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万屋ですがなにか。  作者: 狼花
VOLUME Ⅱ
40/53

File sixteen 僕もお仕事できるもん。

 

 

 

 そうだよ、僕だってできるもん。





★☆





 小さく鼻歌を歌いながら、せっせと花壇の雑草を抜いていく。土に触れることをまったく厭わないリオノーラは、動きにくい上着を脱ぎ、綺麗な黒髪を結い上げて、強い日差しの下に惜しげもなく白い肌を晒している。花壇にしゃがんで小刻みに揺れる彼女の髪を見やり、ベンチに座るイアンは少し微笑んだ。


「楽しそうですね、リオノーラ」

「うん、お花育てるって楽しいね! っていうか、イアンそこにいて暑くないの?」

「暑いですけど、リオノーラのほうが暑いでしょう。熱中症になってしまいますよ」

「そうですよ、少し休憩してはいかがです?」


 場違いな声が響いた。その方向を見やると、室内から冷たいコーヒーのグラスを乗せた盆を持って、一人の青年が庭に出てきたではないか。悠々と盆をテーブルに置いたその相手を、じっとりとリオノーラは見詰めた。


「……で、なんで怪盗さんまでここにいるの?」

「だから怪盗ではなく、ヨシュアです」

「もうなんでもいいよ!」



 テオとエリオット、イザード、そしてチコが首都の下町を去ってからというもの、リオノーラはほぼ毎日この『万屋』に通っていた。滞在時間は短いものの、花というのは水やりを欠かせば萎れてしまう。平日はじょうろで花壇に水をやり、今日のような休日には雑草を抜いたり肥料を蒔いたりする。気が向けば室内の掃除もして、いつエリオットたちが帰ってきてもいいようにした。そんな生活を繰り返していたのだ。


 リオノーラは下町の住人にも愛されていたから、危険という危険はない。時間が合えばイアンもちょくちょく様子を見に来てくれた。リオノーラがここまで花の手入れに詳しくなったのは、ひとえにイアンのおかげである。ふたりで庭いじりをして、そのあと台所を少し借りてお茶をする。それが一番の楽しみだった。


 しかしもうひとり頻繁に姿を見せる者がいる――それがこの怪盗ヨシュアだった。

 彼はいつも唐突に現れ、しばらくするとふらっと姿を消してしまう。今日も、ヨシュアはコーヒー片手に突然現れた。最初こそ驚愕していたリオノーラとイアンも、さすがにもう驚かない。


 さすが兄妹、表情がよく似ていらっしゃる――なんてことを言いながら、ヨシュアはコーヒーを差し出してくる。怪しい男ではあるが危険な男でないことは理解していたので、リオノーラもイアンも素直にそれを受け取った。

 自分のコーヒーに口をつけてベンチに座り、ヨシュアは微笑む。


「私は貴女の兄上に、貴女のことを頼まれましたから。その任務の遂行中です」

「任務って……」

「有体に言えば監視ですね」

「もうちょっと違う言い方してよ」


 むっとしたリオノーラを相手にしても、ヨシュアは笑みを崩さない。


「ティリットの作業場には危険な魔装具がいくつかあるようですから、おふたりがそれに触れたら事ですし」

「そ、そんな迂闊じゃないもん!」

「そう信じたいものです。何かあれば、貴女の兄上に殺されそうですから」


 一転してリオノーラはきょとんと目を丸くした。あの優しい兄が、なんだってヨシュアを殺しかねないようなことになるのか。お兄様はそんな野蛮じゃない、と声を大にして否定したい気持ちに駆られる。


「魔術を使わせなければティリットとは互角の戦いができそうですが……貴女の兄上の本物の剣術には敵う気がしません。さすがにまだ死にたくはないので、丁重に護衛させて頂きます」


 とは言っても、具体的にどうするというつもりはヨシュアにはない。有事になればリオノーラを守るために全力で動くつもりであるが、そうでなければ今のように時折様子を見に来るだけに留めるつもりだ。ヨシュアもそこまで時間があるわけではないし、リオノーラも干渉されていい気分なわけがない。


(それに……)


 ヨシュアはちらりと、横に座るイアンに視線を向ける。彼はヨシュアが来てから憮然と押し黙っていた。誰にでも対等に接し、優しさの塊のようなこの少年がここまで不快感を表すことは、他にまずないだろう。


(あまり彼女に関わって、少年を怒らすのも避けたいところだ)


 若いなぁ、と思いながらくつくつ笑い、ヨシュアはコーヒーを口に含んだのだった。





 コーヒーを飲み終えるとヨシュアはすぐに帰ってしまった。何をしに来たんだと言いたい気分であるが、いつものことなのでもう慣れた。

 イアンがコップを洗ってくれている間に、リオノーラは上機嫌で掃除を始めた。と言っても生活系魔装具を起動させるだけなので簡単だが、彼女は自動で掃除をしてくれるこの魔装具を見ているのが大層好きらしい。飽きもせずじっと魔装具がフローリングの床を移動していくのを眺めている。


「……あっ、ねえ見て、イアン!」


 廊下の奥からリオノーラの声が聞こえてきて、イアンはそちらへ向かった。リオノーラがいたのはテオの部屋だ。勝手に入ることにイアンは戸惑ったが、リオノーラはお構いなしである。

 彼女が見ていたのは棚に飾られた数々の楽器だった。ヴァイオリンだけでなく、フルート、トランペットなど、多岐に渡った。しかもどれも魔装具ではなく、本物の楽器だ。今時一般家庭にこういうものがあるのは珍しい。


 これにはイアンも思わず目を輝かせた。どれも年季の入った、古い時代の価値ある楽器だったのだ。


「これ、なに?」


 しかしリオノーラが指差したのは別のものであった。棚の横に立てかけてある大きな楽器――ギターだった。


「ギターです。……テオさん、楽器の趣味が幅広いですね」

「イアンも弾ける?」

「ええ、多分……」

「じゃ、弾いてみて?」

「えっ!?」


 あまりに無邪気な要求にイアンはたじろいだ。リオノーラは両手を合わせて拝んでくる。


「お願いっ」

「いや……けど、他人の楽器を勝手に触るわけには」

「音出してくれるだけでいいからっ。そのくらいだったらテオも怒らないし、ていうかばれなきゃいいんだよ」

「なんか悪いことしているみたいだなぁ」


 ぼやきつつ、イアンはギターを手に取った。お人好しのイアンはリオノーラの頼みを無下にすることなどできないのだ。

 ギターも弦楽器とはいえ、ヴァイオリンを主に扱ってきたイアンはあまりギターに触れたことはない。他の楽器であれば難なく音を出せるが、ギターはまるきり知識だけのものだ。


 ヴァイオリンでもギターでもそうだが、こんな下町で普通に弾いては音量がばかにならない。控えめにそっと弦を爪弾くと、僅かに空気が震えて太い音が出る。

 わ、とリオノーラが目を輝かせる。もう一度音を出せば、にこにこと微笑む。


 そう、これだから――楽器を弾けば笑顔になってくれる人がいるから、音楽は楽しい。イアンはそう感じつつ、コードを弾いていく。軽く今流行のポップスのリズムを奏でてみれば、リオノーラは拍手をした。そういえば今まであまり個人に対して演奏をしたことがなかったので、観客がリオノーラひとりというのが不思議な感じだ。

 一曲弾き終わればリオノーラが盛大に拍手をしてくれた。その時になって、自分がかなり楽しんでギターを弾いていたことに気付いてイアンはばつが悪くなる。これはテオのギターだ、自分の楽器を他人にいじられるのは、あまりいい気分ではないだろう。


「すごいすごい、イアンって楽器ならなんでも弾けちゃうんだね!」

「そ、そんなことないですよ。管楽器なんてからきしですし」

「嘘だぁ、謙遜だよっ」

「ほんとですよ」

「じゃあこのフルートを……」

「いやいやいや、それ全部テオさんのものですから!」


 さすがにイアンが首を振ると、リオノーラは微笑んでそれ以上は強制しなかった。


 そのとき、リビングの方から「ごめんくださーい」という女性の声が聞こえてきた。リオノーラにもイアンにも聞き覚えのあるものではなく、ふたりは顔を見合わせる。

 とりあえず部屋を出てリビングへ向かうと、玄関の戸口で所在無げに佇んでいる中年女性がひとり。女性はリオノーラとイアンの姿を見てほっと微笑んだ。


「あら、リオちゃん? イアンくんも。楽器の音がしたからカーシュナーさんたちが帰ってきたのかと思ったけど、貴方たちだったのね」

「あ……」


 リオノーラがぱっと赤面して俯く。イアンは我に返り、少し困った笑みを浮かべた。彼も以前ブルーノの送別会をしたときの関係で、下町では名を知られている存在だ。


「もしかしてご依頼でしたか?」

「ええ、ちょっとお遣いを頼まれてほしくって……ね、お願いできない? 急ぎなのよ」


 切羽詰った様子の女性の言葉に、イアンは「どうする?」とリオノーラを振り返る。俯いているリオノーラは少し顔を上げ、さっきまでの元気はどこに行ったのか小さな声で答える。


「……やり、ます。やらせて……!」


 すると女性はぱっと表情を明るくし、ポケットから小さな袋を取り出した。


「ありがとうね! 実はね、うちの娘が風邪を引いちゃったの。だから薬とか食べやすいものとか買ってきたいんだけど、長い時間あの子を一人にするわけにはいかなくて。その袋の中にお金と買い物リストが入ってるから、買い物してきてほしいのよ」


 お金の入った袋を受け取って、イアンが微笑んで頷いた。


「分かりました。すぐ買ってきます」

「助かるわ。私の家、このお店のお向かいさんだから、家に届けてほしいです。それじゃ、よろしくね!」


 女性は足早に店を出て行った。娘が心配なのだろう。確かあの人の子供さん、まだ小さかったよなあ……とリオノーラはぼんやり思う。まだ二、三歳の幼児では、風邪ひとつでも大騒ぎだ。

 イアンは袋からメモ用紙を取り出す。風邪薬と果物、飲み物に甘いお菓子。子供が好きそうな食品がいくつか書かれている。


「それじゃ行きましょうか、リオノーラ」

「うん」


 ふたりはすぐに出かけた。





 下町の市場に薬局はないので、足を延ばして繁華街まで行かなければならない。暑い夏の日であるから歩くだけでじっとりと汗をかくが、若いふたりの足取りは軽かった。

 無事目的の風邪薬を購入し、下町まで戻ってくる。イアンは辺りを見回した。


「ええと、そうですね……まずは青果店に」


 そう言って歩き出すイアンの隣に、薬の入った袋を持つリオノーラが肩を並べる。そしてそっとイアンを見上げた。


「……あ、あの、なんかごめんね」

「どうしたんです?」

「お店の人とのやり取りとか……全部、まかせっきりにしちゃって」


 リオノーラのほうが、下町には慣れているのだ。だというのにイアンはそつなく会話をこなし、商品を購入していく。いくらイアンが庶民の生まれだからといって、貴族というのは基本的に市場で買い物などしない。けれどもイアンはあっさりと――。


「直そうとはね、思ってるんだよ。人見知りばっかりしてたら、これから生きていけないし。大人になれば、オースティン伯爵令嬢って身分は嫌ってほどついて回るだろうし……」


 でもね、とリオノーラは俯く。


「怖いんだ。急に素を出したら、周りの人に怖がられそうで……」


 リオノーラが人見知りになったのは、一人称が『僕』で大雑把な性格の自分を隠すためだ。一人称を『私』に変え、ぼろを出さないように不要なことは口に出さない。そんな生活を送っているうちに、いつの間にか染みついてしまった『人見知り』の仮面。いつかそれを壊さないと、社交界の場では命取りになる。


 イアンはそんなリオノーラにちらりと視線を送り、それから空を見上げる。日差しに少し目を細めつつ、彼は口を開く。


「確かに、直した方がいいのかもしれない」

「うぅ……」

「でも、少しずつでいいと思いますよ。一気に素を出す必要もない」

「え?」


 きょとんとするリオノーラに苦笑しつつ、「人間そんなに簡単に性格は変えられませんよ」と諭す。


「事実、リオノーラは変わってきているじゃないですか」

「そ、そうだっけ?」

「少なくとも、数か月前までの貴方は僕にそんな口調で話しかけてくれることはありませんでした」


 リオノーラは一気に頬を紅潮させた。確かに昔から面識はあっても、リオノーラはイアンによそよそしかった。それが解消されたのは本当にここ最近だ。


「僕は貴方が少しずつ本当の自分を見せてくれるのがとても嬉しかった。きっと他にも、そう思ってくれる人がいますよ」

「で、でも……驚かなかった? 口調、とか」

「驚きましたけど……それも含めて、貴方なんですから。全部ひっくるめて、リオノーラという人はとても素敵だと思います」


 優しく微笑んでそう言ったイアンだったが、急に笑みを消した。それから五秒ほどでかあっと赤面し、顔を背けた。


「……す、すみません……」

「い、イアンが恥ずかしがることじゃないじゃん! 言われた僕の方がもっと恥ずかしいよ!」


 リオノーラもイアンと逆の方向に顔を向けて、手を口元にあてた。顔の下半分を隠しながら、リオノーラはぽつっと呟く。


「でも……ありがと」


 貴族の若者二人の赤面顔は、夏の暑さゆえの紅潮に混じって誰に悟られることもなかった。リオノーラは気まずい沈黙を破壊するために声を高めた。


「お、お店着いたよ! 何買うの?」

「え、ええっと、リンゴがふたつと……」


 イアンが読み上げていく果物をリオノーラが探し、ふたりは手早く買い物を済ませた。





「ふたりとも、本当にありがとう。ごめんなさいね、本当はお夕飯でもご馳走したかったんだけど、風邪移しちゃ悪いから」


 買い物袋を渡すと、女性は申し訳なさそうに言った。


「これあげるわ。頂き物なんだけど、とっても美味しいパウンドケーキなの。ふたりで食べて頂戴」

「いえ、そんな……僕たち、厳密には万屋ではないですし」


 箱詰めのケーキを差し出してくる女性にイアンが首を振ったのだが、女性はにっこりと微笑んだ。


「万屋の店員じゃないなら、これは個人的なお願いでしょ? 良いから受け取って。カーシュナーさんたちには内緒ね?」

「……ありがとうございます、頂きます」


 イアンも苦笑して箱を受け取る。そこで、黙っていたリオノーラが意を決したように口を開いた。


「あ、あの! 娘さん……早く、治るといいですね」


 女性は驚いたような顔をしつつも、満面の笑みで頷いた。


「ありがとう、リオちゃん。大丈夫よっ、ふたりがわざわざ買い物に行ってきてくれたんだもの、絶対良くなるわ」


 リオノーラは少し微笑んだ。『お大事に』という言葉は、案外すんなり口から出たのだった。


 また万屋の店内を借りて、ふたりは有難くパウンドケーキで少し遅い午後のおやつをすることにした。お夕飯食べれるかな、とリオノーラは戦々恐々であったが、パウンドケーキは小さくカットされていて食べやすく、味もそこまで甘くはなかった。リオノーラはフォークでケーキを口に運びつつ、微笑んだ。


「お兄様とテオは、いつもこんな風にお仕事して、お礼もらってるんだね」

「そうですね」


 エリオットたちが、依頼の報酬でもらった菓子や惣菜を大切そうに食べているのをリオノーラは何度か見たことがある。味見させてもらえば確かに美味しいけれど、頬がとろけてしまうほどではない。それでもエリオットが『絶品だよ』と言っていたから、少し不思議だったのだけれど。


「美味しいわけだよね」


 やっと納得して、リオノーラは大切そうにパウンドケーキを食べていた。





★☆





 ――雨が降ってきた。


 リオノーラは国立学校、イアンは音楽学校に通っているため、スケジュールというものはなかなか噛みあわない。先日のようにうまいこと休日が重なり、ふたりでお使いのため出歩けたのが奇跡なのだ。


 久々にまとまった雨だ。夏の暑さが今日だけは鳴りを潜め、まだ夕方だというのに辺りは薄暗く、街灯の明かりがぽつぽつと点きはじめている。上流階級区域と呼ばれる住宅街を歩きつつ、イアンの思考は音でいっぱいだった。

 地面を叩く雨の音。傘に叩きつける雨の音。屋根から滴る雨の音。濡れた地面を歩いて跳ねる水の音。雨の日というのはある意味静寂で、水の音以外は聞こえなくなる。特にこうして、人通りのない道をひとりで歩いていると。


 雨音をバックコーラスにしながら、次のコンクール用の課題曲のリズムを脳裏で反復する。軽く鼻歌のように口ずさんでみても周りに人はいないし、雨の音で聞こえないだろう。


 そう思っていたのだが、突如雨音以外の音が響いた。前方の角を曲がった先で、何か落ちるような音。それに続く、人の声――女性の声のように聞こえる。

 何かあったのだろうか。そう思って歩を速め、角を曲がったところで――イアンは硬直した。


 路上に投げ出された赤い傘。

 住宅の塀に背を預ける形で座り込む少女。

 それを見下ろす、同年代の少女が三人――。


「お兄様を悪く言わないでッ!」


 リオノーラ、だった。


 リオノーラの言葉に、彼女を見下ろす三人の娘はおかしそうに顔を見合わせながら笑う。


「お兄様、ですって? あんな身分の卑しい男が?」

「何も知らないくせにッ」

「知っていますわよ、あの男は傭兵。この世で最も卑賤な者どもですわ」


 少女はリオノーラの足の上に、靴の踵を押し付けた。かなりヒールの高い靴で、鋭いそれがぎりぎりとリオノーラの足を突き刺す。彼女はそれでも顔をしかめただけだった。


「あんな男がこの美しい首都の街を闊歩しているだなんて、考えただけで悪寒が奔る」

「この街のどこが美しいの……? 下町の生活を知らないからそんなことを言えるんだ! みんなを追い出して創り上げたこの貴族街なんて、汚すぎる!」

「……変人の兄が変人なら、無礼者の妹も無礼者ですわね」


 少女は笑みを消すと、リオノーラの足を抑えつけていた足をどかした。そして次の瞬間、思い切り靴を同じ場所に蹴り落とした。リオノーラの足の甲にヒールが突き刺さり、小さく悲鳴を上げる。


「下町? そんな汚物の溜まり場、足を踏み入れたくもありませんわ! 奴らにはここで生きる権利などないのです!」

「っ……!」

「まったく、貴方に同じベレスフォード貴族の血が流れているなんて世も末です。あんな傭兵男もそうだなんて、恐ろしい」


 少女は痛みに耐えるリオノーラに愉悦の笑みを向けた。


「もっとも――頼りの『お兄様』は、助けにきてはくれないでしょうけれどね」

「……臆病者」

「なんですって?」


 リオノーラがきっと顔をあげる。雨に濡れた彼女の目は、まだ意思を失ってはいなかった。


「お兄様に不満があるなら直接言えばいいじゃない。……怖いんでしょう。お兄様が怖いから貴方はつるんでるんだ。そんな臆病な人間なんて、お兄様に頼らなくても僕一人で充分だよ」


 はっきりとした反抗と蔑みの言葉に、少女は頬を紅潮させた。弱みを指摘されると暴力に奔る人間がいる。彼女はまさにそのタイプだった。


 身動きのできないリオノーラめがけて手を振り上げる。平手打ちを見舞おうとしたその時、あまりの光景に硬直していたイアンの呪縛が解けた。傘を投げ捨てて駆け出したイアンは間一髪、リオノーラをはたこうとする少女の腕を掴んだ。

 リオノーラが目を見開いた。


「イアン……!」

「――何してるんです」


 聞いたことのないイアンの低い声に、リオノーラがびくりとする。だがそれ以上に狼狽しているのは、イアンに腕を掴まれた少女だった。


「あ、あら……イアンさまではありませんか。ごきげんよう、今日は生憎の雨ですわね……」

「何をしていたのかと聞いているんです」


 イアンはまったく取り合わなかった。彼女の腕を掴んだまま、リオノーラを庇うように彼女らの間に割り込む。


「嫌ですわ、ちょっとした口論ではありませんか。イアンさま、信じてくださいませ」


 その言葉でイアンが彼女の手を放したので、少女は何か期待したらしい。だが次のイアンの言葉で再び彼女は凍りつく。


「貴方とリオノーラどちらを信じるかと問われれば、僕はリオノーラを信じます」

「イアンさま!」

「とりあえずここを離れてください。今僕は、大層機嫌が悪いので……」


 静かな怒気をはらんだその声に、少女たちはたじろいだ。そろそろと後退し、そしていきなり態度を一変させる。


「……このっ……楽器を弾くことしか能のないコールマン男爵家のくせに! 私に無礼をはたらいたこと、あとで後悔させてあげますわ!」


 俗っぽい捨て台詞と共に駆け去った少女たちなど気にも留めず、イアンはリオノーラの真正面に膝をついた。彼女の赤い傘を拾って、リオノーラを雨から守る。


「リオノーラ! 怪我はないですか……!?」

「う、うん……ちょっと足にヒールの痕がついちゃったくらいだよ。大丈夫」

「けど血が出ているではないですか……こんなに雨に濡れて……」


 リオノーラは気丈に微笑んだ。


「ほんとに大丈夫だよ。それよりイアン、ありがとう。駆けつけてきてくれて、ちょっと王子様みたいだった」

「……リオノーラ」


 彼女が無理をして軽い物言いをしていることに、イアンはすぐ気付いた。名を呼んだきり何も言わないでいると、すぐにしゅんとリオノーラは顔を俯けた。イアンは優しく問いかける。


「何を、言われたんですか?」

「……あいつらがね、前に繁華街で大騒ぎしたことあってね。それをお兄様が止めたんだって。今回はその八つ当たり……」

「……ということは、前にもあったんですね」


 リオノーラは素直に頷いた。


「前からそうだよ。それこそ、お兄様と出会うよりずっと前から……何か持ち出しては、あいつらは僕に言いがかりをつけてくるんだ」

「そのことをオースティン伯爵は……?」


 イアンの言葉にリオノーラは顔をあげる。彼女は笑っていた。雨なのか涙なのか分からない水に濡れたまま。


「言えるわけ、ないじゃん……?」

「え……」

「僕はねっ……お兄様を失って傷ついていたお父様とお母様の、『唯一絶対』だったんだ。死んだお兄様のためにも、小さくて、可愛らしい女の子でいなきゃだめなんだっ……だから、あんなことされてるなんて知ったら、お父様は悲しむ……!」


 ――それは、どれほどの重圧だっただろう。


 怪我しないように、病気をしないように。そんなふうに大切に育てられた箱入り娘は、本当は活発で快活な女の子で。


「でも、あいつらはみんなを馬鹿にしたんだっ……! お父様のことも、お兄様のことも、テオのことも! イアンのことまでッ! 僕……黙ってられないんだよっ……!」


 素を曝け出したいのに、出せないその苦しさは。


「どうしたらいいんだろう……!? ねえ、僕、どうしたらみんなのこと守れるのかな……っ」


 強そうに見えて、雨に濡れて泣きじゃくるか弱い少女は。


 何も言わずにイアンはリオノーラを抱きしめた。冷え切った彼女の身体に少しでも暖かさを分けようと、強く強く。片手で傘を支えているのがもどかしくて、もうふたりでびしょ濡れだ。


「イアン……」

「――ごめんね、リオノーラ。貴方が辛い思いをしていたこと、気付いてあげられなくて」

「……」

「一緒にいる時の貴方はいつも笑顔だったから……どんな思いで笑っていてくれているのか、考えようともしなくて」

「違うよ……みんなと一緒にいる時は、本当に楽しいから笑ってたんだよ。無理なんて、してない……」


 リオノーラがぎゅっとイアンの服を掴んでくる。涙をこらえているのか――。


 この子を、守らないと。

 エリオットに頼まれたからでも、テオに頼まれたからでもなくて。

 常に彼女の味方でいてあげなくちゃ。



「……僕が守ります」


「え……?」


「貴方のことを」


「駄目だよ、イアン……イアンまで嫌なことされちゃったら」


「僕のことなんていいんですよ」


「よくない」


「僕にはエリオットさんのような力も、テオさんのような知識もない……でも、守りますから」



 男だから。

 好きな女の子(・・・・・・)が泣く姿なんて、見たくない。


「守らせてください」

「……」


 リオノーラは黙った。それから少しして、ぎゅっとイアンを抱きしめかえしてくる。


「……守って、ください」

「了解です」


 イアンは微笑んだ。「立てますか」と気遣いながらリオノーラを助け起こし、自分の傘を拾ってくる。ふたりで差して歩くと邪魔だったので、リオノーラの傘は閉じて彼女の杖替わりに。代わりに自分の傘の中に、二人で入った。その方が彼女を支えやすい。


「家まで送ります」

「うん」


 ふたりでびしょ濡れだったら、きっと出迎える執事なり侍女なりは驚くだろう。その情報が伯爵や夫人に伝わってしまうかもしれない。

 けど、いい。リオノーラを公然と守る許可は、もらった。傍にいていいと許可してくれた。


 エリオットが帰ってくるまでの間のことだとしても――守ってやるんだ。


 今もどこかで怪盗ヨシュアは見ているのだろうか。彼はきっと物理的には彼女を守ってくれるだろう。だったら自分は、リオノーラの心を守る。

 それが多分『留守を預かる』ということで――自分の意思だから。

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