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いくさひめ

作者: 文月夕

 軍勢の先頭にその姿はあった。

 漆黒の軍馬にまたがり、ぴんと背を伸ばした姿は、一見して年若い乙女とわかる。重装の戦士たちに取り囲まれて、彼女ひとりが軽装だった。かろうじて胴を覆う薄い鎖かたびら、心臓を守るばかりの胸当てに、皮の小手とすね当て。兜すら被らず、高い位置で縛ったつややかな黒髪が、馬の尾のように背に流れている。

 血と土埃と汗の臭いに満ちた戦場にあって、その姿は場違いの極みでありながら、奇妙にしっくりと馴染んでいた。

 メルルス皇女、ラエラ・レイ=メンフィス。齢十七歳にして、兄皇太子が戦死した現在、メルルス皇帝の唯一の跡継ぎである。



 半年前、属国であったユストニア軍の突然の侵攻を受け、老齢の皇帝に代わり皇女の兄である皇太子が軍を率いた。ユストニアが反旗を翻したのは予想外であったはいえ、軍の規模で言えば倍ほども違う。生意気な新興国に灸を据えんと意気高く迎え撃ったメルルス軍はしかし、皇太子の戦死という最悪な結果を迎えることとなった。

 ユストニア軍の卑怯な戦術にまんまとはめられたのだ――と、かろうじて逃げ延びたわずかな兵は語った。

 初戦の衝撃が尾を引いたか、以来敗戦が続き、戦線は首都に迫る勢いとなった。

 そこに彗星のごとく登場したのが若き皇女ラエラ・レイである。

 無骨な鎧をきらって美しい装束に身を包み、きらめく白銀の剣を振り回し、先頭に立って戦場を駆ける皇女の姿に兵士は奮い立った。兄皇太子を失ったばかりの、年端もゆかぬ乙女に戦わせて、兵である自分たちが怯え竦むわけにはいかない。

 士気があがり、皇女のもとに全軍がまとまれば、そも数で勝るメルルスである。勝ち戦が続き、戦況はあっという間に攻勢に転じた。

 暁のエドゥーナ。メルルスの神話に語られる、勝利をもたらす女神の名で皇女が呼ばれはじめるまで、いくらも掛からなかった。

 エドゥーナは臆病者を嫌い、勇敢な男に祝福をもたらすとされる。戦場でいちばんの勇者となった若者に女神が寵を与える物語は、メルルスに生まれた少年たちが残らず憧れるものだ。

 いまも兵士たちの熱視線を浴びる皇女は、くっと顎をあげ、馬上から軍勢を見渡す。

 紅をひいた唇がゆるやかに弧を描き、すんなりと細い腕が腰の剣を引き抜いた。

 精緻な細工を施した銀の細剣が高々と掲げられ、昇ったばかりの朝陽を反射してきらめく。

「剣を取れ、勇敢なる戦士らよ! 暁の女神のもとに!!」

 野太い声を張り上げたのは、皇女の傍らに馬を寄せた、ひときわ屈強な騎士である。

 オオオオオオ――!! 兵士たちの声が地を揺るがし、抜刀された剣先が海の波頭のように揺れた。

「ラエラ・レイ皇女!」

「エドゥーナ!」

「我らが暁の女神!!」

 口々に呼ぶ声を浴び、皇女は剣を鋭く一振りした。

「……ゆけ!」

 高く発せられた命令に男たちはいっそう奮い立ち、地も凍るような雄叫びをあげながら突撃を開始した。


 ――後の世に言う「セガン平原の戦い」の幕開けである。


   *


 戦いは大勝利に終わった。

 メルルス軍はユストニア軍を散々に蹴散らし、指揮官を討ち取られたユストニアは散り散りに敗走した。メルルス軍はユストニアが布陣していた平原を踏み越えてさらに深く進軍し、戦を怖れてもぬけの殻となった村に陣を張った。ユストニアの王都までは、もはや早駆けで一日足らずの距離である。

 祝勝の酒が振る舞われ、見張り番を引き当てた気の毒な少数の兵士等を除いて、今夜も陣のそこここで賑やかな宴が催されていた。



「……っ、は、あ……」

 勝利を祝う喧噪が遠くに聞こえるなか、篝火の届かない物陰で、皇女は地に両手をつき肩を震わせていた。紅が剥がれ、かさついた唇は、吐瀉物にまみれて荒い息を吐きだす。

「っ、ぐ、ん……っ!」

 咳き込み、また背を丸める。胃の中身はとうになく、饐えた匂いを放つ胃液がぼたぼたと地に落ちた。

 己に命を捧げて死地に向かう兵士の背中、敵兵の憎悪に満ちたまなざし、自分に向かって突き出された槍や剣の血塗られた切っ先、軍馬に踏みつぶされた無惨な死体、首を掻き切られた敵兵のあげる血飛沫――戦場の記憶が脳裏にいくつも弾け、そのたびにラエラ・レイは身を震わせる。

「いや……やだ、こわい、こわいよ……死にたくない……っ!」

 頭を抱え、怯えて縮こまるその姿には、朝陽を浴びながら軍勢を煽ってみせた女神の気高さの片鱗もない。

 これが真実だ。女神などただの演出だった。帝王学を叩き込まれた兄皇太子とは違う、いずれは他国に嫁ぐ身として馬も剣も護身術の延長としてしか習得せずにきたただの皇女が、軍の指揮などできるはずがない。

 だが、意気消沈した軍を奮起させるためには、兵士等に火をつける強烈な光が必要だったのだ。

 女神を演じることを請うた側近の求めに頷いたことを悔いてはいない。けれどラエラ・レイにとって、戦場はいつまでたっても恐ろしいばかりだ。

 何度かえずいて胃液をすっかり吐き出し、皇女はおぼつかない手つきで腰に着けた水袋を開けた。口を濯ぎ、残りを頭から浴びる。ぽたぽたと顔から水が落ちて、吐瀉物を押し流した。

 落ちる水に涙が混じっていることを知る者も、誰もいない。

「あと、少し、もうちょっと、がんばる、がんばる……っ」

 呪文のように呟き、ラエラ・レイは色を失った唇を、きつくかみしめる。

「…………ルゥ……っ」

 縋るように祈るように呼んだ名もまた、誰の耳にも届かなかった。


   *


 きゃあきゃあと子供らははしゃいで駆け回る。

「ラーラ、ラーラ、まって! まってよ!」

「ルゥ、おそーいっ」

 ぴょんぴょんと楽しげに跳ねる黒髪の少女に、息を弾ませた赤毛の少年が追いついた。年頃はいずれも十ばかり。

「父様のお馬にこどもが産まれたの! みにいこう?」

「うんっ」

 手を取り合って駆け出そうとした二人をひきとめたのは、風に乗って届いた呼び声だった。

「ルーク――! どこなの――?」

「あ、母様! は――い、いま行きまーす!」

 大声で返事をした少年は、すまなそうな顔で傍らの少女を振り返る。

「ごめんね、母様が呼んでるから、もう行かなくちゃ」

「お馬のこどもは? とっても可愛いのに」

「明日! 明日、みにいくよ」

「やくそくよ?」

「うん」

 やくそくのしるしだよ、にっこり笑った少年が、少女の頬にキスを贈る。

 やくそくね! 頬をバラ色に染めた少女が、少年の頬におなじものを返した。


 ――遠い、遠い、幸せな日の記憶。


   *


 激しい雨の降る夜だった。

 結い上げた髪に挿された大輪の花が、強く吹く風に揺れる。つまらない行儀作法の授業がようやく終わり、長い衣装の裾を大胆にさばきつつラエラ・レイは私室に向かっていた。こんな姿を講師に見られたらまた叱られると内心で舌を出しつつ、この雨では近道も無理かと中庭に視線をやって、皇女はその目を大きく見開いた。

「ルゥ!?」

 ためらいなく雨の庭に駆け込む。ざあざあと降る雨に打たれ、ずぶ濡れで佇んでいた幼馴染の青年が、緩慢に振り返った。

「ラーラ……」

 その手から落ちた羊皮紙になにが書かれていたのかを確かめる暇もなく、

「ラーラ……!!」

 強く引き寄せる腕に抱き込まれ、皇女は息を呑む。

 互いに子供だった頃にはよくこうして屈託なく触れあっていた。けれど、いつしか少年は青年になり、少女は乙女になって。

 許嫁という言葉の意味も、もう知っている。

「ラーラ、ラーラ……」

「……ルゥ……? 泣いているの?」

 青年のぐっしょりと濡れた髪をラエラ・レイはそっと撫でる。

「ルゥ、ルゥ、どうしたの、大丈夫、ねえ……」

「ラーラ、ああ、ラーラ」

 細い身体を痛いほど強くかき抱き、幼馴染は呻くように絞り出した。

「――きみが好きだ」

 その告白はこんな風に苦しげに告げられるものではなく、定められた関係を確かめる言葉として、遠くない将来に優しく贈られるはずだったものだ。

 ざわめく胸に呼吸を奪われながらも、皇女は頷いた。

 どんな風に告げられようとも、答えがふたつあるはずもない。

「わたしも。わたしも好き、大好き」

 にわかに上がったラエラ・レイの体温とは裏腹に、つめたく冷えた青年の腕が、拘束の鎖のように胴を締めつける。


 ――はらりと、花が、落ちた。




 翌朝、私室とは違う天井の模様をぼんやりと見上げながら遅く目覚めた皇女が、半狂乱で己を探し回っていた侍従から聞かされたのは――

 属国ユストニアが人質としてメルルス帝国に差し出していた第二王子、ルシウス=フェルディナンドが、あろうことか皇帝を暗殺せんとし、身を挺して庇った皇后を殺害。そのまま逃亡したという知らせであった。

 ほどなくしてユストニア軍が宣戦布告もなく国境の砦を攻め落としたという報が帝都にもたらされ、帝国メルルスとユストニア王国は戦闘状態に突入した。

 ただちに大軍を率いて国境に向かった皇太子の戦死が知らされたのは、これからわずかに十日後の話である。


 帝国始まって以来の危機に、立て続けに母と兄を失った若き皇女が軍勢の旗頭として立ったのは、それからさらにふた月を経た日のことだった。


   *


 メルルス軍とユストニア軍はいよいよ王宮の城壁を挟んで対峙した。

 籠城戦は城側が圧倒的に有利である。常套手段の兵糧責めも、王宮の備蓄がそうそう尽きるとも期待できず、むしろ本国から遠く離れた地で大軍を維持する必要のあるメルルスに兵糧の不安があった。

 とはいえ、現在のユストニア軍に、王宮を完全に包囲したメルルス軍を撃退するほどの余力がないことも自明である。

 戦況が膠着の様相を見せ始めて数日後、天幕で寝んでいた皇女は、かすかに聞こえる笛の音に身を起こした。

 メルルスの楽器にはない、細く物悲しげな音色。

 日没をだいぶ過ぎ、周囲はとっぷりと暗い。皇女はそっと天幕を抜け出し、見咎めた兵に適当な言い訳をして陣を離れた。夜襲はここ数日なく、あちらこちらに立つ見張りの兵士の緊張感もまるで緩いものだ。

 細い音色と星明かりを頼りに林に踏みいる。ほんの数歩入れば、そこはもうほとんど完全な闇だ。

 笛の音がやんだ。

 皇女は立ち止まり、深く息を吸うと、静かな声で呼ぶ。

「そこにいるの。……ルシウス=フェルディナンド」

 林の奥でぽっとほのかな明かりが灯った。

「――ラエラ・レイ皇女」

 覆いをずらしたランタンに下から照らされ陰影の強調された顔は、それでも見まがいようもなく、幼い頃から宮殿でともに過ごした青年その人だった。

 数歩の距離を置いて、二人は対峙する。

 剣も槍も――触れようとする手も、届かない距離。

 うたうように、皇女は言う。

「よくも私の前にのこのこと顔を出せたものだ。母上と兄上を殺した悪魔」

 うすく笑って、王子も応えた。

「その皇后と皇太子がかつて我が母であるユストニア第二王妃を謀殺したこと、よもや知らぬとは言わせない。メルルス皇帝の寵愛など、我が母には呪いでしかなかったというのに」

「王妃を差し出してまで王国の存続を我が父に乞うたのは、おまえの父王ではないの」

「その父を退位させ、兄の継承権を奪い、あなたと娶せた私を傀儡の王とし、我が王国を乗っ取るつもりだったのは誰だ。あなたの父皇帝ではないか」

「きれいごとを。それが政治というものでしょう」

 ゆがんだ笑みを浮かべたまま、奇妙に穏やかな口調で、二人は互いを責める言葉を投げつけあう。

 一歩。

 ――一歩。

 口をひらくたびに距離が詰まる。

 息がかかる近さで、王子が初めて表情を変えた。

「……殺してやりたい」

 泣き出す寸前のような苦しげな顔を見つめ、ラエラ・レイはうっとりと微笑んだ。

「わたしも」

 白い指が、王子の血の気の失せた唇をなぞる。

「あなたを私の手で殺してあげたい。そのためだけにここまで来たの……」

「――ああ、ラエラ・レイ、ラーラ、エドゥーナ」

 その手を取った王子がふいにひざまずき、敵国の皇女を、母の仇の娘を恭しく見上げて、指先に口づけた。

 じゃらり、鎖の音に、ラーラセラは目を眇める。ルシウスの手首には鉄の枷が嵌められ、太い鎖が垂れ下がっていた。赤黒く手を汚し、鉄錆のような臭いを放つものは乾いた血だ。

 ――まるで逃亡した囚人のような姿だ。皇后を殺害し皇帝に傷を負わせ、ユーファネアでは英雄であるはずの第二王子が。

「僕の女神」

 口づけたその手と、体側に垂らされていたもう片手を引き寄せ、己の首に沿わせて、ルシウスは懇願する。

「どうか僕に、この悪魔に裁きを」

「――ルシウス。ルゥ。わたしの」

 青ざめた唇をゆっくりとつり上げて、女神と呼ばれた少女は蛇のように笑う。

 王子の首に巻きついた指が、なまめかしくその輪郭を辿った。

「わたしの、悪魔」

 ルシウスの手がラエラ・レイの細い肢体を引き寄せるのと、ラエラ・レイが自らルシウスの胸に飛び込んだのと、どちらが早かったか。

 距離はもはやない。言葉もなかった。

 ただ奪い合うような口づけをかわす。甘く、激しく、熱を帯びた呼吸ばかりが、深い夜の空気を揺らがせた。

 林の下生えが、彼らの粗末な褥となった。


「――きみが好きだ」

「わたしも。わたしも好き、大好き」

 いつか言い交わしたのと同じ言葉が、炎のように互いを煽って灼いた。


   *


 火の手は明け方に上がった。

 のちにユストニア大火と呼ばれる大災害であった。後宮の火の回りはことのほか早く、国王夫妻ならびに皇太子一家は火に巻かれて、脱出もかなわず揃って焼け死んだ。検分役の言によれば、彼らの部屋は暗殺を怖れてか内外から厳重に施錠されていたという。後宮の奥、鉄格子の嵌まっていた一室だけは鍵が壊され、遺体も見つからぬままだったが、そこを誰が使っていたのか証言するものはいない。

 攻めいるに絶好の機を、しかしメルルス軍も活かすことはなかった。

 ときを同じくして、病がメルルスの陣を突如として襲っていた。のちの調べにおいて、食事に毒草が紛れていたと判明している。陣は呻き声と吐瀉物、排泄物で満ち、赤々と燃える敵国の王都を、メルルス兵の多くが悪臭ふんぷんたる天幕に横たわったまま眺めるばかりであった。実質的な指揮官であった老いた将軍は、屈辱のあまり寝台に横たわったまま舌を噛みきって自死したと伝えられる。

 王家を失ったユストニアは滅びた。ユストニアを併呑したメルルスもまた、病床にあった皇帝が直系の後継者のないまま斃れ、有力貴族らの内紛から急速に国力を失い、歴史の表舞台から消えてゆく。

 悪夢の夜に戦場から忽然と姿を消したメルルス皇女の行方も、いまもって杳として知れぬままである。


   *


 遠い異国の街の片隅に、奇妙に物腰の上品な若い夫婦が流れ着き、やがてひっそりとその生を終えたことを――男が金の髪、女が黒髪であり、それぞれが亡国の紋章と同じ意匠の指輪を生涯外さずにいたことも――。

 史書は黙したまま、語ることはない。


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