File twenty-five 生命の冒涜は許しません。
こんなことを許せるはずがない。
★☆
地下水道は暗く寒くて、そして臭気がきつい。当たり前と言えば当たり前だが、衛生に悪そうだ。チコなどとっくに臭いにやられて、エリオットの上着のポケットに潜り込んでいる。テオの持つ光源系魔装具の光を頼りに、エリオットたちは大統領府のある北側へ向かった。
傭兵はちらほらと徘徊していた。地上の混乱は彼らのもとにまで届いていないようで、ここらで見失った大統領とオースティン伯爵を探していたらしい。ご苦労なことだと思いつつ、出会い頭に傭兵たちを伸していく。すべてが終わったら誰かに回収を頼むとしよう。
緊張しているからか――いや、緊張するとはあまり思えないが――テオは静かだ。ただ黙々と目的地へ向けて歩を進めている。道順は本当に頭に入っているらしく、足取りに迷いはない。
「何か考え事か」
問いかけると、テオは前を向いたまま頷く。
「……エリオットくん。俺は今、最悪の事態を考えている」
「それって、拉致された人たちが既に殺されているとか?」
「そうじゃないけど……いや、むしろそれより悪い仮説かもしれないな」
はっきりしないテオの様子が、いやに深刻で恐ろしい。聞きたい気持ちと聞きたくない気持ちがせめぎ合う。それを察したのか、テオが振り向く。
「言霊って、知ってる?」
「言ったことが現実のものになるとかっていう……?」
「うん。俺、言葉の力って信じてるんだ。……だから、言わない。予想が外れたら、その時は笑い話として教えてあげる」
「そっか……外れると良いな」
本当に、外れてほしい。
話が終わったのを見計らってか、イザードが口を挟む。
「テオ、この道はどこに続いているんだ?」
「研究塔の地下だよ」
「……いきなり敵中枢に忍び込むのか」
「だって、外から入ったら強行突破になっちゃうもん。なるべく穏便に穏便に」
よく言うわ、とイザードが肩をすくめた。まったくだ、これで案外テオは『穏便』や『慎重』とは無縁の行動を突発的に起こすから、ついて行くのが大変なのだ。
とにかく今はまず――この地下水道から地上へ出ることだけを考えよう。敵の数や配置など、見てみないと分からないのだから。
いい加減この臭気も鼻に慣れてきてしまったところで、目的地に到着した。正確には、目的地の真下だ。
排水路に沿って水の流れを逆走し、研究塔の排水施設と思わしき場所へ到達する。管理人や研究者がいないことを確かめ、扉を開けて外へ。すると今までの臭気と薄暗さはなんだったのかと思うほど、清潔な廊下が現れた。壁も床も天井も白一色で汚れ一つない。青白い天井の光源系魔装具のせいで、よりこの空間は寒々としていた。
「ここが――研究塔か」
エリオットはここに来るのが初めてではない。以前、レナードとやらを捕えるときにも足を踏み入れた。だがあの時は夜で薄暗く、ここまで灯りも煌々としていなかった。きちんと施設内を見るのは初めてだ。
「そうだよ。いやー、懐かしいな、この感じ。息が詰まっちゃって、もう」
初っ端からテオは辟易としている。無理もない、こんな殺風景な廊下がずっと続いていると思うと、エリオットも気が滅入りそうだ。
「テオ、施設の配置はどうなっている?」
イシュメルが問いかける。いつぞやの攻城戦の時と同じく、妙にやる気満々だ。テオは腕を組んだ。
「俺がいた当時のままなら……地上階は生物学や地質学などの研究室です。魔装具を主に取り扱っていた技術開発部は、地下に研究室を持っていました」
「ならば、この付近だな。大人数を収容しておけるような部屋はあるか?」
「いくらでも。魔装具開発は極秘だったために、携わった研究者や技術者も少ないんですよ。空き部屋はそこら中にあります。しかも大掛かりな魔装具も作るために、どこも大部屋です」
「ふむ。ではひとつひとつ探してみるとしようか」
何が起こるか分からずに不安な場面では、イシュメルは非常に頼もしい。そういえば傭兵団として活動していた時も、常にジェイクとイシュメルが先頭に立って若者たちを導いてくれた。そのことをエリオットはいま思い出してしまう。
排水施設があるのは地下三階。この階には廃棄施設しかないというので、階段を見つけて地下二階へあがる。地下二階には研究室と思われる部屋がいくつも並んでいた。まずはしらみつぶしにこの辺りから捜索だ。
しかし開始早々、曲がり角で傭兵と出くわした。エリオットがすぐさま鞘ごと剣で鳩尾を打ち、悶絶させる。
「やっぱりというかなんというか、研究塔の中にも傭兵はいるか」
「そりゃあね。魔砲もここにあるんだろうし、警備は厚いと思うよ」
言いながらテオは、床にうずくまっている傭兵の傍にしゃがんだ。動けないようではあるが、意識はある。尋問か。
「ちょっと教えてくれない? 住人がここに連れてこられているはずだけど、どこにいるの?」
「い、言う訳ないだろ……!」
「へえ?」
テオの赤い瞳がすっと細められる。――悪人顔だ。
「どうして教えてくれないの?」
「よ、傭兵にとっちゃあ、契約主との契約は絶対だからだ!」
「ふうん……じゃあ聞くけど、契約主から成功報酬で何をもらえるの?」
「首都での居住権と、家と仕事と金をくれるって……」
「随分と気前がいいね。でもさ、よく考えてごらんよ。キースリーと契約した傭兵は何人? 何百人だよね。君はキースリーと直接言葉を交わしたの? 違うんじゃない? 彼ら全員に家と仕事を斡旋できるかな? そもそも、権力者がそんな約束守るかな?」
「なっ……!?」
「権力者は約束を守らない……君たち傭兵はそれをよく知っているはずだ。それでも彼を信じる? また手酷く裏切られるかもしれないのに?」
次第に青褪めていく傭兵には、ご愁傷様と言うしかない。エリオットとイザードは呆れ、イシュメルも沈黙して見守っている。さらにテオは追い打ちをかけた。
「知ってる? いま外ではね、民衆による暴動が起きているんだ。あれじゃあ上流階級区まで、あっという間に占領されちゃうだろうね。何と言っても、暴動の主導は大統領自身だ」
「……!」
「キースリーの失脚は目に見えている。それでもなお、君は彼に従う? 今ならまだ傭兵たちの罪も軽いが、最後まで従うとなれば重罪。間違いなく、国家反逆罪で極刑だ。そこまでしてキースリーに義理立てする必要が、どこにある……?」
もはや何も言えなくなった傭兵は、とどめにテオの満面の笑みを食らって撃沈した。
――そうして彼は、洗いざらい知っていることを暴露してくれたのである。
「捕虜は西側のシェルターに押し込まれている、か……下町の傭兵は仕方ないとしても、研究塔内の傭兵ですら詳しいことを聞かされていないとは。徹底しているな」
廊下を駆けながらイザードが呟く。エリオットは頷いた。
「それに、あいつは魔砲の存在も、キースリーの本当の目的も知らなかったしな」
傭兵たちにキースリーが語ったのは、『身分差別のない平等な世』だったそうだ。それらしい理想だが、いまのキースリーのやり方を見ればそれが目的などではないことが一目瞭然だ。
傭兵は捨て駒か。キースリーは誰と目的を共有しているのか。まさか、単独だというのか。
そうこうしているうちに、彼らはそのシェルターに到着した。見張りに立っていた傭兵をイシュメルが打ち倒し、エリオットは剣を抜いて扉の錠を弾き飛ばした。見張りが鍵を持っていただろうが、探すのが面倒臭い。
鉄製の扉は、腕の力だけで開く代物ではなかった。全体重をかけ、肩から扉を押し開ける。重苦しい抗議の音をたてながら扉が開き――だだっ広い空間が現れる。そこにいたのは、数えきれないほどの人間たちだ。老若男女を問わず、下町の住民と思われる者、貴族らしき者、警備軍の制服を着た者――百人はゆうに超えている。
「みんな、大丈夫か……!?」
突如現れたエリオットたちに、シェルター内の人々は驚いた表情を浮かべた。その中で、「エリオットだ!」と声があがる。下町の人々だった。
幼い子供たちがタックルする勢いでエリオットに抱き着いてくる。総勢五人――この大兄弟は見覚えがある。あとから現れた、幼い赤ん坊を抱いた少年を見てそれは確信に変わった。
「ユーイン!」
「エリオットさん……! ほ、ほんとに、エリオットさん!?」
以前子守りを依頼してきた、あの兄弟たちだった。しっかり者の長男ユーイン以下、全員がいる。見知った者がいてエリオットはほっとした気分だ。
「ああ、そうだよ。お前たちも捕まっていたんだな」
「傭兵たちが首都を襲ったとき市場に居合わせて、それで……」
話しているうちにほっとしたのか、ユーインの身体は小刻みに震えている。ここまでずっと、弟妹達を守って耐えてきたのだろう。彼自身が恐怖や不安におびえる暇は、おそらくなかったはずだ。
「よく頑張ったね。もう大丈夫だよ」
「カーシュナーさん……」
テオの優しい微笑みに、ユーインはぐっと歯を食いしばった。涙を見せまいとする姿は、立派だ。
振り返ってみれば、イザードは警備軍の面々と話をしている。お互いの無事を確認しあえて、イザードも嬉しそうだ。イシュメルは入り口を警戒しつつ、手近にいる者に声をかけてやっている。
エリオットはシェルター内に視線を巡らせた。まだ、無事な姿を見ていない人がいる。しかし数百人もいる中からどうやって――とやや焦り始めたとき、相手の方が先にエリオットを見つけてくれた。
「エリオットっ!」
「母さん!」
シェルターの奥から、小柄な女性が走ってくる。オースティン伯爵夫人ナディア――エリオットとリオノーラの母親。
怪我をしている様子はない。走る姿から、体調も悪くないようだ。ほっとしつつ、エリオットは飛び込んできた母を受け止める。
「エリオット、エリオット! 戻ってきていたのね! どこも怪我していない? 大丈夫?」
「もう……こんな時まで、俺の心配が先なんですか。見ての通り、ぴんぴんしていますよ。父さんとリオも、無事でいます」
「そう、良かった……本当に良かった」
へなへなと床に座り込んだ母親に引きずられ、エリオットもしゃがみこむ。するとテオが尋ねた。
「伯爵夫人、お疲れのところ申し訳ないのですが、質問があります」
「なあに?」
「ここに連れてこられた人は、一体どういう人たちなんでしょう? 俺には法則性がまるで見えません。そしてここで何を?」
その問いに、ナディアはしばし沈黙する。それから顔を上げた。
「私は無差別に集められたものだとばかり思っていたわ。共通点らしいものが浮かばないもの」
やはり、その結論か。テオは頷いて先を促す。
「ここへ来てからのことだけど、特に何もされていないの。……少なくとも、ここにいる人たちは」
「それは、どういう?」
「このシェルターに押し込められてからね、不定期に何人かの人たちが研究者の手で外に連れ出されていったの。そしてその人たちは、帰ってこない。私たちは、いつ自分の番になるのかってびくびくしていたのよ」
そんな状況で、何日もみんなで過ごしてきたのか。それを思うと、エリオットは辛くて仕方がない。連れて行かれた人たちは、どこで何をされているのだろう。
「研究者、か……まあ、魔砲をキースリーがひとりで造ったとは思えないから、当然だね。敵は魔装具技師の集団だ」
「なぜ魔装具技師が民間人を必要とするのだ? あまり考えたくはないが、生物学者などならともかく」
イシュメルの疑問はもっともだった。魔装具技師の研究対象は、魔装具であるはずだ。人間を必要とする意味が分からない。
テオの表情は深刻だ。ふとエリオットは、地下水道でテオが何かについて悪い予想を立てていたことを思い出す。もしかして、これはテオの想像通りのことが起こっているのではなかろうか。だから、テオは何かを確信したような表情で、それ以上のことを口に出さない。
――その時、扉を背に立っていたイシュメルが急に飛びのいた。エリオットが剣を掴んで立ち上がる。
「どうしました?」
「……何か、来る!」
イシュメルが剣を抜き放ったと同時に、鉄製の扉がドン、と一撃叩かれた。
――その一撃で、鉄の扉がひしゃげてしまうほどの威力。
人間では、ない。
「みんな、下がれ! 奥へ行くんだ!」
エリオットの指示で、人々はわっとシェルターの奥へと逃げていく。民間人の盾になるよう前衛に立ったのは警備軍の面々だ。こんな状況でも、彼らはやはり警備軍だった。
二撃目で、扉が室内に向けて吹き飛んできた。イシュメルが剣の一閃でその扉を弾く。壁にぶつかって落ちた扉は、もはやただの鉄の板だ。
エリオットがイシュメルと肩を並べて剣を構える。その後ろに、テオとイザード。四人の基本的布陣だ。
何が来る? 身構えていたエリオットは、その姿を見て思わず硬直してしまった。
「……えっ?」
見覚えがある。
奇妙なほどに長い手足。
人の倍近い背丈。
顔、と思わしきもの――。
背後でテオが息をのんだ気配がした。いつもなら先制の一撃を食らわすはずのテオが、動かない。エリオットはテオを庇うように、じりじりと後退した。
イザードも何も言わない。口を開いたのは、額に嫌な汗を浮かべたイシュメルだ。口角をわずかにつり上げているが、それは決して笑みではない。
「――ほう……これが、お前たちの言っていた……」
魔物化した、人間。
「――ふざけるなッ!」
テオが、怒鳴った。怒鳴り声など、エリオットでも聞いたことがない。いつだって冷静だったテオが、なりふり構わず怒りを露わにしていた。
「人の命を、なんだと思っているッ……!」
それで、悟った。
テオがずっと抱えていた、嫌な予感。それは、このことか。
魔物がシェルター内に入ってくる。エリオットはさらに、後ろへ下がった。そこへイシュメルが指示を出す。
「エリオット、あまり下がるな。民衆を巻き添えにしてしまう。ここで食い止めるぞ」
「は、はい」
シェルターの奥行きは十分すぎるほどあるが、それでも下がりすぎれば住民を巻き込む。分かっていても、戦闘態勢を取っていないテオをひとりに飛び掛かるわけにもいかないのだ。別に怖気づいてエリオットが後退したとは、イシュメルも思っていないだろう。
「テオ、気持ちは分かるが切り替えろ。手加減できるほど余裕がない」
「……すみません、もう大丈夫。戦えます」
テオもイシュメルの声で頭を冷やしたのか、ようやっと身構えた。イザードは言われるまでもなく自ら動いていた。銃口を魔物に向けたまま制止する。そこまで威力のないエナジー弾を使うイザードは、あくまで民衆を守るための牽制をする。それが常のことだ。
それにおそらく――これはエリオットの勘だが、エナジー攻撃はこの魔物に通じないのではないだろうか。テオ並みの高火力になれば話は別だが、魔装具程度では効き目が薄いはず。ジェイク傭兵団を壊滅に追い込んだ魔物は、エナジーを多量に浴びたゆえの突然変異種だった。この魔物も、エナジーを多量に浴びた人間――原理が同じなら、おそらくエナジー弾は魔物を刺激するだけだ。
「よし、では行くぞ」
イシュメルの言葉で、初めてエリオットは前に出た。彼の言葉は、いちいち気が引き締まる。
魔物の長い両腕がしなる。右か、左か。間合いは目測、一メートル以上。
――右。
エリオットは僅かな腕の動きの差異からそれを察した。横に薙ぐように振るわれた魔物の左腕を、跳躍して躱す。イシュメルは剣の腹で受け止めて流した。
しかし、といってどう戦えばいいのか。手加減する余裕はないが、手加減しないというわけにもいかない。避ける以外に方法が思いつかない。
「エリオット、致命ギリギリの一撃を頼む」
「え!?」
テオが集中しながら指示を出した。致命ギリギリと聞いて、思わずエリオットは振り返る。その瞬間に腕の第二撃が振るわれ、慌てて回避する。
「戦闘不能状態に陥らせれば、魔物化は解除されるはずだ。そのための一撃をお願い。傷は俺が治す」
「……なるほど」
ユリという女性が魔物化した時と同じだ。致命傷を喰らえば、魔物化状態を維持できず人間の姿に戻る。そこですぐさまテオが治癒の術を使えば、万事解決というわけだ。
「難しいよ。できる?」
「やってやるさ」
「頼もしいね」
テオが微笑む。ちらりとイシュメルに目を送ると、彼は頷いた。援護を任せろ、という目だ。
魔物化した人間に意識があるとは思えない。だが、まるきり魔物として暴走しているようにも見えない。街の外などで遭遇する魔物と比べれば、動きは鈍いし攻撃は単調だ。まだ完全に魔物として意識が呑まれていない証拠ではないか。
だから、傭兵のエリオットやイシュメルには対処が容易い。避けるも斬るも、いかようにもできる。それでもテオの要求は難しかった。ただ手加減するだけではいけない。死なないように、しかし敵の戦闘力を殺ぐ一撃――。
やるしかない。
イシュメルが攻撃を避ける。チコが火の玉を吐きだす。横手からイザードが牽制の弾丸を撃って魔物が怯んだ隙に、イシュメルは魔物の長い腕の間合いの内側に侵入した。跳躍しつつ、剣の柄で魔物の顎を下から打つ。人型であるからにはそこが急所であった。
魔物がさらによろめく。見計らって、エリオットが飛び出す。
この魔物が、彼なのか彼女なのか分からない。実は知っている人かもしれないし、全く知らない人かもしれない。ただ、それでも――。
「ごめん……!」
いつもなら返す刃を、エリオットは返さない。
袈裟斬りが入った。
★☆
廊下をちょこまかと走るチコを、大の男四人で追いかける図は今更ながら滑稽かもしれない。
エリオットの巧みな力加減とテオの治癒の術によって、魔物化していた若い男性は人の姿を取り戻した。魔物化のショックからかすぐには意識を取り戻していなかったが、概ね安心していいだろう。
おそらく敵は、テオらの侵入に気付いたのだ。だから彼を差し向けた――排除とまでは行かずとも、テオらの戦意を殺ぐために。
結果的にそれは失敗に終わった。むしろ、テオはさらに戦意を膨らませたのだ。エリオットらも、この非道なやりように怒り心頭だ。
短期間でシェルターまで魔物がやってきたということは、この近くに、人体にエナジーを照射する場所がある。キースリーを断罪する前に、まずはそちらを止めることが先決ということで意見が一致した。早速探しに行きたかったのだが、ここで問題になったのはシェルターにいる住民たちだ。
一刻も早い脱出が望ましかったが、どこに敵がいるか分からない上に百人近い大所帯だ。一気に移動するのも、数人ずつ分かれて移動するのも危険が伴う。いっそシェルターから動かないほうが安全なのではないか――そう判断したため、イザードは彼らに待機を指示した。というより、治安維持隊の面々のほうからその指示を仰いできたのだ。武器も没収された身ではあるが、シェルターの入り口はひとつだけ。治安維持隊員は数十人も控えている。いざとなれば、この身を賭してでも死守する――と。
よって住民たちのことは治安維持隊に任せ、テオらは施設内の捜索を再開した。ナディアも呆気ないほど簡単に送り出してくれた。エリオットの病状を知らない彼女は、息子たちに絶対の信頼を寄せている。それがなぜか、少し痛い。
エリオットが満足に動ける時間も限られている。迅速な行動が要求された。
研究塔は広い。エナジー照射の機材のある研究室を、手分けして探そうとなったところで、エリオットの上着のポケットに入っていたチコが床に飛び降りた。何かと思えば、キュウキュウと鳴きながら廊下を走っていくではないか。
「追いかけよう」
テオの言葉で、みなが駆けだす。ここまでエナジーの流れを察知し、源泉を探し当ててくれていたのはチコだ。この期に及んで、チコを疑うなんてことはしない。
こうして、小動物を男四人で追いかける図が完成したのである。
だいぶ走ってきたが、どこもかしこも景色が同じだ。白い天井、白い壁、白い床。等間隔の研究室の扉、等間隔の光源。実は同じところをぐるぐる回っているのだと言われても、今なら頷いてしまうほどだ。
しかし、長い月日を研究塔で過ごしたテオやイザードには、場所がはっきり分かるらしい。その証拠に、テオはぽつりと呟くではないか。
「この道は……まさか」
幾度目かの廊下の角を曲がる。突き当たりだった。広い広い研究塔の端っこまで来たようだ。
奥に研究室の扉がひとつ。チコはそこで立ち止まった。この部屋か。
「おい、テオ。ここは……」
イザードがテオを見やる。テオは溜息と共に頷いた。
「そうだね。……俺とカーシュナーの研究室だ」
「テオとカーシュナーの……」
ふたりが青春時代の大半を過ごした場所――とか言ったらテオが怒るだろうか。
五歳から十三歳までの八年間を、テオはここで過ごしたという。五歳児など、物心がついているかついていないか分からない年齢だ。テオにとっては、この研究室が「家」だったのではないだろうか。
そんな思い出の場所を、人を魔物に変えるための部屋にされるなど――。
「まあ十五年近く前の話だからね。同じ部屋ってだけだよ」
テオは呟きつつ、足音を殺して扉の前に近づく。エリオットも同じように擦り寄り、扉の向こうに意識を集中させる。――人の気配。複数人だ。
エリオットがノブを掴み、そっと押し開ける。扉の隙間から人の姿が見えた瞬間に、エリオットは扉を開け放った。
室内にいた研究者たちが一斉に振り返る。剣を構えたエリオットの後ろから、テオが進み出る。先に口を開いたのは研究者の一人だ。
「お前は、テオドール……!?」
十五年も会っていなくて一発で見抜かれるとは、テオは昔からこんな容貌なのか。テオは室内をぐるっと見渡して、口を開く。
「……へーえ。昔は結界を創って人々の命のためになろうと言っていた人たちが、今やこんなことをしているとはね」
部屋は薄暗く、淡い緑の光がぼんやりと照らしているだけ。
中央に鎮座しているのは、何やら緑色の液体に満たされたカプセルだ。人ひとりが余裕で入れるくらいの大きさがある。
あれがエナジー照射の機械。あれが人を魔物に変える装置。
満たされているのは、濃い濃度のエナジーか。それを見ただけでエリオットはぞくりと悪寒を感じた。本能があの緑の光を恐れている。どれだけの濃度なのだ。いま少しでも触れれば、間違いなくエリオットも魔物化してしまう。いや、ここまで比較的影響を受けていないイザードやイシュメルだって、どうなるか。
室内にいる研究者は四人。白衣に眼鏡という、何の個性もない男が四人だ。テオの言葉から考えれば、二十年前に魔装具を開発したチームの元メンバーなのか。
あともうひとり――ストレッチャーのようなものに寝かされている、少女。十代半ばから後半くらいの、身なりの良い服装の女の子だ。おそらくあのシェルターに連れてこられていた貴族の娘。意識はないが、呼吸で上下する胸を見てひとまず安心する。
まさに今、あの装置の中に放り込まれそうになっていたというところか。
「お、俺たちは脅されたんだ! キースリー補佐官に! 言うとおりにしないと、家族もろとも俺たちも魔物化させるぞって……!」
「言い訳を聞く気分じゃない」
テオはばっさりと切り捨てた。一歩踏み出せば、研究者は一歩下がる。
「お前が、お前が悪いんだぞテオドール! お前が研究の途中で逃げ出すから! 補佐官はお前をずっと探していた、研究の仕上げはお前じゃないとできないからって! だからおびき出すために……!」
「……!」
人を魔物化させれば、テオが黙っているわけがない。まんまと、引っかかったというわけか。
テオが動揺したのが分かる。その瞬間、研究者が銃を撃った。青白いエナジー弾がテオを襲う寸前、エリオットが剣で払いのける。
大きく息を吸ったのは、心を落ち着かせるため。そうしてテオが絞り出した声は、ややかすれていた。
「――キースリーはどこだ。既に魔物化した人たちは、どこへ行った?」
問いの答えは、銃撃だった。
研究者が撃っているのは麻痺弾。殺すつもりはないということだ。しかも相手は戦いの素人。一人はあっという間にイシュメルによって叩き伏せられ、もう一人は弾幕が途切れた隙に食らったイザードの麻痺弾によって悶絶する。
急に室内が明るくなった。何かと思えば、一人の研究者がエナジー照射装置を起動させたのだ。カプセルの中のエナジーが発光する。密閉状態にあるカプセルから、僅かにエナジーが気体となって漏れ出していた。これでは室内にいる全員が危険だ。
テオが駆け寄って、男を蹴り飛ばす。いつものことながらキレキレの右足だ。そうしてテオは、起動を解除しようとモニターを見てキーを叩きはじめる。
彼にしては失態だったが、エリオットは四人いた研究者の内最後のひとりをこのとき一瞬見失っていた。そしてその四人目を見つけて、エリオットは慌てて駆け出す。
男は、ストレッチャーに寝かせていた少女を担ぎ、カプセルの中に放り込もうとしていたのだ。
まだテオは装置を停止できていない。研究者はカプセル上部の蓋を開け、少女を中に入れようとする。
エリオットが研究者を押し飛ばしたのと、研究者が少女を放り込むのでは――僅かに、研究者が先だった。
「! しまった!?」
研究者が床に倒れ込むのなど、エリオットは気にしていない。カプセルに落ちていく少女の腕を掴もうとして、カプセル内部から熱気のように湧き上がるエナジーの濃さに、目が眩む。手を掴み損ねて、少女はエナジーの中に落下してしまった。
それがエナジーの抽出液だということも束の間忘れて、エリオットはカプセル内に飛び込もうとした。それを鋭く制したのはテオだ。
「エリオット、だめだ! 触っちゃいけない!」
そこでようやく我に返る。テオが寸前で装置を停止させたらしく、エナジーの発光は収まっている。だが内部のエナジー濃度が高いのは相変わらずだ。このままでは、少女は魔物化しなくともエナジー濃度にやられて死んでしまう。
テオが装置から離れ、エリオットの傍までやってくる。どうするのかと思えば、テオはカプセルの縁に身を乗り出して、中にいる少女を助けようとするではないか。さっきエリオットがやろうとしたのと同じだ。
「ちょっ、テオ!?」
「大丈夫だよ」
「大丈夫な訳ないだろ、こんなエナジーの濃さじゃ……!」
「大丈夫なんだよ。俺はね」
達観――というのか、諦観というのか。妙に穏やかな言葉に、エリオットは反論を失った。
そうこうしている間に、テオは右手で縁を掴み、左手をエナジーの中に突っ込んだ。――どうして、利き腕でない左手を使ったのか。そのことが、なぜだか印象に強く残る。
テオの手が、少女の腕を掴む。「よいしょっと」などと声をかけて、テオは左腕一本で少女を引き上げた。床に寝かせた少女の様子を見て、テオは息を吐く。
「大丈夫そうだね」
「お、おい……ほんとに大丈夫なのか!?」
少女の身体からも、テオの左腕からも、緑の気体が湯気のように立ち上っている。テオは微笑んで頷いた。
「三秒ルールだよ」
「は!?」
「三秒以内なら平気ってやつ。……まあ、ほんとに平気だから。今の一瞬で魔物化なんてしないよ」
「そう……なのか……?」
テオはひらひらと左手を振って見せる。確かに、変わった様子はない――。
エリオットよりよほど、テオはエナジーに詳しいのだ。彼が大丈夫というのなら、それは真実か。
この男の「大丈夫」ほど当てにならない言葉はないと、とうの昔に気付いていたはずのことを、エリオットはすっかり失念していたのであった。