3.屋
娼妓宿の経営者である大鬼種の男は、当初こそ渋りに渋ったものの、提示した金額を倍に吊り上げたことに満足したのか、最終的には首を縦に振った。仕事上、トヴァにとって金銭での交渉事は馴れたものである。この悪世の時代において、人型をひとり始末するというのは、しかしありふれた沙汰ではない。頑丈な生命を止めるのは並大抵のことではない。そこいらの誰しもにでも勤まるようなものではないのだ。故に、この仕事はそれなりに金が動く。で、あるから、必然的に殺害依頼をそれなりにこなしているトヴァはそれなりに小金を貯めている。まっとうな生き方では稼げない程度には。そして、それなりに交渉を重ねているトヴァにとって、金での斬った張ったはやはりそれなりに得意ではあった。
当初の値段の倍というのは、実際的には安い部類だ。出会い頭の端金で渋ったことで、大鬼の男が相場を知らないことを早々に見抜けた。後は楽なものだ。適度に演技を組みつつ相手を誘導してやればいい。いい買い物だったとトヴァは満足して、それでも借りた部屋に戻る途中、窓の外がやや白んできているのを見てげんなりとした。まともな睡眠は味わえそうにない。
戸を開き、変異種の奴隷が部屋を出たときから変わらずちょこんと床に座っているのを見て瞬きをする。わざわざ寝ずに待っていたらしい。くつくつと笑みを漏らして近寄った。
「別段、起きていなくてもよかったものを」
ふるふると首を振り、
「おきゃくさまのあとにねるのは、だめなんです」
「そうか」座り込む奴隷の頭に手を置き、ややかさついた髪の感触にわずかばかりの嗜虐心を覚える。状況によっては金持ちの道楽に“消費”すらされるシュレイアに産まれ、汚れ、穢され、だがここまで純粋にものを述べてきやがる、この変な女の生き方そのものに。
だから、告げてやる。
「なあ、君。君の役目って、もう終わりらしいよ」
眼を細め、指先で髪を一房摘む。艶のない、癖のある黒糸。
「というより、僕が終わらせてやった」
すぐには理解しないだろうな、と予想した。違わない。女はほんの少し首を傾げた。トヴァが手を乗せているためだろう。
「おわり、ですか?」
「うん」
「でも、まだ、おやくめ、してません」
「終わったさ。君の大事なお役目とやらは、ついさっき僕がぶっ壊してきたところ」
「こわす?」
「意味がわからないだろ? 君の程度に合わせて喋っていないからね」
よくわからない、と文字で刻んだかのような表情で、それでも女はじっとトヴァの言葉の続きを待った。
「まあ要するにだ。君は、この店をクビになって、僕の所有物になったってこと」
「しょゆぶつ」
「所有物。ぼくのもん、ってこと」
「トヴァさまの」
「様はいらない。けど、そう」
しばし思案顔。十秒経って、
「まえも、ありました」
「は?」
「こういうこと、まえにも、ありました。こんどは、トヴァですか?」
己がはっきりと落胆するのがわかった。ああ、そういうことかよ畜生め。そりゃあそうだ。こんな場末にいるぐらいだもの。以前にそういう経験のひとつやふたつ、そりゃあしてるよな。
とん、とたなごころで女の額を押す。ほんのわずかな力で、女は簡単に転がった。あう、と小さく声を上げる奴隷を尻目に、トヴァは丸めて放ってあった外套をつかむ。中に手を入れて針剣帯を取り、一本抜き出した。肩越しに、手首だけで背後に放る。女の右足首、鎖を繋ぐ鉄の輪に針はぐさりと突き立った。
「ひぃっ」
好い悲鳴だ、とトヴァは思った。暗殺者などやっている手前、相手に痛みを与える手段と手法には事欠かない。鉄輪を突いた剣は、実のところ貫通して小指の先ほど女の足に刺さっている。そういうふうになるように投げた。
徹しの技術。まごうかたなき殺しの業。トヴァの持ち得る殺害手段の、おおよそ総て。
「君の飼い主は僕だ。お役目とやら、今後は僕にだけ尽くせ。そうすればまともに扱ってやる」
うずくまる女の前にしゃがみこみ、眼を見つめる。涙が浮かんでいた。痛みに耐性がない、というのは実にいい。それだけでこの可哀想な目の女を制御する術がいくらでも思い浮かぶ。
「しかし名前がないのは不便だね? 昔、仲がよかった長耳猫と同じ名をやろう」
トヴァは笑顔を浮かべる。持つものと持たざるもの、前者の“それ”で、後者の“これ”に。
「ルウ。君の名前は、たった今から野良だ」
ぱきり、と。鉄輪が割れて、掃き溜めの飼い猫は野良になった。