File one タダで命助けちゃう、訳ないです。
剣と盾を構え、馬に乗り地を駆けた――そんなものはもう、過去の話である。
★☆
「やっとお目覚めかい」
不意にそんな声をかけられ、揺蕩っていた意識は一瞬で浮上した。はっとして目を開けると、見えたのは木の天井と梁。背中の柔らかい感触から、自分がソファに寝かされていることはすぐに気付いた。
視線を転じると、対面に置かれたソファにひとりの男が悠々と座り、足を組んで何かを熱心に布で磨いていた。
どこだここは。誰だあいつは。
思い浮かんだ疑問は数秒のうちに霧散し、と同時に記憶が蘇ってきた。
「ッ! そうだ、怪我ッ……」
ばっと起き上がって毛布を跳ね除け、自分の身体を見下ろす。――が、包帯どころか『傷』さえも消失しており、身体に不調はまったくない――。
ぎょっとしていると、男は初めてこちらに視線を向けた。しかし作業する手は止めない。
「一応傷は消したけど、疲労までは取れないからね。安静にしていた方が身のためだと思うよ」
「傷を、消した……?」
唖然としていると、男は肩をすくめて見せる。
「今時何言ってんの。治癒系の魔装具あれば一発じゃない」
「治癒系魔装具って、医者しか持ってないだろ。あんた、医者だったのか……?」
「いや、違うよ?」
「……不法所持か」
「見つかったら取り上げられるだろうね。まあいいじゃない、細かいことは」
魔装具。魔力を動力源として稼働する永久機関。
ほんの二十年前まで、エナジーは有害なエネルギーであると世間では信じられていた。これは数百年覆されたことのない真理だったのだ。
しかしながら二十年前、辺鄙な山奥で発見された『エナジーの源泉』。大地の裂け目から噴き出る、まるで水蒸気のような淡い緑の光。それは人体に悪影響など及ぼさず、むしろかなり高密度のエネルギー資源となることが判明したのだ。
これにより、あれよあれよという間にエナジーは生活エネルギーに転換され、それを使用した魔装具が開発された――というわけである。
こうしたエナジーの源泉は、探してみれば世界各地に存在することが分かった。そしてそのエナジーは、大気中に大量に紛れている――学者の中には、こう言った者もいる。
『世界が世界である限り、エナジーは大気中にいつでも存在する』。
ゆえに、魔装具は動力源の欠けることのない永久機関なのだ。
元々この世界には怪異が存在する。人々はそれを「魔物」と呼ぶ。魔物は手当たり次第に人間を襲撃し、時には街を襲うこともあった。そのために人々は剣と盾を持って武装していたのだが、魔装具の開発により人々はそれを捨てた。魔装具によるエナジー攻撃のほうが、鉄器よりも効果的だったのである。
今では護身のためにも生活していくためにも、魔装具とエナジーは欠かせないものとして定着していた。
……という背景があり、治癒系魔装具はそのまま傷の治癒を行えるという便利なものだ。これにより、即死でない限り医療機関にかかればどんな傷でも治癒すると言われている。が、治癒系魔装具は扱いが難しく一般人が持つことは許可されていない。
なので、医者でないこの男がそれを持っているのは、間違いなく不法である。
とはいえ、それで命を救ってもらったというのは事実だ。
「……あ、有難う。助けてくれて」
「気にしないで、気まぐれだから。でもなぁ、俺としては『してほしいことある』って聞いたら、『恋人のあの子に伝えてくれ』とか『母さんにこれを届けてくれ』くらいにしてほしかったんだけどねぇ」
「は?」
「タダで助けるなんて俺のポリシーに反してるなあ」
とんでもなく黒い台詞が聞こえたような気がする。男はなんでもなかったかのようにソファから立ち上がり、手に持って磨いていたそれを机の上に置いた。今更ながら、それが治癒系魔装具であることに気付く。
「あんた……何者なんだ? そういえばさっき、店がどうとかって……」
「ああ、俺店やってるんだ」
「何の店?」
「何でも屋」
男は初めてこちらに向きなおった。そこでようやく分かる――ごく普通な茶髪とミスマッチな、真紅の瞳をしている。ただ、そこに『燃えるような赤』という形容詞がつけられないのは、やる気のなさそうな垂れ目のせいか。
「万屋カーシュナーだよ。ここ、首都の下町ではその名で通ってる」
つまり、金さえ払えば何でもしてくれるということか――。
この男なら、願いを叶えてくれるかもしれない。
「……なら、俺の依頼は受けてくれないか?」
「内容によるね」
「その……恩人の仇をとりたい。その人を殺した魔物を討ち取りたいんだ」
「却下」
「ええっ!?」
光の速さとも思えるくらいの勢いで、依頼は却下された。詳細すら話していないのに。
「な、なんでだ、万屋なんだろ!?」
「表の看板に書いてあるんだけどさー……」
カーシュナーは玄関を開けて外に出て、木の立て看板を手に室内に戻ってきた。どん、と真正面にそれを置かれる。なかなかに流暢な筆遣いで、書かれていた。
『万屋カーシュナー、ただし荒事却下』
「……荒事却下……?」
「そう。魔物狩りとか、俺には無理。というわけで、ごめんね?」
全然ごめんなんて思ってないだろ、と思わず突っ込みたくなるくらい能天気な言葉だ。
カーシュナーは壁に立てかけてあった細長い物体を手に取り、差し出してきた。
「それに、君は傭兵でしょ? 魔物なら自分で倒せるでしょ、人の手借りないでもさ」
それは鞘に包まれた長剣だった。ぐっと握りしめ、自分の方へ引き寄せる。
「……それができるなら、とっくにそうしている! でも、あの魔物は大きすぎて……」
「サイズで仕事選んじゃダメだよ傭兵くん」
「あんたも万屋掲げてんなら仕事選ぶなよ」
「俺は最初にお断りしているからいいんだよ」
屁理屈ばっかり。
「あの魔物には剣が通らなかった! 剣だけじゃない、俺の仲間たちが持っていた鉄器はどれも、魔物の身体に傷一つつけることができなかったんだ」
「あー、それで君以外全滅したとか?」
「っ……助けを呼んで来いと、逃がされた」
あの時のことを思い出すと、悔しくて悔しくてたまらない。団長を目の前で失い、一人残らず深手を負った。そんな中で逃がされたのだ、助けを呼んで来いという名目で。おそらくもう、その仲間たちも――。
「最近は魔装具の実用化に伴って、空気中のエナジー濃度が増してるからねぇ。魔物もエナジーを取り込んで強靭になってるから、鉄器が利きにくいって噂は聞いていたけど」
カーシュナーは顎をつまんで呟く。その賢しげな横顔は意外でもある。
「だから、なんとかして魔物を倒したいんだ。俺は魔装具を持っていないし……治癒系魔装具使えるくらいなんだから、あんた魔装具の扱いが得意なんだろ」
「いいのかい、魔装具の力に頼って」
ちらりとこちらを見る切れ長の真紅の瞳。気圧されかけたが、それでも頷く。
剣と盾を捨て、魔装具で武装した世界――けれども、かつての習慣を捨てられず、魔装具を受け入れなかった者たちがいる。
それが『傭兵』だった。
彼らは魔装具を使わず、己の武術と剣で生きることを決めた。勿論、剣を持っているから違法なんていうことはない。それでも剣は時代遅れと取られ、生きる世界は狭まってしまった。
そんな中で傭兵たちは、魔物を狩ることで金銭を得る生活を送っているのだった――。
「……俺は、別に魔装具を拒んでいるわけじゃない。二十年前、生まれて間もないころに親に捨てられて、拾われたのがたまたま傭兵だったってだけだ」
それはちょうど、エナジーが実用化されたころのことだった。世界の経済や国情はそれを境に急変し、子どもを育てるどころではなくなったという夫婦は数多かった。そうして、世界は便利になると同時に孤児を大量に生み出したのだ。
だから今年で二十歳になる自分は、魔装具のない時代を知らない。魔装具は当たり前のようにそこにあって、でも親代わりの人間たちがそれを使うなと言ったから使わなかっただけだ。
「団長だけだったんだ。死にかけていた孤児の俺に、手を差し伸べてくれたのは……」
カーシュナーは横目でこちらを見ている。無言だった。
「だから……どうしても」
「君、名前は?」
急にカーシュナーが話に割って入った。驚いて顔を上げ、慌てて名乗る。
「え、エリオットだ」
「そう」
頷いたカーシュナーは、机の上に置いてあった金属のバングルを手に取った。それを左腕に嵌め、固定する。エリオットはその後ろ姿を目で追う。
しばらく黙っていたカーシュナーは、ひとつ溜息をついた後に口を開いた。
「放っておいたら君は無謀にもその魔物に挑みそうだし、そうなると、わざわざ、タダで、治療した俺の労力が報われない」
「わざわざタダ、ってのを強調するなよ」
「おんやぁ、いいのかなぁ? せっかく手を貸してやろうかと思ったのにー」
間延びした声で言われ、エリオットは驚いて目を見張った。そしてソファの上から身を乗り出す。
「ほ、本当か!? 嘘、なんで!?」
「言ったでしょう、気まぐれなんだって」
エリオットはそっとソファから床に降り立ち、自分の身体に異常がないことを確かめ、玄関を開けたカーシュナーのもとに駆け寄る。
薄暗い空からは、止むことなく雪が降り続いている。その空を見上げ、カーシュナーは楽しそうに微笑むのだ。
「それに、欲しいものと試したいことがあったからね。ついでついで」
――少し分かるところがある。
孤独から助け出してくれた人へ感じる恩の大きさというものには――。
★☆
カーシュナーは悠々とレンガ造りの家々の間の路地を抜け、歩いていく。複雑な迷路のように幾重にも路地が張り巡らされているため、この下町に住む住民であったとしてもかなり迷う確率が高い。それでいて、カーシュナーは一片の迷いもなく道を選んでいく。相当地形図が頭に入っているのだと分かった。
よくまあこの下町を抜けて俺の店までたどり着いたね。カーシュナーはそう笑ったが、まったくそのとおりだとエリオットは思う。
この街は城壁で囲まれた城塞都市だ。その城壁そのものが、魔物を退ける巨大魔装具である。ゆえに住民の出入りは厳重に管理され、常に門には警備が常駐している。
とはいえここは国の首都であるから、人の出入りは多い。行商や旅客者、エリオットのような傭兵も往来する賑やかな城門である。
――が、カーシュナーはなぜかその城門に向かわなかった。どんどん道を逸れ、下町の奥まった方へと進んでいく。どんどん雰囲気も怪しくなっていくのだから、エリオットにしてみれば気味が悪くして仕方がない。
「お、おい、どこ行くつもりなんだ……?」
「街の外だよ」
「ならなんで城門に行かないんだ?」
「出入り口はあそこだけじゃないからさ」
確かにひとつではない。貴族専用の門とか、軍隊専用の門とかがある。しかし、民衆が一般的に出入りできる城門はひとつしかなく――。
と、目の前に廃屋と思わしき小屋が現れた。カーシュナーは迷わずそこへ近づいていく。
「二十年前、エネルギーがエナジーに転換された直後は大気のエナジーが荒れてね。魔物も異常繁殖するわ、都市の結界系魔装具はろくに稼働しないわ、散々だったんだ。で、暴れた魔物は城壁を数か所ぶち破ってしまった」
歪んで外れかかっているような木の扉に手をかけ、それを押し開く。
「政府は城壁の修繕を行ったんだけど、下町だからこのくらいで良いか、的な修繕しかされなくてねぇ」
室内に入ると、真正面に石の壁があった。それは紛れもなくこの城塞都市の城壁だ。カーシュナーがその石壁を横にスライドさせると、そこにあったのは緑生い茂る草原だった。
要するにこの廃屋は、この城壁の割れ目を隠すためのものでしかなかった――。
「丁度良いので、使わせてもらっているってことだよ」
「また不法かよ!?」
「まあちょっといろいろあって、俺は表の世界歩けないからねぇ。警備が張り付いている城門なんて通れるわけがないよ」
つくづく、とんでもない奴に出逢ってしまったのではなかろうかと後悔するが、もはや後の祭りだ。どういう訳かやる気を見せてくれたのだ、これでやる気を殺いでしまっては二度とカーシュナーは動かないかもしれない。だとすれば何も言うまい。
ところで、この男は二十年前のことをさも目の前で見たかのように話すが、一体歳はいくつなのだろう? 外見的にはエリオットと変わらず二十歳前後に見えるが、もしかしたらもう少し年上なのかもしれない。
カーシュナーは穴を潜り抜けて外へ出る。見渡す限り一面が草原地帯だ。遠目ながら街道を人が行き来しているのが見える。だいぶ城門からは離れた出入り口のようだ。
「さてと……ここからは君に案内してもらうよ」
その言葉と同時に、カーシュナーの口から大きな欠伸が飛び出す。……本当に面倒臭そうだ。出そうになった溜息をなんとか呑み込み、エリオットは歩き出す。
「分かった。……こっちだ」
しばらく草を踏みしめ歩いていると、小高い丘に差し掛かる。エリオットにはなんともない距離と傾斜なのだが、カーシュナーにはなかなか堪える道であったらしい。エリオットの後ろで息切れを起こしている。
「け、結構遠いな……これは、車乗ってくるんだったかな……」
「その車もどうせ盗んだものなんだろ?」
「人聞きが悪いなあ。俺が拾ったことで廃棄物にならなかったんだから、エコだよ」
「エゴの間違いじゃないの」
エリオットの足はようやく丘の頂上を踏む。
「もうちょっとだよ。この丘を越えた先に――」
その瞬間――雪を降らす雲のせいで昼とは思えない暗さだった空が、より一層闇を濃くした。
エリオットの後ろ襟首を、カーシュナーがぐっと掴んだ。そのまま地面に引きずり倒される。首が締まりそうになり、かつ地面に身体を叩きつけられたエリオットが咳き込んだ。
「頭上げるなよー?」
カーシュナーの、相変わらず緊張感のない声が頭上から響く。エリオットは目線だけ上にあげ、そして絶句した。
地中から姿を現し、天高くそびえ小さな人間ふたりを見下ろしている――それは巨大なミミズであった。体長はゆうに百メートル近くあるだろう。太い体躯、大きな口、小さい目、それらすべてに圧倒される。
魔物は、エナジーを多く取り込みすぎたせいで体組織に異常をきたした生物である――それが世界共通の認識である。このミミズは、長いこと地中のエナジーを浴びて巨大化したのだろう。
「っ……!」
「エリオット、魔物ってこれ?」
「あ、ああ……! このミミズが、地中から仲間たちを丸呑みにして……!」
「へぇ、でっかいなあ。これはちょっと予想外のサイズだ。ミミズなんて普段は小さくて可愛いもんなのに」
するすると、巨大なミミズ型の魔物は地中へもぐっていく。所々に巨大な穴が開いていたのは、こうして魔物が出たり入ったりを繰り返していたからだろう。
魔物が消えると、そこは静かな草原の姿を取り戻す。――しかしながら、草が無残に赤く染まっているのは、紛れもなく先程までここに人間がいた証拠である。
骨も残さず丸呑みか――カーシュナーはぽつりと呟く。その横で立ち上がったエリオットが剣を鞘から払う。銀色に光る、使い古されていながらも手入れの届いている刃が、この不気味な空の下でも輝く。
「あんなのが首都の傍で暴れていたら大問題だ! 仇云々の前に、なんとかして倒さないと」
「よし、頑張れ」
「っておい!?」
「冗談だよもう。でも頑張ってほしいのは本当だよ」
ふたりが立っている真下の地面が、ゆっくりと盛り上がる。カーシュナーは微笑んだ。
「俺が一撃叩き込む、君は隙を作るための囮ってことで」
エリオットが頷くと同時に、足元の地面が破裂した。
エリオットは傭兵として鍛えた瞬発力で跳躍し、真下から攻撃してきた魔物を避ける。カーシュナーはといえば、さっとこちらも回避している。
魔物の意識はエリオットに向いている。魔物というのは、自分に向けられる敵意に敏感だ。エリオットは剣を構え、あからさまに攻撃の姿勢を見せた。
魔物が喰らいつく。巨大な上体が尋常ではない速さで空を切り裂き、豪速でエリオットに向けて振り下ろされた。それもまた回避し、エリオットは駆け出す。
再び地面に潜った魔物が、一直線にエリオットを追いかける。移動するたびに地面が隆起するので場所を特定するのは容易だったが、地中を移動する速さがとんでもなく速い。エリオットはほぼトップスピードに乗っているのだが、それでも差が縮まっていってしまう。
そこであえてエリオットは減速した。魔物を地上に引きずり出すための罠であった。
魔物が大きな口を開きつつ飛び出してくる。その飛び出す勢いを利用したエリオットは、華麗に宙を一転してその場から大きく離れた。魔物の攻撃は空振り。
「まったく、まるでショーを見ているみたいな動きをするね」
エリオットの軽業に呆れたように、カーシュナーはぽつりと呟く。
カーシュナーの足元の地面に、巨大な魔法陣が組み上がった。淡い緑、風属性の攻撃系魔装具だ。
攻撃系魔装具から放たれるエナジー――人はそれを『魔術』と呼ぶ。
魔法陣の完成と同時に、カーシュナーは魔装具を装備した左腕を魔物に向ける。疾風が巻き起こり、見えざる真空の刃が飛び出した。
スパン、と気持ちの良い音がする。真空の刃が魔物の胴体を真っ二つに切断したのだ。頭の方まで響く悲鳴があがり、魔物の頭部が凄まじい音と共に地面に落下した。それを追うように、胴体も横転する。
「……すごい」
エリオットは茫然として呟いた。魔装具は強力であるが、その力をどこまで引き出せるかは使用者の力量による。あの大きな魔物を一撃で倒すあたり、カーシュナーはとんでもなく魔装具の扱いに慣れている。
それに、その身のこなしも只者ではない――。
しかしながら、魔物もただの魔物ではなかった。
カーシュナーに切断された頭部が動き出したのだ。
「ッ!」
地面を這うようにカーシュナーに向かって突進した頭部は、そのままの勢いで宙へ飛んだ。咄嗟に身を翻して避けたカーシュナーだったが、避けきれずに腕の服の裾が破れる。
「っ、カーシュナー!」
エリオットが叫ぶ。カーシュナーはよろめきつつも態勢を立て直し、続く第二撃を回避。
空振りした頭部はそのまま横たわったままの胴体へと向かい、斬りおとされた部分に接着した。そしてそのまま、その部分は結合して元通りになってしまう。魔物がゆらりと鎌首をもたげた。
「おっとぉ……こりゃ、凄まじい生命力だねぇ」
カーシュナーは苦く笑う。
「ちょっと甘く見ていたか……」
左腕の魔装具をいじったカーシュナーは、コートの内ポケットから何かを取り出した。――それは眼鏡であった。何の変哲もない、薄いレンズの眼鏡。
それをかけたカーシュナーの赤い瞳は、鋭さを増したように見えた。
本気を出した――。
「危ないから、そこどいててね……」
エリオットへ忠告する言葉と同時に、再びカーシュナーの足元に魔法陣が展開する。今度は先程より複雑かつ、赤い魔法陣だった。
すなわち、『火』。
先程カーシュナーが魔装具をいじったのは、風属性から火属性の魔術に魔装具を切り替えを行ったのだろう。それにしても――。
(ひとつの魔装具で二属性の魔術……!?)
そんな高度な魔装具、見たことがない。
魔物が身を潜めている地面から、火柱が立ち上った。業火は魔物を包み込み、先程切断されたときよりも耳障りな声が轟いた。地面から全身を現した魔物は、地の上でのたうつ。切って駄目なら、灰になるまで燃やし尽くせということである。
生きながら燃えている魔物を見つめるカーシュナーの横顔は静かで。それを見て、エリオットの身体に鳥肌がたった。
その魔術の腕前に感激したのではない。『恐ろしい男だ』、と直感したのである――。
「……さて。これで君の願いである仇討ちは達成。ついでに、俺の用件も済んだ」
先程は自分の用件が本題でエリオットの依頼がついでだと言っていたのだが、本当のところは逆だったらしい。
魔物は地面にその巨躯を横たえ、黒く焦げて煙をあげている。完全に息の音は止まったようだ。腹を割いてやれば、呑みこまれたエリオットの傭兵仲間たちの骨なり体の一部なりを見つけられるだろうが、エリオットもさすがにそんな気分ではなかった。
「あんたの用件って……なんだったんだ?」
恐る恐る尋ねてみると、カーシュナーは眼鏡を外しながら微笑む。
「聞きたい……?」
「――いや、いい」
即座にエリオットは首を振った。ろくでもない用件だったということは確実だ。カーシュナーはもう一度微笑み、黒焦げの魔物に視線を落とした。
「で、こいつどうする? 君らは倒した魔物の一部を街に持ち帰って、討伐報酬をもらって生活しているんでしょ」
「こいつを金に替えるつもりはない……団長たちを殺した魔物で金なんてもらいたくない。それに、団長が死んだ時点で傭兵団は壊滅したことになるから身分証明が俺にはできない。第一、あんたが倒した奴で俺の手柄じゃないし……」
「言い訳が多いね」
「言い訳って!」
「そんなことはともかく、真面目な話をしよう」
真正面に向きなおったカーシュナーを見て、エリオットも無意識に姿勢を正す。
「この魔物を倒した報酬は、君が受け取る討伐報酬から差っ引こうと思っていたけど、換金しないというのならそうもできない」
「……え?」
「第一、君、金目のものって言ったらその剣くらいでしょ」
「……はい?」
「怪我治して、加えて依頼までこなしておいて、それじゃあ割に合わないなあ」
「ちょっと待てぇ!?」
こらえきれずエリオットが話を遮る。きょとんとしている様子のカーシュナーにエリオットは詰め寄った。
「おい話が違うぞ!? 俺を助けてくれたのは『タダ』で、この依頼はその『ついで』だろ!? 金をとるなんて一度も……」
「ははは、世の中そんなもんだよ若人よ」
「あんただって若いだろ!」
「いや、確実に君より五年は長く生きているよ」
ということはこの柔和でいかにもやる気のなさそうな顔の男は二十代半ばなのか? これが世にいう童顔であるのか。傭兵という体力自慢でごつい男たちと長く生活していたエリオットには信じられない思いである。
とはいえ、エリオット自身も傭兵というにはかなり細身なほうであるが。
「……金、金だな。魔物を討伐すればすぐ払える」
「傭兵団が壊滅して、もう取引してもらえないんでしょ?」
「っ、俺個人で傭兵登録すれば問題ない! 登録には少し時間がかかるが、多少なら持ち合わせがある。それを前金として……」
「ごめん、俺、依頼達成した直後に全額現金即決払いしか受け付けてないんだ」
「はぁ!?」
「こっちも生活かかってるからねぇ」
カーシュナーはエリオットの肩に手を回し、そっと囁く。とんでもなく性質の悪い悪役の顔だ。
「それにさぁ……命を救われた恩をお金で済ますつもりかい?」
あやうく雰囲気に呑まれかけたが、エリオットはなんとかその手を振りほどく。
「医者だってそうだろ!」
「医者はそれでお金をもらう仕事だからねぇ。でも、俺の場合はそうじゃないよ? あれは俺の仕事の範囲を超過している。お金だけじゃぁね」
「金で払えって言ったのはあんただろうがっ」
エリオットの怒りにも飄々とした態度を崩さず、カーシュナーは楽しそうだ。
「――と、君なら言うと思っていた」
「分かっていたなら不毛な会話させるな!」
「だから、ひとつ提案をしよう」
「て、提案……?」
何を言われるのだと、エリオットは身構える。短期間であるが、カーシュナーが突拍子もないことを口に出す人間であるとはエリオットも把握していた。それでいて賢いようだから、こちらが反論などできようはずもない。
「君は家族というべき人々を失い、住む場所も金を手に入れる手段も失った。魔装具に詳しくない君が簡単に生きていけるほど、今の世界は優しくない」
「……から?」
「君が最低限の生活をできるようになるまで、俺が君に衣食住を提供しよう」
それは破格の条件である。確かに今の状況で街中に放り出されても、エリオットは大変困ってしまう。しかし、安易に喜びはできない。その代わり、という言葉があるに決まっている。
「その代わりにね」
そらきた。
「君には、俺の店で働いてもらいたいんだ」
「働く……?」
「うん。ほら、荒事お断りって宣言しているのになぜかそういう依頼が多いんだよね、護衛とか魔物退治とか。そういうのを君にやってもらいたいんだ」
そりゃああれだけ魔術が強いなら、その依頼も大量に入るだろう。まさかそれをすべて断っていたのだろうか。それでも生活できていたということは、他の依頼も大量だったのか。
下町で「万屋」は、それは助かる存在だろうが――この男なら簡単なものでも「面倒」で済ませそうな気がする。
働いている間は勿論、エリオットに給料などないだろう。
「きょ、拒否したら?」
「どうなると思う?」
こいつが笑う時はろくでもない時だ。正直なところ衣食住の提供は有難いし、肉体労働は得意とするところ。素直に頷いておいた方が身のためか――。
「……わ、分かったよ。助けてもらった恩は……事実だし」
「よし、交渉成立! いやぁ、頑張った甲斐があったなぁ」
上機嫌なカーシュナーは、軽い足取りで丘を下り始めた。エリオットは頭を抱え、それからはたとして顔をあげる。
「――ちょっと待て。もしかしてあんたが言ってた『欲しいもの』って……」
「うん。君という名の労働力」
「ふ、ふざけんなカーシュナーぁっ!」
嵌められていた。
丘を駆け下って追いかけると、カーシュナーはくるりと振り返った。
「テオだ」
「は?」
「俺の名前」
「テオ? え、じゃあカーシュナーって……」
「それは先代の名前だ」
代替わりするほど歴史ある万屋だったのだろうか。要するにカーシュナーとは、店名のようなものだったらしい。
「これから一緒に生活していくんだし、特別に教えてあげるよ」
「そ、そりゃどうも……」
……まったく。とんでもない奴に命を助けられてしまったようだ。
退屈なんて、する暇はなさそうだ。