7.屋
あれからリアンはやたらとルウを気に入り、衣服だの菓子だのを与えては可愛がっているようだが、もちろんトヴァにとってのルウとは便利な道具でしかないゆえに、そういった飴はあの姿形のころころ変わるエリィの怪人に一切合財を任せることにして、トヴァはいつものように仕事にかかる。
仮の塒に使っているリアン所有の石部屋にルウを留守番させ、トヴァは針剣と常の旅装、それに水網鼠の外套を引っ提げた。出かける間際、ルウが、なにかを言おうとして我慢をするような、怯えのような、しかしどこかで阿っているかのような、そんな不愉快極まる顔で出立を見送っていた。一言も、嘆息すら、あの奴隷女にはくれてやらずに、トヴァは部屋を出、そのまま街からも出た。いくばくかの食費と、店に赴く際の最低限の注意ごとだけは置いてきたので、あとはどうとでもなるだろうと思う。既に身につけさせている、某かの所有物の証である赤瑠璃の首輪が、ルウの身柄を守るだろう。それに、いざとなればリアンがなんとでも上手くやってくれる。その点に関してだけは、殺しの仕事の斡旋なんぞをやっているわりには、妙に親身なところのある、あのエリィを信用していた。
丸二日をかけて、再び娼妓街に到着する。前の仕事もそういえばここだったなと、トヴァはあのとき殺した大鬼を想起する。あれは実に楽だった。今回もそうであればいい。楽をして金を得たいと思うのは、王から乞食まで等しく抱いている願望のひとつだ。
基本的に、トヴァは仕事を夜に行う。殺し屋は殺しを行う姿を視られるのがいっとうの恥、という持論のあるトヴァにとって、もっとも手頃に見えなくなる方法である闇に紛れることを容易とする夜の時間帯が殺しをするには恰好だ。神など信じないが、よしんばいるのだとしたら、神という輩はひどく愚かだと思う。わざわざ悪いことをしやすい暗闇を創るなんて、手落ちもいいところだろう。
なので、今回も夜を待って仕掛けようと目論み、手近な裏路地に飛び込み、人の来なさそうな暗がりの中で座し、瞑目する。軒並み娼婦の眠っている昼下がりは、この街にとって静寂で満たされるひとときだ。けばけばしい雰囲気は嫌いだが、この相反した妙な静謐は嫌いではない。物乞いの頃、棲家にしていた石壁と襤褸板の狭間は、裏街ということもあいまって、日中夜問わずやかましかった。怒号や悲鳴、笑声や嬌声、その他、生理的な嫌悪を催させる羽虫どもの音で、必要以上に満たされていた。あるべき営みから外れた、あってはならない人でなしの街。そんな坩堝がトヴァは嫌いで嫌いで仕方なかった。今となってはあまり記憶にないが、どうも自分は奴隷商かなにかに売られたのちにうち捨てられたらしい。そこから何があって物乞いなどやるはめになったのかも、もう憶えていない。一日一日を生き延びるのに必死だった。
親がいたのかどうか、友達がいたのかどうか、そんなことすらおぼろげで、かすかに残っているのは、背中に陽射しを受けて顔の見えない、髪が長い女の子らしき影がこちらに手を差し伸べてくる、そんな光景。唯一トヴァの中に残っている日向の記憶。時折、ふとした拍子に思い出すそいつの、顔がわからないのは幸いだとトヴァは感じている。もし、あんな子供までが腐った裏街の連中と同じ下卑た相貌をしていたら、自分はきっと、発狂してしまうだろう。この世界に寄る辺などないのだと知って、優しくなどないのだと知って、僕みたいなのが一抹でも救われることなどないのだと知って――なにもかもどうでもよくなって、そのあたりの人型を殺せるだけ殺してしまう。
そうなったらきっと、針剣と僕の身体がぜんぶ壊れるまでに、三桁はいけるだろうな。皮肉げに頬を歪め、トヴァは思惟を弄んだ。あくまで食い扶持のためにやっている殺しが、もし主目的になったら、きっと、僕はそのぐらい、いける。自信があった。十七という短い人生しか歩んできてはいないが、培ってきた経験と、己の生き汚さと、気配を絶つ才能。すべてひっくるめて計算したら、喩え警邏騎士が大挙してやってきたって、疲労と得物の喪失でやつらに斬り殺されるまでに、最低限、三桁。いっそ本当にやってしまおうか、とも考えてみる。やってみたらきっと、意外と爽快かもしれない。騎士も、女子供も、同業者も、リアンも、ルウも。なにもかも噎せ返るほどの血で染めてやったら、案外、気持ち良くて嵌ってしまうのではないだろうか――
ふん、と鼻で嘆息し、脳裏に浮かんだ、そんな世迷言の数々を消去する。莫迦莫迦しい。そんな面倒なこと、誰がやるか。稼業で人ひとり殺すのにこんな待ち時間を割いてる几帳面な分際が、どの茹った頭で考える。第一、そんな暇があったら、仕事のふたつみっつをこなしてもっといい飯を食うさ。飲ってみたことはないが、上等な酒を呷ってみるのもいい。
さて、あと二刻ほどで日が暮れる。それまで、もう少しこのしじまを愉しんでいよう。そうすることにして、トヴァはもう一度鼻から吐息をこぼした。
夜の街を往くトヴァは、鼠の外套姿という甚だ胡乱な姿ではあるが、それを見咎めて眉をしかめるような人種は、やはりひとりもいない。
彼らには、視えていない。というより、視せていない。視えるように動いていない。これこそが、この才こそが、トヴァを天性の殺し屋たらしめている要因だった。裏街にいたころ、息をひそめて荒くれの暴威をやりすごしているうち、あるとき悟った。あれらに、見られなければいい。見つからなければ、殴られることも、奪われることも、決してないのだ。天敵から気配を殺す小動物のように、トヴァはその術を徐々に徐々に身につけていった。
最初は、人の視線から外れること。これに腐心した。普段から注意深く物事を観ている人間など、この世にはいない。ゆえに、その都度、相手の目線からずれていくことによって、自分の存在が気付かれにくくなる。
次に、音を殺した。人の耳は、わりかしなんでも拾う。足音から呼吸、ちょっとした衣擦れの音でも、努めて鳴らさぬようにした。
その次は相手の意識がどこを向いているかを感じ取る訓練。顔を向けている方角に集中しているとは限らない。だから、顔色から察するようにした。
おまけに、よく水浴びをして、体臭をできるだけ抑えた。鼻の利く人間など、そう珍しくはない。
最後に、己の気配を、なくした。アルトヴァイスという一個人の意識を極限まで殺し、そこにそんなやつはいないのだと自身すらも騙くらかし、それをもって、世界から消失する。
人の視界、人の耳、人の意識、己の音、己の臭い、己の意識、移動によって生じる空気の動き、無意識に相手の動きに合わせる方法――そういったものをすべて、何から何まで欺きぬいて、トヴァの殺し業は完成した。もとより、天稟があったのだろうと思う。発想からおよそ五年で、そんな無茶は現実のものとなってしまった。そうして、殺しを始めた。今ではなかなかに名うてだという自負がある。確か、変な二つ名も付いていた気がする。もっとも、誰に何と呼ばれているかなど、まったく興味がないので知らない。
気配のないまま歩き、情報にあったとおりの酒場に入る。今回の獲物は、ここの二階で、いまごろ女を抱いている。
鳴らさぬように開いた戸を潜って、トヴァは姿勢を低くした。手近な客の背後に忍び寄って、音と気配をごまかし、ついでとばかりに同化した。そういう手法を繰り返して、階段の近くまで行く。誰も気づかない。会話から察するに、客の中に休暇中らしい警邏騎士の団体がいるが、そいつらは酒で出来上がりすぎていてトヴァに気付く気付かないの話どころではない。
「だいたいよぉ、大鬼殺しの件、なんでおれたちが担当できねえんだよ?」
「ああ、あれか? 一級警邏様がかっさらっていっちまったんだよ」
「おれたちには無理だとよ。ルゼルの野郎、若造のくせに偉ぶりやがって。さすが団長のお気に入りはいうことが違わぁ」
「冗談じゃねえや、せっかくみかじめ取ろうと思ったのに」
「だはは、んなこと考えてるから無理なんだろ。見抜かれてんだよ、あの神童サマに。ま、そもそもの話、ありゃ“影縫い”の仕業らしい――」
彼らの会話を尻目に、階段を登る。中途、盆に山と食器を載せた給仕の女が下りてきたので、自然に盆の影になるよう伏せて視界から外れる。ほんの少しだけ、わざと手すりの音を鳴らしてそちらに注意させる。女がつられて視線を傾けた瞬間を見計らって、するりと横を抜けた。
二階の廊下には、仲間だか娼婦だかの順番待ちかなにかで、人間の男ふたりがたむろっていた。照明といえば、備え付けの燭台の火のひとつだけで、手頃な暗がりだ。この分なら素人が適当に動いたとして、万に一つも感付かれることはない。当たり前のように横を抜けて、目的の部屋を目指す。
扉はいかにもたてつけが悪そうだったので、針剣で軽く蝶番を刺して弛める。針による徹しの業。こればかりは他所様から教わったものだ。殺しの稼業を始めた時分、リアンの紹介で先達の老暗殺者に手管を習った。曰く、よほど鋭利な針さえあれば、物体だろうと肉体だろうと、手首の運動ひとつで貫けないものはない。当初はそんな莫迦な話が、と疑っていたトヴァも、実際に裁縫針だけで岩を貫通してみせた現場を目にすれば嫌でも認識は変わった。以来、彼の仕事に従事し、完璧に習得できたのは一年後。もうおまえを止められるやつは誰もいねえな、と皮肉に笑った師の老人は、あっさりと肺病で死んだ。気配絶ち以外の技術と殺し屋の生き方はすべて彼に写させてもらった。特筆するような感慨はないが、有力な殺し屋だったあの老人の死は少し惜しい。叶うことなら、もう少し歩法などを盗みたかったのだが。
ゆっくりと、トヴァが通れるぶんだけ戸を開いた。情事は終わっていたらしく、女が寝台に背を向け、姿見の前に立って下着を着直していた。標的の男が裸体で寝床に横たわって、その様子をにやにやと眺めている。
男が顔を向けている反対側のほうからゆったりと歩み寄って、針を男の胸に短く通した。ぴく、とにやついた笑みのまま、男がわずかに身震いをした。痛みさえ与えずに、心臓にほんの少し穴をあけてやった。あと数分後には死ぬ。手応えに絶対の確信を抱いて、トヴァはゆるりと寝台から離れ、廊下に出た。あとは帰るだけだ。元来た道は面倒なので、廊下の開いていた窓から路地に飛び降りた。着地をした瞬間、背後に生き物の気配を感じた。ことによっては殺さなければいけない。振り向いた。長耳猫がいた。昔、仲が良かったあいつとは毛並みも色も違うが、なんとなく想起してしまう。わずかに苦笑して、懐から魚の乾物をひとかけら出して、投げてやった。空中でそれを咥え捕った猫は、即座に背を向けて去っていく。
仕事は終わった。完了してみればトヴァを目撃したのは猫一匹のみ。
概ね、いつも通りの内容だった。