9.屋
四百年と少し前、ひとりの規格外の怪物がいた。
今日まで畏れ、語り継がれている、あの忌まわしき最悪の変異種“天魔”。
北方の、岩間の雹国一帯を支配下に置いた天魔は、本当かどうか、己の異能ひとつでそれ為したとのことだ。曰く、その眸は何物をも凍てつかせ、氷結のもとに絶命せしめた。曰く、数百から成る軍勢を一瞥で氷塊に変じさせた。曰く、地の底に座す煉獄の竜を死闘の末に壊死させ、その居城を手中に収めた――竜のくだりに関しては明らかに後世の創作だが――と。諸説はあるが、当時の文献を紐解くと、概ねそんな現実味のない文章が軒並み記されていることからいって、現在は亜巨人の諸族と大公の親類縁者が連邦を組み治めている北方にそのような化け物が存在していたのは確かなことらしい。
そんな稀代の大悪党たる天魔の跳梁、討伐を機に、元より待遇のよかったわけではない彼ら変異種は徹底的に弾圧され、数が激減した。第二、第三の天魔を生じさせてはならぬ、国が立ち行かなくなる、と。その結果、森の最奥や山深く、あるいは地底といった、人型以外の生活領域にわずかに残るのみという、種としてはたいへんに稀少な存在となった。もっとも、シュレイアとは現存する人種から唐突に発生するものであるから、望まれずに産まれてきた彼ら彼女らがどのような扱いを受けたかは推して知るべしで。大いなる神よ彼ら罪深きものどもを赦し給え、などというおためごかしを唱えながら鞭を振るう信徒たちは、己の神が掲げる平等の理念、その標榜の、在りようの歪さに気付かぬまま、あるいは見て見ぬふりをしたまま、出てくるそばから彼らを消費していったのだ。農奴として、戦奴として、開拓民として、娼婦として。
そのようにして自然と出来上がった身分の差異の下層に位置するシュレイアは、しかしいまではなかなかの高級品となっている。火麦の肌に、深い黒色の髪に、その種の最たる証である黄金瞳。それらの特徴を必ず備えている種は、彼らのほかにいない。いつの世だってそうだが、稀有なものを所持するというのは、なかなかに優越感に浸れる事柄である。美術品の類と同列だ。大金を費やしてこそ所持の叶う、そんな彼らゆえに、変異種の売買とは、それ自体がまず珍しい。いっぷう変わった異能持ちとなると、もはや各領地から好事家が集まって競を始めてもおかしくはない事柄だ。
そんな変異種のひとりを、ただの目撃証言ひとつのみで探し、ひっ捕まえてこい、などという面倒極まる勅命を受けて、一級警邏騎士ルゼルは暗澹たる貌を隠せない。イータと名付け道中を頼っている角の駿馬に跨り、絶えず臀部を擦り切らせる長時間の乗り心地と、我らが警邏騎士団団長殿を通して手渡された、胸部軽甲冑の内側で紙切れのくせにひどく存在感を催している一枚の命令書。それとまともに食事に割ける時間さえないゆえに、乗馬しながら味もへったくれもない焼いた火麦の塊をもそもそと食さなければならないひもじさ。それらがルゼルを暗鬱にさせる現実の三柱だった。
真頂の頃合、陽射しはなかなかに気持ちがいいが、どうせあと一刻もすれば甲冑に溜まった熱気と汗ばんだ肌にうんざりとする。警邏騎士の正規装備である、身体急所の要を金物によって保護する軽装甲冑は、大都市の重装騎士のそれほどに莫迦げた重さではないにしろ、やはり長々と着込めば疲労のひとつも覚える。道中の砂風と渡河の水跳ねでところどころに汚れはついたものの、毎度毎度、仕事終わりに磨かねばならない団の決まりごとを甲斐甲斐しく守るたちであるルゼルの鎧は、同期のそれと較べてかなりきれいなほうではある。それでも齢十四の入団から五年と半年、装着固定のための熊皮の帯は何遍も換えているし、匪賊の兇刃を受け止めたのは一度や二度ではきかない。見た目はそれなりだが機能としてはややくたびれている。そろそろ新品の支給が欲しいと考えるが、そのための申請に充てようと思っていた時間を新たな仕事に奪われたので、いざとなったら団長に直談判していっとういいのを拝領しよう、とルゼルは半ば自棄になった心持ちで焼き麦の残りを口に放って咀嚼もそこそこに飲み下した。まずいが慣れた食感。これがたまの、ごくごくたまの休日であれば蜜にでもひたしているところだが、そもそも休みのそのときにまでこんなものを喰いたくはない。脳裏で馴染みの店の色菜盛りを浮かべ、目の毒ならぬ心の毒だと振り払い、嘆息を噛み殺したところで、はるか前方にかすかに見えてきた石灰の街並に一抹の安堵を抱き、ルゼルは手綱を握りなおした。あすこに到着して聞き込みなりなんなりを終えたら、ひとまずそれなりに見栄えのいい食事をしよう。できれば蒸した猪肉があると好い。ルゼルの好物だ。
◆
前々日。娼妓街の安宿、そこの大鬼の主人から聞き取りを終えたルゼルは、安くはないが高くもない額で貴重な変異種を手放した主人の見識のなさに若干の呆れを覚えたが、普通は人型種族の値段の違いなんぞ気にも留めんよなあ、とも思う。そも、女を娼婦にするにあたって重要視するのは見栄えと病気の有無程度で、大抵の人型は、それこそ人買いの類でもない限り、どの人種に貨幣を何枚積めるかなど知る由もない。となれば、ただの女ひとりには高価い額で買って行った側は、シュレイアの値段を知っていたことになる。ならば、これから探すべきそいつの職は限られてくるとルゼルはか細い光明を手掛かりに、この石灰の街を目指したのだ。
馬を枝教会の支部に預け、ルゼルは目抜き通りを歩く。この街は人買いの多い場所だ。北方の鉱山地帯、西方で長く続く貴族同士の領地権争い、ごく近場に娼婦の夜都。奴隷の売り手買い手には事欠かない要素が揃っている。物品の流通の要所としても機能する位置にあるので、石灰はかなりの大都市だ。街を治める辺境伯の豪邸を中心に、取り巻きの貴族の住宅、青果や肉などの商売人市、交易税の官署、石灰一円の守衛を担当する騎士の詰所、合剣ギルド、酒場、盛り場、そしてならず者の裏通り。用向きがあるのは守衛騎士と裏通りだ。前者は目撃談などが寄せられていないかどうかの聞き込み、後者は内容にもっと踏み込んだ聞き込み。貴族の豪奢な邸宅以外はだいたい石造りの建造物が立ち並ぶ街の通りを、中途の出店で買った黄果を齧りながら、記憶を頼りに騎士の詰所を目指す。目的地まではやたらと遠い。かといって個人所有の馬に乗って街を闊歩してよいのは守衛騎士と貴族、御用聞きの印可をもらった商売人と辻馬車だけと相場が決まっている。ルゼルのような警邏騎士も許可さえ取れば街中で角馬に跨れるが、しかしその許可を取るための詰所が街の中心あたりにある上に、そもそも馬での移動にほとほと疲れた身であるので、元より取る気はない。時折、金さえ払えば誰でも運んでくれる馬車が横を通り過ぎるたびに運賃を支払ってしまおうかという誘惑に駆られるほどには疲労感の残るものの、しかし徒歩での移動の嫌いではないルゼルは己を律して足を動かす。伊達に生半な鍛え方をしていないので、疲れてはいるが、まだまだ動けるのだ。動けるうちは動くのが騎士だ。ただそろそろ帰郷の叶う程度のまとまった休みは欲しいなあと、ルゼルは胸中で苦笑し、慰めとばかりに甘酸っぱい果物の残りの欠片を頬張って精神と身体を同時に慰撫した。
「……確か、こっちだったか」
酒場の並ぶ通りを抜け、家々にほんの少し高級感の漂ってきたところで、ルゼルは三年ほど前の記憶を手繰って道順を思い出す。
以前に来たのは影縫いの件でだった。大貴族の子弟と大店の主人の会合ついでに開かれた催しにおいて、おこぼれに与ろうと顔を売って覚えをめでたくしようとする平貴族と商売人の人いきれ、会合場所である屋敷を警護する二十人以上の守衛騎士。それらすべての目を欺いて、主催の二人を難なく殺害してみせた手練れの暗殺者、その対応にと警邏騎士団から出向したのがルゼルとガルフィベード団長だった。当時まだ二級警邏だったルゼルをなぜ相方に抜擢したのか、いくら剣の腕が立つといっても贔屓がすぎないか、などという同僚の騎士たちの意見をすべて黙殺して団長に連れてこられた先、それが、ルゼルがいま向かっている守衛騎士の詰所だ。当時、目通りした守衛騎士の団長と副団長の高慢な物言いに一歩も引かず、どころか嘲笑と舌禍をぶつける我らが団長の斜め後ろに立って、ああ団長やめてくださいそれ以上挑発しないでくださいあいつら目が怖いです団長やめろ、と心底から胆を冷やしているだけだったルゼルにとって、あまりいい思い出のないところではある。しかしこれも仕事、しかも大公から下った特命であるのだ。もし、あのときのことで自分の顔を憶えているであろう相手が出て助力を渋ったとしても、いざとなれば胸甲冑の内側にしまっている羊皮紙がものをいうだろう。上からの権力で不満を押しつぶす、というやり口は、衆民の出であるルゼルにとって甚だ嫌いな手段ではあるが、それもやらねばならないとあらば躊躇しないほどにはすっかり騎士としての生き方に染まっている。普段からまるで協力的でない商売人や夜鷹どもを向こうに置いて取締りを行っているので、嫌がる手合との言葉でのきったはったは、もはや慣れたものなのだ。
それでも拒否されたらどうしよう、また街ふたつ離れている警邏騎士団本部にとんぼ返りして大公への訴状書を団長に書いてもらわなきゃならんのかな、そうなったら最悪だ、ますます休日が遠ざかるな、そんな不安ごとを思い浮かべながら苦い顔で街角を曲がったその時に、甲冑になにか軽いものがぶつかってきた。
「にゃっ……!」
鼻から出たとおぼしき甲高い声に胸元を見やると、そこに白灰の外套を頭まですっぽりかぶった、背の低い某かがいた。顔は見えないが、隙間から黒い前髪がのぞいている。特段、寒いわけではないこの時期に、こんな目深に外套をまとっているのは、わけありか、悪党のどちらかと相場が決まっている。が、ぶつかったであろう鼻先を押さえてうなだれるそいつの挙措からいって、少なくとも悪党やスリの類ではなかろうとルゼルは思った。普段からそういう種類に関わっていると、だいたいは見分けがつくようになるのだ。
「と、大丈夫か」
当たり障りのない云い方で、ルゼルは容態を訊いた。わけありな姿のそいつは色素の黒い片方の手で鼻を抑え、もう片方の手を前に出して頷いた。金属にぶつかったのだからそれなりに痛いのだろうが、特に出血は見えていないことからいって本当に大丈夫らしい。
「少し考えごとをしていてよく曲がり角を確認していなかった、すまない。もし怪我をされたようなら、あとで守衛騎士の詰所に来てくれ。窓口でルゼルと名を出せば対応してくれるように頼んでおこう」
「……ら、らいじょうぶ、れす」
痛痒を隠しきれない声音で、そいつが女とわかる。片手をふるふると振るって無事を示し、女はぺこりと頭をひとつ下げ、横合いを足早に通り過ぎて行った。ルゼルは意識が散漫になっていたことを戒めながら、外套の君の後背を見送る。常にうつむき加減だったので表情はわからなかったが、たぶんあれは、鼻っ面が赤くなっていたことだろう。甲冑はいざというとき体当たりにも使えるよう設えられた防具なので、表面は硬く、要所が角ばっている。自分も一度、着替える時に膝をぶつけたことがあるが、痛いんだよなあれは。申し訳ないことをしたなと頭をひとつ掻いて、ルゼルは再び歩を進める。そういえば、あの女性、黒髪に色黒の肌だった。変異種の特徴に当てはまる。が、まさかだ。黒髪色黒の種族など大鬼種にも人間種族にも掃いて捨てるほどいる。そんな簡単に、売られた人物を見つけてたまるものか。そうであれば警邏などこの世にはいらない。
だが、まあ、万が一ということもあるにはある。瞳を確認すれば一発で判明するので、念のため、双眸だけでも確認すればよかったか、と詮のない思惟を浮かべ、ルゼルは詰所を目指した。頼むから面倒な対応はしてくれるなよ守衛騎士たち、と視線を向けた青い空に願いを投げかけながら。