表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
万屋ですがなにか。  作者: 狼花
VOLUME Ⅱ
30/53

File seven 思い出の花は美しいです。

 

 

 

 待ってくれ。何がどうなってるんだ。





★☆





 数日間せっせと庭造りに勤しんだテオは、ようやく満足の行く出来栄えになったのか息をついて立ち上がった。窓から足を投げ出してその様子を見ていたエリオットは、「へえ」と感嘆の声をあげた。


「綺麗な庭になったな。テオってそういうセンスもあるんだ」

「はは、カーシュナーが作った庭の再現に過ぎないよ、これは」


 エリオットが定期的に庭いじりはしていたのだが、それでも雑草を抜くくらいだ。こんな風に花を植えたり、トピアリーを作ってみたりということまではしない。こだわるととことん凝るあたり、やはりテオは芸術家気質だ。

 花壇に植えられた色とりどりの花。エリオットには名も分からない花であるが、そこに見事に咲いているというだけで心も満たされるというものだ。


「……いいな、花って」

「うん。優しくなれるよね、何かに」


 実感のこもった言葉に、エリオットは視線を花壇からテオへ移動させる。額に浮かんだ汗を拭うテオの横顔がそこにあった。


「俺さ。昔は相当性格荒れてたんだよね」

「……まったく想像できないんだけど」

「なんていうか、斜に構えているっていうかね。年相応の反抗期みたいなものだったんだよ。カーシュナーやイザードを散々困らせた悪ガキだったんだ、俺は」

「イザードは現在進行形で困らせているよな」


 鋭い言葉にテオは苦笑する。否定はしなかった。


「そんな俺にね、カーシュナーは『芸術を学べ』と言ったんだ。綺麗なものを見たり聞いたりして、『綺麗だ』と思う心。それが『優しさ』なんだよ、ってね」

「……」

「当時は、こんな廃れた下町で貧しい生活を送っていることが不満で仕方なかったんだけどね。いまは分かるよ。貧しくてもみんなが一生懸命生きている世界は、綺麗なんだってことが」


 テオが植えた花が、風に吹かれてゆらゆらと揺れる。仄かに香る匂いは、ほんのり甘い。


「……俺は、テオがどんな具合にやさぐれていたのか知らないけど」

「やさぐれるって酷いね。事実だけど」

「そんなテオの気性をひっくり返すことができたなんて、カーシュナーはすごく優しい人だったんだな」


 例えるならば、母が子を包み込むように。

 そんな大きな優しさでテオを包み込んでくれたカーシュナーだからこそ、テオの心を溶かすことができたのだろう。

 叶うならば、カーシュナーに会ってみたかった。エリオットはそう思う。


 そんなとき、室内から「すいませーん」と声がかけられた。エリオットがはっと振り返り、立ち上がる。


「お客か……はいはい、今行きます!」


 ぱたぱたと室内に戻っていくエリオットから視線を外したテオは、今一度完成された庭に視線を送る。そういえば昔は庭に一人掛けの椅子があって、カーシュナーはよくそこに座って本を読んだり絵を描いたりしていた。あの椅子はどこに行ったんだろう、倉庫かな――などと物思いにふける。


「……忘れてたけどさ。俺、あの頃のカーシュナーの年齢、とっくに通り過ぎてたんだよね」


 たった二十二歳でこの世を去ったカーシュナー。あの時自分は十七歳だった。それから十年経って、自分は今年二十七歳になろうとしている。


「あーあ。俺ももうイザードのこと『おっさん』なんて呼べる歳じゃなくなってきたなあ」


 ぼやいた彼は、エリオットの呼ぶ声に応えて室内に戻って行った。





「花を、探したいんです」


 それはなんとタイムリーな依頼であろうか。


 依頼をしてきたのはラッセルという男性だ。首都にある国立図書館に勤めているそうだ。図書館などエリオットは行ったことがないのだが、テオは割と足を運んでいるらしく顔見知りのようだ。

 図書館員ということで細身かつ知的な雰囲気のある人だ。


「花ですか」


 テオはその単語を繰り返す。ラッセルは頷いた。


「花屋では取り扱われることのない花なんです。これがその写真で」


 懐から取り出したスナップの写真にはひとりの女性が写っていた。手に大きなオレンジ色の花の束を抱えて、カメラに向かって優しく微笑んでいる。綺麗な人だ、とエリオットは素直に思う。


「す、すいません。写っているのは妻なんですが……妻が持っている花、それを探したいんです」

「これは……ユリでしょうか? なかなか珍しい色ですね」


 テオはしげしげと写真の花を見ている。花弁の色は外側に向かって薄くなり、中心に向かうほどオレンジ色が強くなる。ユリといえば白や薄紅しか思い浮かばないエリオットにしてみれば衝撃的な色だ。


「昔、彼女と一緒に出掛けたときに野生のものを見つけまして。それ以来、彼女はこの色のユリが大好きになったようで。妻の名前が『ユリ』だということも、あるんですけれども」

「奥さんのお名前もユリというんですか。それは素敵ですね」


 優しいテオの微笑みに、ラッセルは照れたように頭を掻く。


「そ、それでですね。ユリはいま体調を崩していまして……何か彼女の見舞いになるものをと考えたとき、どうしてもその花しか思いつかなくて。首都の外の平原に群生しているので取りに行きたいのです。なので、どうか護衛をお願いできませんか?」

「お引き受けします。ひとりで平原に出るのは危険ですからね」


 朗らかに承諾したテオの横で、エリオットはほっと息をつく。これで却下でもしたらどうしようかと思っていたところだ。


「そうと決まったらすぐ出発しましょう。歩いていける距離ですか?」

「いえ、歩くとなると相当距離が……」

「ふむ、では車を出しましょう。エリオット、地図を出しておいて。俺は車を城門前まで移動させておくから」

「ああ、分かった」


 テオは車のキーを持って家を出ていく。エリオットは本棚から地図を出し、大体の場所をラッセルに聞いた後に彼と共に城門へと向かった。門の傍にテオの白い車が横付けされており、すぐそれに乗って出発する。いつかと同じように運転はテオ、助手席にエリオット、後部座席にラッセルである。


 しっかりシートベルトまでしたエリオットは、動き出した車に身体を揺らされながらはっと我に返った。


「やば、俺車酔いするんだった……!」

「あはは、軽々しく車に乗ったのが運の尽きだねぇ」

「うわっ、ちょ、急発進は事故のもとだぞ……うっ、気持ち悪っ」

「君さぁ、乗り物酔いってレベルじゃないよそれ。匂いとかでやられてるんじゃないの?」


 ハンドルを切って方向転換しただけでシートに深くうずまったエリオットを見て苦笑したテオは、右手で何か機器を操作をした。と同時に助手席側の窓が少し開き、風が入ってくる。少々生き返った気持ちだ。


「あ……風、気持ちいい」

「弱ってるなあ、もう。世の中にはドライブを楽しむ人たちが多いっていうのに」

「多分、機械の中に閉じ込められているのが嫌なのかもな」

「ああ、君は自由で雄大な自然の中を闊歩してきた人だからねえ。軽い閉所恐怖症か……君、色々ナイーブだね」

「ほっとけ」


 エリオットが眉をしかめつつ広げた地図には、ラッセルにつけてもらった目的地の印がある。それにちらりと視線を送りつつ、すいすいとテオは車を走らせる。

 後部座席にいたラッセルは不意に笑みを浮かべた。鏡の反射でそれを見たテオが苦笑した。


「すいませんね、馬鹿馬鹿しい会話聞かせまして」

「いえ……仲がよろしいんですね。図書館で本を読む貴方は、いつも難しそうな顔をしていましたから少し意外でしたよ」


 テオがそんな顔で何を読んでいるのかはエリオットにはさっぱりである。大方は技術書や参考書なのであろうが――。


 前に車に乗った時とは違い、整備された道を進んでいくので体感的には非常に楽だ。エリオットは小さく息を吐き出し、窓の外の景色に視線を送る。青々とした草原ばかりが広がり、ぽつぽつと小さな花があるだけの場所。見慣れた景色だ。


 正直、見舞いにユリの花はどうなのだろうと思わないでもない。香りも強いし、何よりエリオットには葬式のイメージがあったからだ。しかしテオもエリオットもそんなことをラッセルに言わない。依頼の内容について口を出すことは基本的に許されないことだからだ。

 ユリでもいいではないか。あの香りが好きだという人は多いし、それが思い出の花であるのならばなおさら、他人がどうこう言う筋ではない。


 地図に視線は落とさないようにしながら、エリオットはラッセルに問いかける。


「ユリさんの容体は大丈夫なんですか……?」

「ああ、病の類ではないようです。仕事も忙しかったようですし、過労が祟ったのだろうと……ここ数日は家で寝ていますよ」

「お仕事されているんですか」

「はい、妻は看護師なんです」


 分岐を左に曲がりながら、テオも口を開いた。


「病院にお勤めということは、医療系や治癒系の魔装具の扱いに慣れていらっしゃるんでしょうね」

「はい」

「……寝込まれたのは今回が初めてですか? 昔から身体が弱いということは……」

「え……? そうですね、前にも何度かありました。貧血にもなりやすいようなので」


 ふうむ、と呟くテオに、そっとエリオットは顔を寄せる。


「なんでそんなこと聞くんだよ?」

「んー……いや、お仕事に熱心な人は何度でも無茶するんだろうなあ、って」


 嘘だな。エリオットはすぐそう見抜いてテオを見やったが、何も言わなかった。ラッセルの目の前で、彼の不安を煽るのは避けるべきだったから。





 二時間ほどのドライブで到着したのは、隣街タルボットだった。エリオットも何度か物資補給に訪れたことがある。首都以上に漁業の栄えた街で、人の往来も非常に多い。

 旅行者用のパーキングに車を停めた三人は、そこから徒歩の移動となった。ラッセルの案内でタルボットの街並みを抜け、北側の門から結界の外へ出る。一歩外へ出てしまうと、そこは林の中であった。


 それまで一面が草だった平原に対し、ここタルボット周辺は樹木が多い。タルボットは林の中にできた街といっても過言ではなく、道を踏み外せば遭難は必至だ。


「昔、ユリとふたりで旅行していた時、この林の中で立ち往生したことがありましてね。日が暮れてしまって、すっかり迷ってしまったんです」

「今でこそ笑い話ですが、それ相当危険ですよ」


 穏やかなラッセルに、エリオットが苦笑して指摘する。ラッセルも頷く。

 ラッセルは迷うことなく道路から逸れ、林の奥へずんずん進んでいく。人が歩いた形跡のない道を、草を掻き分け木をすり抜け進んでいく。背の高い樹木に遮られ、真昼間であるにもかかわらず日の光は届かない。


「面目ない。で、林の中を歩き回って……ふと、強い花の匂いがしたんです。匂いのもとを探して歩くと、見つけたんですよ」


 急に視界が開けた。まるで切り取られてしまったかのように、その場にある神聖なものを避けるかのように、そこには木が一本も生えていない。代わりにあったのは、色鮮やかな花々が咲き乱れる花畑だったのだ。日の光もこの場所だけには届く。だからこそこれだけ花が育ったのだろう。


 花の匂いがエリオットの鼻孔を突く。万屋の庭にはない匂い、しかしどこかで確実に嗅いだことがあると分かる。ああそうか、これがユリという花の匂いなんだな――と感じる。

 テオは花畑の中を進み、不意にしゃがみこんだ。彼の足元にはオレンジ色の鮮やかな花がある。写真と同じ、ユリの花だ。


「ユリはすっかりこの場所を気に入ったんです。特にそのオレンジ色のユリを。……ここからだと、タルボットの街の明かりがよく見えました。だからなんとか助かったんです」


 ラッセルが見つめる先に視線を向けてみれば、確かにタルボットの高い建物が遠くに見えた。よくもまあ、無事だったものだ。車で走行中に魔物が襲ってくることはそうそうないが、徒歩の場合はかなり危険だ。


 テオは微笑み、顔を上げた。


「花、摘みましょうか」


 ラッセルとテオが花を摘みはじめたとき、エリオットはふと振り返った。そして剣を持つ。


「……すいません、掃除してきます」


 それだけ告げてさっさともと来た道を戻っていくエリオットを、ラッセルは驚いたように振り返った。


「エリオットさん! まさか、魔物ですか……?」

「そうみたいですね。心配しなくても、俺とエリオットは護衛で同行したのですから大丈夫ですよ」

「しかし……そうはいっても、あんな若い人ひとりで」

「……強いですからね。あの子は」


 テオは微笑み、早く花を摘むようにラッセルを急かしたのだった。


 林の中に戻ったエリオットは、感覚を研ぎ澄まして周囲を確認する。視界ではなく、気配を頼った。これだけ「木」という障害物がある中では、視界も役に立たない。

 不規則にそびえる樹林で、どれだけ剣を振るえるか。それほど長い剣身ではないが、それでも剣の一閃は木に阻まれること間違いない。かといって体術やナイフを使おうにも、それでは殺傷力に劣る。


 ――右。


 そう察知したのと、横から長い触手が伸びてきたのでは、エリオットの察知能力のほうが先だった。ぱっとその場から跳躍して飛び退いたエリオットは、滞空中に剣を抜き放つ。一度木を蹴って向きを変え、落下の勢いそのまま襲ってきた触手を斬りおとす。植物型の魔物だ。魔物は動物の形をしていると思われがちであるが、植物も魔物化するということをエリオットは知っている。

 それは人食い花。


 植物とて生き物だ。生きているからにはエナジーを大量に浴び、魔物化しておかしくはない。それでもその存在があまり認知されていないのは、植物が魔物になりにくいからだ。よほどのエナジーを浴びなければ植物は魔物化しないのである。

 それなのに、ここには植物の魔物がいる。つまり、この周辺は非常にエナジー濃度が濃いということ。テオは『エナジーが大量消費されたとき、補填するためにエナジーの源泉は活性化する』と言っていた。


 ということは、近くにエナジーの源泉があるということか。



 人食い花はその場から動かないが、何本も蠢く触手がエリオットに襲い掛かってくる。まずは触手をどうにかしなくては、本体を攻撃できないようだ。

 狭い樹林の中で、なんとか剣を振るえるだけの場所を確保する。そこに陣どって向かってくる触手を斬り払ったが、一向に数は減らない。斬ったはずの触手が再生していることに気付いたのはその時だった。

 どうやら戦法の変更が必要らしい。


 鋭い鞭のように、触手が振り下ろされる。エリオットは軽く跳躍してそれを避け、振り下ろされた触手の上に飛び乗った。

 触手が跳ね上げられる。エリオットはその勢いを利用して、高く跳躍した。木が大量にある中でも、エリオットの位置把握能力は完璧だった。

 上昇から落下へ。剣を下突きに構え、勢いをつけて落下する。狙いは魔物の真上、花の部分。


 剣は真っ直ぐ、魔物の花に突き刺さった。深く、深く。痛みからか触手を振るって暴れる魔物から剣を引き抜き、後方へ飛び退る。その間に襲ってきた触手を斬りおとしても、再生はしなかった。

 花からどろっと緑色の液体が零れだした。緑はエナジーの色。体液が緑に染まってしまうほど、エナジーを浴びてしまったのか。


 とどめの一突きをしたのち、花の魔物は動かなくなった。剣についた緑の液体を振り払ったときにテオとラッセルが現れ、ラッセルは倒した魔物を見て真っ青になったものの、エリオットに深く頭を下げてきたのだった。そんなラッセルの腕には、ユリと何種類かの別の花で作られた花束が抱えられていた。





★☆





 ここまで来たのと同じだけの時間をかけて、彼らは首都コーウェンまで戻ってきた。朝一番に出かけたので、時刻は丁度お昼ご飯の時間だ。

 そのままラッセルは家へ戻ると言うので、お見舞いがてらふたりもついていくことにした。テオがどういうわけか「少し様子を見たい」と言ったからである。


 先導するラッセルの少し後ろで、エリオットは小声で尋ねる。


「なあ。あの場所って、近くにエナジーの源泉があったのかな」

「……よく気付いたね。そうだよ」


 テオは微笑む。


「俺は何度もエナジーを悪者みたいに言って来たけど、実際はそうじゃないんだ。エナジーがないと命は育まれない。その土地のエナジーが枯渇すれば、不毛な地ができあがってしまうんだよ」

「あそこに樹林があったのは、エナジーが多いからなんだな」

「そういうこと。まあ、皮肉なものなんだけどさ。都市では大量の魔装具の稼働でエナジーを消費して、周辺の源泉が活性化する。すると植物がよく育つ……魔物まで育っちゃうのは問題だけどね」


 すると、前を行くラッセルが『ああ』と声をあげた。テオとエリオットが話を中断して前方を見やった。

 下町の平民街の住宅地。下町よりワンランク上の地区の路上に、ひとりの女性がいる。写真の中で微笑んでいた女性、ラッセルの妻のユリだ。


「ユリ!」


 ラッセルの呼び声に、ユリはぱっと顔を輝かせた。多少顔色は悪いようだが、笑顔からは深刻そうな色は見えない。過労は良くなってきているのだろう。

 妻のもとへ駆け寄ったラッセルは、困ったようにユリを見つめる。


「だめじゃないか、ちゃんと寝ていないと」

「目が覚めたら貴方がいなくて驚いた私の気持ちにもなってくださいな」

「いや、よく寝ていたようだから起こすのも気が引けてね……」


 仲睦まじいとはこのことだろう。少し離れた場所で、そのやり取りをテオとエリオットは見守っている。


「ラッセル、その花……」


 ユリが花束に視線を送る。ラッセルは微笑み、花束を彼女に差し出した。


「君が好きな花を見れば、元気になれるかなと思って。彼らに手伝ってもらって、摘みに言ってきたんだよ」

「それでわざわざ? もう……大袈裟なんだから」


 花束を受け取ったユリは、そっと自分と同じ名を持つ花の香りを嗅ぐ。そして照れたように頬を紅潮させながら嬉しそうに目を細めた。


「良い香り。有難う、ラッセル……」


 こういう夫婦、いいよな。エリオットはそんなことを思いつつ、どことなくこちらまで照れてくるやり取りに頭を掻いた。

 ユリがこちらに視線を向けて来て、笑顔で頭を下げてきた。エリオットも礼を返し、テオはにこにこと微笑んでいる。


 報酬の話はすでにラッセルとの間で終了していた。もうやるべきことはないので、エリオットとテオは店に戻るだけだ。ラッセルとユリが踵を返して歩み去る背中を見つめながら、テオが言った。


「エリオット、俺、車の整備してくるから先に――」


 言いかけたテオの言葉が途切れる。突如として眉をしかめたテオに、エリオットは呆気にとられた。


「……テオ? どう――」


 したんだ、という言葉は声にならなかった。

 ふっと身体が軽くなる。地面が揺れている。いや、揺れているのは自分だけで、くらりと平衡感覚を失った。すぐにそれも収まったので、エリオットは軽く頭を振って立て直す。


 貧血? そんなものと無縁だったはずの自分が、まさか――。



「くッ……!?」



 気付けば、隣でテオが地面に膝をついていた。エリオットは慌ててテオの肩に手をかける。


「お、おい、テオ! しっかり!」


 その時、悲鳴が響いた。はっとして顔をあげて振り返ると、そこにはまだラッセルがいる。



 ユリの姿は――そこにはない。


 いたのは、二足歩行をする巨大な魔物だった。手足が長く、非常に気味の悪い、人型の魔物。



「ま、魔物!?」


 エリオットが立ち上がる。ラッセルは一歩、また一歩と後退する。彼の足元には、ユリに渡したはずの花束が落ちている。その花束は、無情にも魔物が踏み潰した。

 いつ魔物が入ったのだ。ユリはどこにいった。まさか、あの魔物に捕まったのか。


 思考をエリオットはそこで一度止めた。剣を構え、抜剣の構えを取る。



「……待って」



 しゃがみこんでいたテオが立ち上がる。顔色は悪く汗が滲んでいるが、どうやら平気そうである。その表情は、酷く深刻だ。

 ふらり、とテオはよろめく。いつもの彼らしくもない。


「て、テオ。あの魔物、なんだ――うぐッ!?」


 腹部に強い衝撃が加わり、エリオットは地面に倒れ込んだ。立ち上がろうにも衝撃が強すぎ、激しく咳き込む。鳩尾に入ったようだ。

 エリオットの腹に拳を叩きこんだのは、――テオ。


「なに、を……!?」


 テオは倒れ込んだエリオットの腰にある剣の柄を握った。そのまま、鞘から剣を引き抜く。エリオットの剣を提げたテオは、一気に加速した。エリオットが止める間もない。


 人型魔物が振るった長大な腕が、ラッセルを張り倒そうとする。足がすくんで動けないラッセルを、テオが抱き上げて飛び退く。少し離れた場所にラッセルを下ろしたテオだが、無言のまま彼はラッセルの首に手刀を叩きこんだ。呆気なく意識を失ったラッセルを、路地の脇に横たえる。


 魔物は真っ直ぐテオを見据えている。テオは路地の中央に進み出て、だらりと剣を提げた。やる気のなさそうなところはいかにも彼らしいが、それ以上に何かテオにも不気味さが漂っている。

 どうしてエリオットから剣を奪ったのか。どうしてラッセルを気絶させたのか。


 いまから何をしようとしているのか。



 魔物が腕を振り下ろす。後方に跳躍すると思われたテオは、逆に前へと踏み込んだ。砂塵が舞い上がる中、テオは大きく剣を振り下ろした。



 腹を押さえながらエリオットがようやく立ち上がった時、魔物は地面に倒れていた。テオはその傍に立ち尽くしている。

 強烈な光がエリオットの目を襲う。強い光は数秒間続き、ようやくそれが収束したときにエリオットは逸らしていた顔をあげる。


 そこに魔物の姿はもうなかった。あったのは、左肩から大きな袈裟がけを入れられて血まみれのユリの姿だった。エリオットが声を失う。

 どうして彼女が、そんな血まみれで倒れているのだ――。


 甲高い金属音は、テオが剣を放り棄てた音だ。彼はユリに駆け寄り、彼女の傍に膝をついた。



『heal』



 テオの魔術。淡い光がユリを包み込み、傷を癒していく。だがテオの魔術を以ってしても、彼女の傷を完全に癒すには足りないらしい。それでも治療を続けるテオの姿は、さながら祈るようでもあった。


「……人を呼んで」


 テオがぽつりと呟く。彼は自分がエリオットを弱らせたことなど棚に上げ、指示を出した。


「人を呼んで! 早くッ!」


 エリオットはすぐに身を翻し、医者を呼びに行った。少しずつ現状が飲み込めてくる。現れた魔物との攻防は数十秒の出来事でしかなく、今になってようやく事態に気付いた通行人たちが集まってきた。エリオットは医者を探し、ユリの救助を求めた。


 ユリが病院に運ばれ、ラッセルも同じように搬送された。それを見送ったテオは一気に脱力したのか、エリオットのすぐ横で糸が切れたように倒れた。重くなったテオの身体を支えたエリオットであるが、本音を言えば自分も気を失いたい気分だ。


 何がどうなった。さっぱりそれは分からない。



「……テオ。しっかり」



 力なくそう呟き、エリオットは下町へと足を向けた。拾い上げた自分の剣は、ユリの血を吸ってひどく重くなっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ