で接するもう一つ円が解ったのか?」
「あ~。それもそうだが、全てだよ。事件も解けた。解決だ」
四法院は、嬉々としてそう言った。
「言ってる意味が解らない。今、なんで事件が解けるんだい?」
その問いに友人は答えず、勝ち誇った笑い声を上げた。
「でも、事件は解けたといっても、全体像が見えただけで、証拠はまだ揃っちゃいない。全ての関係者を捕らえる為に、今後は動いていくさ。だが、その前に極上の女を抱いてくるよ」
「なんで?」
発言が滅茶苦茶な四法院に、その一言をぶつけた。
「だって、ムラムラしてれば、美人を抱きたいじゃないか」
まったく会話になっていない。イラつき始めた僕を横目に、ジャケットを着て、財布を持った四法院は、本気で外出するようだ。
「ところで四法院。彼女でもいるのか?」
「まさか。そんな面倒な・・・・・・」
「だったら、これからどこへ行くのさ?」
「美人の在籍する桃源郷さ。スッキリして、俗世の垢を洗い流してくるよ」
行き先は推察できるが、俗世の垢を洗い流すって・・・・・・。
向かう場所は、俗世でも、色欲の煩悩まみれになる場所だ。
認識が完全に間違っている。
四法院が、本当に事件を解決したかは怪しいが、図形の正解は聞いておきたい。
「四法院、もう止めないから、この問題、もう一つの円は、どこだい?」
「その問題は、良い問題だ。是非、君の生徒には教えてあげてくれ」
誇った顔が、絶妙に不快にさせる。
「だから、どこなのさ?」
強めに訊いた。
「すぐに教えると有り難味が無いな。そうだな、ヒントをあげよう」
そう言ってるうちに、外出準備が整ったようだ。靴を履いて、少し溜めて言った。
「ポイントは、直線Lだ」
そう言った四法院は、遠足に向かう園児のようにウキウキさを漂わせて部屋を後にした。
ここまで読んで頂きありがとうございます。
御意見、御感想、誤字脱字の指摘、なんでも大歓迎です。




