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万屋ですがなにか。  作者: 狼花
VOLUME Ⅱ
31/53

File eight 夢なら早く醒めてください。

 

 

 

 でも、これは夢じゃない。





★☆





 暗くて、何も見えない。

 目を開けているのかそうでないのか、まるで分からない漆黒の闇の中。動くらしい足を動かし、闇の中をあちらこちらへ歩いてみる。行けども行けども何にもぶつからず、光の一筋さえ見えない。

 それはまるで、堕ちる闇だ。


 吸い込まれるように、落下するように。そんな感覚に襲われた後、急に閉じていた瞼の裏が眩しくなった。そっと目を開けると、周りに景色がある。木の壁、木の床、木の机と椅子。見覚えのある、家の風景。

 俺の家だ。下町のカーシュナーの家じゃなくて、俺が生まれた家。


 いつの間にか自分の姿も見えている。十七歳、すっかり背も伸びて大人になってきた俺の姿。


 こんこん、と手の甲でノックするように木の机を叩く。……触れられる。これは何だろう。夢にしては、やけにリアルだ。

 奥の部屋に続く扉が開いた。目を向けると、小さな男の子が走り出てくる。


 あれは自分だ。五歳かそこらの頃の、俺自身。


 よたよたとダイニングを横切っていく。どうやら俺の姿は見えていないらしい……向かう先はひとつ、玄関だ。

 体当たりをするように、小さい身体で扉を押し開ける。僅かにできた隙間から飛び出した男の子は、そのまま外へ走り出す。……どこへ行くんだろう。俺も幼い『俺』の後を追って外へ行く。

 ああ、懐かしい庭だ。父さんが作ってくれた木馬があって、俺が大好きだった青いボールが転がっている。父さんが仕事に行っている間は、母さんがよく一緒に遊んでくれたんだ。


 そんな庭に、父さんと母さんが立っている。……忘れたことなんてない。俺の父さんと母さん。政府の研究者で滅多に家に帰ってこない父さんと、もうすぐ弟か妹の出産を控えてお腹の大きな母さん。

 俺の記憶にある、そのままのふたり。


 俺は、この光景を知っている――。


「テオ! なんだ、昼寝していたんじゃなかったのか」


 父さんはそう言って、駆け寄ってきた幼い『俺』を軽々と抱き上げた。笑顔だけれど、何か複雑な表情をしている。当時の俺には気付けなかった微妙な表情の違いだ。父さん、そんな顔で笑っていたのか。

 父さんと母さんは、『俺』が寝ているのを見計らって外で話していたんだ。『俺』に聞かせたくない話だったから――。


「テオ、お部屋に戻りましょう?」


 母さんの言葉に頷いた『俺』だったけれど、父さんの服の裾はしっかりと握りしめていた。なかなか会えない父さんが、俺は大好きだったから。

 苦笑した父さんが、『俺』を抱き上げたまま家の中に戻っていく。やはり、玄関脇に立っている俺には目もくれなかった。



 ……駄目だよ。家の中に戻ったら、奴が来る。



 止めたくても、もう止められない。それが分かっていたから、俺は動けなかった。


 響く銃声。倒れる父さんと、そんな父さんの腕から放り出される『俺』。母さんが悲鳴を上げて『俺』を抱き上げようとするけれど、その寸前に母さんの胸にもぱっと赤い花が咲いた。

 父さんと母さんは息をしていなくて。母さんのお腹にいた弟か妹も、勿論助からなかった。


 事情を呑み込めない『俺』は、冷たくなっていく両親の傍で泣きじゃくるしかなくって。

 いつの間にか周りにいた黒服の男たちの中から現れた白衣の人間に、腕を掴まれてやっと顔を上げたんだ。


「邪魔だったティリット博士も死んだ。君には、魔装具の技術開発に協力してもらうよ。よろしくね、テオドール・ティリット」


 声音こそ柔らかかったけれど、残酷なその言葉に『俺』は凍り付いた。後に知る、『俺』を政府に利用されることを拒んだ父さんが、命がけで俺を守ろうとしてくれていたことを。それを邪魔に思って、政府は父さんを殺すという暴挙に出たということを。


 俺はこの国を許さない。いつか目にものを見せてやる。俺の家族の仇をとると、そう誓ったのだから――。





★☆





「テーオ。おーはよ」


 間延びした声が聞こえて、俺は薄く目を開けた。頬に細長い何かが当たっている。ふにふにと俺の頬を押してくるそれは、間違いなく人間の人差し指。


 ばっと身体を起こすと、「わあ」なんて間抜けな声がする。ベッドに腰掛けて俺にちょっかいを出していた相手は慌てて立ち上がった。


「急に起き上がらないでよ、びっくりしたじゃない」

「それ、俺の台詞。人の部屋に勝手に入るなよ……」


 少々癖がついてしまった髪の毛を引っ張りながら、俺は溜息をつく。相手――カーシュナーは悪びれた様子もなく微笑むだけだ。


「だって、テオが起きてこないからどうしたのかと思って。もう七時だよ」

「あ……やば、寝坊した」

「どうしたの? うなされていたみたいだけど」


 優しいその言葉に、俺は顔を背ける。立ち上がって、乱れたシーツを整えながら呟いた。


「昔の夢を……見ただけ」

「昔……ああ、僕とイザードでテオの誕生日ケーキを作ろうと思ったら灰が出来上がっちゃったときのことかな?」

「……は?」

「いや、あれは傑作だったよね。イザードが分量計り間違えたんだもん」

「直接的な原因はイザードじゃなくて、カーシュナーがオーブンの温度間違えたことだよ。そもそも食べられない代物が完成しちゃったんだから」

「結局テオが作り直してくれちゃって、あの時は面白かったなあ」


 都合のいい方向へ話を持って行くカーシュナーには、呆れてものも言えない。しかしまあ、これが彼のペースなんだ。これでも相当慣れたつもりでいる。

 ケーキ作り大失敗――そういえばそんなこともあったな。『昔』といって俺が思い浮かべるのは辛くて嫌な日々だけだ。けれども、考えてみればそれだけじゃなかった。カーシュナーとイザードがいてくれると、当たり前のことでも楽しく思えたものだ。


 カーシュナーは部屋の扉を開け、こちらを振り返った。


「ささ、早く支度しちゃってね。今日はお隣さんの屋根の修復を頼まれているんだ」

「……ちょっと、それカーシュナーなんの役にも立たないじゃん」

「うん、だから頼りにしているよ、テオ」

「なんで自分ができないことを引き受けるのさ……」


 体力面では非力にも程があるカーシュナーに、明日筋肉痛になることを俺は覚悟したのだった。





 両親を殺され、俺はレナードという政府の研究者に身柄を引き取られた。引き取られたといっても、俺が望んだことではない。レナードの目論見通り、俺もまた研究者となった。

 その時、俺は五歳。勿論最年少だった。研究者というより、当時は協力者といった立場のほうが近かったか。俺の力を使って、魔装具という夢の機関は完成した。


 成長するにつれて俺は世界を理解し、エナジーを理解し、魔装具と自分の力を理解した。年齢の割に賢しかったのは自他ともに認めるところ。俺はエナジーに焦点を当て、自分なりに調査を開始したのだ。


 そんな俺に共感し、兄のように寄り添ってくれたのがエルバート・カーシュナーだ。彼は俺よりたった五歳年上でありながら、誰よりも優れたエナジー研究者だった。本人は一切の素性を教えてはくれなかったが、俺は自分で調べたから分かる。大統領の息子だ。どうしてブロウズという大統領の姓を名乗らなかったのか、正確な理由は今でも知らない。それだけ父親を嫌っていたのか、他の理由があったのか。


 いっぱしの研究者となった俺のフォローを、いつだってカーシュナーはしてくれた。それがたとえ幼い自分への同情だったとしても――いや、カーシュナーは同情なんてしない人間だった。単純にテオドールという人間に興味を覚えたに過ぎないんだ。彼は、そういう性格だから。だからこそ俺も、嘘偽りのない感情を向けてくれるカーシュナーを信じることができた。

 そのうちカーシュナーは俺を政府の研究塔の外へ連れ出すようになった。お昼を食べるためだとか、欲しい本を探しに行くためだとか、理由はその時によってさまざまだった。そんなことをしているうちに出逢った、カーシュナーの幼馴染のイザード・シェルヴィーという男。若くして警備軍の治安維持隊に所属する、要するにエリートだった。まあカーシュナーの幼馴染ということで、イザードもかなりの変わり者だった。俺とすぐ打ち解けられたんだから。基準がおかしいのは自分でも承知している。


 カーシュナーとイザードの三人で過ごしているときが、一番『生きている』ことを実感できる時間だった。

 だから――カーシュナーが『逃げよう』と言ったとき、俺にそれを拒む理由はなかったんだ。





 五歳で研究者になって八年。十三歳の時に俺はカーシュナーと共に政府から逃げた。下町に隠れ住み、カーシュナーとイザードに守られながら、もう四年になる。平穏な生活は退屈で、でも穏やかで――ささくれていた俺の心も、綺麗になっていくようで。

 最初は嫌だった『何でも屋』稼業も、最近ではそんなに嫌だと思わなくもなったり。


 あの時、カーシュナーが体調を崩して伏せがちになった時も、素直に看病するようになったんだ。


「はぁ……ごめんね、テオ。家のこと全部やってもらっちゃって」


 ベッドで横になっているカーシュナーを起こして、出来立てのオートミールの盆を差し出す。最近は身体を起こすことも億劫になったようだし、食欲もないのだとか。

 おかしいな。カーシュナーは運動神経もなく非力ではあったけれど、病弱ではなかったはずなのに。


「……ほんとに、熱とかないの?」

「熱はないし喉も痛くない。ただ、頭がぽやーっとして動くに動けないってだけだよ」

「だけって……」

「お医者さんには過労だって言われたから、心配いらないよ」


 優しく笑うカーシュナーの姿を直視できず、俺は目を逸らす。絨毯の敷かれた床に座り込んで、スプーンを手に持ったカーシュナーに言う。


「……働きすぎなんだよ」

「そうかもね、反省しまーす」

「全然反省する気ないでしょ」

「そんなことないよ? でもまあ、こうやってテオに看病してもらえるならそれもアリかもねぇ」


 へにゃんとしたその笑顔に冷ややかな目を向けておいて、俺は溜息をついた。


「……カーシュナーが昨日引き受けた依頼、俺が代わりに行ってくる。昼には帰るから、大人しく寝ていてよね」

「はいはい。悪いね、よろしく」


 食べ終えた食器を受け取るとき、ちらりとカーシュナーの腕を見る。細い、枝のようだ。痩せたな。元々痩身の人だったけど、今の痩せ具合は病的な何かだ。何日も食欲がなくて寝たきりでは、仕方ないか。

 食器を洗ってから俺は店を出た。今日の依頼は庭の雑草むしり――黙ってやれば、すぐ終わるだろう。





 と思ったのは間違いだった。依頼主の家の庭の放置度は半端ではなく、昼前に終わらせる予定だったというのに終了したのは正午を一時間ほど回ってからだった。カーシュナーのお昼を用意しなきゃというより、俺自身が空腹とあまりの疲労でふらふらしながら店へ急ぐ。と、後ろから誰かが走ってきた。


「おい、テオ」

「……イザード。どうしたの、こんな真昼間に。暇なの?」

「暇じゃない! 空き時間ができたから、エルバートの様子を見に行こうと思っていたところだ」

「それを暇って言うんでしょ」

「っ……も、もうどうでもいい。で、お前こそ何をしている?」


 イザードと肩を並べて――いや、イザードのほうが俺より頭半分くらい背が高いけれど――歩き出す。俺は上着のポケットに手を突っ込んだ。


「カーシュナーが受けた依頼を代理で済ませてきたところ」

「……無理する奴め」

「まったくだよ。そんなことよりイザード、俺お腹空いちゃった。なんか奢ってよ」

「何が『そんなことより』なんだ!?」


 イザードは怒るけれど、この程度の要求はすぐ受け入れてくれる。優しいを通り越してお人好し。絶対子供のころは使いっぱりしだったと俺は確信している。

 市場でいくつか惣菜を買ってもらってから、俺とイザードは店についた。カーシュナーが留守番しているけれど一応鍵をかけて出て行ったので、俺は鍵を取り出して穴に差し込んだ。くるりと回す。が、どういう訳か手ごたえがない。ノブを掴んで回すと、既に鍵は開いていた。


「鍵、開けてくれたのかな」


 怪訝に思いつつ扉を開け、室内に入る。荷物をダイニングテーブルの上に置くと、そこに一枚のメモが伏せて置いてあった。それを裏返す。真っ白なメモ用紙に、流暢なカーシュナーの字がある。


『魔物に襲われた人たちの救助に行ってきます』


「……馬鹿かあの人!?」


 俺は思わず怒鳴り、走ってカーシュナーの自室に飛び込んだ。やはりそこにカーシュナーの姿はない。ベッドのシーツに手を当てると、すっかり彼の体温はなくなっていた。棚の上に置いてあったはずの攻撃系魔装具も、持ち出されている。

 リビングに戻ると、イザードもそのメモ書きに目を通していた。髪を掻き回したイザードが溜息をつく。


「ったく、仕方のない奴だ。テオ、行くぞ!」


 俺は頷いて、イザードと共に家を飛び出した。


 カーシュナーは自分の運動音痴を知っている。それでも討伐依頼が来たときは攻撃系魔装具で応戦していた。魔装具技師なのだから、カーシュナーの魔装具の扱いは相当なものだが、やはり実戦には体力が必要とされる。今のカーシュナーには戦う力などない。

 医学の心得を持っているから、治療に行ったのかもしれないが。それでも、ベッドから立ち上がることさえ億劫だった人間が出歩くなど、とんでもない。



 下町は首都の城門に近い場所に形成されていることもあり、結界系魔装具の不具合で魔物が侵入でもしてくれば一番危険な居住区となる。そうしたときに必ず駆り出されるのが、下町最大の戦力であるカーシュナーと俺だった。

 もっぱら戦うのは俺で、カーシュナーはあくまでも防衛に徹していたのであるが。


 首都を守る結界は円錐状をしており、結界の内外の境目は城門から少し外の草原地帯にある。普通に行き来する分には誰も違和感など覚えないが、このときばかりはその境目がはっきり見える。獣型の魔物が、見えざる壁に激突して倒れるのを見ることができるからだ。

 カーシュナーはそんな境目ギリギリのところで、怪我をした人を抱え起こしていた。見るからにカーシュナー自身がふらふらしていて、危なっかしいことこの上ない。


「カーシュナー!」


 俺はすぐにカーシュナーのところへ駆けつけた。イザードは腰のホルダーから銃型の攻撃系魔装具を取り出して引き金を引いた。警備軍の治安維持隊に支給しているもので、殺傷力はそこまでない。そもそも治安維持隊は、あくまで地域の警察組織なのだ。護身術くらいしか会得していない集団のはずだけど、イザードはそれなりに武芸を身につけている。魔装具が実用化される前は剣の使い手だったとか。ちなみにもっと体型もスリムだったとかなんとか。


「あらら、来ちゃったの」


 困ったように微笑むカーシュナーに呆れつつ、俺は彼が抱えている怪我人を反対側から支えて立たせる。結界のもっと内側へ移動させ、カーシュナーは包帯を取り出して治療に当たる。


「来ちゃったの、じゃない! 今どれだけ自分が弱ってるか分かって――」

「テオ、ぼうっとしないで。まだ怪我人が結界の外に取り残されているんだ」

「……分かった、説教は後だ」


 カーシュナーの言うことはもっともなので、俺はすぐ身を翻した。カーシュナーは『大丈夫ですよ』なんて優しく微笑みながら、治療を続けていく。

 ……俺も、他者のために何の躊躇いもなく自分の命を投げ出せるような人間だったら。

 色々、考えずに済むんだろうか。


 イザードが牽制の銃を撃っている隣に立ち、神経を集中させる。周囲にあるエナジーを、すべて俺の手の中に集める。

 魔物はまだ二桁はいる。これだけを地道に倒していくことは、無理がある。魔装具ではなく、もっと手っ取り早い力を俺は持っているんだ。


「テオ! 駄目だッ!」


 背後からカーシュナーの怒鳴り声が聞こえた。その時には既に、俺は術を完成させてしまっていた。



『flash!』



 閃光。天から突き下ろされた光の槍が、その場にいた魔物をすべて串刺しにした。強烈な光が発生して視界を奪われたのも一瞬のこと、光が消えたときそこには魔物の死骸だけが横たわる死の静寂を生み出されていた。


 魔物を倒したという感慨にふけるでもなく、俺はすぐに振り返る。

 どうしてカーシュナーは叫んだんだろう。何が『駄目』なんだ? ……ああそうか、眼鏡を忘れたことかな。いつものことなのに、何をそんなに――。



 カーシュナーは、草の上に倒れていた。明らかに、俺に向けて駆け出そうとしていた、そんな態勢で。



「……カーシュナー……?」


 嫌な予感に襲われて、俺は倒れているカーシュナーのもとへ駆け寄った。抱き起すと、彼は気を失っていた。疲労が極限に達して、力尽きたのか。

 イザードもこちらへ歩いてくる。この場はイザードに任せて、カーシュナーを連れ帰ろう。俺はそう考えていた。怪我人たちも心配だが、俺の優先順位はカーシュナーが一番だったから。


「っう……」


 カーシュナーが呻いた。その瞬間、俺は信じられない物を見た。カーシュナーの身体が淡く光り始めたんだ。


「な、に……?」


 光は徐々に強くなり、カーシュナーの心臓の鼓動に合わせて明滅を繰り返す。

 そして――光がはじけた。


 俺は強い力に吹き飛ばされ、数メートル離れた地面に叩きつけられた。イザードがすぐに助け起こしてくれる。何があったのか、さっぱり分からない。


「……お、おいテオ! あれは!?」


 イザードが叫ぶ。光の中に何かいた。巨大なシルエットがぼんやりと浮かんでいる。手足が異常に長い、気味の悪い――。



「……カー、シュナー?」



 そこにいたのは魔物で。

 そこにいたはずのカーシュナーはいなくて。


 魔物は真っ直ぐこちらに向かってくる。イザードが俺を抱え上げて後方に跳躍し、銃を撃った。その銃撃の音を聞いて、俺は我に返る。


「う、撃つな! あれはッ……!」

「馬鹿野郎、死にたいのかッ!」

「あれはカーシュナーなんだッ! 殺すなぁッ!」


 魔物にからみつくように見えている、薄青の布地。明らかにあれはカーシュナーが着ていたシャツの切れ端だ。

 どうにかして人間の姿に戻さないと。カーシュナーが魔物化したことなど今はどうでもよかった。ただ、元に戻さないと。そう考えていたのだ。


 長い腕が横に薙がれる。束の間口論していた俺とイザードは、その腕に弾き飛ばされた。また地面に叩きつけられて、草の上に血が広がった。額に手を当てると、そこにべったりと血がついている。

 俺とイザードに興味を失ったように、魔物はゆっくりと踵を返した。向かう先は首都の街。ここは既に結界の中だから、結界は全く役に立たない。


 あのままカーシュナーが街へ向かったら、そこにいる人たちを襲うのかもしれない。



『自分の存在が、周りの人に危害を加えるものだったらどうする?』


 俺は昔、そんなことをカーシュナーに尋ねた気がする。漠然と自分の力の危険性に気付き始めたころのことだった。

 急になんだ、と驚くこともなく、カーシュナーはコーヒーを啜りながら答えてくれた。


『なんとかする努力をするよ』

『それでも、どうにもならなかったら?』

『周りの人に助けてもらうかな。でも、親しい人だけじゃなくて、たとえばこの街全体に危害を及ぼすようになってしまったら……そのときは、止めてほしい』


 カーシュナーは、見ず知らずの人であろうと、自分のせいで誰かが悲しむのを嫌ったから。


『そんなことになったら、僕を止めてね。テオ』

『……俺に、殺せって言ってるの?』

『うん。君は訳もなく人を傷つけるはずがない。君が僕を殺しても、僕は君を絶対に恨まないよ』



 ……それが、俺のせいでも?



 少し離れた場所に倒れているイザードは、どこか強打したのか蹲っている。立てそうにもない。

 俺は顔をあげて、遠ざかっていく魔物の背中を見た。そこにカーシュナーの面影など何もなかったけれど――あれは紛れもなく、カーシュナーだから。


 立ち上がって、俺は駆け出した。カーシュナーを追いかける。走りながら、ポケットにいつもいれていた眼鏡型の抑制器を取り出し、装着する。それだけで世界がクリアになったのは、単に俺の視力が落ちているから。


 跳躍する。魔物は俺に気付いてゆっくり振り返った。

 こぼれそうになる涙をこらえながら、俺は叫んだんだ。


『claw!』


 カーシュナーを引き裂く、死の鉤爪を。





 気が付くと、そこにはカーシュナーが倒れていた。もう魔物の姿ではない。元に戻ったんだ。


 駆け寄って彼の姿を見て、俺の喉の奥で引きつったような声がした。カーシュナーは、俺が振るった鉤爪で引き裂かれ、くっきりと三本の傷がついていた。血がとめどなく溢れて、もうどうもできない。

 なんのことはない。カーシュナーは、瀕死の重傷を負って魔物の姿を保てなくなったから、人の姿に戻っただけだ。


 地面が赤黒く染まっていく。生きているのか生きていないのか、もうさっぱり判別できないカーシュナーの傍にへたり込んだ俺は、治癒の術を組み立てていく。だが発動する寸前に、俺の手を冷たい手が掴んできた。


 カーシュナーだ。


「カーシュナー……」

「……勿体ないから……やめて」


 彼はやっぱりいつもの彼で、血にまみれた顔で優しく微笑む。俺の姿さえ、見えているのかはっきりしないというのに。


「ありがと……」

「なんで……なんで礼なんて言うんだよ! 俺がッ……!」

「……僕は、いつかこうなるって……知ってた。それを君に言わなかった、僕の責任……」


 知っていたのか。

 そうか、俺は世界の毒なんだ。俺が術を使うことを控えれば、こんなことにはならなかった。

 あれほどカーシュナーは言っていたじゃないか、世界に優しくなれと。魔術は極力使うなと。どうして、俺はそれを守らなかったんだ。


 こうなることを知っていれば、なんて責任転嫁はしたくない。


「だから……テオのせいじゃ」

「――嘘つくなよッ! 俺のせいじゃないかッ! 俺が、俺が……ッ!」

「違う」


 笛を鳴らすように、か細い息の音が聞こえる。カーシュナーは荒く呼気を吐き出しながら、ぐっと俺の手を握る手に力を込めた。

 血まみれのカーシュナーは、もう一度微笑む。


「テオのせいじゃない。テオのせいじゃないよ」





 雨が降ってきた。

 肌を叩く冷たい滴に気付いて、ようやく俺は現実に立ち戻る。


 カーシュナーは静かに眠っていた。もう二度と醒めることのない眠りは、ひどく穏やかで――雨は、彼の真っ赤な血をゆっくりと洗い流していく。

 俺の手を握ってくれていたカーシュナーの手は、力なく地面に落ちている。


 ずっと抱き起していた彼の身体は、冷たくなっていた。雨のせいだけじゃなくて。


 傍にはイザードが立っていて、俺の頭に手を置いていた。しきりに髪を撫でてくれるイザードの手は、時折力が込められる。俺を罰しているのではなく、こみ上げる涙をこらえるために力を入れているのだと、俺は知っている。


 カーシュナー。

 どこにでもいそうな容姿をしていて、典型的なインドアで、でも天才的な研究者で。価値観とかそういうものはどこか人とずれていて、でもとても優しくて、自分のことをちっとも大切にしなくて。運動音痴で、その分絵とか楽器が上手くて、読書と花とコーヒーが大好きで。

 いつだって優しく笑って、俺を守ってくれたカーシュナーは。


 ――もう、どこにもいないんだ。



「うっ……あ、ああ……」



 カーシュナーの頬に落ちる透明な雫が、自分の涙だとは気づかなかった。


 ただ冷たいカーシュナーを搔き抱くように抱きしめた。……カーシュナーの匂いがする。雨と血の匂いに混じって、紛れもなくカーシュナーの匂いが。コーヒーの匂いでも、洗剤の匂いでもない、カーシュナーの匂い。


 声を押し殺して泣くのは、もう限界だった。


「わああああッ……!」


 俺が泣き叫ぶ隣で、イザードは変わらず沈黙している。今はただ、傍にいてくれることが嬉しかった。





 俺のせいでまた人が死んだ。


 最初は俺の両親と、生まれてくるはずだった弟か妹。


 二度目は、俺を救ってくれた恩人が。


 三度目は、もう見たくない。



 俺の存在が世界にとって害であるなら――もうこれ以上、俺には生きる資格なんてない。

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