Other file 【1】
『何をしているッ、テオッ!』
薄ぼんやりした意識の中、遠くの方でそんな声が響く。ああ、イザードの声だ。いつものようにうるさい足音と共に、こちらへ駆けてくる。だから、体重減らしてくれないとうちの床、抜けちゃうんだってば。何度も言っているじゃない――そう言いたかったのだが、声が出ない。
そういえば――何をしているのだと怒鳴られたが、俺は何をしていたのだろう?
『テオ、しっかりしろ馬鹿者ッ』
しっかりしろと言われながら馬鹿者呼ばわりされるって、相変わらず酷い人だな。
身体が起こされる。床に倒れていたのか、俺。にしても、俺の首を支えるようにそっと持ち上げるなんて、気持ち悪いよイザード。いつも無造作に襟首掴んだりするくせに、妙に優しい。
左手首に強い圧がかかった。イザードがそこにハンカチを押し当てている。みるみる真っ赤に染まっていくハンカチ……鮮血の赤。
その色を認識したとき、束の間失われていた嗅覚が蘇った。強い鉄のにおい。視界も正常に戻ってくる。キッチンのフローリングが一面黒くくすんで見える。それは血の赤をたっぷり吸い込んでしまったからだ。左手から滴る血が、辺りに赤い池を形成していた。
ああ――俺は。
『古典的に手首なんぞ切りやがって……! 気の迷いを起こすな!』
さすが警備軍。イザードの応急処置の手腕はたいしたものだ。けれど、イザードが来るまでに流した俺の血は相当な量だ。このままではいずれ、失血死する。
分かっていたけれど――むしろ心は穏やかで。
『……気の迷いなんかじゃ、ない』
『なに……!?』
『俺は……俺が関わった人みんなを、不幸にして、死なせてしまう……』
目を開けても、イザードの顔はぼやけてしか見えない。
『俺を守ろうとしてくれた父さんと母さんも死んだ……助けてくれたカーシュナーも……次は、イザードかもしれないよ……?』
『そんなわけあるかぃッ!』
脅すつもりで言ったのに、とんでもない大音量の否定が返って来てしまった。
『お前の両親もエルバートも、お前を生かすために命を懸けたんだ! お前は三人分の命の上に生きているというのに、どうして助けられた命を大事にしないッ』
『でもっ……もう、どう生きていいのか分からないんだ……』
『人のためになってみろッ! エルバートと同じように……まずは周りにある小さなことからやっていけばいい』
エルバート・カーシュナーと、同じように――困っている人々を助けて、小さな幸せを探す。
ずっと傍でカーシュナーのその様子を見てきた。カーシュナーに助けてもらった下町の人たちはみんな嬉しそうで、それを見るカーシュナーも嬉しそうだった。
『偽善と呼ばれても、僕はこれが一番楽しい』――そう言っていたから。
同じことができるだろうか。――いや、同じじゃなくてもいい。俺は俺にできるやり方で、人を助けられるだろうか。
そうすればとりあえず、生きる意味は見つかる。
『生きて……いいのかな』
『当たり前だ馬鹿者めが』
イザードは俺の身体を支えて立ち上がる。どこに行くのだろう、いや病院だろうな。多分輸血が必要だし、そんな魔装具の揃っている大型病院に下町の人間である俺が入れるわけがない。が、イザードがいれば別だ。仮にもイザードは政府の人間だし、下町の人間を連れていようが問題はないだろう。
……生きて、いいのかな。
★☆
「……」
悪夢を見たときって、もっと冷や汗かいて飛び起きるもんじゃないかなぁ――なんて我ながら呑気なことを思いつつ、ゆるゆると覚醒する。エリオットは全否定するけれど、これでも寝起きは良い方だ。ちらりと目線を上げて卓上の時計を見ると、それは早朝の五時を示していた。
朝の五時とか、早起きなエリオットでもまだ起きてないよ。それに冬だからまだ太陽は昇っていなくて、夜のように暗い。間違っても「爽やかな朝」ではない。寒いし。
ベッドの上に身体を起こす。ああ、そういえば昨日は珍しく部屋のベッドで寝たんだった。いつも魔装具の修理やらなんやらで忙しく、かつ部屋を移動するのも面倒だったので、作業場のソファで寝ていた。が、なんとなく昨日は自室に戻ってみたのだ。
だからだろう。あんな昔の夢を見たり、こんな早朝に目が覚めたりしたのは。
すっかり身体がソファに慣れちゃったんだなあ、と思いつつ、なんとなく視線を左手首に落とす。もうそこに、あの時の傷はなかった。現代医学で消せない傷などないのだ。
それにしても――。
「……家族、か」
無意識のうちに、その単語が口から飛び出す。
失いたくなかったのに失ってしまった、俺の家族。
ほしいなんて思ってなかったのに手に入れた、エリオットの家族。
血の契りは簡単に断ち切れない。だからこそ大切にしてほしい――エリオットにとっての父と母というのは、彼らしかいないのだから。
どうしても、エリオットが羨ましいと思ってしまう――。
扉を開けて廊下に出る。途端に冷気が身体にまとわりつき、思わず眉をしかめてしまう。まだまだ春は遠いようだ。
隣のエリオットの部屋は静まり返っている。やっぱりまだ寝ているんだろう。
仕方ないな、今日は特別に俺が朝ご飯でも作ろうか――。
そんなことを思いつつリビングに入り、キッチンのほうに視線を向けると。
「あ」
エリオットはもう起きて朝食の準備をしていたというオチでした。
「……いや君、早起きしすぎでしょ」
「なにが?」
「なんでもないですよーだ」
「なんだそれ」