File thirteen 他人のふりも、なかなか難儀です。
これが最善だったのかなんて、俺には分からない。
★☆
「エリオット、これどうしたの?」
今日もまた魔装具の修理を依頼されたとかで一日作業場にこもっていたテオは、リビングに出てきたと思ったら食卓に置いてある箱を目ざとく見つけた。シャワーを浴びたばかりで、湿った髪の毛をタオルで拭っているエリオットは、「ああ」と顔を上げた。
「今日、帰りになんとなく買ってきた」
「なんとなく? 珍しいね、君がそんな気の利いたことするなんて……」
テオが箱を開けると、そこにはチーズケーキがふたつ入っていた。テオが目を丸くする。
「おぉ、最近有名なチーズケーキじゃないの。一日数量限定でなかなか買えないっていう話だったけど、よく買えたね?」
「うん、今日その店でケーキ食べてきたからお土産。そのケーキの売り出しって店の開店より一時間遅いから、店内にいれば行列の先頭に立てるんだよな」
それを聞いてテオはしげしげとエリオットを見つめる。そして得心がいったようににやにやと笑いだした。
「……ふぅん? 今日やけに依頼に出てから帰ってくるのが遅いと思ったけど、そういうこと」
「な、なんだよ」
「君、どうせまたセイラさんと会ってデートしてきたんでしょ?」
「んなっ」
直球に聞かれ、エリオットは思わず飛びのいた。風呂から出てようやく冷めてきたというのに、頬がかあっと赤くなる。
「ま、『また』ってなんだ『また』って! 大体、デートなんかじゃ……!」
「んん? 気付いてないとでも思ってた? 今日もそうだし一昨日もそう。一週間前もそうだったよね? 四回もふたりきりで出かけていれば、そりゃ『またか』って思いません?」
「……」
「いやあ、いいねぇ。青春だねぇ」
エリオットは髪を拭いていたタオルをテーブルの上に放り投げた。
「この街にいる間にいろんなところに行きたいっていうから、一緒に行ってるだけでだな。決してそういうつもりじゃ……」
「はいはい、言い訳は結構ですよ。せっかく買って来てくれたんだから有難く頂きますけど」
ほくほく顔で、テオは皿を出して自分でコーヒーを淹れている。こういう時だけ自分で全部やるんだから、この人は。物音で起きたのか、寝ていたチコがテオにすり寄っていく。「君は駄目だよー」なんて言いながらテオはケーキを皿に移す。
「エリオットは? 食べる?」
「俺は良いよ。ていうか、それはリオの分」
「そっか、明日は休みだもんね。じゃ、冷蔵庫入れとくよ」
ケーキを冷蔵庫にしまい、食器棚からフォークを取り出しながら、テオは歌うように呟く。
「でもさぁ、これリオノーラにばれたらどうする?」
「どうするって、なんで?」
「いや、だってあの子なら『僕のお兄様を他の女に渡してたまるか!』くらい言いそうだよ?」
「そんなまさか。あの子は俺の妹で……」
――いや、十分あり得る。
エリオットは頭を抱えて呻いた。
「……だ、だから、セイラとのことはそういうのじゃないんだっつの!」
「あっはは、悩め悩め若人よ」
心底愉快そうな言葉に、エリオットは溜息をつく。
と、突然玄関がノックされた。エリオットとテオは顔を見合わせる。夜に客が来ることは滅多になく、この時間というのはエリオットとテオにとって静かに過ごすことのできる時間なのである。
「あ、やば、俺寝間着」
「ちょっともう、男ならそんなこと気にしないでよ」
そそくさとエリオットが上着を着てタオルを片付けている間に、テオが苦笑しながら玄関を開ける。そこにいたのは、うら若い女性である。夜の闇に溶け込むように、黒を基調とした服を身にまとっている。歳は、丁度エリオットと同じくらいだろう。
夜分だということで女性も遠慮しているのだろう。深々と頭を下げてきた。テオはにっこりと微笑む。
「いらっしゃい。寒いでしょう、中へどうぞ」
テオは不幸なことに、ケーキはお預けとなり、コーヒーも飲み損ねたのである。
自分用にと用意していたコーヒーを女性に出し、ソファに向かい合って座る。
「夜遅くにすみません……急にお願いしたいことがあって」
「なんでしょう? できることならば、協力させて頂きますが」
テオの静かな声に、女性は頷く。常に一緒にいるエリオットには分からないが、どうやらテオの声というのは安心できるものらしい。彼女はひとつ息を吐き出して、切り出した。
「私、フェリシアと言います。実は私の父が、あと余命いくばくもないとお医者様に宣告されて」
その言葉に、テオとエリオットの間の空気が緊張する。
「父は数年前から脳の病気を患っていて、殆ど寝たきりなうえ、まともな話もできない状態で。けど先月に別の病を発症して、もうあと数日の命だと言われてしまったのです」
「……それで?」
「そんな父が、私の兄に会いたいと言い出したのです。もう誰が誰だか分からない状態なのに、兄のキースに会いたいって」
エリオットは居住まいを正して尋ねる。
「お兄さんはどちらに?」
「分かりません。兄はまだ父が元気だったころ、父と仲違いして出て行ってしまったんです。それ以来、どこで何をしているのかさっぱり……」
その時点で、おそらくふたりとも依頼内容を察知していた。少なくともエリオットはそうだ。間違いなく、『出て行った兄を探してほしい』というものだと、予想していたのである。
しかし、フェリシアの口から飛び出したのはそれとは違う依頼だった。
「だから、父が死ぬまでの間、兄のふりをしていただきたいんです」
「……お兄さんの、ふり?」
フェリシアは頷く。
彼女の父は、もう誰が誰だか分からない状況。適当に話を合わせておけば、確かに兄のふりはできるだろう。あと数日で息を引き取ってしまうかもしれない父親のもとに、どこにいるかも分からない兄を連れてくるのは無理なことだ。間に合わない可能性のほうが高い。
ただ――何か違う、とエリオットの心の中に、棘のようなものが刺さった。
しばし沈黙していたテオは、やがて顔をあげた。
「引き受けます」
★☆
依頼人の家は平民街にあった。貴族とまでは行かないがそれなりに裕福な家庭のようで、昔から料理店を家族で営んでいるらしい。だから尚更、いつ死んでしまうか分からない父親でも、その傍にずっとついていてやることはできなかったのだ。
「父は兄に、この料理店を継がせたがっていました。けれど兄は、もっと人のためになる仕事をしたいと言って」
朝の忙しい仕込み時間に店へ赴くと、エプロン姿のフェリシアが手を止めてそう話してくれた。厨房では、母と弟だというふたりがせっせと料理をしている。
「人のためになる仕事とは?」
「それは分かりません。兄も父も教えてくれなくって……けど、父が『危ないからやめろ』と言っていたのは覚えています。毎日のように、怒鳴り合っていましたし……」
テオは考え込むように沈黙した。フェリシアは店舗の奥にある居住スペースにふたりを案内してくれた。
寝室に入って、独特の薬の匂いが鼻を突いた。ベッドの傍に置かれている高度な医療系魔装具。相当な延命措置をしてきたのだろう。
フェリシアがベッドに寝ている父親に声をかける。目を閉じて眠っていたのかと思ったが、父は薄目を開けてエリオットを見た。
「キース……ああ、キース!」
空中に手を差し伸べるその姿を見て、テオがエリオットの背中を小突く。仕方なくエリオットがベッドの傍に歩み寄り、その手を握ってやる。
「……た、ただいま」
ぎこちないその言葉に、父親は満面の笑みを浮かべる。
「どこに行っていたんだい、あんなに手を離しちゃ駄目だって言っただろ……そうだ、父さんが夜ご飯を作ってやろう」
身体を起こそうとした父を、慌ててエリオットは制する。
「だ、駄目だよ。ちゃんと寝ていなきゃ……」
「お前が好きだったパンを焼いてやろうか。お手伝いさん、ちょっと材料を用意してくれんかね」
そう呼びかけられたのはフェリシアだった。彼女は「はい」と微笑む。エリオットが驚いて振り返ると、フェリシアは少し微笑んだまま俯いた。
「……私のことは、娘じゃなくて介護のお手伝いだと思っているんです」
「……そんな」
「父のこと、お任せしてもいいですか? 私も時間ができ次第、様子を見に来ますから」
エリオットが躊躇いがちに頷くと、フェリシアは乱れた父の毛布を直してやって、部屋を出て行った。テオはエリオットの肩を叩き、小声で言った。
「エリオット、ふたりでお父さんに付き添うのも効率が悪い。昼に交代ってことにしよう」
「え!?」
「いつまで続く依頼か分からないからね、他の依頼が滞ってしまうのもいけないし。大丈夫、ちゃんとお昼に来るからね」
「ちょ、ちょっと」
父親に手を掴まれているためにテオを引き止めることもできず、テオもまた部屋を出て行ってしまった。
(こ、困るなぁ……)
この父親を相手に、ひとりでどう対応しろというのだろう。しかし父親はにこにこと笑っているし、振りほどくにも振りほどけない。
おそらく父親の中で、キースという息子はまだ幼いのだろう。仲違いする前の、仲の良い親子のころだと思っている。この状態になってなおキースのことを覚えているということは、相当大切に思っていたのだろう。
けれど、やはり違う。エリオットは、彼の息子じゃない。
やるせない思いを抱えつつも、エリオットは父親に向き合うことになったのである。
テオは正午前に姿を現した。それまで定期的にフェリシアが様子を見に来て、昼には医師が来るというのでエリオットも休憩ということになる。それを告げられたエリオットは、椅子から立ち上がりながら父親に声をかける。
「じゃあ俺、ちょっと行くよ、お父さん」
そうして部屋の入り口に立っているテオのもとに行くと、テオは微笑んだ。
「ちゃんと息子らしくやってるねぇ」
「……俺、自分の父親より先にあの人のこと『お父さん』って呼んだぞ」
少々そんなことを嘆きつつ、部屋を出ていく。入れ替わりで現れた医師に会釈をし、閉じられた扉を見つめる。
テオがエリオットに視線を戻す。
「フェリシアさんがお昼用意したから店舗に来てくれって言ってたよ」
「ああ……」
上の空に聞こえるその返事に、テオは少し間を置いてから尋ねた。
「……お父さんの様子はどう?」
「俺のことを、本当に息子だと思ってる。自分が寝たきりってこと、分かってないのかな……しきりに料理作ってやるって言うんだ」
「お父さん、昔から料理人一筋だったそうだからね」
エリオットは初めてテオに向きなおった。
「でも俺は、あの人の息子じゃない」
「うん、そうだね……」
「あの人が会いたいのは俺じゃない。キースさんなんだ」
テオの表情も、エリオットの声も静かだ。
「テオは前に言ったよな。死にゆく人の願いは叶えてやりたい、それにはお金以上の価値があるって」
「言った」
「いま俺たちがするべきなのは、キースさんを探すことじゃないのか……!?」
それは仕事の契約を超過するとか、割に合わないとか、テオはそんなことを言う人間ではない。金で仕事を選ばないからこそ、下町で慕われているのだ。
だから言われるとしたら、『もう時間がない』と――その一言だろう。
そう諭されることを覚悟して、それでもやるせない思いをテオにぶつけてしまう。
しかしテオは、予想に反して笑みを見せた。
「……俺が何もしていないわけないでしょ」
「え……!?」
「フェリシアさんに聞いたけど、キースさんって子供のころに剣術を習っていて、相当武闘派の人だったんだって。そんな人が志す『人のため』になって『危ない』仕事は、警備軍か傭兵しかないと思う」
その言葉に、エリオットはどきりとする。
「キースさんが家を飛び出したのは六年前、その時彼は二十二歳。今は二十八歳だ。六年も前だから当てにならないかもしれないけれど、写真も借りた。俺はそれを元に、さっきイザードに警備軍のデータを探すように頼んできた。……君にお願いしたいことがあるのは、もう分かるね?」
悪戯を仕掛けるような笑顔に、エリオットもぱっと表情を明るくした。
「……ああ、勿論! スペンサーに……この国の傭兵を一番把握している人に聞いてくるよ」
「ん、任せた」
俄然やる気を出したエリオットは、テオと共に店舗へと向かいながら照れくさそうに言う。
「わ、悪かった、きついこと言って。あんたもちゃんと考えてたんだな」
「そりゃね。フェリシアさんに許可ももらってる……本人が来てくれるのが一番だ、ってね。彼女も、今回のことは時間がなかったために仕方なく出した依頼だったみたいだからね」
テオは静かに目を閉じる。
「たとえ、もう息子さんが分からなくても……あのお父さんの『息子さんに会いたい』って気持ちは、本物なんだからね」
★☆
『キースという名の二十八歳の傭兵がいるか確認してくれ』という無理難題にも関わらず、武器商のスペンサーは快く承諾してくれた。
ただ、六年前などという中途半端な時期に自分から傭兵になるという人間は滅多にいない。だからキースは警備軍にいるかもしれないぞ、とスペンサーは推測している。それは確かにそうだとエリオットも思う。
警備軍リストを調べてくれているイザードに賭けるしかないが、警備軍全体の人数は膨大なものだ。以前テオが言っていたように警備軍の中にもさまざまな部署があり、キースは最も過酷な戦闘部への配属を希望したのだろうとは思う。だがその希望が通ったのかも分からないので、探す場所が絞られるということはない。
なんだかんだ言いながらテオのために必死になってくれるイザードは、兄貴のようなものだと最近強く思う。そう呼ぶには無理があるが。
「……イザードって、なんであんなに面倒見が良いんだろうな」
ぽつりと呟くと、テオは苦笑した。
「腐れ縁だからね」
「またそれかよ」
「ま、実際は先代カーシュナーの友達なんだよ、あの人。俺とはそういう繋がり」
あっさり明かされた事実に、エリオットは拍子抜けする。
「……って、イザードと友達って、カーシュナーって結構歳いってる……」
「いやいや、カーシュナーはそこまでじゃないよ。カーシュナーの近所に住んでいた兄貴分、それがイザード」
お代わりのコーヒーを注ぎながら、テオは話題を変えた。
「ところでさ、エリオット」
「ん?」
「俺、君と背格好も似てるし、いけるかなぁと思ったんだけどね。どうやらキースさんとしてお父さんに認識されたの、君だけなんだよ」
「そ、そうなのか?」
「だから昨日の午後、『キースを連れて来てくれ』って散々言われてねぇ……そういうわけで、お父さんの相手は任せるよ」
複雑な表情で頷くエリオットに、テオは笑みを向けた。
「……あまり頑張りすぎずに、ね。君のことだから、お父さんのことを本当に父親みたいに思って、甲斐甲斐しく世話焼いちゃうんだろうけど」
「そりゃ、一時的とはいえ俺はあの人の息子を演じなきゃならないんだから」
「違う、そうじゃない。介護っていうのは辛いものなんだ、特にあの手の病気の時は。それで頑張りすぎると、先に介護者がぶっ倒れる。だから、気楽にね」
「……」
「話もできたから、元気そうに見えちゃうけどさ。いつ容体が急変しても、おかしくないんだから……」
その時、万屋の玄関が思い切り叩かれた。ノックというより、叩かれている。今は別依頼遂行中のため、こまごまとした依頼はお断り、もしくは予約という形になっている。だから客ではないと思うのだが。
「この音、さてはイザードだなぁ」
テオが立ち上がり、玄関を開ける。飛び込んできたのはやはりイザードである。いつでもこの人は全力疾走だなと思うほど、息が切れている。
「おいテオ……ぐはっ!?」
勢い余って室内に飛び込んできたイザードの左足を、ひょいとテオが引っかけた。ものの見事に顔面から転倒したイザードを見て、エリオットが思わず吹き出してしまう。床に打ち付けたのか真っ赤になっている鼻をさすりながら、イザードが身体を起こす。
「テオ、貴様ッ!? せっかく私が協力してやっているというのに、優雅にコーヒーを飲んでいるだけならまだしも足を引っかける!?」
「ごめん、引っかけたら転ぶよなあ、とか思ったら実践してみたくなっちゃって」
「どこのガキの思想だそれは!?」
「そんなことより、何か用があったんでしょ」
テオのその言葉に、イザードもむすっとして声音を落ち着かせる。そこで分かったのだが、イザードの両目の下にはくっきりと隈があった。
「ああ、キース・エイデンという男、確かに警備軍にいたぞ。治安維持隊だ」
治安維持隊は、市中の巡回などを行って犯罪防止に務める者たちだ。要するに警察組織である。イザードも、厳密には違うらしいが似たような仕事を行っている。警備軍の中では比較的下位の役職だ。
「その物言いだと、地方の治安維持隊に配属されているみたいだね?」
「エニスの街だ。あそこからじゃ、どんなに車を飛ばしても二日はかかる」
「それでもいい。今すぐ来るよう伝えてくれ」
テオの真剣な言葉に、イザードは肩をすくめてみせた。
「もう通信で伝えたよ。すぐ向かうと言っていた」
「……ふっ、警備軍は便利な魔装具持ってるねぇ。ありがと、イザード。目の下に隈のある警備軍のおじさんなんてカッコ悪いから、ゆっくり寝てよね」
「もう所属者リストのデータなんぞ見たくもないわ」
イザードがやれやれと帰っていく後姿を見ていたテオは、エリオットを振り返った。エリオットも立ち上がる。
「あと三日だ。それでキースさんが来るよ」
「……ああ!」
エリオットは大きく頷いた。
★☆
それからエリオットは、常に父親の傍に寄り添っていた。テオも大部分の時間は室内にいて、何かあれば補助をしてくれる。テオは『キースの友達』と思われているらしく、覚えのない昔話をして器用に花を咲かせたものである。
確かにこうしていれば、話の脈絡はないもののきちんと言葉を交わすことができるし、とても余命数日と言われた人間には見えない。だがだからと言って気を抜いていいわけではないのは、勿論エリオットも分かっている。
当初の依頼では『キースのふりをする』ことであったが、エリオットは持ち前の体力を活かして本格的な介護まで行った。フェリシアは感激してくれて、エリオットが来るまでつまらなそうだったという父親も終始機嫌が良い。そういうのを見ていると、どんなことでも人のためにはなるのだろうか。
『天職』かも――柄にもなく、そんな風に思ったりも。
しかし、やはり限界はある。
「お父さん、しっかり!?」
それは依頼を受けて四日目の朝のことだった。
キースの到着はまだだ。彼が派遣されたエニスは首都から遠く離れた辺境の街。すぐに来いと言っても、警備軍の彼には無理があるだろう。到着するならば、今日中なのだが。
父親の容体が一変し、意識も殆どない。フェリシアは店を放り出して父親につきっきりになり、テオが医者を呼んできた。医者が父を診ているが、いよいよ覚悟を決めなければならないのだということは雰囲気で伝わってくる。
慌ただしかった室内はやがて静かになった。医者の処置も終わり、もう手は尽くされたのだ。あとは静かにその時を待つだけ――。
フェリシアと彼女の弟、そして母親がベッドの傍で父親を見守っている。脇にある機材が刻む等間隔の機械音は、まだ父親の心臓が動いていることを知らせていた。
テオとエリオットは壁際に立ち、その様子を見つめている。テオは静かなものだが、エリオットはどこか落ち着かない。
キースさん。間に合ってくれと、心の中で願う。エリオットが強く目を瞑った、その時――。
「親父ッ!」
開け放たれた扉のもとに、息も絶え絶えの様子で立つ男性。――武闘派だというからてっきり筋肉質な人かと思えば、すらりと細身で長身の男性。身にまとっているのは、イザードのものと同じ警備軍の制服。
兄さん、と驚いて呼ぶフェリシアを無視し、キースは父へと駆け寄った。ベッドの傍に膝をつき、細くなった父親の手をとる。
「親父、親父、俺だよ! キースだよ! ごめん、ほんとにごめん、俺、馬鹿でさぁ……!」
半分泣いているのか、くぐもったキースのその声に、フェリシアも束の間抑えていた涙がこぼれはじめる。もう聞こえないというのはキースにも分かっているだろうが、それでも叫ぶ以外に何もできない。
そのとき、キースが握っている父親の右手が、ぴくりと動いた。そしてゆっくり、キースの手を握り返したのだ。弱々しい力ではあったが、確かに。それに気づいたキースの目から、涙の雫が滴った。
やがて、心臓の鼓動を示していた機械音が完全に消えるまで、キースはその場で父の手を握っていた。
「……ありがとう。君たちのおかげで、父を看取ることができた」
すっかり落ち着きを取り戻した室内で、キースはそうテオとエリオットに頭を下げた。
医療機材は片付けられ、質素なベッドに父が横になっているだけ。まるで眠っているかのように穏やかな顔だ。死に顔は美しい、などという言葉も、納得せざるを得ないかもしれない。
「親父が手を握り返してくれたのは、俺の声が聞こえたんだって勝手に思うことにしたよ」
「……そうですね」
「親不孝で自分勝手な息子だけど……これからは母さんにきちんと孝行して、妹と弟に迷惑かけないようにする。今更だけど、な」
父が警備軍に入ることに反対したのは、家業を継がせたいというよりも心配していたという意味のほうが強かったからだということに、当時からキースも気づいていたという。だが頑固な父親に自分の夢を否定され、それ以降も意固地になっていた。何度も帰省しようと思ったらしいのだが、結局勇気が出ず、数日前にイザードから連絡が来るまで父の容体のことなど知らなかったのだ。
けれど、こうして間に合ったというのは、大きな意味を持つのだろう。
テオは微笑み、頷いた。
「そうしてあげてください」
依頼人のフェリシアとキースに見送られて店を出たとき、憎たらしいほどの青空が上空には広がっていた。それに目を細めたテオは、横で黙り込むエリオットに視線を向ける。
「大丈夫かい、エリオット?」
「……人が死ぬのって、辛いな」
思えばエリオットは、殆ど人間の死を見たことがない。傭兵の仲間たちが死んだところも、直接は見ていないのだ。
「……そうだね。でも最後にはフェリシアさんもキースさんも笑って『ありがとう』って言ってくれた。お父さんも、満足そうな顔だったでしょ。……俺たちは、あの家族がそうなるための手伝いをしてやれたんだ」
「……」
「言ったでしょ、死にゆく人の願いを叶えたい。それはエゴなことかもしれないけれど……何もしないより、ずっといい」
テオはそう言って立ち止まり、エリオットの肩をぽんぽんと叩いてくれた。
「……頑張ってくれてありがとう、エリオット」
「――っ」
エリオットは顔を背けた。じんわりと熱くなった目頭を押さえ、小さく頷くだけに留めたのだった。
依頼提供:氷月 深夜様
ありがとうございました。