File twenty-two 首都へ帰りましょう。
こんなところで、寝ている暇はない。
★☆
「……」
真っ暗だ――と思ったのは束の間だった。自分が目を閉じたままだということにすぐ気付いて、エリオットは目を開ける。途端に強い光が瞳を直撃し、思わず呻き声をあげてまた瞼を下ろしてしまう。それからもう一度、今度はそっと視界を鮮明にしていく。強烈だった光は室内のランプの淡いもので、たいしたことはない。目の前にある木の天井は、どこかの室内に寝かされているということを表していた。
「起きたか、エリオット?」
横合いから声をかけられて、エリオットは首を動かす。少し離れた場所にあった椅子に座っていたのはイシュメルだ。彼はエリオットが目覚めたことに気付き、すぐさまベッド脇まで駆け寄る。
「イシュメル、俺――う、わっ」
ベッドに手をついて起き上がったはずなのに、いつの間にかエリオットの身体は外側へ傾いていた。あわやベッドから落下しそうになったところで、イシュメルが肩を支えてくれる。平衡感覚を失ったつもりはまったくなかったのに、どうしたことか。
「無理をするな。寝ていた方がいい」
「大丈夫ですよ。ただの眩暈で――」
「……エリオット、隠さないでくれ。大丈夫なはずがなかろう」
その言葉にどきりとする。イシュメルは、きっとテオから聞いたのだ。自分が一番納得したくなくて、逃げていた現実。けれども、もう見て見ぬふりは出来ないのだろう。自分は――確実に、弱っていた。
「実際、身体はどうなのだ?」
「――ここ最近、ずっと身体が重くて。今は……身体を起こしているのが、辛い」
正直に告げると、イシュメルはそっとエリオットの身体をベッドに横たえた。衝撃がなるべくこないよう、片腕だというのに非常に丁寧だ。申し訳なく思いつつも、自分ではどうすることもできなかった。沈み込んでしまうのではと思うほど身体はだるく、動けない。気分もあまりよくなかった。
イシュメルは床に膝をつき、エリオットと目線を合わせた。
「エリオット。テオの話では……このままいけば近い未来に、お前は魔物化してしまうそうだ」
「……分かっています」
自分の身体だから、理解していた。
兆候が現れたときから、覚悟はしていた。
それでも、改めてそう宣言されると――心に刺さるものがある。
「けれどお前は、エルバートや他の者とは比べ物にならない体力を持つ。傭兵として身につけたそれが、お前の症状の進行を遅らせているらしい。だから寝たきりで動けなくなるまで、まだもう少し時間がある」
カーシュナーは、魔物化する数週間前から寝たきりになったと言っていた。ならば確かにまだ、時間の猶予はありそうだ。今のエリオットは、辛いながら歩行はできる。戦いも、おそらく短期間であればこなせるだろう。
「それと、首都から連絡があった」
「悪い知らせですか?」
「ああ――キースリーによるクーデターが起きたのだ。首都全体を傭兵が占拠し、固く城門を閉ざしているらしい」
「! 傭兵……!」
食うに困った者たちが、キースリーの下に集ったのか。政府を憎みながら、しかし政府を恐れる傭兵たちは、自ら進んで首都に攻め込むなどという大それた計画は立てない。だが依頼があるならば別だ。依頼主が大統領補佐官という身分の人間だということも、契約を交わした理由の一つだろう。いつかテオと話した通りになってしまったわけだ。
「主だったお前の知り合いはみな無事だ。だが、貴族街ではかなりの死傷者が出たようだ」
「……父さんたちは」
「安心しろ。大統領ともども、ヨシュアとやらいう男に匿われている」
ヨシュアの名を聞いて、ほっとしている自分にエリオットは気付いた。あれほど油断ならない相手だと思っていたのに、今ではリオノーラたちを守ってくれるだろうという全幅の信頼を置ける。そしてそれはその通りだったわけだ。
イシュメルはこのとき、意図してエリオットの母の安否が確認できていないことを告げなかった。弱っているエリオットに、追い打ちをかけるような真似をしたくなかったのだ。それはイシュメルの考えでもあったし、連絡をよこした伯爵や、テオの意見でもあった。
「急いで首都に戻らねばならん。こうしてキースリーが行動に出た今、私たちが奴を斬ることになんの問題もない。……問題はお前だ、エリオット」
「……ですよね」
満足に動けぬ自分が、首都に行ってできることがあるのだろうか。足手まといになるだけではないか――ならいっそ、安全な場所にいたほうがいいのではないだろうか。
そうは思っても、やはり危険な場所に向かうテオやイシュメルたちを、見送るなんてことはできない。
「足手まといになるから、とか考えているならその考えは捨てろ。お前は、どうしたい。お前が何を選んでも、私はそれを全力で支援する。テオも、イザードもだ」
「イシュメル……」
エリオットは黙り、目を閉じた。
「やっぱり――俺も一緒に行きたいです。こんな身体でも何かしらできることは、あるんじゃないかなって……」
「それでいい」
イシュメルは微笑み、エリオットの頭をポンとたたいた。幼いとき褒めてくれたように、優しい手だ。そのまま立ち上がったイシュメルが言う。
「テオたちに伝えてくる。少し休んでおけよ」
「はい」
イシュメルが部屋を出て行って、室内は静かになった。細く息を吐き出して目を閉じると、急に足元で何かが蠢いた。驚いて顔を上げると、毛布の中から飛び出してきたのはリス型魔物の幼体、チコである。
「なんだ、お前か……具合はいいのか」
「キュウっ」
あれだけ弱っていたチコも、源泉を止めたことで幾分か調子を取り戻したらしい。エリオットの身体の横で丸まったチコを撫でて、今度こそエリオットは目を閉じる。
――『君には、俺の店で働いてもらいたいんだ』
まるで騙されたように、テオと暮らすようになって半年を超えた。
――『死にゆく人を助けるには、俺は力不足だ。けれど、その願いだけは聞き届けてやりたいと思ってるんだよ。どんなに小さなことでも、それには価値がある。お金では払えないくらいのね』
――『俺のくだらない秘密より、君の命のほうが大切に決まってるよ』
――『君を守るために命を懸けた人たちの想いを、無駄にせずに済んだからね』
――『もう、誰も俺の目の前で死なせない』
テオがお気楽極楽の人間ではないということを、エリオットは知っていた。人の命を第一に考える、優しすぎる性格の持ち主――エリオットの同行に、テオは反対するだろうか。
するだろうな、とエリオットは思い直す。けれどあの男、自分の命には非常に無頓着なのだ。魔砲の破壊と引き換えに命を投げ出しかねない――それを阻止するために、共に戦場に立ちたい。
「頼む……もう少し、俺の身体……動いてくれ」
★☆
ネルザーリの街の集会場には個室もいくつかある。そのうちの一部屋でエリオットを休ませており、残りの面々はみな会議室に集まっていた。イシュメルが扉を押し開けて中に入ると、室内にいた者たちが一斉にこちらを注目した。
「エリオットは……!?」
問いかけてきたのは踊り子セイラだ。エリオットを好いているらしい彼女は、もう既に泣きそうだった。イシュメルは微笑んだ。
「大丈夫、目を覚ましたよ」
「よ、よかったぁ……」
ほっとした様子のセイラが、大きく息を吐き出す。視線を転じると、部屋の隅で壁に寄りかかって座りながら、テオは黙々と魔装具をいじっていた。こんな時に何を――いや、こんな時だからこそ、か。
「それで、今後のことは決めたのか?」
「大体はな」
イザードが頷いたところで、「よいしょ」という掛け声とともにテオが立ち上がった。魔装具の調整が終わったようだ。思いの外、元気に見える。
「首都コーウェンでクーデターが起きた以上、放置はできません。しかし源泉はあと数か所残っています。――そこで、二手に別れたいと思います」
「二手?」
一瞬、自分たち四人とチコ一匹を二手に分けるのかと思ったのだが、すぐに別の案が浮かぶ。協力を申し出てくれた、劇団『エース』だ。
団長ガイアを振り返ると、ガイアはにっと笑う。
「そういうことよ。残りの源泉は俺たちが止めてやる。おめぇらはとっとと首都に戻りな」
大丈夫なのだろうかと思ったが、テオが了承したのだ。以前専門知識を持たないエリオットが源泉を停止させたこともあった。操作自体は誰でも可能なはずだ。
「俺たちが真っ先にすべきは、キースリーの捕縛と魔砲の破壊――それだけです。魔砲の動力を断つことだけでも彼らに担ってもらえるなら、することがひとつ減ってだいぶ楽ですよ」
「そんなことを言って、この人数で何百という傭兵の壁を突き破るんだろうが」
「まあ、なんとかなるって」
楽観的なテオに、みな苦笑する。テオが「なんとかなる」と言ったら、きっとそうなるのだ。
テオは先程までいじっていた魔装具を掌で転がした。
「エリオットはまだ起きています?」
「ああ……おそらく」
「じゃあ、ちょっと話をしてきます」
すたすたと速足でテオは会議室を出て行った。――平静ぶっていたが、やはり心配だったのだろう。テオにしては珍しい、急いだ背中だった。
★☆
イシュメルが部屋を出てほんの数分で、再び扉がノックされた。チコがむっくりと顔を上げ、エリオットも閉じていた目を開ける。
「はい」
応えて顔を出したのはイシュメルではなく、テオだった。
「やあ、エリオット。具合はどう?」
「良くはないかな……」
「そりゃそうか」
テオはイシュメルが座っていた椅子に腰を下ろした。それを見てエリオットはおもむろに口を開く。
「なあ……首都に戻るんだよな?」
「うん」
「俺も、一緒に……足手まといにはならないから」
「うん、分かってるよ」
最初から了解しているといった様子のテオに、エリオットはやや呆気にとられた。これまでのことを考えれば、テオは一番に無理するエリオットを諌めてきたのだ。だからきっと今回も、無理をするなと引き留めるのではないかと思い込んでいた。
テオは微笑んだ。
「君ならそう言うと思っていたよ。……というか、弱っている君をまだ戦わせようとする俺が、人でなしなのかもしれない」
「そんなこと……!」
「でも、力を貸して」
毛布の上に、テオが何かを放ってきた。手を伸ばして掴んでみると、それは細長く小さな魔装具だった。掌の上で転がせる程度の大きさだ。それが二つ。
「これは?」
「特製魔装具だよ」
「……本当にコンテナと変換機さえあればなんでも作れるんだな」
感心というより呆れた気持ちで、エリオットはそれを眺める。
「本来魔装具って言うのは、エナジーをエネルギーに変換して『放出』する代物だ。でもその魔装具は逆。周囲のエナジーを『吸収』する性質を持っている」
「ということは……」
「そう。魔装具を発動させている間、君は以前のように戦うことができるだろう。ついでに俺が魔術を使っても影響は出ない。ただ、そんなに長い時間は無理だけど」
それでも十分だった。大口をたたいても、やはり以前のようには動けない。それを多少でもこの魔装具が軽減してくれるのなら。
「――なんて、これは都合の良いものじゃないんだよ、残念ながら」
「は!?」
あっさりテオはエリオットの夢をぶち壊した。うまい話には裏があるとはよく言ったものだが、まさか良くないこともあるのか。
「まず、超特急で整備した魔装具だからどれだけの時間効果があるのか、俺が分かっていない。とにかく場所を間違えると、敵のど真ん中で効力を失いかねない」
「あ、ああ……」
「次のほうが重要だ。その魔装具は、あくまで一時的に、君の負荷を軽くするに過ぎない。効果が切れれば、普通ならゆっくりかかるはずだった負荷を一気にその身に負うことになるよ。……それだけ急激に症状が悪化するってことだ」
言われて、エリオットは手の中の魔装具に視線を落とす。
これを使えば、戦える代わりに一気に症状が進む。使わないという手を選べば、それだけ長く生きながらえることができる。まさに、諸刃の剣。選択の代わりに、代償が付きまとうのだ。
「使いどころは、君が決めて。絶対、サポートするから」
「……ああ。ありがとう」
使わないという選択肢は、最初からない。何をしてでも戦わなければならない。
最初はテオの目的に付き合う形だった。――けれど今は違う。人が次々と魔物化した、このネルザーリの惨状を見て――放置はできないとエリオット自らが思ったのだ。だからテオに力を貸すだのなんだのということではなく、エリオットはエリオットの意思で戦いの場に赴く。責任は、自分でとる。
「夜が明けたら出発しよう。それで平気?」
「平気だ、心配しないでくれ」
「心配しますって。なんせ俺、君より七つも年上ですもの」
茶化した様子のテオに、エリオットは苦笑する。そういえばそろそろこの男、三十路突入だ。――正直信じられないが。
「おじさんに面倒かけないよう、若者が働かないとな」
「あっ、おじさん呼ばわりは聞き捨てならないな」
「年齢を話のネタにしたのはあんただろうが」
どこか懐かしい会話を交わしながら、ネルザーリの夜は更けて行く。こんな時だというのに、ひどく穏やかな時間だった。
翌朝はよく晴れた天気だった。集会場の外に出たエリオットは朝の空気を肺いっぱいに取り込み、そして息を吐く。こうすることが傭兵時代の日課だった。首都近郊の平原と同じく、この山中も空気が綺麗だ。
一晩休んで、歩く分には問題ないほどまで回復した。いや、身体が慣れてしまっただけか。とにかく、朝から一度も眩暈らしいものはなかった。剣も抜いてみたが、大丈夫そうだ。
街の入り口に停めてあった警備軍車両――首都からここまで走らせてきた、エリオットたちの足。車が嫌いな自分でも、ここまでくれば愛着が湧くというものだ。
車両の傍に人が集まっている。首都へ戻るテオたち、残りの源泉を止めに行く劇団『エース』。そして魔物化の脅威から解放されたネルザーリの住民たちだ。
姿を見せたエリオットに、真っ先にイシュメルが声をかけてくる。
「調子は万全か?」
「はい」
短い言葉に偽りはないと見えたか、イシュメルが微笑んで頷く。ボンネットに寄りかかっていたテオが身体を起こし、大きく伸びをした。
「さて、それじゃ各々出発しますか。イザード、運転よろしく!」
「いちいち言われんでも分かっとるわ!」
ぶつぶつ言いながらイザードは運転席に乗り込む。ガイアが口を開いた。
「おめぇらには世話になってばかりだな。ちったぁ借りが返せるよう、こっちも気合いいれて行ってくるぜ」
「貴方がたはネルザーリの恩人です。どうか、ご無事で」
町長ウォードも、深々と頭を下げる。テオとイシュメルも座席に乗り込んだところで、エリオットは視線を転じる。そこには、不安そうに佇むセイラがいた。
セイラは劇団『エース』として、源泉停止作業に当たってくれる。正直なところエリオットなどは「ついていきたいと言い出すだろうか」と構えていたが、幸か不幸かセイラはそれを言い出さなかった。セイラが共にいても、エリオットには守ってやる余裕がないかもしれないのだ。
「エリオット……」
名前だけぽつりと呼ばれる。エリオットは彼女の前に進み出て、微笑んだ。
「大丈夫。また、すぐに会えるよ」
「私たちも、すぐ首都に向かいますから。死なないでください……」
「セイラも無理だけはするなよ」
頷いたセイラは、自分の左腕に手を当てた。そこにはセイラがいつも身につけている腕輪があった。一見すればただの金属の装飾品だが、よくよく見れば繊細な彫刻が施されている。その彫刻はエリオットも知っている――今はもうこの国では見ない獅子という動物と、それに挑むひとりの人間を描いた姿。ベレスフォードでは昔から、災難避けのお守りとして親しまれてきた彫刻だ。
セイラはその彫刻の彫られた腕輪を外し、エリオットの左腕に嵌めた。膂力がある割に細腕のエリオットの腕にも、大きめのそれはきちんと嵌った。
「故郷を出るとき、母が譲ってくれて……ずっと、私はこれに守られてきた。だから、エリオットに預けます」
「……ありがとう。次会ったとき、絶対返す」
セイラはもう俯いていなかった。エリオットは短く別れを告げて、後部座席に乗り込んだ。それとほぼ同時に、イザードが車を発進させた。突然のことに、エリオットがひっくり返りそうになったのは言うまでもない。
「うわっ……と、おい、急発進は事故のもとだぞ」
「イザード、直線最短距離ですっ飛ばしていいよ」
「直線というと途中に湖があるが、これは水陸両用なのか?」
「キュウッ」
「うるさいぞお前ら! 舌噛むぞ!」
ほぼ一斉に口を開いたエリオットたちにイザードが一喝した。山道という悪路を逞しく警備軍車両は進む。首都コーウェンへ向けて、ただひたすらに。
★☆
ネルザーリのあるネルザ山は、ベレスフォード最北部に存在する。ここから遥か南方、海の傍に首都コーウェンはあった。首都を発ってネルザーリに到達するまでおよそ二か月。とはいえエリオットたちは道中あちこち寄り道をしていたから、この日数はあてにならない。首都だけを目指して車を走らせたら、果たして何日で帰り着くのだろう。
これまではエリオットの要望で、夜間は車を停めて休息を取っていた。しかしここに来てエリオットがそれを要求するはずもなく、イザードとテオが数時間おきに運転を代わる形で休みなく車を走らせる。慣れてきたのかもう既に酔っている状態なのか、エリオットも車酔いをあまり気にしなくなっていたのだ。
首都が見えてきたのは――なんと、ネルザーリを出発してたった五日後のことだった。エリオットは半ば呆然として、遠方の首都の城壁を眺める。
「二か月かかったのに……たった五日って……」
「ベレスフォードは東西には広いけど、南北にはそれほどたいした距離がなくてね。障害になるような山や川もないから、本当に一直線だよ」
隣に立つテオの言葉に、そんなものなのかとエリオットは苦笑を浮かべる。
首都の隣街タルボットに到着したのが、この日の早朝だった。そこでテオは車を下りることを決断した。頻繁に連絡を取り合っていたヨシュアからの報告では、首都コーウェンは城門という城門をすべて閉ざし、籠城の構えを取っているという。そんな街に車が一台で近づけば、怪しまれることは必至。だからタルボットから首都まで、徒歩で向かうことを選んだのだ。
そうして半日近く歩きつづけ、小高い丘を登り切った一行の目の前に首都の城壁が見えてきたというわけだ。確かに通常出入りが多く賑わっていた城門は固く閉ざされている。なにより、その城壁の周辺に大勢の傭兵の姿があったのだ。
「かなり警戒されているようだな。私たちが戻るのは筒抜けってことか」
「大袈裟だよねぇ、ははは」
イザードの深刻な声と対称的に、テオはあっけらかんと朗らかだった。たった四人を迎え撃つのに、桁違いの傭兵をそろえる。一見してかなり弱腰に見えるが、相手としてはそうならざるを得ないのかもしれない。歴戦の傭兵二名と、治安維持隊の隊長、そして底知れぬ魔力を持つテオという男――確実に潰すために、兵力をそろえる。敵も本気ということか。
と、イシュメルが少し離れた場所で首都とは別の方向に視線を送っていることに気付いた。エリオットがその視線を追いかけ――そして理解した。
視線の先、丘の頂上にひっそりと建てられたひとつの石碑。周辺に未だ残る、穿たれたような巨大な地面の穴。
――ここは、ジェイク傭兵団が壊滅したその場所だ。イシュメルにも見覚えがあるはず。
「あの石碑は、テオが建ててくれたんです。あいつ、聖職者でもないのに祈りの儀式とかやけに手馴れていて……」
「……有難いことだ。ジェイクたちの死を忘れないでいてくれる人間が、私とお前以外にもいてくれる。それだけで、嬉しいよ」
イシュメルは目を閉じ、その石碑に向き合っていた。しかしそれもほんの数秒のことで、彼はすぐに石碑から視線を外した。
「墓参りは、いずれゆっくりするとしよう。今は目の前のことを片付けなくてはな」
「はい」
エリオットはテオを振り返る。首都への潜入ルートをテオとイザードは話し合っていた。陽気に振る舞っていたからてっきりテオには秘策があるのかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。
「お前が隠していた下町への抜け道、あれを使えばどうだ。あそこなら見張りも薄いだろう」
「いや、あそこは駄目だ。見張りが薄いって言ったって、あの道を使えば絶対に存在を知られちゃうよ。そうなったら下町が危ない」
「なら、他は? お前のことだ、あと二、三は抜け道を持っているんだろう?」
「ご名答、と言いたいところだけどちょっと難しいかな。どれも城門の傍まで行かないと使えない」
ことごとく却下され、残った道はただひとつ。だがそれを口に出すのがイザードはたまらなく嫌なのか、押し黙ってしまう。代わりに口を開いたのがイシュメルだ。
「結局、あの傭兵の大部隊とぶつかるしかないということか」
「その通りですね」
「それは少々骨が折れるな」
「骨が折れる程度で済めばいいがな!」
イザードがやけくそのように頭を掻く。淡々としているイシュメルはいつも通りで、エリオットも常ならばそれなりの自負を覗かせたのだが――今回ばかりは、不安要素が多すぎた。魔物の大軍を狩ったことは何万回とあれど、人と戦った経験は少ない。何よりエリオットは満足に動けない状態だ。立って歩き、走り、剣を振ることはできる。だが何分もつか。
エリオットが何とも言えないでいるうちに、テオがひらひらと手を振った。
「大丈夫、俺に考えがある――エリオット」
「ん?」
テオが真正面からエリオットを見据える。
「ネルザーリで渡した、あの魔装具。あれを試したい」
その言葉にイザードが呆れたように肩をすくめる。
「考えってまさか、エリオットに存分に働いてもらおうって意味じゃないだろうな?」
「そんな鬼畜なことはさせないよ」
テオが苦笑した。その笑みを見てエリオットははっと思い出した。テオが作ってくれた魔装具――周囲のエナジーを吸収し、エリオットの負担を和らげてくれるもの。それにはもうひとつの効果があると言っていたではないか。
テオが使う、魔装具を媒介としない魔術。それによって消費されるエナジーもまた、軽減されると。
「テオ、あんた……ひとりであの大部隊を一掃する気なのか?」
問いかけると、テオがまたエリオットと向き合う。
「それが一番、手っ取り早い」
「けど!」
「言ったでしょ、それは試作品だ。いきなり実戦で使用するにはリスクが大きすぎる。だからある程度余裕がある場面で、試験的に使ってみたかった。今回がそのチャンスなんだ。ここで一度使っておけば、効力が何分持って、君がどれくらい動けるのかが把握できるでしょ」
いつしか全員がテオを取り囲んでいる。エリオットはちらりとイザードを見た。彼の表情は――曖昧。おそらくイザードも、テオがそこまで大々的に魔術を使ったのを見たことがないのだ。
「敵の数も減らせる。民衆も反撃をしようと立ち上がるだろう。キースリーも焦るはずだよ」
「俺は、あんたの身体の心配をしているんだ。そんな魔術を使って、反動がないとは思えない」
「大丈夫だよ。前に言ったでしょ、俺には、エナジーへの耐性を超えた抗体みたいなものがあるんだって。忘れちゃった?」
「覚えているけど……」
「実際にその魔装具を使って反動が強いのは君だ。だから強制はしない。でも、できたら使ってほしい」
なおも反論しようとしたエリオットを押さえ留めたのは、意外なことにイシュメルだった。
「テオに任せよう。この兵力差では、さすがにどうしようもならない。できるというのなら、信じてみようと私は思う」
「イシュメル……」
「ただ――テオ。この場でこれを言うのは、場違いなのだろうが……あまり殺生をしないでやってくれ。行き場を失いキースリーの下についた者たちだが、同じ国の民だ」
エリオットとイシュメルにとっては、ただの敵ではなく「同僚」なのだ。もし何か違っていれば、自分たちがキースリーの下についた可能性がある。イシュメルの要望にも、「無茶なことを」などとテオは言わなかった。むしろ微笑んで、当然だとばかりに頷く。
「気持ちは俺も同じです。任せてください」
視線を受けたイザードが不承不承頷く。エリオットもまた、引き下がった。魔装具を起動させるなら、エリオットも自由に動ける。窮地に陥っても、きっとどうにかできる。
「エリオット、魔装具を起動させて」
丘の頂上に立ったテオが、二歩ほど後ろに控えたエリオットに声をかける。エリオットは懐から魔装具を取り出した。一見して小瓶のような形をしている、小さな小さな魔装具――テオの技術の結晶。
取り付けられていた金具を、一気に引き抜いた。起動動作は、それだけだ。いまだかつてないほどに呆気ない起動。
だが――効果は絶大だった。
きっとイザードにもイシュメルにも分からない。けれどエリオットには分かる。今まで、水の中でもがいていたような重苦しい身体が、あっさりと動く。身体が軽い。
エナジーの圧迫感は、目に見えない分凄まじいのだ。久方ぶりに水面から顔を上げた者のように、エリオットは慌ただしく呼吸を繰り返した。傍目に見れば、何もしていないのに息切れを起こしているようにしか見えないだろう。それが収まってしまえば、劇的な変化が待っていた。あれほど自分を苦しめていた四肢の重さも、頭のだるさもない。エリオットは唖然として、自由に動く自分の腕や足を見つめた。
「調子はどう?」
テオに問われ、エリオットは僅かに微笑む。
「最高」
「そりゃよかった。俺も、いつもより身体が軽い」
振り向いたテオの赤い瞳が――いつだってやる気なさげなその瞳が、今だけは爛々と輝いて見える。ぞくりと悪寒を覚えたのは、気のせいではないだろう。エリオットの研ぎ澄まされた第六感が、テオの身体に満ちる強大な力を察知したのだ。
テオはあの抑制器つきの眼鏡をかけなかった。正真正銘、これがテオの本気。
「それじゃ行きますか――」
テオの足元に、光の渦が現れた。魔装具を使う時に現れる、妙に精密な魔方陣ではない。溢れる魔力をそのまま表現したかのような、強い光だ。初めて見るそれに、エリオットは思わず後ずさる。
その光は、遠く離れた城壁の傍にいる傭兵たちにもしっかり見えたようだ。遠目に、傭兵たちが集まり、こちらを警戒しているさまが見える。
警戒したところで、遅い。
多分、テオの魔術からは逃れられない。
テオの右腕に光が収束した。そのまま、その腕を前方斜め上空へ向ける。光は一本の矢となって空へ撃ちだされ、傭兵たちの頭上で静止する。地上の傭兵たちは慄いて空を見上げた。
これから何が起こるのか、誰も分からない――テオ以外には。
「――囲め」
その呟きと同時に、光の渦が弾けた。
『restriction』
それからは、圧巻だった。
光はまるで意思を持っているかのようだった。集まった傭兵たちを囲み、そして彼らを宙に吊り上げたのだ。半透明な光の球の中に閉じ込められた傭兵たちは、盛大に悲鳴を上げた。いや、誰だってそうだろう――とエリオットは気が抜けたように笑ってしまう。ほんの数秒前まで地面についていたはずの足が浮いて、空中浮遊してしまっているのだから。
内側から叩いても剣で切りつけても光の球は割れず、傭兵たちは身動きが取れなくなった。テオが解くまでか、時間が経過するまではこのままなのだろう。テオは悠々と、百人近い傭兵を閉じ込めた光球の下を歩いていく。
「さ、これで首都には入れるね。でも街の中にも傭兵は大勢いるだろうから、そこは強行突破だね」
あれだけの魔術を使っておいて、疲れの色を見せないテオには呆れたものだ。
「ああ。任せろ」
エリオットは剣の鞘を掴んで軽く持ち上げた。
テオは一人で立派な仕事をしてくれた。立ちはだかる敵を、たった一人で排除した。殺めるどころか、たったひとりに傷さえ負わせなかったのだ。
ここから先は――エリオットやイシュメルの役目だ。敵中を突破し、万屋へと帰る。シンプルなその目的に、エリオットは久々に戦いの興奮を感じていた。