6.星
「俺のような……っと。失礼。私のような立場で、こんな事を言えたものではありませんが」
不愉快極まりない心境をそっくりそのまま抱えたまま、ルゼルは息を吐く。胸の内は当然ながら、それで良い方向に向かうわけもなく、むしろ目の前に転がっている屍を見れば見るほど、混沌とした有様となっていく。そんな己を自覚出来てしまうことに、また嫌気が差した。
「今の世は、どこかの螺旋が一つ二つ緩んだか、歯車がいくつか欠けているようだ」
何せ、外に溢れ、流れていく風の便りは、やれどこぞの貴族の長が不慮の事故で儚くなったやら、ある一族の棟梁が不治の病におかされたやら……。聞いていて気分が良くなる話など、万に一つもありやしない。
その一方で、一級警邏騎士……別の言い方をすれば、有事の際、それらの対応を行なう事で給金を得る立場である我が身としては、この世が続く限り、金には困らない。いや尻の皮だけは延々と犠牲になるか。それも含めて、とんだ喜劇である。
「そういえば、聞いていますか? 大公閣下と、そのご子息達の、容態絡みの話。……と言っても、噂に過ぎませんが」
「はて」
と、トーマ検分官は短く零す。
「国中の医者や治療師を集めても、やはり芳しくないご様子。業を煮やしたのか何なのか、禁術に手を出しただの、シュレイアの異能を利用する為に、狩りを始めただの、突拍子もない話ばかりが聞こえてくる。とどめに、この〝影縫い〟」
組んでいた腕をほどき、片方の手で目を覆った。天井を仰ぐように、顔を上へ傾ける。
「真っ当な神経をしている連中は、口を開くたびにこの世を憂い、嘆くばかりです」
「……ふむ。『天に坐す我らが父、大いなる神は』」
「はい?」
検分官が、分かりやす過ぎるほどゆっくりと、抑揚のない声で何かを語る。
一瞬、何の話かと呆気にとられたルゼルも、その直後には感づいた。〝上〟にいる、神父の立ち位置にいる男の言葉を、そのままなぞっているだろう事に。
「『今、世に試練を課しているのです。ならば、私達はそれを甘んじて享受しましょう。耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、神の御心を信じ続ければ、必ずや神よりの祝福を賜れましょう』……と。まあ、大体、要約するとこのような話を、上の者が、街の者に」
「ほう」
耳障りの良い、ありがちな話だ。口先だけはよく回る男だったなと、思い出す。伊達に、表面を敬虔な信徒で繕っていないらしい。
が、その耳障りの良さに、数多の人間の心持ちが軽くなり、救われるというのだから、いやはや、ある意味では、〝神〟というものの存在は、偉大ではある。だからといって、ルゼル当人に、それを敬う気は欠片もない。何かを敬えというならば、相棒たるあの長剣や、この街まで付き合ってくれた、今は疲労困憊であろうあの愛馬に跪いてみせた方が、よほどいい。
「先の、世の螺旋か歯車が狂っているという騎士殿の言、なるほど。確かに、神は試練の時を与えているのかもしれませぬ。影縫いも、天よりの使者、試練の担い手やもしれませんぞ」
「……」
何と返せばいいのか少し迷い、一応ここは教会である事と、相手がいかに汚れ役であろうとも神の信徒という立場である事、ついでに、殺人鬼が神の使者になるなど、いよいよもってこの世も末かと、心の奥底でこれ以上なく呆れた後、検分官殿に向き直る。
「ならば、その天よりの使者とやら。この身を削ってでもお探しし、直々に試練の言の葉、頂かねばなりますまい」
同時に、その御首もきっちりと頂くつもりだが。
それは、念のため胸中のみに留めておいた。
しゃりん。
老人に向き直る際、身体を動かした時に、涼やかな小さな音がした。
常に腰に下げている、不格好な手製の御守り二つ。音の出所はそこだった。向こうは特に、音について気にしてはいない。ルゼルは視線こそそちらにはやらなかったが、これを受け取った時から変わらない音色を耳にして、当たり前のように思い出す。
もう随分長いこと帰っていない、自分の故郷。そこにいる両親と妹のこと。
警邏騎士として家を出るその日、二つの御守りを差し出したのは妹だった。母と同じ青色をした瞳は涙を湛えて、今にも溢れそうだったのをよく覚えている。
慣れない手つきで作ったんだろう、御守りの見た目はお世辞にも整っているとは言えなかったし、妹の手も、小刀か何かで切りつけたようで、赤い筋がいくつも見えた。けれど、御守りの中央を飾る石英は、あの子の、何よりの宝物だった事を、知っていた。
「あのね。お兄ちゃんにお願いがあるんだ」
泣くのを懸命に堪えながら、妹は乞う。
「お守りは、ずっと付けていてね。お兄ちゃんが元気でいられるように、わたし、一生懸命お祈りしたの。お願い。お願いよ、お兄ちゃん。それから」
そして、兄である自分の手より、細く白く、そして何よりも小さな手が、御守りの片割れをぎゅっと握り締めた。
「どこか遠くの街で、あの子に会ったら、こっちのお守りを、渡してあげてね。お兄ちゃんのお守りと同じぐらい、お祈りしたから。元気でいられますように、二人とも、幸せでありますようにって。だから、だから――」
言葉が途切れて、ついに、透明な雫が妹の頬を伝う。
ぽろぽろと泣きながら、あの子は、すがるような手つきで、この手を握り締めた。
「信じてるから。ぜったい、ぜったい、トヴァはどこかで生きてるんだ」
――あれから月日が経って、御守りの数は変わらず二つ。見目だけが、少し色褪せた。細かいきずも、いくつもある。
ある日を境に姿を消した幼馴染み。白銀という、故郷では珍しい色の髪をしていたから、それ目当ての人攫いだったのだろう。あいつには、当時既に血の繋がった家族はいなかった。獲物としての条件は揃っている。
もはやこんな世の中だ。浚われた子どもの末路なんて、考えるまでもない。
けれど……恐らく今日も、故郷の妹は待っているんだろう。信じて、いるんだろう。
そんなひたむきな願い一つ、神とやらは叶えないのだ。
そんな事を思い、ルゼルは手を握り締めた。
国の中でも、比較的穏やかな気候と治安を保つ、小さな町が一つある。その町の片隅、道を歩く少女が一人。目の色は青。手にしているのは一枚の紙。
向かう先には、合剣ギルド寄り合い所。
紙にはこう綴られている。
《トヴァをさがしています。ほうしゅうは、はちじゅうはちラッド》