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万屋ですがなにか。  作者: 狼花
VOLUME Ⅱ
33/53

File ten 大脱出ってやってみたかったんです。

 

 

 

 いや、これは無様な逃亡って言うんだぞ。





★☆





 エリオットが母に頼んだ通り、それ以降リオノーラが店に顔を出すことはなくなった。なんと説明してくれたんだろう。依頼で出かけている、とかいうのが無難か。それでも、いつまで騙しとおせるか。

 無邪気に自分のことを信用してくれている妹に、何も説明できないのが悔しくて情けない。けれど彼女を危険な目に遭わせたくないのは本心だし、早く事が落ち着けばいいと心から思う。


 テオはといえば、怪盗――ではなく、ヨシュアに依頼をしてからここ数日すっかりいつも通りだ。いつものように朝起きて、コーヒーを飲んで、少し庭いじりをして、こまごまとした依頼をこなす。そんなのでいいのかよ、と思わず突っ込みたくなるほどだ。


 大統領に兵器開発の関与を確認しにいったイザードも、政府に潜入して兵器開発調査をしているヨシュアも、まだ戻っては来ない。さすがに一筋縄ではいかないだろう。だから待っているしかないということはエリオットも十分わかっているのだが。



「なあ、テオ」


 向かい側のソファに座り、読書中のテオに声をかける。テオが本を読んでいる姿は、一緒に生活するようになって長いエリオットでもあまり見たことがない。

 一度集中すると周りのことなど一切耳に入らないようなタイプではないテオは、あっさりと書面から顔を上げた。


「なに?」

「あんたは、大丈夫なのか? 一番濃いエナジーに当たってるのはテオだろ。魔物化の心配は……」

「ああ、俺? 俺は大丈夫だよ、耐性を超えた抗体みたいなのを持っててね、多少のエナジーなら問題ない」

「けど……」


 ひどく苦しそうだったではないか。ユリが魔物化したとき、同じく強いエナジーに当てられて。

 

 そんなエリオットの懸念は見透かしているだろうが、テオはそのことについて何も言わずに微笑んだ。


「心配いらないよ。それより俺としては、君の方が気にかかるし」

「俺こそ、心配ないと思うけど」

「君は体調悪くても気合いで何とかしちゃうタイプの人間だから、当てにならないなあ」


 テオはぱたんと音を立てて本を閉じた。


「体調が悪かったりしたらすぐに言ってね。ほんとに」


 自分が生き延びるのに必死で精一杯だったエリオットの傭兵時代からずっと。

 この首都の下町で、テオは他人のために尽くしてきた。

 それに対する一番の報酬は、他人の『笑顔』であり、『嬉しそうな言葉』だった。


 素晴らしいと思う。損得勘定なく、そんなことをできる人間は少ない。


「――でも、もっと自分を大事にしても良いと思う」


 エリオットがぽつりと呟いたとき、ゲージに入っているチコが『キュゥ』と鳴いた。それと同時に玄関の扉が開き、大柄の男が入ってきた。今日は警備軍の制服を着ているイザードだ。


「やあ、お帰りイザード。遅かったね?」

「警備軍の一部隊長に過ぎん私が大統領とふたりきりになれる機会など、滅多にないに決まっておろうが」

「だろうねぇ」

「分かっていて無茶ぶりしたのか貴様。……それより店先で出くわしたんだが、こいつは客か?」


 イザードの巨体で見えなかったのだが、彼の後ろにはもうひとり人間がいた。ヨシュアである。そういえばイザードはヨシュアと初対面だな、とエリオットは我に返る。

 テオはにっこり微笑んだ。


「頼もしい協力者だよ。首尾はどう?」


 その問いかけに、ヨシュアもまた柔和な笑みを浮かべて頷く。


「上々です。なかなか面白かったですよ」

「そいつは良かった。じゃ、ふたりとも座って。まずヨシュアくんのほうから話を聞かせてくれるかな」


 テオとエリオットの対面にイザードとヨシュアが座る。いきなり初対面の人間が隣に座ったのでイザードはぎくしゃくしていたが、ヨシュアはそんなことを気にせず持っていたファイルから資料を取り出し、テーブル上に広げた。

 一枚の紙に大きく書かれていたそれは――明らかに、『大砲』というべきもの。


「これが、現在政府の研究塔地下で開発中の戦闘兵器です」


 テオは真剣な顔で、大砲のイラストとそれに添えられている文章を読んでいく。イザードなどはぽかんと口を開けていた。


「周囲のエナジーを大量に吸引、充填して放つ大砲。さしずめエナジーキャノン、『魔砲(まほう)』とでも呼びましょうか」

「魔砲……ヨシュアくん、結構素敵なネーミングセンスだね」


 さりげなく指摘を入れたテオだったが、構造図を見て眉をしかめた。


「この変換機は、俺が開発したものと微妙に違うな……俺のものをベースに、新しく作り出したのか。確かにこれなら多くエナジーを取り込んで莫大な威力出せるけど、無茶がある……!」

「開発中といっても、ほぼ完成形のようです。実際数日前には試運転が行われて、稼働に成功したというデータがありました。そしてこれが、詳しい構造なんですが」


 ヨシュアが差し出したもう一枚の紙をテオが受け取る。そこには、魔砲本体とはまた違った装置の構造図が書かれていた。沈黙するテオに、横からそれを覗き込んだエリオットが尋ねる。


「なあ……なんなんだ、これ?」

「――簡単に言うと、源泉からエナジーを大量に吸い上げる装置だね」

「源泉から?」

「エナジーの発生源である源泉……そこから人為的にエナジーを吸い上げ、兵器のエネルギーに使う。そういう装置を国内各地の源泉に設置したらしい。国中のエナジーが魔砲に集結する……っていうネットワークが構築されているようだね」


 それはつまり魔砲の威力がとんでもなく上昇するということ。そして、周囲のエナジー濃度をも上昇してしまうということだ。これを戦争に使ってしまえば、砲撃を受けた土地は壊滅するだろう。加えて、砲弾は濃縮されたエナジーのレーザーである。被爆した場所も、源泉の周辺も、一気に人の魔物化が進むと思われる。


 そのことを想像して蒼白になったエリオットの横で、テオは顔をあげる。視線の先は、ずっと黙っていたイザードだ。


「イザード。このことについて大統領の関与は?」

「……おそらくない、と思うぞ。市街で人の魔物化が発見されたと報告したとき、大統領は真っ青になって『すぐに原因解明を進める』と言った。私と二人きりの時にそう言ったのだ、その言葉に間違いはないだろう」


 大統領の心の奥には、息子であるエルバート・カーシュナーを死なせてしまったという罪悪感がある。直接的な原因がテオの魔術でも、大統領の指示した兵器開発も少なからず魔物化に関与している。だからこそ、大統領は開発中止を命じたのだから。

 どうやらあの時と大統領の心は変わっていないらしい。テオはそのことに安堵し、腕を組んだ。


「……黒幕は、大統領補佐官のキースリーか」


 呟いたテオは、次にヨシュアに視線を向けた。


「君が俺の正体を探りに来たとき……あの時、依頼は誰から受けていたの?」


 ヨシュアは沈黙している。彼は裏の仕事を行う人間。依頼人の情報は、誰であろうと開示しない義務があった。テオもそれは承知で、彼を追及している。


「レナードじゃないよね。彼は俺の顔をしっかり知っている。もし君に何か依頼をするなら、正体を探るなんて面倒なことはせずに『テオを連れてこい』と言うはずだ」

「……」

「あの時の君の依頼人は、キースリーだね?」

「……ええ、その通りです」


 観念したように溜息をついたヨシュアは、肯定した。


「大統領の指示を受けてレナード技師が進めていた兵器開発。大統領の中止命令が出てから、極秘裏にキースリーが開発続行をレナードに命じていました。しかし貴方がたふたりが計画中止のために動き出したことを知って、キースリーはレナードを隠れ蓑に事の露呈を免れたのです」

「そして今もなお開発を続けている、と。……キースリーの目的については?」

「いえ、何も」


 イザードが「むぅ」と唸る。


「キースリーは大統領と長い付き合いだ。ずっと補佐官を務めてきた優秀な人間だし、大統領に隠れてこそこそ何かを企むような肝のある男じゃないと思っていたんだが……化けの皮だったのかもしれんな」

「キースリーなんてどうでもいい。とにかく止める」


 きっぱり断言したテオの横顔に、迷いらしきものは何一つなかった。いつもやる気なさげに垂れていた真紅の瞳には、揺るぎない意志が映っていた。


「どうやって? 正面から乗り込んで魔砲を壊すか? それともキースリーを捕えるか?」


 それでも構わない、と暗に伝えるエリオットに、テオは苦笑した。常に慎重なエリオットが、いつになくやる気満々だ。


「それはさすがに危険かな。方法はふたつ――ひとつは、俺が研究所に戻ること。協力をするふりをしながら、少しずつ魔砲を弱体・解体していく」

「それだとあんただけが危険じゃないか。もうひとつは?」

「ひどく遠回りな方法になるけれど、エナジーの源泉に取り付けてある吸引装置を破壊していく。要するに、動力を断っていくんだ」


 確かにそれは遠回りで間接的かもしれない。しかし効果的だ。力を弱めれば威力も落ち、最終的には稼働できなくなる。そしてその時、キースリーは必ず行動を起こす。そこを引っ張り出せば――。


「キースリーがどんな手を持っているか分からない今は、直接彼を狙わないほうが良い。だとしたらできるのは、このくらいだ。魔砲も止められて、源泉周辺の人たちも救えるから一石二鳥」


 明るい調子のテオに、エリオットはふっと笑った。市民に公開されていないエナジーの源泉の場所は、すべてテオが把握している。以前キースリーの屋敷から盗み出したものを書き写してあるのだ。源泉に行って、装置を壊す。極めて単純な行動だ。


「久々の旅だな」

「あれ、なんか嬉しそうだね、エリオット?」

「定住にも慣れてきたけど、やっぱ旅は好きだ」


 楽しそうなエリオットとテオの様子に、イザードはやれやれと肩をすくめた。


「……止めても無駄のようだな。そうと決まれば、さっさと出かける支度をしろ。この得体のしれない野郎が資料を盗み出したことに気付かれるのも、時間の問題かもしれんぞ」

「嫌ですね、私が証拠を残してくるわけがないではありませんか」


 ヨシュアはにっこりと微笑む。

 早速荷造りを始めたエリオットが家中を走り回っている間に、テオは何やら手紙を書き始めた。荷造りはエリオットに任せておけばいいと思っているらしい。


「イザード、お願いがあるんだけど聞いてくれる?」

「今更改まるな、気色悪い」

「警備軍の治安部隊車両を貸してもらいたいんだ」

「またとんでもない頼み事だなおい」

「だって、警備軍車両だったら色々便利なんだもん。もうこれ以上、イザードに迷惑はかけないからさ」


 最後の一言に言葉を詰まらせたイザードは、口の中でもごもごと何か言いながら、くるりと背を向けて万屋から出て行った。どうやら、車両の手配をしてくれるらしい。ふっと笑ってその後ろ姿を見送ったテオに、傍に佇むヨシュアが問いかける。


「『荒事却下』という文句はどこにいったんです?」

「ああ、あれはね。ただ単に動くのが面倒っていうのと、剣も上手くない俺が魔物討伐なんてやったら必然的に魔装具使うことになっちゃうから、それを避けるための言葉だよ。こうなったら、もう意味ないから」


 さらさらとメモ用紙に文字を書き、テオは紙を綺麗に折り畳んでいく。ヨシュアは思わぬテオの本音を聞いて苦笑する。


「……私は首都に残ります。何か貴方に代わってできることがあるなら、何でも言ってください」

「おや、随分気前がいいね?」

「まだ金貨二枚分の仕事はしていませんので」

「じゃあひとつお願いしよう。この手紙を、オースティン伯爵令嬢に渡してくれるかな。多分俺たちが出かけた後、ここに来るだろうから」


 今しがた折っていた手紙を、テオはヨシュアに差し出す。それからテオは棚の上に置いてあった掌サイズの魔装具を持ち上げ、それもヨシュアに渡した。


「その魔装具は、君に預けるよ」

「これは?」

「通信系魔装具。それの片割れは俺が持って行くから、これでどこにいても通話ができるよ。何かあったら連絡して」

「貴方が整備したのですか。……さすがですね」


 通信系魔装具は、実用化こそされているが一般にはまだ普及されていない魔装具だ。今は主に警備軍などが使用している。テオは自分で変換機をいじって、通信機を創り出してしまったようだ。


 ちょっとした衣類に、現金、食料、魔装具。いつ戻るとも知れない旅であるのに、エリオットとテオの荷物は非常に軽かった。旅慣れたエリオットなどは剣一本でもなんとかなる自信があるし、テオもテオで「お金さえあれば」という考えらしい。


 鞄を肩に担いだテオの頭に、チコがよじのぼる。勿論一緒に行くつもりのようだ。野菜や果物の切れ端をあげておけばいいので、重荷にはならない。


「さて行きますか。リオノーラやイアンに何も言えずにってのが申し訳ないけど」


 頷いたエリオットは、ヨシュアのほうに視線を向けた。


「……リオのこと、見ていてやってくれないか。何するか分からない、お転婆娘だからさ」


 こんなことをヨシュアに頼むのはお門違いというものだろう。それでもヨシュアは快く頷いてくれた。テオもヨシュアを信頼しているようだし、エリオットもそうすることにする。


 エリオットが扉を開ける。この下町ともしばしの別れだ。そんな思いに耽ろうとしたまさにその瞬間――エリオットの『野生の勘』とも言うべき感覚が働いた。


「!?」


 剣を鞘ごと振り上げると、鞘に何かがぶつかった。甲高い音とともに地面に落ちたそれは、小さな銃弾である。エリオットは顔色を変え、出て来ようとするテオを室内に押し戻して扉を閉めた。


「どうした?」

「狙撃されてる。消音銃みたいで発砲音は聞こえない」


 テオが困ったように頭を掻く。どうやらもう政府に気付かれてしまったらしい。それにしても、白昼堂々市街地で発砲するとは。


「仕方ない、強行突破だ。エリオット、城門に向かって。そこにイザードが車を用意して待っているはずだ」

「分かった」

「では私が囮になりましょう」


 あっさりそう言って扉のノブに手をかけたヨシュアに、テオが苦笑する。


「……ほんとにどうして、そんなに手助けしてくれるの?」

「私はただ、自分の好奇心に従っているだけですよ」


 それだけ言い残し、ヨシュアは勢いよく外へ飛び出していった。発砲の音が聞こえない中で狙撃されるというのは、相当な恐怖だ。それでもそれを難なく躱していくあたり、ヨシュアはやはり並外れた身体能力を持っている。

 ヨシュアが敵の目を引きつけている間に、テオとエリオットも駆け出した。エリオットの本能が働き、飛来する銃弾はすべて剣の鞘が弾いた。テオに被弾することもない。

 ふたりが向かったのは城門ではなく、下町にある彼ら二人の『抜け道』だった。敵もまさかテオとエリオットがそちらへ向かうなど思ってもみなかっただろうから、下町の東へ移動するごとに攻撃はなくなった。それでも足を緩めずに城壁に到着し、石の壁を移動させて平原に出る。


 と、そこには一台の車があった。黒の車体に、ベレスフォードのエンブレムの入った治安維持隊車両だ。運転席にはイザードが座っている。


「おお、来たか」

「イザード、なんでここに? 城門の方でって……」

「私がここの存在を知らんとでも思っていたのか。それよりテオ、こいつは少し運転が複雑だから――っておい!?」


 イザードの言葉を聞かず、テオは助手席に乗り込んだ。エリオットは後部座席。テオに運転を教えて降りる気満々だったイザードは目を丸くしている。


「ごめんイザード、追われてるんだ。悪いんだけど車出して」

「わ、私も同行しろと言うのか!?」

「うん。ほら、毒を食らわば皿までって言うでしょ?」

「自分で言うな!」


 先程テオが『これ以上イザードに迷惑かけない』と言ったのはなんだったのだろうか。そう思いたくなるほどであるが、イザードにも追われる理由はある。これまで治安維持隊隊長として好き勝手やってきたのは事実であるし、政府の探すテオを匿ってきたのも事実。この状況で警備軍に戻れるかといったら、微妙なところだ。


「……ええい! どうにでもなれ!」


 イザードはそう怒鳴り、アクセルを踏んだのだった。





★☆





「お父様! いつになったらお兄様たちに会えるの!?」


 何度目になるか分からない娘の質問に、オースティン伯ウォルターは苦い顔をした。


「だから言っただろう、エリオットたちはいま依頼が立て込んでいて大変そうだから、邪魔をしてはいけないと」

「もう十日も経ってるんだよ!? っていうか、なんでお兄様たちのお仕事の状況をお父様が知ってるの? 僕が知らないのに!」


 父は今まで、エリオットに会いに行ってはいけないなんてことを言ったことはなかった。確かに以前にもエリオットたちの仕事がいそがしくなかなか構ってもらえないこともあったが、その時ウォルターは『あまり迷惑はかけるなよ』というだけで、会いに行くことを禁じたりはしなかったのだ。

 ウォルターは嘘を吐くのが下手だ。リオノーラはそのことをよく知っている。


「……お父様、嘘ついてる。お兄様に何かあったんでしょ?」

「リオ、そうではなくてだな」

「もういい! お父様なんて嫌いだ!」


 愛する娘にはっきり『嫌いだ』と告げられた父親のショックは計り知れない。ウォルターが身を固くしている間にリオノーラはぱっと身を翻し、父の書斎を飛び出した。家着だということも忘れて玄関を押し開け、驚きの声をあげる執事のセルウェイも無視して伯爵家の門を飛び出した。

 門を出て左へ曲がった瞬間、そこにいた人間と正面から激突してしまった。


「ひゃっ!?」

「わっ……と、リオノーラ?」


 倒れそうになったリオノーラの腕を掴んで支えてくれたのはイアン・コールマンだった。どうしてここに、と尋ねそうになったリオノーラだったが、どうしても何もイアンの家は伯爵家と同じ並びにあるのだ。


「どうしたんです? そんなに急いで……」

「う、ううん、なんでもない……ごめんね、ぶつかっちゃって」


 イアンの左手にはヴァイオリンのケースが握られている。それを落とさせなくて本当に良かったとリオノーラは胸をなでおろす。式典のときに壊れたヴァイオリンを修理して、やっと手元に戻ってきたと言っていたのだから。


「……イアン、これからどこ行くの?」

「家に帰るだけですよ?」

「もしかして、暇?」

「はい」

「じゃあ、僕と一緒に来て!」


 イアンの手を握ると、少し彼は顔を赤くした。


「え、えっ? どこに?」

「お兄様のところ! お兄様に何かあったんだ、だから自分で確かめに行くの!」


 エリオットに何かあった、というところでイアンが苦笑を消した。真剣な顔になってリオノーラの言葉に頷いた瞬間、リオノーラが引き攣った悲鳴を上げた。彼女と向き合って立っていたイアンは、自分の後ろに現れた人間に気付かなかった。


「そんな怪物を見たような悲鳴をあげないでもいいんですよ、お嬢さん」


 イアンの後ろにいたのは、怪盗ヨシュアだった。どこかから飛び降りてきたのである。

 イアンは彼が何者なのかを知らないし、顔を合わせたのは一度だけだ。それでもリオノーラがヨシュアのことを危険視していることだけは伝わってきたので、彼女を庇うようにヨシュアと距離を置く。リオノーラもイアンの服の裾をしっかり掴んでいた。


「美しいお嬢さんにそこまで怯えた目をされると、さすがに少々堪えますね……心配しないでください。私は貴方の兄上のことをお伝えに来ただけですよ」

「……お兄様のこと?」


 リオノーラがぴくりとその一言に反応したとき、伯爵家からウォルターが出てきた。リオノーラを追ってきたのだろう。しかし、家のすぐ前にヨシュアの姿があることに眉をしかめ、彼の前まで進み出た。


「何の用だね」

「今私は、万屋カーシュナーの依頼を受けて動いています。目的は貴方と同じですよ、伯爵」


 ウォルターは驚いてヨシュアを見つめた。そしてしばらく逡巡した結果、ヨシュアに背を向けて娘に向きなおった。ヨシュアを信用することにしたらしい。


「リオ。これはエリオットが数日前、私に宛てて書いた手紙だ。読んでみなさい」


 真っ白な封筒を差し出されたリオノーラは、無言で便箋を出して開いた。エリオットはあまり文章を書かなかったから、リオノーラにとっても初めて見る兄の直筆だ。

 そこには、人の魔物化という恐るべき事象と、その解決に動き出すという旨が簡潔に記されていた。両親に対して迷惑をかける詫び、そして妹を巻き込みたくないがために遠ざける詫びもある。


 リオノーラが手紙を読み終えたのを見計らって、今度はヨシュアが告げる。


「あのお二人は昨日、首都を発ちました。行く先がどこであるか、私も詳しくは知りません」

「……僕、置いていかれちゃったの……?」


 呆然と呟いたリオノーラに、ウォルターが首を振る。


「彼らは非常に危険なことをしようとしている。そこへリオを連れていくわけにはいかないと、エリオットも手紙に書いていただろう?」

「一緒に行きたいなんて言わないよ! 『出かけてくる』って、一言だけで良かったのに!」


 昨日旅立ったというのなら、リオノーラが父に出禁を食らっていた間、エリオットたちはまだ下町にいたのだ。

 いくら巻き込みたくないからって、出かける挨拶さえしてくれなかったのが辛かった。


 ぽろぽろと涙をこぼすリオノーラの手を、そっとイアンが包み込んでくれる。何も言わないでくれるのが、逆に優しかった。


 ヨシュアが小さく折りたたまれた紙を差し出した。リオノーラがそれを開くと、こちらは見慣れた文字だ。テオの綺麗な字。だが急いでいたのか、少し字体が崩れている。書かれている言葉も一言だった。



『必ず帰らせる。

 追伸。店の庭の花の世話してくれてたら嬉しいな』



 エリオットとの再会を必ず。

 テオが帰るとは、書いていない。


「テオぉ……」


 また涙がこぼれはじめたリオノーラは、ぺたんと地面に座り込んでしまった。イアンがぽつりと呟いた。


「信じて待ちましょう」


 信じて、待つ。

 それがこんなにも辛いものだと、リオノーラは初めて知ったのだった。

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