File twelve 思わぬこともあるものです。
柄じゃないけど、今回ばかりは奇跡だと本気で思う。
★☆
車で一日半かかるということは、夜を超えなければならないということだ。
とるべき手段は、運転手が交代で夜通し車を走らせるか、それとも車を停めて休んでしまうかである。テオたちが選んだのは後者であった。なぜならば。
「ちょっと待って頼むから。車の中で寝るとか、俺ほんとに無理。やめよう、夜くらい車停めよう」
と訴える、車酔い者一名がいたためだ。
道路から逸れて車を停めると、すぐエリオットはドアを開けて外に出た。ふらふらと歩き、草の地面の上に座り込む。後部座席から下りてきたイザードがそれを見て苦く笑う。
「こんなに頼りないエリオットは初めて見たな」
「うん、俺も初めてだ」
エンジンを切ったテオも窓から顔を出して笑う。イザードは警備軍車両の後方にあるトランクを開け、荷物を取り出した。長期移動も考えて、この車両には携帯食料や調理器具、寝袋やテントなどが標準装備されている。だから尚更、テオもこの車両に拘ったのである。おかげで身一つで旅ができている。
車内から出ればそれなりに回復するエリオットだが、午後めいっぱい車に揺られてきたのだ。さすがにもう限界で、ぱったりと寝転んでしまう。するとすぐ鼻孔をくすぐるのは、懐かしい草の匂い。
「エリオット、大丈夫かい?」
携帯式の光源系魔装具を持って、テオがこちらへ歩み寄ってくる。ごろんと転がっているエリオットの背中側にしゃがみこんだ気配がするが、振り向く気力もない。
「ああ……俺、もうダメかも……うぅ」
「ちょっ、そんなに? イザード、なんか薬ないの!?」
「血止めならあるが」
「頭悪いなぁ、この場合は酔い止めでしょ」
「酔い止めは酔ってからじゃ効かないって貴様知ってるか」
結局あったのは鎮静薬だったが、エリオットが必要ないと首を振るものだから薬は飲ませないことにした。それよりも身体を動かす方が気がまぎれるというので、夕飯はすべてエリオットが作ってくれたのだ。といっても携帯食料の封を開けて鍋に出し、これまた携帯コンロで火にかけただけである。
そうしている間に具合の悪さも落ち着いたのか、食べ始めるころには顔色もよくなっていたので、テオは一安心である。
「エリオット、明日に備えて早めに休んでよ。後部座席のシート倒せば横になれるから……」
「いや、俺は外で良いよ。寝袋もあるし。後部座席はイザードが使うべきだろ、広いし」
「何気なく私を太っていると言いたいのかエリオット」
しれっとイザードの突込みを躱したその顔には、しっかりと『誰が車内で寝るもんか』と明記されている。テオは苦笑してトランクから寝袋を出し、エリオットに差し出した。しかしテオの手にはもう一つ寝袋が抱えられている。
「じゃ、俺も外で寝るよ」
「な、なんでだよ? 言っておくけど寝心地悪いぞ?」
「魔物とか来たら危ないでしょ? 見張りだよ、見張り。明日はイザードに運転替わってもらうから、今日一晩起きてても問題なし」
眠りの浅いエリオットは、魔物の気配を感じればすぐに目が覚める。だから大丈夫だと言おうとして、エリオットは思い直す。そして大人しく頷いたのだ。
こんなところで意地を張っている場合ではない。長旅だ、あまりテオらに心配をかけたくない。
イザードはエリオットの言葉通り後部座席を占領した。いや、占領した気はないだろうが彼が横になるとどうしてもそう見えてしまうのである。車内から洩れる光だけを頼りに、エリオットとテオは寝袋に潜った。
それなりに暖かくて快適じゃないか。敵が来たらすぐ抜け出せるように用心は必要だが、これはいい。二十年近く地面にそのまま寝るという生活をしていたエリオットからすれば天国だ。
「星が綺麗だねぇ」
少し離れた場所に寝転んでいるテオがぽつりとそう言った。すぐそこにいるのは分かるが、闇が濃いせいでシルエットくらいしか見えない。
仰向けで寝ているのだから、視界はすべて星空だ。確かに、綺麗に見える。エリオットには見慣れた風景だ。街から少し離れただけなのに、結界の外というのは恐ろしく、そして美しい。
「いやぁ……野宿っていうのも、なかなか悪くないね」
「贅沢なこと言ってるなよ。いつ魔物が襲ってくるか分からない中で眠るなんて辛いんだぞ。夏場だと虫が湧くし」
「そりゃそうなんだけどさ。なんていうか、開放感あるよね。気持ちいいよ」
もぞもぞとテオは寝袋の中で身じろぎしている。
「魔物なんていなかった頃は……もっと簡単に旅行出来たんだろうなぁ。川辺でキャンプ、とかさ」
「キャンプ……? 何するんだ、それ」
「野宿だよ、野宿。川で遊んだり魚を釣ったりして、食事はみんなで食材を持ち寄ってバーベキュー。で、夜はテントで寝るっていう。戦う力がなくても、そういうことができる時代があったはずなんだよ」
それはエリオットたち傭兵団が、毎日行ってきた生活だ。不便な生活を、わざわざ行おうとする物好きもいたのだろうか。いや――便利で安全な暮らしをしてきたからこそ、キャンプに憧れるのかもしれない。
「人々にとって、結界の外というのは危険な場所だ。でも……勿体ないと思わない? こんなに綺麗な世界が広がっているのに、殆どの人間はこの景色を一度も見ることがないなんて」
「……まったくだ。いつか、誰でも結界の外を安心して出歩けるようになるといいな」
エリオットの言葉に、テオは少し笑った。
「多分、一朝一夕のことじゃないだろうね。俺たちはそんな世界を見られないかもしれない。でも……きっかけだけは、俺たちが作ってやれるんじゃないかな」
つくづく思う――テオは本当にこの世界が、いやベレスフォード共和国という国が好きなのだと。自分が住んでいる場所だから、大切にしたいと思うのは分かる。だがそれでも、この国の未来を想う心は――テオが長いこと、ベレスフォードの闇を見てきたからだろうか。そこで苦しむ人、辛い思いをする人を、たくさん見てきたはずなのだ。それを改善したいとする心は、ごく当たり前のようでいてとても難しいと思う。
魔装具が開発されて、二十年。時代の節目といえる場所に、テオもエリオットも生きてきた。だがふたりが歩んできた道はまったくの真逆で――エリオットは旧時代の貧しい生活を継続し、テオは科学者としてではあったが近代化の一役を担ってきた。
どういうわけか出会ってしまったふたりだが、正反対の暮らしを送ってきたからこそ互いの足りない部分を補えるのではないかとエリオットは信じている。物の価値観、知識、技術――よく考えれば、共通している部分など何もないではないか。
似通った価値観を持つ者同士より、正反対の者同士のほうが時に親しくなれる――ということも、あるだろう。
「おい」
不意に頭上から声をかけられた。視線だけ上に向けると、車窓からぬっとイザードの顔が出ていた。顔だけが闇にぽっかりと浮いているさまは、少し不気味である。
「何をぼそぼそ喋っているんだ。さっさと寝ろ」
「はーい、ごめんなさい」
テオがくすくすと笑う。と、窓からぽんとチコが放り出された。丸まってエリオットの腹の上に着地し、『キュッ』と鳴く。
「そいつがさっきからちょこまか動いて面倒だ」
「あっ、酷いねイザード。動物虐待だよ」
「キュウキュウ」
「ええい、やかましい!」
ぴしゃりと窓が閉められた。チコはもぞもぞとエリオットの寝袋の中に潜り込んできて、少し圧迫感が増す。けれどまあ、仕方ない。チコはいつだって誰かに寄り添っていないと気が済まないらしいから。
「ふふ、おやすみエリオット」
「……ああ、おやすみ」
エリオットはテオの言葉に応え、目を閉じた。
★☆
幸いなことに魔物の襲撃もなく、一行は無事に朝を迎えた。起き出したのはエリオットが当然のこと一番で、テオがもぞもぞと身体を起こしたときには朝食の用意が殆ど終了しているという状況だ。チコもレタスの切れ端を一心にかじっている。
「エリオットくん、もう少し寝ていたらいいのに……」
「何言ってるんだ、日が出ている間っていうのは貴重なんだぞ。明るいうちしか移動できないんだから、さっさと出かけるんだ」
野宿慣れしていることもあって、エリオットは非常に手際が良かった。てきぱきと食事の用意と片付けをし、朝も早い時間から出発することができるようになった。
しかし、できるだけ早く出かけようとするエリオットの心は葛藤の真っ最中であった。
「今日も車か……う、嫌だな……」
「どこかで馬でも手に入らんのか」
イザードが首をぽきぽき鳴らしながら言う。車中泊で身体が固まってしまったらしい。
「馬? なんでだ」
「お前は車より馬に乗っている方が楽だろう」
「……そりゃそうだけど、いくらなんでも騎乗して車と並走するのは」
だいぶ恥ずかしいし浮く。そもそも、馬の脚は車より速いが、馬は生き物だ。車のようにずっと同じ速度で進むことなどできない。それに今の時代、馬を手に入れるのは至難だ。
「とりあえずエリオット、これ飲みなよ。車酔いに効くと思うよ」
横合いからテオが差し出してきた掌の上には、丸い錠剤が二つ乗っていた。酔い止めか。
エリオットは特に怪しむこともなく礼を言って、水で薬を飲みこんだ。正直なことをいって薬を飲むのは初めてで固形物を飲み込むということに躊躇いはあったのだが、そんなことを言っていられる場合ではなかった。
そうして車に乗って、イザードの運転で旅を再開した。助手席のほうが酔わないと言われたので、今日はテオが後部座席だ。目的地ヴェノン村には夕方の到着、おそらく一日中車内で過ごすことになる。
早速揺れが不快感を催し、エリオットは車窓を少し開けた。乗り物酔いというのは平衡感覚が狂うことによって起こる症状だという。バランスをとることには長けていたはずなのだが、どういうことだろうとエリオットは自分に苦笑してしまう。整備されて揺れもカーブもないこの道で、どうして酔うのだろう。
遠くの景色をぼんやりと見つめる。イザードは見た目に反して慎重な運転をしてくれるから、その点は嬉しい。ただひたすらに車を走らせている。
急に視界がぼやけてきた。エリオットは目をこすったが、視界は若干白く曇っている。目に何か入ったのだろうかと思ったが、いくら瞬いてみても視界は良くならない。
だいぶ時間が経ったが、今日はそこまで気分は悪くない。テオがくれた薬がよく効いているのだろう。そんなものがあるなら早く教えてほしかったと切実に思う。
なんだか頭がふわふわしてきた。目が開けていられない。
あれ……いま俺はどこにいるんだっけ――?
イザードはちらりとエリオットへ視線を向けた。ハンドルを握っているのですぐ目線は前に戻したが、鏡に映るテオに向けてイザードは呆れたように声をかけた。
「テオ、エリオットに何を飲ませた?」
「怪しいものじゃないよ。ただの睡眠薬」
「……いや、充分怪しいんだが」
助手席に背を預けて座るエリオットは、頭を前方に垂れて微動だにしない。耳を寄せてみれば微かに寝息がする。車に乗って三十分も経たないうちに、エリオットは意識を失うように眠りに落ちてしまっていたのだ。
「起きてて酔っちゃうなら寝ちゃう方がいいだろうなぁ、ってね。まあ酔い止め薬にも眠気を催す成分は入っているし大丈夫だろうと思ったんだけど……まさかこんなにあっさり寝ちゃうとは」
テオも苦笑している。彼としては、眠気によって思考不明瞭な間に少しでも目的地に近づければいいと思っていたのだが、予想に反してエリオットはことんと眠ってしまったのだ。おそらく効きやすい体質だったのだろう。
「ま、たまにはゆっくり寝てもいいでしょ」
そう言いながらテオは、シートに深く腰掛けた。「お前も寝る気満々じゃないか」とイザードは突っ込みつつ、溜息をついて運転に集中したのだった。
変化は突然だった。
完全に覚醒はしていないものの、浅い眠りの中で心地良く漂っていたエリオットの意識が、突如として引っ張りあげられた。それはまるで不意打ちで殴られたに等しい衝撃で、エリオットはぱっと目を覚ました。
「ちょっとぉ、急ブレーキは事故の元だよイザード」
後部座席からテオの緊張感のない声がする。隣を見ると、イザードは大きく右にハンドルを切ってブレーキを踏んでいた。道からは大きく外れ、舗装された道路にはタイヤ痕が残っている。
どれだけ強くブレーキを踏んだのだ――。
「そ、それどころじゃないのは貴様も分かっているだろうがッ」
イザードが怒鳴る。エリオットが窓から外に顔を出した瞬間、鼻先を何かが豪速で通過した。慌てて顔を引っ込める。そして前方に現れた巨大な影に、さすがのエリオットも目を見張った。
「うわ……」
そこにいたのは鳥型の魔物であったが――異常なまでに巨大な鳥だった。片翼で二メートルほど、鉤爪などは一撃で人間を串刺しにできるほどだ。テオが左腕の魔装具バングルに触れる。
「こりゃ、追撃振り切って逃げるってのも無理な話だねぇ。エリオット、目は醒めた?」
「な、なんとか」
シートベルトを外し、テオが後部座席から剣を差し出してくる。それを掴み、エリオットは外へ飛び出した。遅れてテオも続き、イザードは車を走らせる。いまここで移動手段の車を失ったら大変だ。
とても寝起きとは思えない俊敏さで抜剣したエリオットは、頭上から急降下してくる魔物の死の鉤爪を横っ飛びに回避した。エリオットがいた場所の地面が深くえぐられたのを見て、エリオットも蒼白になる。本当に、一度でも当たったら即死だ。
背後から、テオの魔装具から放たれる真空の刃が飛来する。刃はすべて命中するも、傷は浅い。これだけの巨体だから仕方がないのかもしれない。
おそらく、テオが魔装具を使わずに魔術を発動させれば、あっさりと決着がつくのかもしれない。だがほいほいとそれを扱う訳にはいかない。となればまず――エリオットが魔物の翼を斬りおとすしかない。
銃声が響く。何かと思えば、警備軍車両のボンネットが開き、そこから銃弾が連射されていた。なんという装備だ、この車の装甲は半端ではない。
魔物が車の方へ向き直る。その隙にエリオットが跳躍して翼を根元から斬りつけたのだが――思ったより外皮が硬く斬りおとすに至らない。そんな状態で魔物が翼を大きくはばたかせるものだから、それに煽られたエリオットは態勢を崩し、地面へ落下した。
「エリオット!」
テオが駆けだす。エリオットはなんとか持ち直して地面に着地したものの、その時には魔物が急降下してきているところだった。
『shi――』
咄嗟に「盾」を張ろうとしたテオだったが、彼の声は途中で消えた。防御の構えを取っていたエリオットも、銃の連射をしていたイザードも動きを止める。
魔物の急降下はいつの間にか落下に代わり、重々しい音と共に地面に墜落したのだ。息の根が完全に止まっているのを、一番近くにいるエリオットは確認した。
「何……?」
と、巨大な魔物の身体の上に、人影が現れた。よく見れば、鳥の背中の部分に深々と刀が突き刺さっていた。それは後ろから心臓を一突きにしたようだ。
刀、ということは傭兵か。恐ろしく腕の立つ――。
「怪我はなかったか?」
刀を引き抜いたその人間は、こちらに向けてそう声をかけた。
エリオットは目を見張る――。
背に届くまでの長さで結い上げられた茶髪は、今ではばっさりと切られていたが。
当時『双刀使い』として勇名をはせたその手に、刀は一本しか握られていなかったが。
その声は、確かに知っているものだった。
車から出てきたイザードが「お前……」と呟く。テオもまた、知る人物の面影を重ねて呆然としている。
エリオットの手から剣が滑り落ちた。平原で武器を手放すなと教えられたけれど、今はもうどうでもよかった。
「――イシュメルッ!」
失ったと思ったはずの師が、そこにいるのだから。
★☆
「……驚いたな。まさかこんなところで、お前に再会できるとは」
イザードが走らせる車の後部座席に座ったイシュメルが、感慨深げにつぶやく。その横顔は恐ろしいまでに平然としていた。
「それはっ……こっちの台詞です! 俺は、貴方は死んだものだとばかり……!」
その隣に座るエリオットはイシュメルに詰め寄った。車酔いなど今だけはどこかに忘れてきてしまった。
「すまない。本当はもっと早く首都へ行き、お前を探そうと思っていたのだが……見ての通り、私はこの有様だ。つい最近まで、起き上がることすらできなくてな」
そう告げるイシュメルの右腕は、肩から先が喪われていた。双刀使いの右腕は、右の刀と共に死んでしまったのだ。しかしそれでも、先程の魔物を一撃で倒した技術。片腕がなくて平衡感覚も取りにくいだろうに、剣の腕は落ちていないらしい。
「で? 怪我をしてから半年近く、ヴェノン村で療養していたと?」
イザードが尋ねると、イシュメルは小さく頷いた。
「そういうことだ。……それにしても随分と久しいな、イザード。そんなに太って、誰かと思ったぞ」
「余計なお世話だっ! 貴様こそなんだ、三十年消息不明で半年前に死んだと聞いていたというのに、あっさり出てきやがって……!」
「心配をかけたな、悪かった」
生真面目なイシュメルは、素直にそう謝してイザードを沈黙させてしまった。
エリオットは何も言えなかった。イザードが言うように、なんでもなかったかのように再会してしまったイシュメルが信じられないのだ。いま自分の隣にいるのが本当にイシュメルなのか、そこから分からない。イザードとごく自然に会話を交わしているその様子も、信じられない。
大統領の長男。カーシュナーの兄。そして、エリオットの師でジェイク傭兵団のブレーン。
――本当に?
「イシュメル……他の、みんなは?」
結局口から出たのは、辛いことを思い出させるだけのことだった。だがそれでもイシュメルは、エリオットに向き合ってくれた。
「……助かったのはおそらく私だけだ。あの魔物に吹き飛ばされて意識を失ってしまってな。目が覚めると辺りは静かで、倒れた皆の姿があった。生き残りはいないかと何度も探したが……結局、全員死んでいた」
「……っ」
「そのあとは首都へ行こうと思って歩き出したのだが、朦朧としていたせいか見事に方向を間違えたらしい。タルボットの近くで倒れていたのを、ヴェノン村の商人に助けられた。そして今に至るというわけだ」
イシュメルは少し微笑み、左腕でぽんとエリオットの頭に手を置いた。
「正直なことを言うと、少し後悔していた」
「え……?」
「お前を単独で逃がした、私の判断を。間違っていたとは思わないが、無事生きていてくれるかと――気が気でなかったんだぞ、これでもな」
私は表情に出にくいらしい――と呟くイシュメル。確かそんなことを、昔ジェイクが冗談めかしてイシュメルに言っていた。
イシュメルだ。間違いなく、イシュメルなんだ。
「もしかして生き残ったのは自分だけではないかと思うと、後ろめたかったが……こうしてエリオットに再会できた。それだけで、しぶとく生き残った価値があったというものだな」
その言葉で、エリオットの涙腺が一気に緩んだ。溢れそうになる涙を拭い、必死にそれを耐える。
「イシュメル……っ」
「……ふっ、泣き虫は相変わらずだな。よくジェイク団長に剣の稽古で転がされては、悔しくて泣いていたな。懐かしい」
「十年近く前の話じゃないですかっ……」
子供の頃の話は――テオもイザードも、リオノーラもオースティン伯爵も知らない。エリオットがジェイクに負かされて泣いたなど、傭兵の仲間しか知らないことだ。
たった半年――それだけ会えなかっただけで当時を懐かしむほど、濃い日常を送っていたせいで。
「生きていてくれて……良かったっ」
心からその言葉を捻りだしたエリオットに、イシュメルは僅かに目を見張った。それから片腕で、そっとエリオットを抱きしめた。ジェイクが父親なら、イシュメルにはどこか母親的な雰囲気があった。年下の団員を、イシュメルはよく慰めてくれたものだ。その感触は、確かに記憶にあるイシュメルのものだ。
イシュメルは何も言わない。一通りエリオットが落ち着くまで背中をさすってくれて、やがて彼は顔を上げた。
「さて……では聞かせてくれないか。どうしてお前たちはここに? 何か目的があるのなら、助力は惜しまんぞ」
「その辺はテオに聞いてくれ」
イザードが説明をすべて丸投げにした。テオはさっきからずっと黙って、助手席に座っていた。だが話を振られたことで腹を括ったのか、鏡越しにイシュメルに向けて笑みを作る。
「……テオドール・ティリットです。以前、貴方の弟のエルバート・カーシュナーの世話になりました」
「エルバートの……そうか、ということは私の素性も……」
「ああ、私がすべて話したぞ、こいつらに」
イザードの言葉にイシュメルは困ったように肩をすくめた。それよりもエリオットは、テオが本名で自己紹介したことに驚きを隠せない。
テオは目を閉じた。
「俺たちの目的を話すより先に……俺は貴方に、伝えなければいけないことがあります」
「おい、テオ……」
テオが話そうとしているのは、まぎれもなくカーシュナーの死についてだろう。それが分かっているからイザードも制止の声をかけたが、テオは譲らなかった。
「……聞かせてくれ。ヴェノン村までは、まだ時間がかかるからな」
イシュメルがそう微笑む。エリオットは「そういえば」と呟く。
「イシュメルこそ、どうして村からこんなに離れた場所に……?」
「体力回復のために走り込みの途中だった。そうしたら、あの魔物に出くわしてな」
「走り込みって……」
この人は訓練や体力向上に一切手を抜かない人だったな、とエリオットは今更ながらに思い出す。生真面目なイシュメルに苦笑しつつ、テオはゆっくりと口を開いていった。