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エクェスィ・タルフス  作者: やと&星
8/21

8.星


 石部屋の壁を、無造作に切り出して作り上げた無骨な窓。その向こうに、月と、夜に出没する月光蝶が何匹か、ひらり、ふわりと舞っている。

 町外れにあるこの部屋は、夜の街の音が届きにくい。微かに届く生活の音は、しんと静まったこの部屋には、届きはしても、響かず、溶けて消える。

 

 部屋の隅っこ。

 【トヴァ】に残され、一人、小さく身体を丸めている【野良猫ルウ】。膝を抱えて、自分で自分の身を守るようにしながら。

 時折、どこかもどかしそうに身じろいでいた。今、ルウの身を包んでいるのは、あの姿形がころころ変わる、リアンと呼ばれた存在が用意したものの一つ。余分な飾りがほとんどない、けれど見る者が見れば、一目で最上級の物だと知るだろう、紅のドレス。

 それはルウにとって、軽すぎて、柔らかすぎた。そして何よりも、未知のものであった。ルウの記憶の中には、女と認められた者の身がまとう服とは、娼婦達が着ていたような華美なものしか存在しなかったのだ。

 丸まったまま、そっと手を伸ばして、自分の首にかけられた首輪に触れる。飾られた一粒の赤瑠璃は、ひどく冷たい。

 〝仕事に出る〟。

 その一言以外、一切の言葉、その欠片さえも残さずに、トヴァは部屋を出て行った。唯一置いていかれたのは、草臥れた金と、それを使う際の注意書きが走り書きされた、古びた紙切れ一枚。

 じいと、彼女はそれを見つめる。

 あの人は、これと同じ金を引き替えにして、誰かを〝ころし〟に行くという。〝ころし〟とは、生きているものを、死なせることだという。ルウが、自分で認識している役目とは、正反対のそれを、彼女が理解するのにひどく時間がかかった。

 勿論、トヴァが事の次第を細やかに教えるはずもなく、トヴァ本人に言われてもいないのに、その説明役を勝手に負ったのはリアンだ。それはもう、一つのスープを小さな匙ですくい、一口ずつ口に運んでやるように、あの深緑の瞳を持つ怪人は、丁寧に言葉を連ね続けた。

 更に、リアンは紡ぎ続ける言葉と一緒に、今までのルウにはまるで縁がなかったものを、どこからともなく取り出して、彼女と己を取り囲むように並べ続けていた。

 遠くから見たことこそあったけれど、近寄ったことも、ましてや触れたことなど一度もなかった金銀宝石。様々な衣服は、艶やかなドレスから、貴族達が身につけそうな気品のある礼装、更には異国の衣装まで。加えて、触れれば溶けてしまいそうなほどに、摩訶不思議な細工の為された菓子類までも。

 ものを与えられている側が、あまりのことに息の詰まりそうな居心地の悪さを感じている事に気付いていただろうに、それでもリアンは笑う。

 楽しそうに。更に言えば、嬉しそうに。

 

 

「――……そうそう。あと、これも話しておかないとね。僕がルウを気に入った理由。あ、トヴァにはこの話、言っても言わなくても、どっちでもいいよ。今のトヴァなら、間違いなく欠片も気にしないだろうし」

 上機嫌にそう語る声色は少年のもの。が、ルウの後ろに立ち、髪を飾り立てる手は女性のもの。その違いに、ルウはまだ慣れていない。湧き水のように生じる違和感は、身体を内側がら変に撫で上げてくる。

「今の世は、どこもかしこも歪んでいる。原因は……さて、何なんでしょうね? 世界が狂い出したから、人々が壊れたのか。それとも人が狂ったから、世界にひびがが入ったか。順番なんて些末なものなの。……ふふ。少し、難しいかしらね?」

 次に聞こえたのは、時折見えるしなやかな細い手に相応しい、穏やかな女の声。こんな声色が鼓膜を震わせることがはじめてであったルウは、耳の奥がくすぐったくて仕方がなかった。

「が、どんな時でも変わらない持論が一つ、俺にはあってね。ルウ君には、これも難しいかもしれないなぁ。『ヒトの世は、ヒトの手で創られ、あるいは壊される。そうでなければならない』って考えなんだが」

 続いたのは、壮年の男の声だ。声だけがめまぐるしく変わっていくのに、背中越しに感じる気配は、不気味なほどに揺るがない。

「人型以外にも、森を愛し、それと共に生きる者や、雄々しき鬼や巨人共も生きるような世だ……確かに、それを混沌と例えるのならば、そうなのであろうよ。だが、それら以外のナニカが、世を好き勝手に弄って、動かすなど。そんなものあっちゃならんだろう? あまりにも分不相応。身の程も何もかもを、弁えていない。ましてや、変革――いいや。新たな創世など。……ああ、出来るのなら、この手で、まとめて縊ってしまいたいほど、忌々しい」

 言葉を繋ぐのは、老婆らしきしゃがれた声。ゆっくりと、しかし血でも吐くように語られる呪詛は、先ほどとは打って変わって、肌に粟が生じるほど恐ろしかった。

「分かるか、嬢や。儂が、トヴァの奴を買っておるのは、まさしく『そこ』だ。影縫いと呼ばれ、史上最悪の殺し屋などと恐れられながらも、奴はどこまでも、人だ。金を求める理由は生きる為以外にはなく、その理由さえあれば、躊躇いなく他人をも殺す。その理由がなければ、一切、他の命を潰しはしない。殺しの為に殺すのではない。生きる為に殺すのだ。下手な暗殺者……いや、それにすらなれない人もどきや人形共より、よほど信頼を置くことが出来る」

 背後から手が伸びてくる。

 首飾りを持つその手は、先ほどまでの女のものではなく、皺と古傷が目立つ、骨張ったもの。

 けれど、それはルウが目で認識した途端に掻き消える。瞬き一つの間に、首飾りを握った手は、恐らくルウのものよりも小さい、幼子の手へと変わっていた。

「あのね、でもね? 今の、トヴァのお兄ちゃんにも、惜しいとこがあるの。ほんのちょこっとだけ、動物寄り? って、言えばいいのかな? えーっとね、行動原理、だったかな! それがね、生きることだけに、集まりすぎてるんだ。それってすっごく勿体ない事なんだよ! あ、これもルウのお姉ちゃんには分からないかな? 分からないかもね、それでいいとおもうけどね!」

 突き抜けたように明るく、幼い声に、ルウは目眩さえしてきた。夢でも見ている気分になった、と言ってもいい。もう一度瞬きをすれば、全て、丸ごと消えてなくなって、元いたあの館、そこの薄暗い部屋で目覚めるのではないかと。

 甘い宝の山に視覚を埋められ、聴覚をひたすら翻弄されて、くらくらする。

 えへへ、とはにかむような笑い声さえ零す後ろの誰かは、小さい手を、肩に置く。その感触が、ルウの意識を現へと引き戻す。

 その瞬間だった。

 

「だから」

 

 それは唐突に。

 それまで、溢れるほどに満ちていた、声と混じり合う感情が、削げ落ちた。

「ルウ。あの、生きる事以外に一切の執着を持たなかった〝アルトヴァイスという人間〟が、はじめて興味を抱き、自らの意志で手中に収め――名さえ与えたというシュレイア」

 声自体は、青年のものだった。

 静かでこそあったが、嫌でも感じ取ってしまう威圧。かつて振るわれた暴力や罵声とは違う。違う事しか分からない。ルウは身体の震えを悟らせないようにする事だけで精一杯だ。

 ……彼女はまだ、知らなかった。それが、畏怖であるという事。支配者に値する存在が持つ特有のプレッシャー。掃き溜めで生きていた飼い猫に、それを感じ取ることが出来る機会など、ただの一度も、ありはしなかったのだから。

「お前の存在は、トヴァが真の意味で人となる切っ掛けとなるかもしれない。確率など、未知数だ。万に一つもありなどしないこと、よく理解している。だが、もしそうなれば、世は良くも悪くも動き出す。人の身となったトヴァは、必ず、生きる為に今の世界さえ殺してみせるだろう。本人がそれを望んでいなくとも、だ。革命をもたらすのは、何も英雄や勇者ばかりではない」

 冷淡な音――声、とすら認識出来なくなった故に、ただの音となってしまったそれ――に、ルウは胸を突き刺されたように感じた。ついに耐えきれず、身体をすくめてみせると、途端に「おっと」と、感情が孕む音、もとい声がする。少年の形に戻ったんだろうか。

「ごめん。ごめんね? 怖がらせるつもりはなかったんだ。本当だよ?」

「……」

 縮めた身体はそのままで、ルウは考える。口を開いていいか。開いた途端に、羽虫か何かのように潰されてしまわないか……何度も繰り返し考えて、なけなしの勇気を振り絞る事を決意する。口の中は既に渇き切っていた。

「……り……りア、リアン、さま……は」

 掠れてしまった声は、相手の不興を買わないだろうか。それだけが不安だった。

「リアンでいいよ。うん、何?」

「リアンは……それが、おやくめ、なのですか?」

「!」

 ぴくりとリアンの手が動いた。返事はすぐに来ない。何かを思案しているようだった。半端な位置に留まった手は、細いけれど男性特有の無骨さが僅かに伺える。まさに、成長途中の少年のもの。

 少年の手はやがて動いて、ルウの頭を撫でた。安心させるように、落ち着けるように。よほど心地の良い手つきだったのか、ルウの緊張した面持ちも、途端にほぐれ、きょとんとばかりに呆気にとられている。

「そんなんじゃないよ。ただの身勝手な自己満足。それだけさ」

 己を蔑んでいるでもなく、ありのままの事実を受け入れていると言わんばかりの言葉は、不思議とルウの心の奥に染み込んでいく。

「ねえ、だからルウ。まずは、君に〝人〟になって欲しいんだよ。笑ってばかりでも駄目、怯えてばかりでもいけない。トヴァみたいに生きる為に何かを捨てたりせずに、色んなものを抱えて、生きている一人に」

 そう言う《リアン》は、ルウの瞳には映らずとも、間違いなく屈託なく笑っていた。

 

 

「わたし……。わたしは」

 アルトヴァイスという新たな主。かの人の意思。

 トヴァに、リアンと呼ばれる存在と思惑。

 ルウはまだどれも理解出来ていなくて、結局、先のトヴァの出立にも、何も言えず、また何も言われなかったけれど。

「私に、役目があるのなら」

 そう呟く猫の瞳には、微かな、しかし確かでもある灯りが灯る。ルウと呼ばれるようになるよりもずっと前、掠れたセピア色の記憶、その更に向こうに見える誰かに、残されたもの。

 それはいつかの夜、あの白銀髪の少年が、『気に入った』と言って笑った時の。

 

 救いようもないほどに愚かで――だからこそ、どこまでも真っ直ぐな、かつての猫のものだった。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

「……は?」

 ルゼルはその時、まず我が耳を疑い、次に自分が本当に目覚めているのかを疑い、最後に己の正気を疑った。更によくよく思案して、結局口を突いてでたのは、あまりにも間抜けな一言のみ。

 そんなルゼルの目の前に立つのは、彼の直属の上司である、ガルフィベード地方警邏騎士団団長閣下。はあ、と溜息を付きながら、「そう言いたい気持ちは分かるけどねぇ……」とぼやいた。

「まー、何というか。うん、残念ながら、これ、夢でも何でもなく、現実なのね? ごめんね、ルルちゃん」

 口の端が引きつりそうになったのを、ルゼルは寸前のところで何とか耐えた。

 団長という立場にありながら、どうにも立ち振る舞いが破天荒……型破りというか、常識を飛び越えがちな上司は、ルゼルが何度『その呼び方だけはやめて下さい』と言っても聞き届けない。とびきり腕の立つ、信頼出来る上司なのは確かなのだ。なのだけど。

「団長。もう何度目か分かりませんが、俺は」

「私だってね! 全力で抵抗したのよ!? こんな馬鹿げ……っごほん、もとい! 畏れ多い任務、ルルちゃんには任せられませんって!」

「あの」

「そもそもルルちゃんには影縫いの事任せてるし! むしろルルちゃんじゃなきゃ、あんな凶悪極悪殺人鬼の始末なんて出来ないし! 神童の名前は伊達でも飾りでもないってーのに、あの、ちんちくりんな剥げ爺共は聞きもしない!」

 ルゼルの意思表示も空しく、宝石のように艶やかな黒の長髪が、苛立たしいと言わんばかりに掻き乱されていく。普段なら絶対に有り得ない。何せこの人は自分の髪と、そこから伸びる立派な二本角(カラードの一つである、亜巨人の証だ)に特別のこだわりを持っている。八つ当たりの先に選ばれるなど、本来ならないはずなのだ。

 そりゃあ、亜巨人の中でも長身に該当する貴方と比べられたら、俺を含めたほぼ全てがちんちくりんですよ、とは言わず、とりあえず

「落ち着いて下さい、団長」

 と、宥める事にする。無駄に終わるだろうとは思っていた。

「あー、今思い出しても腹の立つ! 私だって、こんなすっとぼけた任務に、可愛い可愛い私のルルちゃんをやりたくないのよー!」

 そんな叫びと共に振り回されるのは一枚の羊皮紙。大公家の印と、大公直筆のサインまで綴られた、命令書。

 内容は、詰まるとこ、こういう事らしい。

 

 

 先日、娼婦街を訪れたらしい一人の人型を探し出せ。

 厳密には、そいつが買っていったという、治癒能力に特化したシュレイアを。


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