File seven お人好しすぎるのもどうかと。
そういうあんたも、相当お人好しだよ。
★☆
今日は家の中が静かだ。
そう思うのは、リオノーラが学校に行っていて店に来ないからである。とはいえ彼女が店に出入りするようになってまだたった二日ほどだ。『リオノーラがいないと静かだな』と思うようになるのがいささか早すぎる気もするが、それだけ彼女という存在が強すぎるのだ。
ただ、これからリオノーラは平日の昼間は学校、もしかしたら夕方には顔を見せるのかもしれないが、基本的には休日しか来ないだろう。
彼女がいないのが平常だったはずなのだが、なぜ『静かだ』と感じるのだろうか――。
「ありがとうございます、ありがとうございます、このご恩は一生」
「もうあんまり一人で平原を出歩かないでくださいね」
時刻は七時。朝一番に来たのはあの写真家の男性だった。よほどカメラが大事なのだろう、大切そうに抱えて店を出て行く。玄関で見送ったテオが、扉を閉めて室内に戻ってくる。男性が来るまで朝食の真っ只中だったので、エリオットが食卓を片付けている。
「さぁて、一段落だね……エリオット、後で買い物行くけど昼ごはんは――」
テオがそう言いかけた瞬間、ガラスの割れる音が室内に響いた。
「! ……エリオット!?」
床に落ち、粉々に砕かれたコップ。食卓の傍に意識を失って倒れたのは――。
★☆
「……あれ……」
気付くとエリオットは、自室のベッドに寝かされていた。意識が途切れた覚えさえないのだが、どうしたことだろう。やたらに視界がぼやけ、思考も明瞭ではない。
「目が覚めた?」
すぐ傍でテオの声がした。エリオットがそちらに顔を向けると、室内に一つだけある木の椅子にテオが座っている。
「テオ……俺、どうして……?」
「昨日の魔物だよ。もはや蛇とは別の存在だといっても、元々あれは蛇だったんだ。その蛇の魔物に攻撃されて、毒の有無を疑わなかった俺が迂闊だった」
苦々しいテオの言葉の半分だって、いまのエリオットの脳では理解できない。
「さっきお医者さんに来てもらって、処置はしてもらったよ。相当遅効性の毒だったんだね……ま、咬まれてから丸一日経っても血清が効くなんて、医学の進歩には恐れ入るね」
「毒……」
「こういう時、俺にも医療の心得があればと思うよ。……ごめんね」
急にしおらしく謝るテオが妙で仕方がない。
ようやっと自分の状況がエリオットにも把握できるようになってきた。要は蛇の毒にあたり、倒れたということだ。倦怠感に吐き気、発熱。そういえばテオが傷を塞いでくれたのに傷口がずっと痛むなとか思っていたが、まさか魔物も毒を持っているのだとは考えもしなかった。
テオは治癒系魔装具を使える『魔装具に詳しい人』というだけで、別に医者ではないのだ――。
「とにかく、今日は一日安静にしておくこと」
「ああ……」
「……にしても、ひとりにするのはちょっと心配かな。俺も依頼が来れば外に出ることになるだろうし……君さえよければ、オースティン伯爵に連絡をしようかと思ってるんだけど」
オースティン伯爵、という単語を耳にした途端、エリオットはぱっと閉じかけていた目を開いた。そして首を振る。
「い、いい。連絡なんてしなくても……」
「けどねぇ、ひとりじゃ何かと不便でしょ?」
下町の一般庶民が大貴族を呼びつけるとはどういうことであろうか。両親であるという事実があろうと、ちょっとおかしいことだ。もっとも、テオから連絡がいけばほいほい来てしまいそうな人たちであるから困る。
「子供じゃないんだ、大丈夫だから……」
「そう?」
「……リオにも、言わないでおいてくれ。あの子に……心配かけたくない」
テオはふっと笑い、こつんとエリオットの額を小突く。
「あんま意地張らないようにね、お兄ちゃん」
一度部屋を出て、熱冷ましのための氷枕などを用意して戻ると、エリオットは既に眠ってしまっていた。意識をなくしたと言ったほうが正しいだろうか。
氷枕をエリオットの頭の下に滑り込ませたテオは、軽く息をついて天井を仰ぐ。
「さて、今日はエリオットなしで依頼かぁ……ちゃんとやらないと、怒るよねぇ」
その時、はたとテオは何かに思いついた。
「……そうだ、エリオットの面倒見てくれそうな人がもうひとり」
★☆
「っう……」
気付くとエリオットは小さく体を丸め、毛布の中で縮こまっていた。そういえば、空調がしっかり利いているはずなのに寒くて仕方がない。
喉が渇いている。毛布の中から手だけ出して、サイドテーブルを探る。目を閉じる寸前にテーブルにテオが水を置いてくれていたのを、なんとなく見た気がするのだ。指がコップに触れる。のそのそとベッドの上に身体を起こし、震える手でコップを持って水を口に含んだ。そうして空になったコップを元の場所に戻し、再びエリオットは倒れこむ。
氷枕がすっかり温くなっているので、かなり眠っていたのだろう。体調が良くなったようには感じられない。相変わらず頭はぼんやりするし、地面が揺れているように視界が悪い。
テオはいないのか。仕事に行ったのか、リビングか、作業場か。確認に行く気力もないので、おとなしくしていることにする。
扉がノックされた。ああなんだ、家にいたのか。答えないでいると、扉が開く。毛布に顔をうずめているのでテオの顔は見えない――。
「起きているんなら返事くらいせんかっ!」
無茶言うなし。
……ていうか。
「ちょっ……な、なんであんたが!?」
一瞬のうちに気分の悪さは吹き飛んだ。なんとそれはテオではなく、テオの天敵とでも言うべき警備軍のイザードだったのだ。
それだけではない。イザードは盆を持っており、その上にはオートミールらしき料理があったのだ。
「な、なに、して……」
急に起き上がったせいか、視界が眩む。倒れかけたエリオットを、イザードが支え起こした。
「この馬鹿者! 毒をくらっている奴が急に動くな!」
「う……」
イザードの言葉はもっともである。力を抜くと、イザードもエリオットを支えていた手を離す。
「テオに嵌められたのだ」
「は? テオ、に……?」
「『営業届にサインするから来て~』とか言うから来てみれば、エリオットの看病してやってと言って出て行きおった!」
……色々突っ込みたいところがある。テオがイザードに看病を頼むところからして不思議だ。それにテオの言葉でほいほい来るイザードもイザードだし、看病してやってくれと言われてしてくれるところも相当お人好しだ。
「……まったく。ひとりでいいって言ったのに……」
エリオットの呟きに、イザードは溜息をつく。
「事情は軽く聞いたが、おそらくテオは責任を感じているんだろう」
「なんの責任?」
「お前の不調に気付けなかった責任だ」
不調に気付かなかったも何も、自分でも気づいていなかったのだが。
「……テオは、自分絡みで誰かが傷つくのを嫌うからな。もっとも巻き込まれたお前からすれば、虫のいい話だろうが」
「……」
「そんなことはどうでもいい。それよりもこれを食べろ。もう昼だ、何か腹に入れておけ」
「あ……有難う」
なんというか、本当にいい人だな、イザードは。
オートミールなど食べるのはいつ以来だろう。傭兵の中に健康を重視して粥など食べる者はいなかったので、風邪でも引いたときに食べるくらいだったのを思い出す。
見た目や匂いは完璧。しかしイザードの手料理を食べることになるとは、妙なものである。イザードは一人暮らしらしいし、自炊もしているだろうから味は良いのかもしれない。
――それにしても、こんなところにいていいのだろうか。仮にも警備軍が。
「イザードって……暇なのか?」
つい尋ねると、イザードはふんと鼻を鳴らした。
「ほっとけ」
おいそこは否定するところだろう。
イザードに会ったら聞きたいことがたくさんあった。テオとの関係。テオは何者なのか。先代カーシュナーとはどんな人物なのか。テオの過去や妙な魔術について――何から聞いていいのか分からず、結局エリオットは口を噤んでしまった。黙って食事を口に運ぶ。……味付けも丁度いい。
「何か聞きたそうな顔をしているな」
「……え?」
イザードは憮然として腕を組み、エリオットを見下ろしている。
「テオのことか?」
「……ああ」
「本人に聞いたことは?」
「ない……」
「だろうな。こういうことは、テオ本人から話したほうがいいと思うのだが」
それを聞いて、エリオットは我に返った。いま、自分はテオの留守を狙って、テオの秘密を知る人物からテオが秘匿している事実を知ろうとしている。それが急に卑怯なことに思えてきたのだ。テオのことだから何か考えている。話してくれないのは、いまのエリオットにその情報が必要ないから。時々翳った瞳を見せるテオの過去を、本人の許しもなく聞きたくない。
「……分かった。その話は、本人から直接聞く」
「えらくあっさりだな。いいのか?」
「そりゃ、知りたいけど……それより、テオを信じることにする。本当に話したくないことだったら……あんたの口から聞くの、テオに悪いし」
「――なるほど。良い奴だな、お前は」
ふっと笑ったイザードは、やっぱり近所の気のいいおじさんにしか見えない。
エリオットはイザードを見上げる。
「それより気になるのは、あんたのほうなんだけど」
「ん?」
「あんた……テオを追いかけまわしているけど、捕まえる気ないだろ?」
営業届なしで営業している者は普通逮捕である。しかしイザードはテオを定期的に追いかけまわすだけでそれ以上何もしようとしない――店に乗り込んでくることさえない。
テオの様子を見に来ているとしか、考えられないのだ。それがイザードの意思なのかどうなのかはともかくとして。
イザードは笑みを引っ込めた。
「……さっきまでふらふらだった割には、頭の回転が速いな」
「これ美味しかったから、なんか元気出た」
「そうかいそりゃどうも」
エリオットはオートミールをちびちび口に運びながらという、少し締まらない状態でイザードの話を聞く。
「テオのやり方が違法であることには違いないが、お前の言う通り私はあいつを捕まえる気はない……ただ様子を見ているだけだ」
「誰の考えで?」
「……私自身だ、と言いたいところだが……テオの動向を気にしているのは、政府の上の方だ」
「……成程、監視ね」
エリオットはすっと瞳を細めた。そこには獲物を狩るかのような鋭さがある。イザードは軽く肩をすくめた。
「だが勘違いをするな。私はむしろテオの動向を隠しているのだ。政府のせいで、またテオが辛い目に遭うのを見るのだけは嫌だからな」
従順に指示に従って監視をしているように見せかけて、実はテオを守っている――そのくらい、テオの行動というのは政府が把握しておきたいものなのか。それくらい、イザードは本気でテオを守ろうとしているのか。
エリオットは目を閉じた。傭兵という集団で生きてきた彼にとって、『敵か味方か』ははっきり把握しておきたいところであった。このイザードはエリオットの中で微妙な立ち位置にいたが、いま認識した。イザードは味方だ。
「私がこれをお前に打ち明けたのは、あのテオがお前を信じたからだ。――しかし、覚悟はしておけ。テオという人間は、政府が手に入れたくて仕方ない存在だ。その傍にいるからには、いくらお前がオースティン伯爵の実子であるとしても、お前にも干渉があるかもしれん」
政府が手に入れたい存在――。
それは何においてか。あの妙な魔術か。それとも魔装具をいじることができる技術か。それとも出生に何か秘密があるのか。
イザードの話を聞いて少しは謎が氷解したかと思えば、さらに深まっただけのようだ。
まだ、何も分からない。
――というか、なぜエリオットがオースティン伯爵の息子であることを知っているのだ、この男は。
「……まあ、その話はあとでもいいだろう。とっととそれを食べて、横にならんか」
「あ、ああ……」
エリオットは頷き、食事の方に意識を集中させたのだった。
★☆
ドンドンドン、と力いっぱい何かを叩いている音で再び眠りに落ちていたエリオットは覚醒した。少し頭をあげてみると、その音は部屋の外から聞こえている。玄関だ。
自室から出てリビングに行ってみる。少々足元がふらつくが、歩く分には問題がない。リビングのソファにはイザードが腰かけ、居眠りをしていた。この音でも気づかないとは、警備軍失格という前に留守番として失格である。
そういえば部屋着のままだな、と思いつつもエリオットは玄関を開けた。すると、ひとりの少年が飛び込んでくる。
「カーシュナーさん! エリオットさん!」
「アレンか。どうしたんだ……?」
近所に住むアレンだった。アレンはエリオットに詰め寄る。
「大変なんだ! 行商隊が城門の外で魔物に襲われて、引きずられた魔物が街の中に入ってきそうなんだよ! あれじゃ下町も危ない!」
エリオットは目を見張った。首都は堅牢な城壁と、強力な結界系魔装具によって守られている。そのために魔物が首都コーウェンに侵入してくることはまずないが、それでも魔装具は人工物だ。結界が綻んでいたのかもしれない。行商隊が首都の中に逃げ込もうとすれば、それにしがみつく魔物もじわじわと結界を越えることができてしまう。
「警備軍に連絡は!?」
「もう呼びに行っているけど、到着には時間がかかるよ! 魔物は倒せないし怪我人は多いしで、人手が足りないんだ! ねえ、エリオットさんも来てよ!」
「分かった」
エリオットは即座に頷き、剣を引っ掴む。そこで、まったく目を覚まそうとしないイザードに視線を送る。起こして事情を話すべきか。――いや、そんなことをすればエリオットは間違いなく引き止められてしまう。救援を頼まれた以上、じっとしていることなどエリオットにはできない。
テオは――随分長い外出だが、依頼が長引いているのか。なんにせよ、騒ぎを聞きつければテオも来てくれるだろう。
エリオットはコートだけ羽織って、外に飛び出した。
下町から繁華街へと至る長い坂を駆け上がり、城門へと到着する。いつもは賑わうこの往来も、今は騒然としていた。城門の内側には大破した大型の車、そして怪我をした大勢の行商人。その治療をする一般民。城門の外の草原では、まだ取り残されている行商人たちを助けようとする者、そしてそれを妨害する鳥型の魔物。
自分のするべきことは何か。エリオットは即座にそれを確認した。応急手当の手も足りないが、それよりもまず根本的な問題がある。魔物を倒すことだ。草原で怪我人たちの救助をしている者たちはみな素人。生活系魔装具による牽制程度しかできていない。
エリオットは剣を抜きざまに城門から飛び出した。結界の庇護がなくなることなどまったく躊躇していない。
果敢に魔物の牽制をしていた男性の前に飛び出したエリオットが、男性を庇いながら言う。
「ここは任せて、貴方も逃げろ!」
「あ、ああ!」
男性が慌ててその場を逃げ出す。エリオットは空を飛ぶ魔物に視線を向けた。
魔物の鋭い鉤爪が襲い掛かる。それを避け、剣を下から上へ振り上げた。魔物の頭が斬りおとされる。返り血を巧みに回避したエリオットは、改めて周囲を見る。
魔物は残り五体。一体一体はそこまで強くもないが、ここまで数が多く、かつ民間人を守りながらの戦いとなるとかなり苦戦するだろう。加えて、エリオットは本調子ではない。
(それでも、やるしかないんだから)
もうこれ以上、怪我人は出さない。
負傷して身動きが取れなくなっている行商人を襲おうとした魔物の翼を、エリオットが切り裂く。けたたましい悲鳴と共に墜落した魔物に、容赦なくとどめを刺した。
――あと四体。まだ動ける。
身を翻す勢いそのまま、剣を振るう。すぐ真後ろまで接近していた魔物を斬るつもりだったのだが、手応えがない。仕損じた。少々距離感を間違えたようだ。
空ぶって一瞬無防備になったエリオットめがけ、魔物が鉤爪を振り下ろす。身を沈めてそれを避け、右足を跳ね上げる。魔物を怯ませた瞬間に、剣が一閃される。
――あと、三体。まだ……動ける。
次は上空を旋回している一体。かなり高い場所にいるが、エリオットならば跳躍して届く。
いつも以上に力を溜め、エリオットは地面を蹴った。助走なしの跳躍としては規格外の高さであったが、それでもいつものようにスムーズな跳躍ではない。空中で態勢が崩れる前に、魔物を切り捨てる。その死体とともに地に着地したエリオットは、大きく息を吐き出した。
――あと、二体……。
剣を杖のようにして立ち上がる。視界が揺れ、真っ直ぐ立っているのかが自分でも判別がつかない。
(くっ……たかだか、魔物六体相手にするだけで、このざまか……)
魔物の威嚇声がする。目の前だ。いつの間にここまで接近されたのか。
剣を地面から引き抜く。重いな、こんなにこの剣が重かったとは。いつも片手で持つ剣であるが、このときだけは両手で。
一歩前に踏み出そうとした足が、自然と折れた。がくんと一気によろめいたエリオットの身体は、後方へ倒れる。
その無防備なエリオットに、魔物が襲い掛かる――。
『――shield!』
突如として、響くその言葉。
エリオットを切り裂こうとしたその凶悪な爪は、一瞬のうちにそこに組み上がった透明な壁に阻まれた。結界系魔装具が創り出す結界とほぼ同じものである。
地面に倒れ込む寸前、誰かがエリオットの身体を受け止めた。その華奢ながらしっかりした腕に、エリオットは覚えがある。
『gale』
続けて放たれた声。同時に巻き起こった旋風。
強烈な疾風は魔物を二体巻き込む。魔物は跡形もなくなるまでに切り刻まれ消し飛んだ。その容赦のない攻撃に、周りにいた人間たちも唖然としている。
「て……テオ……」
エリオットがなんとか身体を起こすと、彼の身体を支えたままのテオはにっこり微笑んだ。
「……まったく、無茶するよ。無事かい?」
「ああ……」
テオは平原の惨状に目を向けた。大破した車に大勢の負傷者、そして彼らの血。酷い有様であるが、最たるはテオが放った風の魔術によって荒らされたためであろう。
「――しまった、眼鏡を忘れてた。魔装具と違って、加減を間違えるとすぐこれだ。抑えないとね……」
「あんたは……その魔術を隠したがる割に、あっさり使うんだな……」
エリオットの譫言のような声に、テオは肩をすくめる。
「俺のくだらない秘密より、君の命のほうが大切に決まってるよ」
「……教えてくれよ。テオの、その秘密……」
なんとか身体を自力でおこし、テオに向きなおる。いまここで聞くことでないというのは分かっているが、いま聞かなければきっとまた濁されてしまう。
「俺はあんたの隣で、あんたを手伝うって決めたんだ……妙な気を回されて、秘密事をされるのは気に食わない」
「……そうだね、悪かった」
テオは神妙に頷いた。
「一言で済む。俺は、魔装具なしで魔術が使える」
――確かに、それは聞いてしまえば簡単なことであった。