File final ようこそ、万屋カーシュナーへ。
「う、うわああ!?」
魔物が飛び掛かってくる。足を取られて転んだ青年は、悲鳴をあげることしかできなかった。
食われると覚悟したが、衝撃は襲ってこなかった。驚いて顔を上げると、目の前にひとりの男が立っていたのだ。血濡れた剣を左腕に持ち、右腕は肩から先がない。茶色の頭髪を高く結い上げた、背筋の張った男だ。
「大丈夫か?」
「あ……ありがとうございます、イシュメル教官!」
すると、今度は銃撃の音が聞こえた。イシュメルに接近した魔物を、横合いから撃ったのだ。現れたのは警備軍の制服を着た中年の良く肥えた人物である。
「さっさと立たんか! 座ったままでは格好の標的だぞ」
「す、すいませんっ」
青年が慌てて立ち上がって武器を取り、駆け出す。それを見やって、イシュメルは苦笑を浮かべた。
「警備軍もまだまだ鍛錬が必要だな、イザード」
「元々戦闘職種ではないのだ、時間がかかるのは仕方なかろうが」
「それもそうだな」
「……にしても意外だったぞ、まさかお前が軍属に下るなんて。てっきり傭兵に戻るかと思っていた」
イシュメルは剣を地面に突き立てた。魔物の数は減っている、後はもう時間の問題だ。警備軍たちに任せても大丈夫だろう。
「傭兵団を組織するのは一朝一夕ではないのさ。それにこれからは、傭兵だなんだと言っていられる世界ではなくなる。できることをしようと思ったまでだ」
「ま、そのおかげでこっちは助かっている。お前が戦いの指南役を買って出てくれたおかげで、警備軍もなんとか戦力として数えられる程度になってきた。それに、お前がいれば傭兵どももうるさいことを言わない」
「クーデターに加担しておきながら、懲罰と称して仕事をくれたのだ。感謝しているのさ、彼らもな」
その時、耳鳴りのような甲高い音が響いた。だがこれは耳鳴りではなく、実際に誰の耳にも聞こえる音だ。空を見上げると、注意しなければ見えないような半透明のドームが出来上がっている。あれは首都コーウェン全体を覆う、結界系魔装具がつくり出す結界だ。
「今日の試験も無事終了だな。案外何とかなりそうじゃないか」
「最初はどうなることかと思ったがな」
――キースリーのクーデターが終了して、一か月ほどが経過した。
捕縛されたキースリーは、現在裁判にかけられている真っ只中だ。国中を混乱させ、人々の命を軽んじた罪は重い。近いうちに、それなりの罰が下されるだろう。
けれども、キースリーが指摘した『世界の魔物化』。エナジーが蔓延した死の世界は、実際に起こり得る可能性である。魔装具の利用を続ければ、いずれは彼の危惧した通りの結末に陥ってしまうだろうというのが、研究者やテオの意見であった。早急なエナジー節約策が必要だ。
皮肉と言えば皮肉だが、役に立ったのはキースリーが造らせた『魔砲』である。魔砲はエナジーを吸い上げ、溜め、放出することが可能だった。テオはそれを応用することを思いついた。
要は、大気中のエナジー濃度が高いときは魔砲でエナジーを吸い込み、濃度が低いときに少しずつ放出する。そういった『ダム』的役割を、魔砲にさせることにしたのだ。
しかしこれでは根本的解決にならない。魔砲も魔装具であるからには稼働にエナジーを必要とし、エナジーの源泉は活発化していく。
だからテオはさらに提案した。
『結界系魔装具を、徐々に停止させていかないか』と。
現状、エナジーを最も多量に使って稼働している魔装具は、都市を守る結界系魔装具だ。これをひとつ停止させるだけで、かなりのエナジーが節約される。人々の生活に根付きすぎた生活系魔装具を停止させるのは、もはや不可能。ならば少しずつでも結界を止めてみないか、と。躊躇う時間などないということを、頭の固い貴族たちも理解していた。そのため、テオの策は実行に移されることになった。
問題となるのは、街の外に存在する魔物だ。そもそも結界は、外の魔物を街に入れないための防衛機構である。それを取り払うとなれば、当然その対処も必要になってくる。
そこで立ち上げられたのが、『防衛隊』という役職だった。やることはいたってシンプル、街に侵入しようとする魔物の撃退である。
構成員は、警備軍の生き残りの大半。街の有志。そして、キースリーに従い行き場を失った傭兵たちだった。警備軍や住人は戦い慣れしていないし、傭兵たちは軍隊という組織に不慣れだ。まとめあげるのは難しいが、傭兵たちにも負い目がある。いまのところ、両者は協力して任務に当たっている。特に傭兵の魔物狩りの技術は、やはり何物にも代えがたい戦力なのだ。
防衛隊を率いる初代隊長はイザード。その補佐をしながら、戦いに不慣れな警備軍に戦術を教える指南役に就いたのが、イシュメルであった。
防衛隊と、結界系魔装具停止の指揮を執る――羽目になった――テオら魔装具技師の面々は、定期的に停止試験を行っている。時間を区切って結界系魔装具を停止させ、その間に防衛隊が街を死守する。これを繰り返して、いずれは完全に停止させる予定だ。まだまだ先のことかもしれないが、着実に結界は消えていくのだ。
この日の試験の結果は上々だ。随分と戦い慣れてきたと見えて、元警備軍の面々も元傭兵の面々も損傷はない。作戦終了を伝えてみなを解散させたところで、城門傍にある塔からテオが出てきた。そこに結界系魔装具の基部が設置されている。テオはそこで結界を操作するとともに、万が一の時のために自ら防衛する態勢も整えていたのである。
「や、お疲れ様。イザード、イシュメルさん」
「おう。しかしまあ、なんだって結界を消すたびに魔物が攻めてくるのかね。毎回そうじゃないか?」
「敵の城の門が開けられて跳ね橋が降りたら、普通攻め込むでしょ? それと一緒だよ」
テオは苦笑して、凝り固まった肩をほぐすように腕を伸ばした。
「魔物はエナジーに惹かれるみたいだから。都市ではどうしても魔装具の消費によって濃度が高まるから、仕方ないといえば仕方ない」
人間と同じように、魔物たちも元の動物に戻せないか。テオは幾度もそれを試したが、すべて失敗に終わった。元々人間以外の動植物は、エナジーの影響を特に受けやすいのだ。それだけ結びつきも強く、ちょっとやそっとで改善はしない。いまは討伐するしか方法がなかった。
そのことも背負い込んで、どうにかしたいとテオは思っているらしい。面倒臭がりな癖に実は人一倍生真面目なテオに、イザードが軽く拳骨を食らわす。
「ちょ、いったぁ。なんで殴るの?」
「辛気臭い顔をしていたからだ」
「カーシュナーにも殴られたことないのに」
「エルバートに殴られていたら逆に驚くわ。あの貧弱男、きっと殴ったら自分の手の甲の骨が折れるくらいだぞ」
それはさすがに大袈裟だとテオが苦笑したが、真にうけた人間が一人。
「エルバートはそんなに虚弱体質だったのか!?」
「例えだ馬鹿者! 信じるな!」
真面目というかずれているというか――戦い以外では妙に天然気味なイシュメルに、イザードの苦労も大変なものだ。元はと言えば、誤解を招く表現をしたイザードの自業自得だが。
「それはともかく、うちに寄って行きなよ。俺お腹空いちゃった」
「そういえばもう昼時か。では有難く寄らせてもらおう」
イシュメルの言葉に、イザードも異論はないようだ。三人で、繁華街から下町へ下る坂道を歩いていく。
人々の姿はすっかり元通り――とは言い難い。クーデターの時に倒壊した建物や薙ぎ倒された木などが多く、みなでせっせと復旧作業に勤しんでいた。建物や木ならいいが、失った命は返ってこない。中には親を失った子、恋人を失った者、友人を失った者もいるのだ。その傷を癒すには、時間がかかりそうだった。
大統領アレクシスは、クーデターを防げなかったことの責任を取り、辞職する意向を固めている。元々老年で、今期限りと前々から決めていたようだ。しかしそれも、復興が一段落するまで先延ばしにしている。次期大統領を誰にするかという話もうやむやになっているし、何よりアレクシスの支持率はここに来て急上昇していたのだ。市街戦で、民衆の先頭に立って戦ったのが評価されたが、本人はなかなか複雑らしい。
路地の向こうから、軽やかなヴァイオリンの音が聞こえてきた。おや、と思って路地を曲がってみると、そこにいたのは想定通りの人物たちだった。
ヴァイオリンを演奏する若者を取り囲むように、幼い子供たちが地べたに座っている。その中に紛れていた黒髪の少女が、こちらに気付いて立ち上がった。
「テオ!」
「リオノーラ、それにイアン。今日も来ていたんだね」
ふたりが相手にしていたのは、下町で孤児となった子供たちだった。彼らを一所に集めた孤児院を、ふたりはよく訪れては一緒に遊んだり、時にこうしてイアンが演奏してくれたりしているのだ。
上流階級区の被害は尋常ではない。多くの貴族たちが傭兵たちによって殺され、貴族社会は大混乱している。その中で、行方不明だったイアンの両親であるコールマン男爵と夫人が無事だったのは不幸中の幸いだった。というより、ナディアらと同じく研究塔に捕らわれていたのである。
次期大統領の候補として有力なのは、実はオースティン伯爵だ。今や次期大統領候補の娘であるリオノーラは、積極的に戦災孤児たちとの交流を持っている。心の傷が癒えればと、ただその一心なのだ。それに共感してくれたイアンもまた、その活動に加わっている。ふたりのおかげで、子供たちは笑顔で遊びまわるくらいには元気になってくれたのだ。
「うん。すごいんだよ、イアンのヴァイオリンを聞くとみんな元気になるの。音楽の力って素敵だよね。っていうかこの場合はイアンがすごいんだよ」
「あの、ちょっと、リオノーラ……」
「あ、でもね、イアンって運動得意じゃないみたいなんだよ。この間みんなで鬼ごっこしたら、転んで真っ先に掴まっちゃって」
「ちょっとリオノーラ!? 言わないで良いんですよそんなこと!」
褒めちぎられたかと思えば弱点を暴露され、羞恥のせいで真っ赤になったイアンが大声をあげる。ヴァイオリンで敵を撃退したり、リオノーラを守って果敢に戦ったりしたイアンだが、それは「火事場の馬鹿力」的な一時的な能力であったらしい。それっぽいなあ、とテオは苦笑する。
後ろで微笑ましくその様子を見ていたイシュメルが、ふと子供たちの輪の中に見知った人物を見つけた。最初にまず驚き、そして怪訝な表情になる。
「そこにいるのはスペンサーか?」
「ああ、今更気づいたのか」
白髪の武器商スペンサーだ。地面に胡坐をかいて座り込んで、手元で何やら作業をしている。それを周りで数人の子供たちがじっと眺めているのだ。
イシュメルが傍にいって覗き込む。スペンサーは細い彫刻刀を持って、木材を彫りだしていたのだ。まだ途中のようだが、輪郭からクマが出来上がるのだろうということが分かる。
「見事な木彫り人形だな」
「そうだろう、会心の出来だ」
「……いつから彫刻家に転向したのだ?」
「今も昔も武器商に決まってるだろうが。そこの賑やかなお嬢さんに引っ張り出されたんだよ」
下町奪還作戦の時にでもリオノーラたちと親しくなったのだろう。まさかあの気難しいスペンサーが、子供たちのために玩具を造っているなど、誰が想像できようか。さすがに刃物の扱いには慣れたものだ。
「いや……そういえば傭兵団の中の年若い者のために、遊び道具を造っていたのはスペンサーだったな。成程、ふふふ」
「感心していないで代われ、イシュメル。俺は店に戻りたいんだ」
「生憎腕が不自由でな」
「こういう時ばっかり隻腕の事実を持ち出すな」
観念したらしいスペンサーは、黙々と彫刻を続ける。しきりに子供たちに「早く」とせがまれているが、「まだだ」と無愛想に返すだけだ。子守りには不適任だが、案外まんざらでもないのかもしれない。
子供の笑顔は、失ってはいけないものだ。それをリオノーラたちが取り戻してくれたことを、テオは心から感謝した。
万屋カーシュナーの看板は、今日も玄関先に立てかけられている。『荒事却下』の文言は、もうその隣に付け加えられていなかった。
ドアノブを掴み、回しながら扉を押し開ける。――途端に香る、コーヒーの匂い。もう涼しくなったから、ホットコーヒーが飲みたい。そんなことを思いつつ顔をあげると、真正面のソファに座ってまさに温かいコーヒーを飲んでいる女性がいるではないか。
「あれ」
「――あっ、テオさん! す、すいません、お留守だったのに勝手にお邪魔しちゃって……!」
若い女性がソファから飛び上がって、深々と頭を下げてくる。豊かな金髪が、ふわりと揺れた。
「いいんだよ、セイラさん。ゆっくりしていって」
劇団『エース』の踊り子セイラ。
騒動が集結して数日して首都に戻ってきてから、劇団『エース』もこの街で復興作業を手伝ってくれている。興行をして住民たちを楽しませてくれたり、時に防衛隊と一緒になって魔物退治をしてくれたり、炊き出しに参加してくれたり。団長のガイア以下、劇団員たちはよく働いてくれていた。
しかし彼女が留守番をしているのはどういう状況だろう。留守番を任せていた彼は何をしているのだ。
テオは室内をぐるっと見渡す。
「で、あのじっとしていられないバイトくんはどこに行っちゃったの?」
「えっと、それが――」
セイラが言いかけたその時、閉じたはずの玄関が再び開いた。
「ごめんごめん、ただいま――って、ん?」
振り返ったその場所に、食材の入った袋を抱えた青年が立っていた。一瞬虚を突かれたような表情をしてから、ふっと目元を和ませて青年は室内に入ってくる。
「なんだ、帰ってたのか。お帰り」
「うん、ただいま」
なんだか挨拶が逆な気もするが、まあいいとしようか。
「どこ行ってたの?」
「昼飯作ろうと思ったら、食材が足りなかったんだよ。昨日買い物行ったのテオだろ? ちゃんと頼んだの全部買って来てくれよ」
「あれ、全部買ったつもりだったんだけどなぁ。そいつは悪かったね」
「だから急いで調達に行ってた」
「……買い忘れを調達に行ったにしては、荷物が多いね?」
「野菜の特売やってたんだ。つい」
食卓に袋を置きながら、彼は笑う。その上着のポケットからチコがひょっこり顔を見せる。もうすっかり、そこが定位置だ。
「怪我も治ったばっかりなんだから、じっとしててほしいんだけどねえ、エリオットくん?」
「あれから一か月だぞ。あんたたち大袈裟なんだよ」
そう、あの事件から一か月だ。
魔物化したエリオットは強かった。というより、魔物化した人間との戦いはほぼエリオットが引き受けていたために、残った面々では難しかったのである。それでもイシュメルの一撃とイザードの弾丸によって人の姿を取り戻したエリオットは、テオの治癒術で一命をとりとめたのだ。
深い傷はテオが治してくれたが、それ以外の傷は自然治癒に任せた。テオにこれ以上魔術を使わせたくなかったのだ。だから完治したのもつい最近である。その間、テオたちも新政策のために忙しく働かねばならなかった。代わりにつきっきりでエリオットの看病をしてくれたのが、踊り子セイラであるわけだ。
テオたちの心配をよそに、エリオットはすこぶる健康だった。なにせあれだけ自分を苦しめていたエナジーの負荷によるだるさが消えたのだ。生傷の痛みなど、エリオットにしてみればたいしたことではない。身体が軽い素晴らしさを、目いっぱい満喫している最中である。
「そういうわけで昼飯今から作るんだ。ちょっと待っててくれ」
「あ、私も手伝います!」
セイラがとことこと、キッチンに入るエリオットの後を追いかける。エリオットは随分と上機嫌なようだ。久々に出歩けたのがよほど嬉しかったのだろう。鼻歌まで聞こえてくる始末で、あまりにらしくない様子にテオとイザード、イシュメルは顔を見合わせるばかりだ。
するとイシュメルがくるりと踵を返した。
「リオノーラ嬢たちも昼食に呼んで来よう」
「え? でもさっき、約束してもいないのに押しかけるのは悪いからいいって……」
「機嫌が良い時のエリオットは、昔から見境なく大量の料理を作るのだ。おそらくここにいる面々だけでは食べきれんぞ」
「……一体どれだけ作るの?」
テオは呆れたようだったが、イシュメルは真剣だった。おそらく、この二十年で何度もそんな状況に直面してきたのだろう。さっさと家を出て、リオノーラたちを呼びに行ってしまった。
テオとイザードはコーヒー片手に、カードゲームをして暇をつぶした。キッチンから聞こえてくる、食材を切る音。鍋で煮込んでいる音。焼いている音、食器の音、水の音、棚が開く音。そして楽しげな、エリオットとセイラの話し声。
新婚さんか、とテオは内心で苦笑しながらコーヒーを飲む。早く結婚でもすればいいのに。というより、そろそろ互いに恋人同士と認めればいいのに。どちらも奥手だから、面と向かってそういう話をしたことはないはずだ。もどかしい。ここは劇団『エース』のガイア団長と共謀して、それとなくふたりをくっつけてしまおうか。
エリオットは、防衛隊に入ることを希望しなかった。彼のことだから、自分も共に戦うと言うものだとばかりテオは思い込んでいた。
しかし意外なことに、エリオットは万屋として下町に留まることを決めたのだ。理由を聞いてみれば、「そのほうがより住民の近くにいられる」とのことだった。首都を守るという大役より、目先の人の悩みを解決する仕事を選んだということだ。テオとしては嬉しいが――。
「……物好きだよなあ」
「何が?」
思わず口から飛び出した言葉を、食卓にサラダを運んできたエリオットに聞かれてしまった。なんでもないと誤魔化しつつ、ちらりとエリオットに視線を送る。首元にはまだ包帯が巻かれていた。イシュメルの渾身の一太刀は見事なものだった。この傷だけはまだ完治には至っていない。
「まだ痛むかい?」
「いや、違和感も殆どないよ。痕は残るかもしれないけど、たいしたことじゃない」
「まったく、君は『たいしたことない』ばっかりだね。普通の人は一か月くらいで元気に歩けないよ、その傷じゃ」
「あんたに言われたくないよ」
エリオットの視線がテオの左腕に向けられていることに気付き、テオは自分の腕を持ち上げる。何の変哲もない皮膚だ。あの禍々しい赤黒の肌は、すっかり消えている。
「エナジーに触れなきゃなんともないからね。これからはそんな機会も少ないだろうし、大丈夫だよ」
「これからはお互い、荒事はなしの方向で行きたいな」
「……まさか君の口からそんな言葉を聞くなんて」
笑いながら、エリオットはキッチンに戻っていく。それを見て、やっぱり上機嫌なのだなとテオは確信した。
リオノーラとイアン、スペンサーも合流して、昼食とは思えないほど豪勢な食事会が始まった。イシュメルの懸念は見事現実のものとなり、一体何人分だと思うほどのサラダにスープ、パスタなどが大皿で出てきたのだ。先程特売で買ってきた食材の大量消費である。日頃節約節約と口癖のようにしていたエリオットとも思えない。
料理も半分ほど減ったところで、ふとイザードが顔を上げた。この家の食卓は八人で囲めるほど大きくなかったので、食卓と応接のためのローテーブルの二か所に分かれて食事をしている。イザードはイシュメルやスペンサーという年長組とともにソファを占領していた。
「そういえば、あのヨシュアとかいう怪盗はどうしたんだ? 最近めっきり見ないではないか」
テオたちの首都脱出から、下町奪還作戦の時まで、長いこと力を貸してくれたヨシュアは、風のように消えてしまった。テオたちが負傷したエリオットを抱えて連れ戻ったときはまだ下町にいたし、そのあとに一度エリオットの見舞いに顔を出してくれた。外を出歩けなかったのでエリオットは知らないが、テオらによると復興作業もある程度手伝ってくれたそうだ。
だが、作業が一段落すると、誰に何を告げることもなく姿を消してしまったのだ。
「結局、何者だったんだろうな。妙に腕もたつし、頭の回転も速かった」
「確かに協力はしてくれた、だが不法侵入や器物損壊の罪は消えんのだ! しょっぴいてやろうと思っていたのだがな」
鼻息を荒くするイザードに、イシュメルが苦笑した。
「そのお前の敵意を察して、姿を消したのではないか?」
「ぬう……」
パスタをくるくると巻きながら、テオが呟く。
「まあいいじゃないの。謎は謎のままっていうのも――」
すると、背後で扉が開いた。……今日は良く玄関が開くものだ。
驚いて一同振り返る。戸口に立っていたのは、噂をすればなんとやら――。
「どうも、こんにちは」
「……は!?」
エリオットが素っ頓狂な声をあげる。優しげな表情ながら、何を考えているかよくわからない男。ヨシュアだ。
「ああ、エリオットさん。お元気になられたようですね、良かった良かった」
「え、いや、うん……おかげさまで」
あまりのことにどもったエリオットに代わって、テオが苦笑する。
「急にいなくなったり現れたり、忙しい人だね。どこ行ってたの?」
「どこに行ったも何も、私は役目を終えて元の生活に戻ろうと試みただけですよ」
ヨシュアの本業は、諜報や暗殺といった裏の仕事だ。そういえばそうだったということを、すっかりエリオットは失念していた。
「で、試みた結果がこれ?」
「そうですよ、責任を取ってください」
ヨシュアは溜息交じりに食卓の方へ歩み寄ってくる。イザードなどはまだ油断ならないのか身構えているが、テオやエリオット、作戦を共にしたイアンなどはすっかり歓迎ムードである。
「貴方たちと行動していたら目立ちすぎてしまったんですよ。特にあの下町奪還作戦で」
「まあ、君が陣頭指揮を執ったからね」
「ちょっと街を歩けば、『ヨシュアさんヨシュアさん』と呼び止められます」
「すっかり下町の人たちと仲良くなったわけだ」
「おかげで裏稼業に戻れなくなってしまいました、どうしてくれるんですか」
「うわあ、逆恨みもいいところだね。大体、下町奪還は君の発案だったじゃない」
まったくだ。確かに依頼を最初にしたのはテオであるが、その後のことは依頼の範囲を超えてヨシュアが付き合ってくれたことである。責任を取れと言われても。
テオはふっと笑みを浮かべた。
「けど、君は元々裏の人間でしょ。気配の消し方なんて熟知していたはずだ。それなのに少し出歩いたくらいで素人に呼び止められるって、ちょっとおかしくないかい?」
「それは……」
「意図して気配を消していないのか、それとも消し方を忘れたのか? ……どちらにせよ良い機会だ。君の雇い主だった貴族たちも当分は自分のことに手いっぱいなはずだから、目ぼしい依頼は来ないと思うよ。これを期に健全な道に立ち戻ったらどう?」
「無理ですよ、私には今更」
「そうかな。まんざらじゃないように見えたけどね、俺には」
下町奪還作戦や、その後の復興作業で、ヨシュアはたくさんの人たちと関わった。充実していたように、傍目には見えたものだ。普通にしていればヨシュアはただの若者であるし、愛想もよく人柄もいい。表の世界で、十分生きていけるはずだ。
エリオットがおもむろに口を開く。
「じゃあ、防衛隊に入るってのはどうだ? それなりに戦えるんだろ?」
「防衛隊……」
ヨシュアは険しい表情でイザードを凝視した。こんなにも感情を露わにした表情は、初めて見た気がする。――そんなに嫌なのか。
「……それは、ちょっと性に合わないというか」
「貴様、なぜ私の顔を見て判断する!?」
こっちから願い下げだ、とイザードはむきになって怒る。とりあえずその様子を見てエリオットは思う。ああ、ヨシュアはこれから当分万屋に出入りするようになるだろうな、と。不思議なことに、エリオットは嫌に思わない。戦友と言っていいのだろうか、ヨシュアに対してはそのような気持ちを持っているのだ。
それに今更、入り浸る人間がひとり増えたくらいで、何が変わるだろう。
決して生活は楽ではない。それでも、みんなで笑って食事を囲んでいられる、ただそれだけが嬉しい。
生きていて、良かった。唐突に、エリオットはそんなことを思うのだ。
二十年前、両親のもとに生まれて。
ジェイクに拾われ、傭兵団で育てられて。
イシュメルに生かされて。
テオに命を救われ。
また、みなに助けられて、エリオットは命をここまで繋いできた。
これからは、自分が誰かを助けたい。そのために、エリオットは万屋であることを決めたのだ。
ふと、視線を壁際にある棚へと向ける。そこにはとある写真が、写真立てに入れられて飾られていた。少々古びた写真――少年のころの仏頂面のテオと、今より少しスリムなイザード。そして、優しく笑うエルバート・カーシュナーの三人で撮った写真だ。
この写真を、エリオットは今まで一度も見たことがなかった。棚の奥にしまい込んでいたのを、テオが急に出して飾ったのだ。無意識に忌避していたカーシュナーの姿を、ようやく正面から見られるようになったということだろうか。かつての自分を、認められるようになったということだろうか。
その隣に、真新しい写真を飾りたい。この場にいる全員で、写真を撮りたい。柄にもなく、そんなことを思った。
扉がどんどんと強く叩かれたのは、食器を片づけていた時だ。
「た、大変だ! 魔物が押し寄せてきた!」
その声は、助けを求めるものだった。聞き覚えのある、近所の男性の声だ。
「なに!? さっき討伐したばかりだろうが!」
「結界を何度も消したり張ったりすると、エナジーが揺らぐんだよ。そのせいかもね」
テオはイザードに言いながら立ち上がる。攻撃系魔装具を手に取り、やる気なさげな赤い瞳にほんの少しのやる気が満ちている。
イシュメルが剣を掴んだ。自分のものとエリオットのもの、二本である。
「急ぐぞ。エリオット!」
放り投げられた剣を、エリオットが片手で受け止める。スペンサーがやれやれと腰を上げた。
「仕方がない、俺も行くか」
「昼食代くらいは働きますよ」
ちゃっかり昼食を平らげたヨシュアもまた、同行を申し出た。エリオットは妹たちを振り返った。
「リオ、それからセイラ。悪いけど、食器の片付け頼むよ」
「任せて、お兄様! 洗い物は得意だよ!」
「気を付けてくださいね」
二人の言葉に頷きつつ、イアンにも視線を向ける。
「イアン、ふたりをよろしく」
「はい、勿論」
「ありがとな。よし行くぞ、チコ!」
「キュウっ」
チコがケージから飛び出してエリオットの肩に飛び移る。その時すでに、テオは店の扉を開けて外に出ていた。
「さあて、今日もいっちょお仕事しますか」
近代化を続ける国の首都の下町に、不思議な店があった。
世界に優しくあろうとしたひとりの男が立ち上げた、小さな小さな店だった。
人々に寄り添い、悩みを解決しながら、彼が求めたのは「笑顔」だけだった。
その想いを引き継いで、二代目店主とその助手は、今日も今日とて金にならないような依頼をこなしていく。
すべては、目の前の人の笑顔のために。
――ようこそ、万屋カーシュナーへ。
貴方のご依頼、承ります。