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万屋ですがなにか。  作者: 狼花
VOLUME Ⅱ
32/53

File nine 嫌なことほど覚えているものです。

 

 

 

 なんだか大事になってきたな。





★☆





「……とまあ、そういうことがあったわけだ」


 窓から夕日の光が僅かに差し込むだけの、茜色に染まった室内。いつもならとっくにカーテンを閉めて明かりをつけているはずなのに、今日に限ってはそんなことすら忘れてしまっていた。


 ベッドで眠るテオの枕元で、チコが丸まっている。まるでテオを温めるように、ずっと寄り添っているのだ。チコも、『何かあった』ということは察しているようだ。

 床に座ってテオのベッドに背を預けているエリオットの目の前には、室内にある椅子に腰を下ろしたイザードがいた。いつもは警備軍の制服を着ているのだが、今日は非番だったのか私服だ。やっぱり、どこにでもいるちょっと太ったおじさんにしか見えない。


 イザードは市街で起こった騒ぎを聞きつけ、すぐ駆けつけてくれた。表面上はただ『怪我を負った女性が病院に搬送された』ということになっているが、人々の間では『人の魔物がでた』という噂が広がっている。エリオットから事の詳細を聞いたイザードは真っ青になり、ぽつぽつと重い口を開いてくれた。


 その口から聞かされた昔話に、エリオットは言葉を失っていた。


「まさか……カーシュナーって人は、そんな亡くなり方を……」


 イザードは頷いた。


「あの時エルバートを斬ったテオの判断は正しかった。いや、正誤なんてないな。ああする他はなかった。けどまあ、テオは追い詰められてな……自殺しようとまでしたほどだ」

「よく……立ち直ったな」

「でなければ、エルバートが使っていた部屋をお前に使わせようなんてしなかっただろうな」


 言われてエリオットは気付く。作業場を除けば二つしか個室がない平屋だ。片方の部屋を以前カーシュナーが使っていたというのは至極当然のことであった。テオのことだから、あの部屋は『触れてはならぬもの』のように大切にしていたに違いない。


「こいつはエルバートが死んでから、良くも悪くも変わったよ。とげとげしかった性格は丸くなって、魔装具についてもよく考えるようになった。それと引き換えに、昔以上に大きな壁を作って他人を寄せ付けないようにしたんだ。自ら怠惰を装って、へにゃへにゃとやる気がなさそうな人間を演じた」


 イザードはそう言う。エリオットはテオへと視線を戻した。


「その壁を一部なりともぶち破ったのがお前だ、エリオット。あいつの話を聞いてやってくれ。もうそれは、私の役目じゃなさそうだ」





 膝に柔らかい毛布がかけられたのを感じて、エリオットははっと顔を上げた。

 テオのベッドに背を預け、体育座りの要領で膝を抱えて床に座っていたのだが、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。窓から差し込む光は、夕日から朝日に変わりつつある。早朝だ。寝すぎじゃないか、俺。さすがに疲れたのか。

 膝にかかっていたのはテオの毛布だ。顔をあげると、窓辺にテオが立っている。彼は振り返ると微笑んだ気配がした。日の光に照らされたテオの顔は、逆光でよく見えない。


「ごめん、起こしたね」

「あ、いや……大丈夫なのか、テオ」

「ん、平気。一晩よく寝たからね」


 すっかりいつも通り――とまでは言えないが、テオの様子はそこまで変わりなかった。切迫している様子もなく、だからといってへにゃへにゃしているわけではない。異常なほどに『普通』だ。


「……ユリさんとラッセルさんは、どうなった?」


 テオはまた窓の外に視線を送った。エリオットは身体を伸ばし、すっかり固まった身体をほぐす。


「ラッセルさんは何の問題もない。ユリさんのほうも、傷は深いけど命に別条はないって、イザードが教えてくれたよ」

「イザード? 来てくれたの、あの人」

「ああ、多分今リビングで仮眠をとってると思うよ」


 心配だからとイザードは泊まってくれたのだ。正直エリオットも食事の用意をするどころではなかったので、イザードがいてくれて助かった。


「そうか……無事なら、良かった」


 テオは呟き、椅子を引いて腰を下ろした。相変わらず床に座ったままのエリオットを見つめ、テオは静かに尋ねた。


「……じゃあ、イザードから聞いたよね? 人の魔物化のこと……カーシュナーのことを」


 質問というより、確認の言葉だった。エリオットは素直に頷く。テオはそれきり口を開かず、室内には静寂が満ちた。それはほんの二、三分のことであったが、エリオットにはひどく長い時間に感じた。

 そうしてテオがやっと口を開いたとき、彼の声は少々掠れていた。


「動植物の魔物化と、原理は同じだ。人もエナジーを大量に浴びると突然変異を起こす。全員が、というわけじゃない……元々人間はエナジーに対して他の動植物より耐性があるし、その耐性にも個人差があるからね」

「……うん」

「カーシュナーはその耐性が他の人より弱かった。加えてエナジー研究者として、その時すでに大量のエナジーを体内に取り込んでしまっていたんだ。そんな彼のすぐ傍で俺が考えなしに魔術を連発したせいで、カーシュナーは魔物化した」


 魔装具の使用により大量のエナジーが消費されれば、その空白を補填するために各地のエナジーの源泉は活発化する。それによって大気のエナジー濃度は増し、動植物が突然変異を起こしていく。テオが教えてくれた魔物化のシステムの中に、人間という生物もきっちり組み込まれているのだ。


「じゃあ、ユリさんは? あの人も同じように魔物化したけど、あの時テオは魔術を使っていなかっただろ?」

「君、何か感じなかった? 立ちくらみとか、眩暈みたいなものを」


 そう言われて、エリオットには思い当ることがある。確かに、貧血になったかのように頭が軽くなった感覚を覚えている。


「魔装具はエナジーを消費して動くわけだから、エナジーが補填されるまでの僅かな時間は大気の濃度が薄まる。エナジーは酸素みたいなもので、厄介なことに多くてもダメだけど少なすぎても体調に異常を来す。この間の違和感はそれだ。でもね、通常の魔装具を使ったくらいじゃまずそんなことに誰も気づかないはずなんだ」

「それに気づくくらい、大量のエナジーが一気に消費された?」

「たとえば、戦闘兵器――あれは、俺の魔術なんて遠く及ばないほどエナジーを消費する」


 テオが阻止したがっていた、戦闘兵器の開発。威力を重視するために大量のエナジーを消費し、生態系を狂わすもの。

 責任者のレナードを失脚させたことで、その計画は凍結されたはずだった。だかまだ水面下で計画は続行されているらしい――。


「……俺は、さ」


 テオがぽつりと呟く。


「俺は戦争を止めたかったわけじゃないんだよ。正直なこと言うと、戦争なんか何も興味がない。ただ、人の魔物化を止めたかっただけなんだ」


 真の願いは、人の魔物化の阻止。

 今回は、看護師として医療系魔装具が身近にあり、おそらく体質的にエナジーに弱かったと思われるユリが魔物化してしまった。だが今の状態が続けば、徐々にそうなっていく人間は増えてしまうだろう。


 人が異形と化し、人が人を狩っていく――そんな世界は、見たくない。


「そんな風に思うのは俺のエゴだけど……こんな世界にしたのが人間なら、直すことができるのも人間だと信じている。何より俺には、責任がある」


 それはつまり、本格的に政府と一戦やらかすということだ。レナードを失脚させるなんて間接的な手段では生ぬるい。もっと、徹底的に潰す。


「……付き合ってくれるかい?」


 その言葉に、エリオットはふっと笑うにとどめた。今更答えるまでもない。とうの昔に決めたのだから、彼の右腕になると。それが最善だと信じることにしたのは、エリオット自身である。



 リビングに向かうと、ソファにイザードが座っていた。まだ早朝の五時前だというのに、イザードはもう起きていた。いや、寝ていなかったようだ。テオも同じことに気付いて微笑む。


「寝てなかったの、イザード?」

「一時間くらいは休んだ。もういいのか、ふたりとも」


 棚の上にあるゲージの巣箱の中から、チコが顔を出す。キュウキュウと声をあげながら、出してくれと言わんばかりにゲージを引っ掻きはじめた。エリオットが扉を開けてやると、チコはぴょんと飛び出してくる。


「平気だよ。ところでイザード、貴方に一つ任務をあげよう」


 テオはにっこりと微笑む。イザードは嫌な予感を察したのか眉をしかめた。


「ささっと研究塔に潜入して、戦闘兵器についての資料を持って来てくれない?」

「……なんだと?」

「ささっと研究塔に潜入して、戦闘兵器についての資料を持って来てくれない?」

「ご丁寧に繰り返さんでいいわッ! 貴様は毎回毎回なんつーことを言うのだ!?」


 イザードの言い分はもっともだ。治安維持隊の隊長、警備軍の幹部であるイザードに盗みをはたらけと言っているのだから。エリオットはそのやり取りをスルーして台所に入り、黙々と朝食の用意を始める。その間にもリビングでテオとイザードの応酬は続く。


「あっ、じゃあ書き写してきてくれてもいいよ?」

「そういう問題じゃないッ!」

「文句が多いなあ。何なら良いわけ?」

「どれも良くないだろうが! 大体何をするつもりだ貴様!」

「破壊活動」

「戦闘兵器の破壊か!?」

「大正解、イザードくんにはご褒美にこのレタスをあげましょう」

「いらんわ! 誰がリスの食べ残しのレタスなんぞ」

「キュウッ」

「どわーっ、火の玉を吐くんじゃないッ!?」


 早朝から大騒ぎのふたりと一匹に、エリオットは呆れたように息をつく。どうしてこんなにいつも通りなのだろう。にこにこしながら食卓についたテオが、チコとじゃれあっているイザードに告げる。


「じゃあ、よろしくね」

「……行けばいいんだろうが行けば!」

「あ、やっぱりいいや」

「……はっ!?」


 ほんの数秒で考えを変えてきたテオに、イザードだけでなくエリオットも呆気にとられる。エリオットが差し出したコーヒーを受け取って、カラカラと氷をかき混ぜる。


「ちょっと心当たりができた。イザードよりも安全かつ迅速な仕事を期待できそうな、その手のプロがいるじゃない」

「そんな人いるのか?」

「もう君もイザードも会ってるよ」


 腕を組んで首を傾げるエリオットの横で、イザードが大きく溜息をついた。


「なら私はお役御免か」

「いや、別にやってほしいことがある。イザードは幼馴染の父親に会いに行くことはできるよね?」

「……簡単そうに言いやがる。大統領に何を聞いてこいと?」

「兵器開発に大統領がどこまで噛んでいるのか」


 先程までの騒がしい雰囲気が、一気に張りつめた。


「普通に考えれば、大統領の指示がなきゃ開発なんて行われないだろう。実際、最初は大統領の指示だったはずだ。けどね、俺はあの人にカーシュナーの魔物化について教えたんだ。そこで兵器開発は一度中断されたという報告を、俺は十年近く前に受け取っている」


 大統領の中断命令に背いて計画を進めていたレナードも、もういない。レナードを処罰した張本人である大統領が、なおも開発を続けるとはとてもではないが思えない。

 だとしたら何者かが――大統領の知らないところで、糸を引いている。


 政府に真っ向からぶつかる覚悟はある。それでも穏便に済むのであればそのほうがいい。大統領を味方にすることができれば、ぐっと優位になれる。

 もし計画が大統領の指示であるなら、本格的にベレスフォードを敵に回すことになってしまうけれども。


「試運転だろうけど、相手は戦闘兵器を稼働させたんだ。もう完成は近づいているらしい。このことを大統領が知っているのかそうでないのかで、打つ手が変わってくる。だからイザード、それとなく探りを入れてきてくれ」

「……分かった。お前らも慎重に動けよ」



 エリオットが作った朝食を早々に平らげて、イザードは店を出て行った。洗い物をしながら、エリオットはテオに問いかける。


「人が魔物化するってこと、政府の奴らは知っているのか?」

「うん。上層部の、ほんの一握りだろうけどね……政府が国民にした最大の隠し事が、それなんだ。人間が魔物になるという話を聞けば、民衆は混乱する。それを避けるためにこれを秘匿し、『魔物とは太古から存在する異形のもの』と説明した。魔物を生み出したのが自分たちだってことを知られないための、真っ赤な嘘だ」


 魔物がこれほどまでに数を増やしたのはここ三十年ほどの話。人間がエナジーで魔装具を使うようになってからだ。やがて「人の魔物化」という未来がやってくることを隠匿し、それでもなお研究をつづけた。あまつさえ、戦争をはじめようとしている。


「……なんでそんなに、魔装具開発をしなきゃいけないんだ」

「欲に際限なんてないからだろうね」


 テオはぽつりと呟き、洗い物を終えてキッチンから出てきたエリオットに告げる。


「エリオット、出かけるよ」

「どこに……?」


 首を傾げるエリオットに、テオはにっこりと微笑んで答えた。その笑みに複雑な色が混じっているのを、エリオットは見逃さなかった。


「病院」





★☆





 首都にはひとつだけ、国営病院がある。規模は当然のこと国内最大、思いつく限りすべての科の専門医が常駐している場所だ。下町の人間は『病院』などというところに行くことはない。地域にある個人経営の『治療院』にかかるのが普通で、それでなくとも切り詰めた生活を送る下町の住民は滅多なことで診察など受けに行かなかった。

 だからエリオットは、ここまで巨大な病院に来たのは初めてだ。物珍しくてあちこち見ていたら「おのぼりさんみたいだねぇ」とテオにからかわれたので、それからは静かにしている。


 ここに来たのは言うまでもない――入院中のラッセルとその妻のユリの見舞いと、謝罪のためだ。


 事情が事情だっただけに誰も何も言わなかったが、テオは白昼堂々市街で剣を抜き、人を斬りつけたのだ。殺人未遂で彼ら夫妻に訴えられても、弁解のしようがないことである。

 確かにあの時、周りに人の姿はなく、テオのしたことを見ている人物はエリオットくらいしかいない。証人はいないのだ。だがだからといって、テオはそれにほっとするような男ではなかった。きっとラッセルもユリも、何が起こって自分たちが入院しているのかを知らない。それをきちんと説明し、謝罪し、彼らが望むままに罰を受ける。そう覚悟していたに違いない。



 が、結局テオの予定は大きく崩れ去ってしまった。


 ラッセルとユリは、ふたりを暖かく出迎えてくれた。ユリの様子も安定していて、ラッセルは念のための入院だったために元気である。

 テオが事情を説明して深々と頭を下げると、夫妻は慌てたように『大丈夫』だと宥めてきたのだ。確かにユリの怪我は深いものであったけれども、怪我と引き換えに彼女の『エナジーに当てられた体調不良』はすっかり症状を消していたのである。


 おかげでとても気分が良いです、なんてにっこり微笑まれたら、テオも返す言葉がなくなるというもの。結果的に、謝りに来たのになぜか感謝されるという謎の事態に陥ったまま、ふたりは見舞いを終えて病室を出たのだった。



「……ユリさん、すごく元気そうだったな」

「ほんと、拍子抜けしちゃったよ」


 テオは乾いた笑みを浮かべ、廊下を歩いていく。隣を歩くエリオットに、彼は唐突に尋ねる。


「風船に空気を入れると?」

「は? ……風船が膨らむだろ」

「入れ続けると?」

「破裂する」

「――ま、つまりそういうことだったのかな。体内にエナジーを溜めこんで溜めこんで、限界に達すると魔物化する。そのあとは体内のエナジー量がリセットされる、と」


 昇降機の前で立ち止まって降下ボタンを押すと、扉はすぐに開いた。乗り込んで「一」というボタンを押すと、ゆっくり昇降機は降下を始める。


「じゃあ、もうユリさんが魔物化することはないんだな?」

「この先数十年は、ね。今の状況が改善されれば、話は別だろうけど」


 一度魔物化してしまえば、それ以降は当面その心配がない。またエナジーの蓄積がゼロから始まっていく。

 ――カーシュナーが一命をとりとめていれば、彼はきっと今も元気に暮らせていただろうに。テオはその仮説を立てていたからこそ、ユリを斬る手に加減をしたのだ。そして見事、テオの仮説は実証された。


 昇降機が地上一階に到着し、扉が開く。広いロビーを突っ切り、建物の外へ出る。

 今日も今日とて、非常に暑い。照りつけてくる太陽の日差しを手で遮りつつ、テオはエリオットを振り返った。


「……さて、やることは分かってるね? エリオット」

「ああ」

「よし。それじゃ、またあとで」


 ふたりは病院の敷地を出ると、お互い逆方向へ歩いていったのだった。





★☆





 エリオットが向かったのは上流階級区、オースティン伯爵家だった。伯爵家の老執事セルウェイは、エリオットの急な訪問に驚きこそしたが、すぐに迎え入れてくれた。平日ゆえにリオノーラは学校に行っていて、伯爵も仕事で大統領府へ出ている。当たり前といえば当たり前のことだが、伯爵家にいるのは夫人のナディアだけであった。


「まあ、エリオット! どうしたの、嬉しいわぁ。言ってくれれば美味しいお茶を用意したのに……」


 母ナディアは驚きと嬉しさが混じった声のトーンで、ぱたぱたとエリオットを出迎えてくれた。エリオットは苦笑を浮かべる。


「急にすいません。今日は渡したいものがあっただけなんで、すぐに帰りますよ」

「あらそうなの、残念。渡したいものって何かしら?」


 エリオットは懐から封筒を取り出す。何の装飾もなく、自分の名すら記していない素っ気ないものだ。それをナディアに差し出す。


「これを、父さんに渡してほしいんです。どうか直接、手渡しで」


 その言い方にただならぬ気配を感じたナディアは、両手でそっと封筒を受け取る。


「少し俺の周りがごたごたしています。父さんたちを巻き込んでしまうのは申し訳ないけれど、せめてリオだけは巻き込みたくない。あの子に、なるべく万屋へ行かないように言っていただけませんか」

「……危ないことをするから?」

「場合によっては」


 ナディアは優しく微笑み、エリオットの手を取った。


「分かったわ。手紙は確かに伯爵へ届けます。リオのことも、任せて頂戴」

「母さん……ありがとう。迷惑をかけて、ごめん」

「何を言っているの、男の留守を守るのが私の仕事よ。貴方は何も心配せず、やりたいことをやりなさい。お母さん、何があっても貴方の味方でいるわ」


 エリオットの手を握っていた母の手は、息子の頬に添えられる。少し背伸びをしてエリオットと目を合わせたナディアは、優しい眼差しながらも真剣だった。


「だから、無事でね。親より先に死ぬなんて、許さないんだから」

「……ありがとう」


 喪失感を一度知っているナディアだからこそ出た言葉に、エリオットはしっかりと頷いた。





 平民街にある住宅地のど真ん中、そこには子供が遊べる公園がある。遊具も揃っており、平日のこの時間ともなれば小さい子供たちが母親に連れられて遊びに来る。近所の友達と砂遊びに滑り台にと興じる我が子を見守りながら、母親は母親同士で子育てやら旦那やらについて話題の花を咲かせる。それがいつもの光景だった。


 しかしこの日は違う。公園内にいたすべての人間が、ある一角へと集まっていた。彼らの視線の先には、この暑いのに汗もかかずきっちりと正装をした若い男。彼は首都中を回って、時には路上で様々な手品や楽器演奏を見せてくれる芸人だった。

 子供相手にはもっぱら手品を見せてやることが多く、この日もコインを使った手品を披露した。子供たちがそれに興奮したのは言うまでもなく、母親たちも感嘆の声をあげている。


 手品が終わると、傍にあった箱にたくさんの銅貨が投げ込まれていった。子供たちが大喜びしているし、何より彼は人当たりのよい好青年なので、女性受けが良かったのである。

 自分の傍から離れ再び公園の遊具で遊び始めた子供たちを見ながら、ずっしりと重くなった箱を持ち上げ、青年は満足の息をついた。銅貨ばかりでかさばるが、換金すれば銀貨数枚にはなるだろう。今日の稼ぎもなかなかである。人の集まるこの公園は、こう言っては何だが絶好の稼ぎ場だった。


 しかし、手早く片付けを終え、引き上げようとしたその時――。



 チャリン、とお金の音が響く。誰かが追加で投げ込んだのか。そう思って振り返ると、箱の中には金色に鈍く光る硬貨が二枚入っていた。紛れもない、金貨だ。

 青年は金貨を見慣れていた。しかし、一般市民はそうそう金貨などを手に入れることがない。この公園に、ポケットマネーで金貨をほいほい出せるような裕福な人間がいたのか。いや、それでなくとも手品の礼に金貨を二枚も出すだろうか。


 軽く動揺した青年はふっと顔をあげる。そこには金貨を投げ入れた張本人が立っている。その相手を見て、今度こそ青年は息を飲んだ。


「あ、貴方は」

「やあ、こんにちは、ヨシュアくん。ほんとに路上で芸をしているんだね、ちょっと驚いた」


 やんわり笑うその男、テオドール・ティリット。

 かつてのターゲット、しかし今は何らかかわりのない万屋の店主。


 ――金貨を持っているのは納得だ。この男は貴族相手の依頼でがっぽり稼いでいるし、節約家のようだから相当の財産があると思っていた。


「……驚いたのは私です。これは一体何の真似ですか?」

「一つ依頼をしたい」


 テオの言葉に、ヨシュアは驚くというより不審さを覚えた。万屋が万屋へ依頼をする。それはどういうことか。


「調べ物なんだけどね。とある場所で、俺が言うものについて調べて来てほしいんだ」

「貴方がご自分で赴かれればいいのでは?」

「残念だけど俺は隠密行動が不得手でね。それに俺だって自分の身は惜しいし、そのせいで周りに危険な思いをさせたくない」

「まったくの無関係である私なら、負傷しようが死のうが痛くもかゆくもないと。良い性格をしていらっしゃいますね」

「君はその手のプロだという絶対の信頼があるからだ。それにね、初対面でいきなり命狙ってきた人に言われたくないよ」


 表面上はふたりとも笑みを浮かべ、穏やかに会話をしていたが、内容には張りつめた緊迫感があった。


「その金貨は前金。成功したらその倍を払わせてもらうけど、どう?」

「……結構ですよ。この金貨は頂きますが、それ以上は必要ありません」


 ヨシュアは金貨をポケットに滑り込ませ、テオを見上げる。テオは微笑んだ。


「自分の身を危険にさらすには、その額じゃ割に合わないんじゃないの?」

「興味が湧きました。貴方ともあろう人が、私に依頼してまで知りたいこととは、一体何なのかをね」

「――交渉成立だ。じゃ、ちょっと場所を移そうか。子供たちの多い公園のど真ん中で話す内容じゃないし」

「良い喫茶店を知っていますよ。案内しましょうか」


 テオとヨシュアは肩を並べて公園を出ていく。一見して仲の良い友人同士に見えるものだが、テオが彼に頼もうとしてるのは『政府への潜入』で、ヨシュアはそれを忠実に実行する『裏の人間』だった。



 ――こうなったからには、もう後戻りはできない。

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