File six 盗めたなら返しに行けるのでは。
どうも憎めない奴って、確かにいるよな。
★☆
よく日の当たる裏庭に置かれた物干し竿に、エリオットはせっせと洗濯物を干していく。傭兵時代の洗濯といえば手もみ洗い、しかも男二十人の大所帯だ。その頃に比べれば、洗濯機という名の生活系魔装具のおかげで時間も労力も圧倒的に短縮されている。
ただでさえ、テオとの二人暮らしなのだ。それほど洗濯物が出るわけでもない。
洗濯籠の中に残っていた最後のタオルを取り上げ、よく張ってから竿にかける。洗濯ばさみで留めれば終了だ。風にはためく洗濯物を見るのは、それなりに壮観だ。
「よし、終わり終わり……って、何してんだあんた?」
「んー?」
庭の隅っこにしゃがんでいるテオ。あれほど日光の下に出るのを嫌がっていたというのに、なぜか今日は意気揚々と庭に出て何かしている。見てみると、ざくざくと小さなシャベルで土を掘り返していた。しゃがんでいる彼の傍には、土や肥料の袋が置いてある。
「……ガーデニングの趣味でもあるのか?」
「ちょっとね。この花壇、昔はカーシュナーが花を植えてて綺麗だったんだよねぇ……」
そういえば、確かに中途半端に整っている花壇だ。煉瓦石で区切られたそのスペースをテオは掘り返し、肥料を混ぜて土を作っていく。
「カーシュナーが死んでから花壇放置してたから、すっかり荒れちゃったんだけどさ。俺、この間花屋に行ったでしょ? 久々に花を見たらさ、なんかあの庭をもう一度見たいなって思って、気付いたら花の苗とか肥料とか一式買っちゃってね……」
エリオットが黙っているので、テオは手を止めて後ろに立つエリオットを見上げる。
「俺らしくないとでも思ってる?」
「……うん、まあ」
「俺もらしくないと思ってる」
テオは過去のことを話さない。特にカーシュナーとの過去は忌避していたようにも見える。何があったのかは依然としてエリオットは知らないが、何か壮絶なものがあったのだろう。
しかし最近、テオはよく思い出話を聞かせてくれる。辛かっただけの過去を、『思い出』として受け止めることができるようになったということだろう。それが良い変化なのは間違いない。
「――程々に頑張れよ。休憩するけど、コーヒー飲むか?」
「あ、飲む飲む。熱中症とか嫌だしね」
「コーヒーで熱中症って予防できるのか……?」
「水分って点ではいいんじゃない?」
よっこいしょ、と古臭い掛け声とともにテオは立ち上がる。エリオットがそれを見て踵を返そうとした瞬間――。
テオの身体がぐらりと傾いた。後ろに倒れそうになっているのを、慌ててエリオットが腕を出して支える。テオは苦笑した。
「おっとと……ごめんね、ちょっと立ちくらみが」
「既に思いっきり熱中症じゃないかよ」
呆れたエリオットにもう一度テオは笑い、自力で立て直す。「気をつけろよ」とエリオットの忠告を受けたテオは頷き、洗濯籠を持って室内に入るエリオットのあとに続く。
額に手を当てたテオが「なんだ、今の……」と呟いていたのを、エリオットは聞くことができなかった。
最初は気のせいかと思った。
冷凍庫から氷を出していたエリオットが、何か微かな音に反応して顔をあげる。テオは何も気づいた様子がないのですぐ作業を続行したのだが、もう一度同じ音が聞こえたので気のせいではないと気付く。
氷を戻したエリオットが、真っ直ぐに玄関へ向かう。テオは不思議そうにエリオットの姿を目で追っていた。無言のまま玄関の扉を引き開けると、外には人がいたのだ。これにはテオも驚く。
「え、お客さん!?」
「ノックしたでしょ? もうちょっと大きくノックしてくれないと聞こえないですよ」
エリオットの言葉に、相手は「すんません」と頭を掻く。まだ若い青年だ。着ている服も古びていて、貧しい暮らしをしているらしい。
青年を室内に入れたエリオットに、テオが苦笑する。
「よく聞こえたねえ、さすが地獄耳」
「地獄耳って褒め言葉じゃないぞ。……あ、どうぞ座って」
どうも緊張しているのか、青年はそそくさと室内に入り、ぺこぺこ頭を下げながらソファに座る。ノックの音が小さかったのは性格らしい。
向かい側に座ったテオは「さて」と話を切り出す。ここで暮らし始めてエリオットも長くなったが、万屋業務に関する全権はテオに委ねてあった。依頼交渉はテオが行うことである。
「いらっしゃい。何かお困りごとがおありですか?」
「あ、あの! お願いがあるんス!」
「なんでしょう?」
「こ、これ……! これを持ち主に返してきてほしいんス!」
持っていた鞄から、青年は何か紙束を取り出した。それを受け取ったテオは書いてある文字や図式に目を通していく。
――その途中で、テオは大きく目を見張った。
「ちょっ……これをどこで!?」
「え、ええとその……き、貴族のお屋敷から……」
「お屋敷?」
エリオットの一言に、青年はびくりと硬直する。そして何を思ったのかソファから飛び上がると、勢いよく床に膝をついて頭を下げてきた。俗に言う土下座である。
「ご、ごめんなさいごめんなさい! オイラそうでもしないと生きていけなかったんス! その資料みたいなの持ってきちゃったのは、ほんとにどさくさで!」
「……成程、あんたコソ泥か」
「ひっ、ひぃいいいい!」
過剰なほどエリオットの一言に反応し、額を床にこすりつける青年。エリオットは頭を掻き、青年を立たせてソファに座らせた。おそらくエリオットの方が年下なのだが、ここに来て世話焼きな性格が発動する。
「落ち着いて、事情を話してください。ほら、まず名前は」
「ろ、ロウ」
「首都の出身?」
「ち、違うっス。オイラ地方の田舎の生まれで……畑仕事だけじゃ食っていけなくなったから、五年前に首都に出稼ぎにきてたんス」
「出稼ぎって、要するに盗みに入るってことだよね」
「ひいいいい」
またもや頭を抱えるロウをなだめ、話を先に進める。
「しかしまあ、五年も首都でコソ泥稼業をしてて検挙されなかったのはすごいな」
「オイラ、コソコソするのは大得意なんスよ! 盗みに入ったのは全部貴族の屋敷っス、一般人から盗ったことはないんスよ!」
「誇らしげに言ってるとこ悪いけど、治安維持隊に知り合いがいるんだよね、俺」
「通報だけはやめてぇ!」
なんかからかうのが楽しくなってきた。
「それで、その資料を持ってきたのはどうして?」
「一昨日ある貴族の屋敷に盗みに入って……そうしたらオイラ、防犯警備システムのなんかに引っかかっちゃったんスよ。慌てて目当ての宝石とか持って逃げようと思ったら、同じ金庫の中にあったその紙束を一緒に掴んじゃって、そのまま」
「……返しに行かなきゃいけないと思うのはなんで?」
「お、オイラ、盗人稼業はやめにするって決めたんス!」
震えた声ながらもきっぱりと宣言したロウに、エリオットは腕を組む。彼は熱心に訴えるのだ。
「オイラ、首都でできた恋人がいるんスけど……彼女が昨日、子供ができたって教えてくれたんス。彼女と、生まれてくる子供のためにも、オイラはまっとうな人間にならなきゃいけないんスよ! だから今までしてきた悪いこと清算したくて……その資料、返しに行かなきゃって思ったんス」
「返しに行ったら?」
「そんな簡単じゃないっス! 警備は厳しくなってると思うし、オイラ何かあった時戦う技術なんてないんスよ」
「そんなの俺にだってできるか分からないじゃないか……」
志は見事だと思う。
しかし、わざわざ返しに行かなくてもいいだろうに。証拠隠滅のためなら破り捨てればいい。資料を持っていないからといって、盗人として追われるときは追われるのだ。盗みに入って二日が経っていて、まだそれを持っていることの方が危険だと思う。早々に資料は捨て、恋人と共に逃げるべきではないか――。
「その資料、なんか重要なこと書いてあるみたいで……ちょっと、やばそうなんスよね」
ロウがそう言うので、エリオットは振り返る。ソファに座ってじっと資料を目で追っているテオは、さっきから何も喋らない。ただ真剣な顔で資料と睨めっこだ。
「なあ……そんなすごい資料なのか?」
「すごいよ、すごい。だってこれ、世界にある『エナジーの源泉』の地図だよ」
テオはぱっと顔を上げた。その表情はどこか輝いて見えるのは――きっと気のせいではない。
「エナジーの源泉の地図? それがそんなにすごいのか?」
「源泉がある場所は一般には公開されていないんだ。俺も一つ二つなら場所を知っているけど、その程度だからね」
「……政府が秘匿している資料が、それ?」
「うん」
エリオットは少しの間沈黙した。心配そうなロウが声をかけると、エリオットはくるりと彼に向きなおる。
「……よし、返しに行こう!」
「た、頼んでから言うのもあれですけどいいんスか? 表の看板、荒事却下って……」
「あんなものは無視だ。国家機密情報が我が家にあるなんてそんな状況をどうにかするほうが先なんだ」
真顔であるが、エリオットが内心で冷や汗をかきまくっているのはテオにも分かる。そんな彼を楽しそうに見やりながら、テオはさらに追い打ちをかけてみる。
「返しに行くとはいえ貴族の屋敷に侵入するんだよ? 君の家族に知られたらどうなるかねえ」
「知られなきゃいいだけだろ」
エリオットとしては早くその機密情報をどうにかしたいので、家族どころではないのだ。このまま手元に置いておけばどうなるか知れたものではない。
ロウが機密情報を持ち出して二日が経っているが、大々的な捜索はこの先もおそらく行われないだろう。内容は国民に公開されていない、まさに極秘なものであるから、そんなものを紛失したと知れれば大問題になる。捜索は水面下で行われているはずだ。
だから逆に言えば、この資料さえ元あった場所に戻ってくれば、万事解決する。
「ひ、引き受けてくれるっスか!?」
「ああ」
「うわあああ、有難うっスぅう!」
「わ、分かったから! あんたいちいち声大きいよ」
泣きついてくるロウを引き剥がし、エリオットはサイドテーブルから真っ白な紙とペンを持ってくる。それをロウの目の前に置き、ペンを握らせる。
「じゃ、屋敷の見取り図書いて」
「え、ええっ!?」
「なんで驚くんだ、事前に侵入経路と脱出経路の決定は鉄則だろ」
「お、オイラ、行き当たりばったりで盗みに入ってたからそんなこと考えてなかったっス……」
「……ほんとに、よく五年も無事だったよな」
心底呆れるエリオットの隣で、ロウはうんうん呻きながら屋敷の構造を思い出そうとしている。そのうちやっとペンを持って図を書き始めたので、エリオットも一安心だ。
「やる気満々だねえ、エリオットくん。まさか今すぐ行くなんて言わないよね?」
テオの問いにエリオットは苦笑する。
「そんな訳ないだろ。昼の内に下見に行って、決行は深夜だ」
「……随分手馴れているような気がするけど、まあいい。とりあえずまだ時間はあるね、なら結構結構」
「何するんだ?」
「この資料、急いで書き写そうと思って」
短くそう告げてすたすたと自室の方へ歩いていくテオを、自失から立ち直ったエリオットが慌てて追いかけた。ロウは何事かと見送っているが、追いかけては来ない。
エリオットとテオの部屋が並んでいる廊下で、エリオットはテオの肩を引っ掴む。
「待て待て待て、なんで書き写す!?」
「だって、これ貴重なんだもん」
「俺がなんでその資料持ってるのが嫌で早く返しに行きたいか分かってるよな? 分かってるよな!?」
「これを探している政府の奴らに目をつけられるのが嫌だからでしょ? エリオットくん、そんな些細なことを気にしていたら大業は成せないよ」
「何を成すつもりだよあんたは!?」
それまでのらりくらりだったテオは、ふとエリオットに視線を送る。その妙な雰囲気にエリオットも勢いをなくし、ゆっくりとテオの肩から手を放した。
「……君、レナードって人覚えてる?」
「ああ……テオを研究者にして、兵器の開発をしてたって人だろ」
「そう。この資料はね、元々そのレナードが管理していたんだ。彼の失脚と同時に、政府に押収されたとイザードから聞いた。……じゃ、それがなんでどこぞの貴族の家にあったのか?」
それが実物であるのか複製であるのかは関係ない。とにかく、政府の直接管理下に入ったはずの資料が存在することが問題なのだ。そのことに気付いたエリオットがはっと息をのむ。
テオは資料を団扇代わりにぱたぱたと仰ぎつつ、肩をすくめた。
「どうも俺は甘かったようだね。レナードを引き下ろしただけじゃ、兵器開発の計画は頓挫しないらしい」
「誰かが計画を引き継いでいるってことか……」
「うん。だとしたらこの資料は抑えておきたいし……それにね」
真顔のテオは、真顔のまま断言した。
「俺、この資料死ぬほど欲しかったんだ」
「……は?」
「そういうわけで、急いで写すから待っててねぇ」
――多分、そっちのほうが本音だと思う。
部屋の扉をエリオットの目の前で閉めたテオに溜息をつき、エリオットはリビングへ戻る。ロウはいまだに屋敷の構造図を書いており、色々と書き方を悩んでいるようだ。そこまで精巧なものでなくても構わないのだが、書くからには正確にしたいらしい。
「その貴族って、なんて人?」
おもむろに問いかけると、ロウは「うーん」と腕を組んだ。
「確かキースリーとかいう人だったっス」
「キースリー……?」
聞き覚えがあるような気がしたが、思い出すことはできなかった。
★☆
とっぷりと日は暮れ、深夜となった。
この時間にもなるとさすがの首都の繁華街でも灯りの数は減り、静かになる。住宅街など尚更である。
エリオットとテオはそんな時間帯に、上流階級区の住宅街に出没した。怪しいことこの上ないが、幸いなことに見とがめられることもなかった。
ふたりとも、シャツにジーンズという極めて軽い服装だ。傍目には夜の散歩を楽しんでいるようにしか見えないが、これからしようとしていることは貴族の屋敷への侵入である。
「にしてもほんと、君が依頼にここまで積極的なのは初めてじゃない?」
「そんなことない、俺はいつだって真面目だ」
エリオットは昼間一度下見に来ているし、ロウに書いてもらった屋敷の見取り図も完璧に頭に入っている。荒事に関するエリオットのセンスや能力は、いっそう研ぎ澄まされるのだ。ある意味好戦的である。
ロウにはもう当分万屋へ来ないように言っておいた。これから不法侵入をするのはエリオットである、真っ当な道に変えることを願っているロウがエリオットと接触してしまえば、いらぬ誤解を招きかねない。報酬については、テオが「この資料を見ることができたことでお腹いっぱい」と言っていたので無償である。
「で、テオはチコと一緒に何をするつもりなんだ?」
チコを肩に乗せて悠々と歩くテオに、エリオットは訝しげな視線を送る。
侵入するのはエリオット一人である。テオは昼間に資料を一心不乱に書き写しており、現物はエリオットのシャツのポケットに入っている。正直に言ってテオに仕事はない。
少し考え込んだテオはやがてにっこりと微笑み、少し首を傾げた。
「後方支援かなあ?」
「かなあ、って……俺に聞かれても」
「退路確保だよ、何かあったら困るでしょ。で、どこから侵入する気?」
ふたりが歩く道の両脇は、どちらも巨大な屋敷がずらっと並んでいる。オースティン伯爵家とほぼ同格の家柄ばかりであろう。こそこそすると逆に怪しいのでテオもエリオットも堂々としている。昨今は魔装具による防衛システムが発達しており、門番や巡回兵などという役柄の人間はなかなか見かけない。防衛システムは便利であるが、人の目に必ずしも勝ると言う訳でもない。道を堂々と歩くくらいでは、システムは作動しないのである。これが門番であれば、見とがめられるであろうが。
「ロウは裏口から入ったって言ってたな。丁度鍵がかかっていなかったらしい」
「さすがに同じ所からの侵入はどうかなあ。その日鍵がかかってなかっただけかもしれないでしょ」
テオは即座にエリオットの計画に駄目だしをした。そしておもむろに空を指差す。
「あれ、何か分かる?」
視線をその方向へ送ると、そこにはある屋敷の屋根があった。その屋根の上に伸びる、細長い筒のようなもの。エリオットは瞬きをする。
「煙突……だろ?」
「うん。今の時代は空調系魔装具があるから暖炉なんて使わないんだけどね。貴族のお屋敷には、どうしてかオブジェとして暖炉と煙突があることが多いんだ。ま、あれがあると一昔前の洋館っぽくて雰囲気は出るけどね」
「要するに、煙突から中に入れってこと?」
エリオットの言葉にテオは「うん」と微笑む。
「そうしたらすぐリビングに入れて、目当ての書斎まですぐ行けるよ」
――この男、いつの間に見取り図を見ていたのだろう。それにしても、一番乗り気なのはテオの方である。
加えて、どこに持っていたのか、ロープをエリオットに差し出す始末である。
「これ使って煙突から中に降りてね。帰りはこれを登れば良し」
「……どれだけ用意周到だよ」
「今回は俺、サポートに徹するので。それにさ、煙突から実際に家の中に入る人がいるとか、想像するだけで笑えるよね、ふふ」
「何言ってんだあんた」
そんなことを言っている間に目的地に到着し、エリオットは足を止めた。テオは目の前に聳える巨大な屋敷を目にし、大きく目を見開いた。
「って、ここ?」
「昼間ロウと一緒に見に来たから間違いない」
「そうか……キースリーだったのか……」
眉をしかめるテオに、エリオットは腰帯から剣を外しながら尋ねた。
「誰だっけ、キースリーって。聞いたことある気がするけど」
「式典の時見たでしょ、大統領補佐官だよ」
「……ああ、あの陰気臭そうな人!」
「だから君に比べたら大体の人が陰気臭いって」
レナードの実験を、キースリーが引き継いだのか。真偽は分からないが、キースリーの名は記憶に留めておいた方が良さそうだ。
剣をテオに渡す。金属探知機でもあったら厄介だし、身軽で行きたい。それに、もし人の目に触れたときに『剣』からエリオットを探し当てられることもあり得る。
「じゃ、行ってくる」
「気を付けてね」
「キュゥ」
テオとチコの見送りを受け、エリオットは素早く物陰に移動した。屋敷と屋敷の間の路地に入り、一息で塀の上に飛び乗る。庭にある木を使い、跳躍して軽々と屋根に飛び移る。
結構な高さだ。ふと地上を見てみれば、先程別れた場所にテオの姿はない。どこかに身を潜めたらしい、賢明だ。
煙突には天板がしてあったが、腕の力だけで動かすことができた。縁にロープの先端についていた鉤爪を引っ掛け、するすると中にロープを垂らしていく。煙突の壁に足をつきながら静かに降下を開始した。暖炉を使った形跡はなく、煤まみれになることもなかった。
ロープの終わりと同時に足が床に着く。少し身を屈めると、薄暗い部屋の中にソファやテーブルがあるのが見える。リビングだ。
暖炉から出たエリオットは、ゆっくりと移動する。
ロウが防犯システムに引っかかったのは、書斎にある金庫のある棚に触った時だという。まあ、当たり前か。しかし金庫を開けて中に入っている現金や宝石を持ち出せるなど、ロウは結構手馴れたコソ泥だ。さすがにエリオットは金庫を開けることなどできないので、どこか適当な場所に置いておくしかない。
金庫に入れて厳重に保管していた資料――テオが目の色を変えるほど貴重な資料。キースリーはただ預かっていたのか……何かに利用していたのか。政府のいざこざなど知らないが、あの補佐官は見た目からして陰険そうだな、とエリオットは内心で思う。
リビングを出てすぐのところにある書斎の扉に背をつけて立つ。中から人の気配はしない。ノブを掴み、そっと扉を開ける。
室内には重そうな木の机や書架などが並んでいた。壁際にロウの言っていた金庫があったがそれには目もくれず、エリオットは資料を出して机の上に置いた。
目的は達成だ。あとは来た道を戻ればいい。そう思いつつ、入った時と同じように慎重に気配を探りながら扉を開ける――。
開けるとそこには人がいた。
「ッ!」
「うおぁっ!?」
エリオットは驚愕して後方に飛び退る。相手はもっと驚いたらしく驚愕の声をあげているが、エリオットはさすがにそんな不用心ではない。
人がいた。どうしてだ? エリオットでも読めないほど気配を殺していたということか。エリオットも同じように気配は殺していたから、相手に読まれることはなかったはずだ。
これは逃げられない。押し倒してそうそうに立ち去るしか――。
「ま、待て、待たんか! 私だ、エリオット!」
「……は?」
構えを解いて顔をあげると、見知った顔だった。薄闇の中でもしっかりと見える、その巨躯は。
「い、イザード……?」
「お前、なぜここにいる? ……まさか、またそういう依頼か?」
「いや、別に盗みに来たわけじゃないし」
「まったく、お前は不法侵入という言葉を知らんのか!」
誤魔化すように笑うと、イザードは大きく溜息をついた。それから書斎の中に入り、エリオットが置いた資料を取り上げる。
「……心配しなくても、この屋敷にはいま人がいないぞ。防犯システムも切ってある」
「え!?」
「キースリー補佐官は大統領と共に国を留守にしている。それが長期間のために、使用人たちは暇を出されたそうだ」
「な、なんだそうだったのか……で、イザードはなんでここに?」
「押収したレナード主任の資料が、軒並みキースリーに横流しされていると聞いてな。留守を狙って確認に来たのだ」
エリオットはじっとイザードの分厚い背中を見つめ、呟いた。
「……それって、俺のこととやかく言えた義理じゃないよな」
「――この件は不問とする! いいな!」
「はいはい……」
結局煙突のロープを回収し、エリオットはイザードと共に悠々と表玄関から外に出たのだった。合流したテオがイザードの姿を見て驚いたのは言うまでもないことだが、自分のことを棚に上げたイザードの説教が夜通し続いたのは、当然のことだった。




