File eighteen 仲良しは素敵なことです。
人騒がせなお嬢様だよ。
★☆
「やれやれ、えらい目に遭った」
イザードが警備軍車両のハンドルを握りながら、そう溜息をついた。助手席にはイシュメルが座り、後部座席では少々の怪我を負ったエリオットの手当てをテオがしている。
突如として結界系魔装具が異常を来し、絶対だったはずの結界が消えた。魔物が大挙して街を襲撃したが、居合わせたテオたちや駐在の警備軍のおかげで大事には至らなかったのは不幸中の幸いだろう。
警備軍に事情を説明する、なんて言いながら、イザードにその気は全くなかったらしい。事態が収まってきたと判断したとき、彼らに何も告げずに街を脱出していたのである。
これではますます逃亡犯として追手がかかるなあ、などとぼやいているイザードの隣で、イシュメルが顎をつまむ。
「しかし何が起きていたのだ? 結界が消えるなど、魔装具が実用化されてから一度も聞いたことがない」
イシュメルの疑問はもっともだった。魔装具が実用化され、二十年あまり――政府の魔装具開発がひとえに『街を守る結界を作るため』の研究であったからこそ、結界系魔装具は特にその強固で揺るぎのないシステムが信頼されていた。そしてその通り、結界系魔装具が異常を来したという話はない。結界を作成したのは、ほかならぬテオだ。
テオは消毒液を滲みこませたガーゼをエリオットの腕の傷口に当てる。かなり痛く滲みたが、これしきでエリオットはいちいち声をあげない。
「消えたのではなく、何者かが消したんです」
「消した……?」
「それらしい怪しげな人間を、源泉の傍で見たんですよ」
ねえ、と同意を求められたのでエリオットも頷く。黒一色の装いの人間だった。声からして男だったか。
「そもそも、結界っていうのは魔物とその他の生き物を区別できるように設定されている自律した代物です。魔物が等しく持っている濃いエナジーの細胞を認識するようになっている」
だから結界は、魔物だけを弾き人間や他の生物を受け入れる。おそらくチコは、まだ魔物としては成熟していないために感知されなかったのだろう。
「けどあの時俺が感じたのは、強烈なエナジーの塊みたいなものだった。それを街の結界にぶつければ、結界は魔物の大群だと認識して対抗する。しかし結界の力及ばず……バン! ってことでしょうね」
破裂音と共にテオは軽くエリオットの傷を掌で打つ。さすがにエリオットが痛みに声を詰まらせた。
「つまり、その怪しい人物は政府の魔装具技師か?」
イザードがハンドルを右に切りながら尋ねる。
「多分ね。素人が適当にいじっただけではああはならないよ」
源泉を意図的に活性化させ、かなり濃い濃度のエナジーを街の結界にぶつけ、結界を消滅させた――なんのために? どういうつもりでそんなことをしたのかは分からないが、ひとつだけはっきりしたことはある。
政府にテオらの現在地を知られてしまったこと。そして、ついにその妨害が始まったということだ。
「ここ最近、戦い続きで目立ってたしね。当分荒事は却下だなあ」
そのテオの言葉に『何を呑気に』と突っ込みたくなったが、的を得ている。目立てばそれだけ人の記憶に残り、追跡が容易くなる。警備軍にも捜索指示が出ているようだし、行動は控えた方が良さそうだ。
何より、連日の戦いで酷使した身体が痛いのだ。体力が落ちたなあと内心でぼやきつつ、肩をもみほぐす。そんなことをイシュメルに知れれば、おそらく強化訓練の刑を受けるだろう。さすがに旅の間にそれは困るから、なんとか自力で体力を戻さなければ。
「次はミューンの街だな。テオ、あとで運転替われよ。長い道のりなんだから」
「うん、寝てなかったらね。おやすみ」
「寝る気満々じゃないか、こら!」
イザードの抗議も虚しく、テオはシートに背を預けて熟睡モードに入ったのだった。
すっかり車内で寝る癖がついたエリオットは、またしても気付けば寝落ちしていた。シートにずり落ちた身体を起こすと、車はほぼ揺れもない状態で走行を続けていた。ただ違うのは、運転手がイザードからテオに変わっていることだ。
つまりどこかで一度車を停めたはずなのだが、さっぱり記憶がない。油断して気が緩んでいるのだろう。必ず誰かが起きていてくれると信頼してしまうから、こうして油断する。
「お目覚めかい。まったく、みんなしていい気なもんだよ」
バックミラー越しにこちらを見たテオが恨めし気に呟く。声量を控えているのは、助手席とエリオットの隣でイシュメルとイザードが休んでいるからだろう。
「よく寝てたね」
「この席、結構身体に馴染むんだ」
「普通の人は車のシートで爆睡なんてできないと思うけどね」
「傭兵暮らしからすれば、極上のベッドだよ」
それはそうか、とテオは笑ったが、その笑みはすぐに消えた。エリオットが不自然に思って首をかしげると、ややあってテオが口を開く。どこか躊躇いがちな声だった。
「君は……身体が重いとか、気分が悪いとか、ない?」
「……いや? 特にはない」
「ならいいんだけど」
「どうしたんだ、急に?」
この妙に改まった雰囲気は、明らかに只事ではない。テオがこんな話し方をするときは、いつだって何か悪いことが起きているのだ。
それを理解しているエリオットは軽く身を乗り出した。テオはハンドルを握って前を見たまま、呟くように言う。
「杞憂ならいいんだけどね。さっき、ほんの一瞬とはいえ君は意識を失うほどのエナジーを浴びたんだ。それがどういう影響を及ぼすのか正直俺にも分からない。けど、身体に良いってことはない……絶対に」
「それって……つまり、俺が魔物化するかもって?」
テオはうんともすんとも言わなかったが、それは肯定を表していた。
可能性の話だ。だがそれでも、自分がカーシュナーやユリのようになってしまうかもしれない。――それを考えただけで、ぞくりと背筋に悪寒が奔る。
「だから気を付けて――と言っても、気をつけようがないんだけどさ。世界はエナジーを中心に回っているわけだし」
「もし俺が魔物化したら、テオは俺を……どうする?」
答えはふたつにひとつ。助けるか、倒すか。
「もしそうなったら……」
テオはそこで言葉を切る。重苦しい沈黙を挟んで、テオは決断を下した。
「君を殺す」
迷いのない一言だった。不思議とエリオットに動揺したり、恐怖したりという感情は芽生えなかった。ああ、テオらしいのかもしれない――そう思ってしまうほどの思い切りの良さだ。
しかしテオはそこで僅かに表情を緩めた。
「……つもりでかかる。カーシュナーやユリさんと違って、君は戦いのプロだ。生半可だと俺がやられちゃうし」
「そうか……」
「もう、誰も俺の目の前で死なせない――」
テオの静かな決意に、エリオットは絶対の信頼を寄せて頷いた。イザードもイシュメルもいるのだ。きっとなんとかなる――楽観的と言われても、そう思うだけで気持ちが軽くなるというものだ。
車窓の向こうに、小さく街の城壁が見えてきた。目指す街、ミューンだ。
★☆
ミューンの街は、地方でかなりの権力を持つミューン伯爵の治める街だという。
ベレスフォード共和国というのは、もともといくつかの小国家の集合体であるらしい。もう何百年も前の話であるが、王政、共和政、貴族政、神政、様々な政治体制の国家がひとつになった国なのだ。各地にはそれぞれ昔の名残が残っているらしく、一方では都市国家の様相をなし、一方では自治領制をなす。それらすべてを認め、まとめあげてきたのは、確かにこのベレスフォードの功績といえるだろう。地方の統治者たちが勝手をしないよう、中央から頻繁に厳しい監視が来るそうだ。
そして到着したミューンは、城壁に囲まれた堅牢な城塞都市だった。かつては都市国家として他国との戦争の渦中にあり、街そのものが砦になっている。しかし城塞設備は使われなくなって久しく、石造りで無機質な外見とは裏腹に、街中の雰囲気は和気あいあいとしたものだった。煉瓦石を中心に作られた街並みは近代的で、しかし息苦しい感じは一切しない。
車を駐車場に停めて、エリオットたちは街を歩いた。煉瓦が敷き詰められた石畳の坂の両側には多くの商店が並び、若者たちが買い物を楽しんでいる。それを見ていたエリオットは、ふと甘い匂いを感じて視線を転じた。
「花か……」
これもまた煉瓦で囲われた花壇に、色とりどりの花が咲いていた。花壇はあちこちに作られており、よく見てみればこの街は花と甘い匂いで包まれている。
「この街は気候が安定しているから、色んな花が育ちやすいんだそうだよ」
テオが見かねてそう説明した。彼の肩の上では、飛んできた赤い花弁を口に咥えて遊んでいるチコがいる。その様子を見るとエナジーの源泉の気配は遠いらしい。
「へえ、さすがよく知ってるな」
「カーシュナーが前に教えてくれたんだ。ここは花の街だってね」
「そういえばそんなことを言っていたなぁ」
イザードも思い出したように頷く。先を行くイシュメルが肩越しに振り返った。
「エルバートは花が好きだったのか?」
「花だけじゃなくて、音楽も、読書も、書も、絵画も」
「ふむ……随分と優美な趣味だな」
「あいつはお前の弟のくせに、運動神経は壊滅的だったからな。似ていない兄弟だ」
呆れた口調のイザードに、イシュメルは朗らかに笑って聞いている。エルバート・カーシュナーの話を出すと辛いのではないかとエリオットは思っていたのだが、どうやら逆のようだ。赤ん坊のころしか知らない自分の弟のことを知るのは、イシュメルにとって嬉しいことらしい。
このまま街をひとまわりして、少し休んだら源泉を探しに行く。それがいつもの行動パターンだったのだが、ぴたりとエリオットは足を止めた。そして後ろを振り返る。
「どうした?」
テオが気付いて戻ってきた。エリオットはほぼ無意識に剣の鞘を握って持ち上げた。
「……誰かがつけてきている」
察知したのは、何者かの視線――それなりに訓練はしているようだが、エリオットに悟らせないようにするにはまだ甘い。言われてテオも気づいたようだ。
「路地に入って撒くか」
「――いや、もう無理なようだぞ」
エリオットの言葉を否定したのはイシュメルだった。ちらりと後ろを見やると、年長組もまた足を止めて軽く身構えていた。四人はそのまま、背中を預けあう。
現れたのは武装した十人ほどの男たちだった。着ている服や持っている槍型の魔装具に描かれている紋章は、ミューンの至る所で見かけたものだ。つまり彼らは、ミューン伯爵の私兵団だ。
往来のど真ん中でじわじわと包囲されていく。住人たちも驚きや不安の目でこちらを見ていたが、気にする余裕はない。エリオットは僅かに鞘から刃を覗かせ、腰を落とした。
「これは、政府からの捜索かな」
「かもねぇ」
「どうする、抵抗するか」
イザードがホルスターから銃を引き抜く。テオが僅かな時間躊躇ったその時――。
「お待ちになって」
緊迫したこの場に相応しくない、軽やかな少女の声だった。私兵たちがはっと身構えを解いたが、エリオットらはいまだ警戒を解かない。
現れたのは、声の予想通りの小さなお嬢様だった。薄桃色のふんわりとしたドレスを身にまとい、ちょこちょこと兵士たちの間を縫って前に出てくる。
なんかちょっとリオに似ているかも――とエリオットは思ったのだが、彼は最近、無意識に妹と同年代の少女を見るとリオノーラを思い浮かべてしまう症状に陥っていたのである。なのであまりあてにはならないが、貴族の令嬢という一点においては確かに服装も雰囲気も似ているところはあった。
少女は身構えるエリオットの前に進み出て、ドレスの裾をつまんで優雅に一礼してみせた。
「ごきげんよう、旅のお方。わたくし、ミューン伯の娘メレディスと申します」
「……伯爵令嬢が何の用だ?」
エリオットはテオのように柔らかい物言いができない。自覚しているがこのときは治す気などなかった。だが少女のほうもかなり肝が据わっていたようだ。
「安心してくださいませ、みなさまを捕縛するつもりなどありませんの。少しお話がしたいだけですわ。……ほら、みなさん武器を下ろしなさい」
伯爵令嬢メレディスの穏やかな制止に、兵士たちも武器を下ろした。ゆっくりと身構えを解いたエリオットらに向けて、少女は柔らかく微笑んだ。
「立ち話もなんですから。こちらへおいでくださいませ」
案内されたのは少々小高い場所にある伯爵の屋敷だった。首都にあるオースティン伯爵家などと比べると小規模だが、地方の一貴族の屋敷としては破格の巨大さだ。話に聞いていた通り、ミューン伯爵という人はかなりの力を持っているのだろう。
通されたのは屋敷の一階にある応接間のひとつだったが、個室ひとつで万屋のリビングよりもはるかに広い。久々の感覚に、エリオットは目が回りそうだ。
客人として招かれたのは本当のようだ。拘束や見張りもなく、お茶まで侍女たちが出してくれた。そうしてメレディスと向き合ったが、彼女は警戒してソファに座ろうとしないエリオットらを見て首を傾げた。
「どうぞお座りになって?」
最初に従ったのはテオだった。それを見て残りの三人もソファに腰を下ろす。テーブルに置かれたのはかなり高級な紅茶なのだろうが、生憎この場にいる男たち四人はみなコーヒー派だった。
ここから先の交渉は、テオに一任だ。儀礼的に紅茶に口をつけたイシュメルが、軽くエリオットに頷く。毒物の類の心配はなさそうだ。それを確認してからテオはメレディスに向き直る。
「さて……お招きいただいたのはこちらとしても光栄なんですが、急ぎの旅の途中でしてね。良ければ早速、お話を伺いたいのですが」
「ではわたくしも率直に申し上げます。貴方がたにひとつお願いがあるのです」
メレディスの真剣な顔に、テオがへにゃんと微笑む。相手を安心させる笑みでありながら、まったく抜け目のないテオの営業スマイル。
「どこの誰とも知らない俺たちに?」
「ええ。貴方がたが政府から指名手配されていて、マレイの街を魔物から守り結界を修復した――なんてこと、わたくし存じ上げませんわ」
穏やかな雰囲気に水面下で亀裂が入る。この少女は、エリオットらが指名手配されていることを知りながら、何かを依頼しようとしてる。拒否すればどうなるかは、一目瞭然だ。
「……いいでしょう、お話を伺います」
テオの言葉にメレディスは微笑む。にこにこしているが、その実はテオと同じでまったく油断のできない少女かもしれない。
「そう言ってくださると思っていました。……貴方がたの戦闘力を見込んで、お願いします。どうかわたくしの代理人として、決闘に参加してはいただけませんか?」
「決闘?」
「ご存知かもしれませんが、隣街のエレイン伯爵と我がミューン伯爵家は、古くから街道の交易権をめぐって対立関係にあります」
ミューンの街の傍に、まったく瓜二つのような都市国家の名残を遺す街がある。それがエレインだ。この二つの街の仲が最悪であるというのは有名な話らしく、エリオット以外の面々はそれぞれ頷いている。
「エレイン伯爵家の娘ラーラと、先日ちょっとした口論になりまして……埒が明かなかったので、一対一で決闘をしようということになったのです」
「それはまた……思い切った決断ですね」
テオは濁したが、思い切ったどころか短絡的すぎやしないだろうか。ここまで聞けば、メレディスが一体何を言いたいのかエリオットにも理解できる。嫌な予感だ。
「それぞれ代理人を立てることになりましたが、私兵団は使わないという制約。なので、丁度よく街にいらっしゃった貴方がたに声をかけさせていただきましたの。たった四人で街を守り抜いたという噂は、マレイから流れてきていますわ」
「俺たちは政府に追われているんですよ。拘束もせず協力を仰いだなどと知れれば、貴方がその責を被るんですよ?」
テオの忠告に、メレディスは真面目な顔で頷いた。軽く身を乗り出し、じっとテオを見つめる。
「それでも、わたくしは勝たねばならないのです」
意志は固い。真剣な眼差しからもそれは見て取れた。テオは諦めたように息を吐き出し、それでもまだ抵抗を試みる。
「しかしですね、貴族のご令嬢同士の決闘などに参加すれば、顔が知れてしまいます」
「それはご心配なく。ローブでもマスクでも仮面でも、なんでも用意いたしますわ!」
そこまで言われてしまえば、弱みも握られていることからも断りようがなかった。
代理人はひとり。テオか、エリオットか、イザードか、イシュメルか。
決闘の大きなルールは、互いに『素手』であること。殺し合いではないので武器は厳禁とのことだ。貴族の決闘で殴り合いとは――とエリオットは苦笑してしまう。
「俺の身体能力はたかが知れてるから、まず俺は論外じゃん?」
「おいこら」
何が「論外じゃん」だ、とイザードが突っ込む。テオはそのイザードに視線を向けた。
「で、イザードは最近肥えて動きが鈍っているので却下」
「……」
「そうなると手堅く、エリオットかイシュメルさんしかいないわけだけど」
エリオットと顔を見合わせたイシュメルが、軽く左手を広げる。
「だが私はこの身体だ。隻腕はかなり目立つぞ」
「隻腕じゃ戦えないって理由じゃないんですね……」
むしろ勝つ気満々なイシュメルに、エリオットは苦笑する。テオが頷いた。
「じゃ、やっぱりここはエリオットかな」
「……別に良いけど、俺も俺で目立つだろ? 主に髪の色で」
黒髪は異国の血が流れる証。この国ではオースティン伯爵の一族にすぐ結びつくため、目立つことは避けたい。ここは良い意味で何の変哲もないテオが引き受けるべきではないか――しかしテオはにっこりと笑った。
「頭からマスク被っちゃえばいいんじゃない?」
「そっちのほうが余程目立つわ」
仕方がない。黒髪を隠すことは諦めたほうが良さそうだ。
話がまとまったのを見計らって、メレディスがソファから立ち上がる。彼女はエリオットに向けて深々と頭を下げた。
「決闘は三日後の正午に、街の外で行います。よろしくお願いしますわ」
こんなに真剣に頭を下げられては、勝つしかない。本来は厄介ごとを嫌うエリオットだが、このときは使命感のようなものが胸の中に芽生えていたのである。
★☆
決闘当日は、見事な快晴だった。
この日までまる二日、メレディスが食事や寝床を提供してくれて至れり尽くせりだった。問題だったエリオットの黒髪だが、彼女からフード付きのローブを貸してもらい、顔まですっぽり隠すことができた。真夏に黒いローブは暑苦しいし動きにくいが、仕方がない。
街の周囲はだだっ広い草原地帯である。草原のど真ん中に堂々と立つメレディスの傍に、フードを被ってエリオットが立つ。腰の剣はテオらに託し、彼らは少し離れた場所でそれを見守っている。勿論、彼らも顔がばれてはまずいので陰からそっとである。
やがてふたりの人間がエリオットの前に現れた。ひとりは屈強な中年の男性、もうひとりはメレディスと同い年らしき少女だ。彼女がエレイン伯爵令嬢ラーラだろう。淑やかそうな外見は、少しリオノーラとは結びつかない――なんてことを思った頭を、エリオットは軽く振る。
メレディスとラーラの間に、静かな闘志の炎が燃え上がっている。先に口を開いたのはメレディスだ。
「逃げるかと思いましたわ」
「ご冗談を。なぜわたくしが逃げるのかしら」
両者とも随分と自信満々だ。ちらりとラーラの代理人の男を見やると、彼もまたやる気に満ちていた。この場で自分だけ冷めているのもどうかとは思うので気持ちを上げようと思うが、どうもうまくいかない。
「そちらの黒衣の方が貴方の代理ですの? 随分とまあ怪しげな方を見つけられたこと」
ラーラの痛い視線が向けられるが、極力声は出さないように努める。ふん、とメレディスが腕を組んだ。
「甘く見ると痛い目に遭いますわよ。……さあ、今日こそ決着をつけましょうラーラ」
「ええ、そうですわね」
少女二人の間を、生暖かい風が通り抜ける。緊迫したその雰囲気に、ここにきてやっとエリオットもやる気が出てきた。
『――どちらがあのドレスに相応しいかを!』
「は!?」
出さないと決めていたのに、思わず声が出てしまった。そんなエリオットの驚愕も無視して、令嬢二人は語調を強めた。
「涼やかな青、それが似合うのはわたくしですわ! ラーラ、貴方には似合いません!」
「何をおっしゃるの、メレディス! あれはわたくしの父が、わたくしのためにと特注してくださったドレスですのよ! 似合わないはずがないです!」
「けれど先に同じ色形のドレスを手に入れたのはわたくしです! 後からそれにいちゃもんをつけてきたのはラーラですのよ!」
「わたくしが!」
「いいえ、わたくしが!」
ぽかんとしてそのやり取りを見ていたエリオットは、我に返って肩を落とす。
「ばっ――」
馬鹿馬鹿しい、と言いかけて口をつぐむ。彼女たちは真剣なのだ。偶然手に入れた時期と色形が被ってしまった「青のドレス」を着る権利をめぐって、真剣勝負の真っ最中なのだ。成程、これは口論で済む話ではないだろう。
「決着をつけますわよ! お願いします!」
メレディスの声を受けて、エリオットが滑るように前に進み出る。同じようにラーラの代理人も堂々とエリオットの前に立った。
男の構え方を見て、エリオットは冷静に分析する――確かに筋骨隆々とした男であるが、戦いで鍛えた筋力のようには見えない。大工なり土木作業なり、そういった仕事で鍛えられたものだ。怪力自慢ではありそうだが、おそらく怪力止まりの素人。
修羅場をいくつも潜り抜けてきた自分相手に、力だけでどうにかなると思ってもらっては困る。――本音を言えば、さっさとこの戦いを終わらせたい。
男が気合いのこもった声と同時に突進してくる。良い踏み込みだが、まだ遅い。
軽く跳躍すると、男の拳はものの見事に空を切った。よろめいた男の頭上を飛び越えて背後を取ると、右足を軸にして回し蹴りを放った。エリオットを見失ったその男は、呆気なく地面に倒れ込む。五秒にも満たない戦闘の決着だった。
「……え?」
その結果に、ラーラが呆けたような声を出す。必死で探し当てた自分の代理人が、まさかこの短時間で倒されるとは思わなかったのだろう。
「やりましたわ!」
戻ってきたエリオットの勇姿に、メレディスが歓喜の声をあげる。するとラーラが放心状態から解放され、顔を真っ赤にして食いついてきた。
「い、いまのは何かの間違いですわ! もう一度勝負を!」
「見苦しいですわよラーラ!」
「その男が不正をしたのです! この結果は無効ですわよ!」
必死なラーラの目元には、悔し涙が浮かんでいる。父親から贈られたドレスを着ることができないのは、さぞ無念だろう。気持ちは分からないでもないのだが、だからといってエリオットの戦いを不正と称されるのは我慢ならない。
「あのな――」
エリオットが反論しようとしたその時、そのすぐ脇を何者かが通り過ぎた。ぎょっとして見たその後ろ姿は、イシュメルのものである。
何しているんですか、と言いそうになったところでイシュメルが制止するように手を広げる。そして彼はメレディスとラーラを見据えた。
「もうこのあたりでやめにしないか。もう争う理由もなかろう?」
「いいえ、わたくしはっ」
ラーラが首を振った。勝利した優越感はあっても、メレディスも引き下がる気はないらしい。イシュメルは困ったように微笑んだ。
「それは困ったな。私はメレディス嬢とラーラ嬢、どちらのドレス姿も拝見したいのだが」
「え?」
「おふたりにはそれぞれ違った魅力がある。同じドレスを着たとしても、優美に見えることも快活に見えることもある。そこに優劣など存在しなかろう? おふたりとも青のドレスが似合うと思えばこそだ、私にふたりのドレス姿を見せてはくれないか?」
甘い口説き文句と優しい笑み。あまりにらしくないその姿にエリオットはぎょっとしていたが、令嬢ふたりはぽっと頬を赤らめた。これは――イシュメルにも意外な武器があったものだ。ストイックな彼だからこそ、恥じることなく口に出せる言葉だろう。
すっかり闘争心を抜かれたメレディスとラーラは、きゃーきゃーと嬉しそうな悲鳴を上げている。先程までのむき出しの敵意はどこにいったのか、ふたりとも手を取り合って喜んでいるではないか。
それを見て息を吐いたイシュメルに、恐る恐るエリオットが声をかける。
「……さ、さすが、慣れてるんですね」
「なに、貴族の令嬢たちが『他人とドレスが被るのは嫌だ』と思う気持ちは、昔から変わらないからな。同じような場面に出くわして、同じようにあしらったことがあるだけだ」
そういえばこの人、貴族だったっけ――エリオットは今更ながらにそれを思い出す。普段とのギャップにかなり苦しんだが、ともかく、令嬢たちのドレス争奪戦は一応の決着がついたのだった。