File nine お出かけはお弁当持参です。
それで弁当家に忘れたら意味ないよ。
★☆
「お兄様! 会いたかった!」
そんな声と共に万屋の店内に飛び込んできたのは、言うまでもなくリオノーラだ。彼女の軽い身体を受け止めつつ、エリオットは苦く笑う。
「会いたかったって、たった一週間会わなかっただけだろう?」
「長すぎるよ! 一週間に一回、休日だけしかお兄様に会えないなんて、僕に対する拷問だよ」
「大袈裟な……」
平日も学校が終わり次第遊びに来る、と言っていた彼女だが、さすがにそれは厳しかったらしい。こうして会うのは基本的に週一になりそうである。
「やあ、いらっしゃいリオノーラ」
「おはよう、テオ」
作業場にいたテオもリオノーラの声を聞いてリビングに出てきた。リオノーラがにっこりと笑って挨拶をする。そういえば、とエリオットはテオを見やる。
「あんた、リオにテオって名前ばらして良かったのか?」
「ん、まあこの状態では隠せそうにもないしね」
確かに、こう頻繁にやってくる家族同然のリオノーラ相手に、名を隠すなどできそうもない。リオノーラは驚いたように目を見開いた。
「テオってお名前、隠してたの?」
「一応ね」
「そ、そうだったんだ……ごめんね、僕、お父様とお母様に普通に言っちゃった」
それも仕方がないことだろう。エリオットはそう思ったのだが、テオは一瞬だけひどく深刻そうに眉をひそめた。その異様な様子にエリオットも驚く。
「……テオ?」
「――君たちのご両親だからね。信じることにする」
微笑んだテオの横顔は、どことなく寂しそうにも見えた。しかしテオはすぐに気を取り直し、先程からリオノーラが持っている小さな布袋に目を向けた。
「で、リオノーラ、持っているそれはなに?」
リオノーラは「ああ」といま思い出したように袋をテーブルの上に乗せた。
「お店の外の道で渡されたの。依頼品だって」
「依頼品?」
「今日朝から釣りに行った旦那さんに、お弁当届けてほしいって言ってたよ」
袋の中には、布にくるまれた平たい箱らしきものが入っている。確かに、弁当といわれれば弁当にしか見えない。
エリオットはいぶかしげにリオノーラを見やる。
「……で、なんでそれをリオに?」
「僕、頻繁にお店に出入りしてるでしょ? だから店員と間違えられたのかも」
「見たことある人だったか?」
「全然」
「どんな人?」
「女の人だったくらいしか」
「名前と住所の控えは?」
「なにそれ?」
絶望である。せめて依頼人を店まで連れて来てほしかった。
もっとも、店員でもないリオノーラにそんな柔軟な機転を利かせてほしいなど頼めるはずもないのだが。
やれやれと嘆息するエリオットに、テオが微笑みかける。
「まあいいじゃない。報酬とかは、その届け主に話せばいいんだし」
「そうだよ、お弁当届けないと旦那さんはお昼抜きなんだよ。そんなの辛すぎるよ!」
「ちょ、なんで俺が悪者みたいな雰囲気になってる!?」
エリオットは苦い顔をした。くるりと彼らに背を向けて、本棚にあるだろう首都の地図を探していく。
「……リオ、その人どこの釣り場に行ったって? 首都で釣りができるところがあるなんて、俺は聞いたことないんだが……釣堀か何かか? それとも港町……」
「クラリッサ海岸だって」
リオノーラの口から飛び出した単語に、エリオットはようやく見つけた地図を本棚から抜き出す手を止めた。そしてゆっくりリオノーラを振り返る。
「……どこ、だって?」
「クラリッサ海岸だって」
ご丁寧に繰り返してくれたリオノーラと、硬直したままのエリオットに、テオは不思議そうな目を向けた。
「海岸?」
「――首都の外に出て魔物のうろつく草原を通ってわざわざ海まで釣りに行く民間人がいるかぁッ!?」
珍しく場所を把握していなかったテオも、エリオットの嘆きの声で大体の場所を把握したのだった。
「だって、海の魚は海でじゃないと釣れないじゃない」
「買えよ市場で」
「自分で食べる魚を自分で釣るのが醍醐味なんだよ」
リオノーラのなかなか通な言葉にエリオットは沈黙する。テオは本棚から平原の地図帳を取り出して開く。この店にはかなり地図の類が置いてある。仕事柄か、テオの趣味か。世界地図からベレスフォード共和国の地図、首都周辺の平原の地図、首都内の地図。そしてテオが自ら測量したと思われる下町の地図だ。
「ああ……首都の南一帯の海岸がクラリッサっていうのか。あそこは釣り場や海水浴場にもならないただの海岸だよね。エリオットは行ったことあるのかい?」
「時々だけど」
「まあ、分からないでもないね。魔物が現れるようになってから、市場に出回る魚介は殆どが養殖だ。漁師や、釣りが趣味だった人からすれば、海釣りっていうのは良いものだろう」
テオのその物言いに、エリオットは不思議そうな顔をする。
「まるで魔物がつい最近までいなかったみたいな言い方だな」
「事実いなかったんだよ、魔物なんて。第一、そんな呼ばれ方をするようになったのはここ三十年の間の話だ」
「え!?」
てっきり太古の昔から人間は魔物と付き合っていたのだとばかりエリオットは思っていた。それはリオノーラも同じようだ。
「何度も言うけど、魔物とは野生の動物が高濃度とエナジーを浴びすぎて突然変異を起こしたものだよ。遡ってみれば、百年前にも突然変異はあったかもしれない。でもその絶対数は今よりずっとずっと少なかったはずだ。ここまで突然変異種が増殖して、『魔物』なんて呼び名をつけられたのは、本当にごく最近のことなんだよ」
「でも僕、学校で『魔物は昔から人々の生活を脅かしてきた』って教わったよ? テオの話と真逆なんだけど……」
リオノーラが不安そうに言う。テオは安心させるように微笑んだ。――エリオットには分かる。テオがこの手の笑みを見せるときは、話をうまい具合に逸らそうとしているときである。
「……学校で教えてくれることに嘘はないだろう。ただ、真実をすべて語っているとは限らないよ」
妙な雰囲気になったところで、エリオットが軽く咳ばらいをした。
「――それじゃ、とっととこれを届けに行くぞ」
「そうだね。車出そうか?」
テオがそう提案したとき、エリオットの隣にいるリオノーラがぎくりと身を強張らせた。そしてテオが持っている地図をわざとらしく覗き込む。
「で、でも、車で行くような距離じゃなくない?」
「まあ、確かにすぐ傍だね」
「それにほら、お兄様ったら車に弱いでしょ? これだけの距離なら歩いていけるよね、お兄様!」
「あ、ああ」
急に話を振られ、エリオットが慌てて頷く。頭を掻くテオに、エリオットは告げた。
「俺一人で行ってくるよ。たかが届け物にふたりで行くのも馬鹿らしい。それに、今日中に修理を依頼された魔装具もあっただろ?」
「そう? 悪いね、頼むよ」
エリオットは頷き、コートを羽織って腰帯に剣を佩いた。そして弁当の入った袋を取って玄関を開けようとしたとき――。
「あ、エリオット!」
「なんだ?」
「今日の夕飯当番、俺でしょ?」
「そうだよ、代わってくれとかは受け付けないからな」
「うん、そんなこと言わないよ。ただね、今日ロールキャベツにしようと思ったのにタマネギと卵しかないんだ。帰りにキャベツとお肉買って来てくれる?」
「肝心な食材がひとつもなくてよくもまあロールキャベツ作ろうと思ったよな!?」
エリオットが出て行った玄関の扉が閉じる音が消えると、室内は束の間静寂に満たされた。エリオットを見送ったテオは、ひとつ息をついてリオノーラを振り返る。
「さて……リオノーラ」
「な、なに?」
「エリオットをひとりで行かせたかったのか、それとも俺を店に残したかったのか。どっちを狙っていたのか知らないけど、何を考えてるの?」
目ざといテオにはバレバレだった。いつもの彼女ならエリオットと一緒に行きたいと言うに決まっているのに、あえてひとりで行かせたというのは明白である。
元々、嘘や演技といったものが苦手そうな子ではある。リオノーラは観念したようで、悪戯っぽく笑ったのだ。
「ごめんね? 実は……」
★☆
テオが一緒なわけではないのでその必要もなかったのだが、単純に『店から近いから』という理由でエリオットは下町の抜け道を使って平原に出た。この抜け道の存在、イザードは知っているのだろうか。いや、知らないだろう。もしばれたら大目玉を食らいそうだ。
クラリッサ海岸までは、首都コーウェンから南方へ徒歩十五分という道のりだ。ほぼ首都の一部といっても良いくらいの距離。魔物というのは大型都市の傍にそうそう近寄らないので、クラリッサ海岸に行くまでに魔物に襲われることはまずないだろう。
とはいえ、民間人が平原を単独でうろつく。危険極まりないことである。
海に限らず、水場の傍には街が栄える傾向にあるものだが、クラリッサ海岸はそうではなかった。ごつごつと巨大な岩が大量に転がる岩場ばかりで、街を作ろうにも海水浴場にしようにも無理があったのだ。そのために放置され、ただ波が押し寄せるだけの場所だ。ただ、魚は豊富に釣れるのでエリオットも何度かここで釣りをしたことがある。趣味などではなく、食料調達であるが。
程なくしてエリオットは海岸に到着した。岩の上に飛び乗って海を眺めてみると、太陽の光に反射して海面がキラキラと輝いている。自然の景色に感動する性質のエリオットは、「やっぱり海はいいもんだな」などと呟きつつ、岩から岩へ慎重に飛び移って海岸線を移動し始めた。釣りができそうなポイントはいくつか把握しているので、おそらくそこに人がいるだろうと目星をつけている。
と、岩場の間から海に向かって釣り糸が投げ込まれるのが見えた。……最近は魔装具が自動で糸を巻いてくれる竿もあるのに、とことん原始的な釣竿だ。余程の釣り好きと見た。
その岩に飛び移り、釣竿を持っている男性を見つける。
「こんにちは」
声をかけると、男性は驚いたように顔を上げた。
「……エリオット!?」
男性に名を呼ばれ、エリオットは数秒硬直する。それから相手が誰かを認識し、掠れた声が飛び出た。
「お……オースティン伯爵……」
「――驚いた。なぜ君がここに?」
「へ、あ、あの、俺は仕事で……」
比較的落ち着いているオースティン伯爵とは対照的に、エリオットはしどろもどろしている。当然の反応だ。届主が自分の実の父だったのだから。
「仕事?」
「釣りに出かけた旦那の弁当を届けてくれって……」
「昼食なら、持ってきたのだが。ほら」
伯爵はそう言って、後ろに置いてある荷物の中から袋を取り出す。その中には確かに弁当箱らしきものが入っていた。
「え、じゃあこれは……」
自分が持っている袋を見下ろす。その瞬間、エリオットの脳裏に閃光が奔った。
「まさか……!?」
慌てて袋を開け、弁当箱を取り出すエリオットを、不思議そうに伯爵が見守っている。
弁当箱を包んでいる布を取り払うと、そこには一枚の折りたたまれたカードが入っていた。それを開いてみると、可愛らしい小さな文字で書いてあるではないか。
『これはお兄様の分のお弁当です』
「……してやられた」
エリオットが苦々しく溜息をついたので、伯爵は苦笑を浮かべた。
「どうやら、リオが迷惑をかけたようだね?」
「いえ、迷惑だなんて……」
どうやらリオノーラは、エリオットと伯爵をふたりきりにさせたかったようだ。だから『依頼を受けた』などという嘘をついて。
――理由は分かっている。エリオットがまったくリオノーラ以外の血族に歩み寄ろうとしないからだ。
一応依頼は達成ということになるが――どうやら伯爵は、本当に一人のようだ。危険な平原のど真ん中にひとりで残しておくことなどできない、と自分に言い聞かせ、エリオットは顔を上げた。
「……おひとりでは危険です。良ければ、ここで護衛させて頂きたいのですが」
「護衛なんて固いことを言わなくてもいいだろう。そうだ、折角来たのだから共に釣りをしないか?」
「え?」
「釣りをしたことはあるか?」
「……食料調達のためくらいですけど」
「問題はないさ。ほら、竿が一本余っている」
強引に話を進めるのは遺伝か。
無理矢理に竿を渡され、エリオットは伯爵の隣に座らされてしまった。仕方がないと腹を括り、海に糸を垂らす。
沈黙。
(……ど、どうしよう。何の話をすれば……)
釣りは本来静かにやる忍耐の動作なのだろうが、どうにもこの沈黙には耐えられない。何か話題をと探していると、先に伯爵が口を開いてくれた。
「リオとはうまくやっているか? あの子は、君のことが大好きなようだ」
「……彼女には、感謝してます。こんな俺に、何の気兼ねもなく普通の兄妹として接してくれる」
いや、あそこまで過剰だと『普通』じゃないかもしれないが。感謝しているのは本当だ。
「身分や立場の壁をいつの間にか飛び越えてしまうのが、あの子だからな」
微笑む伯爵をちらりと見やり、エリオットは溜息のように言葉を漏らした。
「……貴方こそ、良いんですか。俺は傭兵なんですよ。現代の魔装具文明を否定する……警備軍の人間が知っているくらいなんだから、貴方は俺のことを隠すつもりなんてないんでしょう」
イザードが、エリオットがオースティン伯爵の息子であるのを知っているのはテオが喋ったせいかとも思った。だがテオは口が堅い方だし、本人がいないところで秘密をばらすはずがない。おそらく、情報が漏れたのは伯爵本人の方だろう。
伯爵はやはり微笑んだままである。
「……少しばかり、傭兵時代の君について調べさせてもらったよ。君を育ててくださった方を知りたくて」
「団長やイシュメル……ですか」
その名を呟くと、胸が痛い。
「ああ。貴族の中には、傭兵を『野蛮だ、時代遅れだ』と差別する者もいるが、魔装具が登場する以前からこの国で人々を直接守ってきたのは貴族ではない。傭兵たちだ。その功績はもっと讃えられるべきであるし、ずっとその理念に従って活動していたジェイク団長は素晴らしい人だろう。そんな人たちの中で育った君を、私は誇りに感じる」
「……伯爵」
呼びかけると、伯爵はエリオットを振り返る。
「君の父として相応しいように、君がいつか私を父と呼んでくれるような存在になろうと思うよ」
「……ありがとう、ございます」
その時、エリオットの竿が強くしなった。我に返って竿を引く。伯爵も立ち上がる。
「かかったか」
「お、大きいみたいですっ」
「頑張れ、引き上げるぞ……!」
伯爵は後ろからエリオットの竿を一緒に持ち、引っ張ってくれた。その時感じた温もりは――ジェイクのように逞しい感じではなかったけれども、ジェイクと同じように優しくて温かい。
……父親、か。
引き上げた魚は、かなり大物だった。でかした、と笑う伯爵につられて、エリオットも気づけば笑っていた。それが自分でも不思議だったのだが、奇妙なことに嫌ではない。
ジェイクという父に教えられた強さと優しさで、これからは伯爵に孝行しよう――生まれて二十年目に初めて会ったからって、それがなんだ。まだ自分は二十歳。いくらでも、時間はあるのだから。
いつかこの人を、父と呼びたい。何の躊躇いもなく、実の息子として。
★☆
リオノーラの手製かと思っていた弁当は、どうやら伯爵夫人の手製だったらしい。リオノーラは壊滅的に料理が下手なのだとか。まあ、それを抜きにしても伯爵夫人が自ら食事を作るなんて珍しい。
昼食にと食べた弁当は、美味しかった。手作り感のある優しい味だ。思えばこれまで、傭兵たちのガサツな食事しか摂ってきておらず、さもなくば自分で作ったものしか食べていなかったので、なんだか新鮮だ。初めて食べたエリオットが言うのも妙であるが、『おふくろの味』とはこういうことだろうか。
日が暮れるころになって、エリオットと伯爵は帰路についた。すっかり日は傾き、西日が眩しい。
「……ところで、どうしてこんな場所で釣りを? 魔物も出るし、危険ですよ」
「危険は重々承知なのだが……幼いころから釣りが好きでな。昔はあの海岸にも大勢の釣り人がいたのだが、今ではすっかり人もいなくなった。だから丁度いいのだ……考え事があったり、静かになりたかったりするときには」
隣を歩く伯爵の顔は、逆光でよく見えない。
「今日も、それで? だったら、お邪魔しちゃいましたね」
「いや、いいんだよ。今日は時間が空いたから釣りに来ただけだ。それに、君と一緒にいられてよかったよ」
微笑む気配がする。そう言われると嬉しいのだが、一応魔物の専門家としては釘を刺さなければならない。
「でも、やっぱり危険ですよ。海の中にだって魔物はいます。せめて人を伴って来てください」
「人がいると色々気を使われて、少々面倒なのだよ。それに、ほら、一応攻撃系魔装具は持っている」
「複数の魔物に襲われたらどうするんです? そんな小さい魔装具だと、一体対処するので精一杯です」
伯爵が困ったように腕を組む。エリオットはすっと顔を背けた。
「……次、からは。次から、俺を呼んでください」
「え?」
「仕事とか護衛とかじゃなくて……俺も釣り、上手くなりたいから」
そう、まずは釣り仲間から。
驚いていた伯爵も笑みを深め、嬉しそうに頷いてくれた。
「……時にエリオット。ひとつ聞きたいことがあるのだが」
「はい?」
伯爵が改まって質問を投げかけたのは、首都の城門が目の前に迫ってきた時だった。
「あの万屋の店主……名をテオというのだと、リオから聞いていたのだが」
「それが、どうかしましたか?」
釣竿を肩に担いだ姿はとても貴族などに見えず、門番も素通りしてしまう。
「政府はここ数年、とある研究者を追っている」
「研究者……?」
「この国の研究者はみな、政府の要請を受ける義務がある。しかしその研究者は、長年その要請を無視し続けているらしい。何に携わっている研究者なのかは国家機密だとかで私にも知らされていないが、これほど執拗に追い回すのだから只の研究者ではなかろう」
確かに、と思いつつも、なぜ伯爵がいまそんなことを言うのかがエリオットには分からない。だが、その答えは唐突にやってきた。
「その者の名は、テオドール・ティリット」
「!?」
テオドール。略せば、テオになる。
政府による監視。それを妨害する警備軍人イザード。
とんでもない知識量と洞察力、それは研究者と言っても過言ではない――。
「……まあ、テオという名もテオドールという名も、この国にはありがちだ。別人だとは思うが、『テオ』の名を聞いて少し……な」
「そうですよね。あいつはテオドールじゃなくて、テオなんだから……」
――けれど俺は、テオの姓を知らない。
だから隠してきたのか、テオという名を。カーシュナーという名を名乗って。表の世界を歩けないのは、イザードに捕まるからではなく、政府に掴まるからか。
まだテオのことだと決まったわけではないのだが、合点がいく部分が多すぎて推測が広がっていく。
そういえば、こんな話をしておいてオースティン伯爵は『テオの姓』を聞いてこない。「本人に聞いてみてくれ」とも言わない。
信じてくれているのか。それとも、イザードのように庇ってくれるのか。
下町に入り、万屋の屋根が見えてくる。玄関を開けると、ソファに座っていたリオノーラがぱっと立ち上がる。
「お兄様! お父様も!」
「お帰り、エリオット」
テオはリオノーラの向かいに座り、魔装具を布で磨いていた。暇さえあれば魔装具を整備しているテオは、マニアだと思う。
「お兄様、嘘ついてごめんね? 怒ってる?」
リオノーラがしょぼくれているのを見て、思わずエリオットは笑った。自分と同じ黒の髪を撫でてやる。
「嬉しかったよ。有難う、リオ」
感謝の言葉が意外だったのか、リオノーラは驚きつつも満面の笑みを浮かべた。伯爵も微笑む。
「さあリオ、長居しては迷惑だ。そろそろ帰るよ」
「はい、お父様。じゃあまたね、お兄様、テオ!」
上機嫌なリオノーラが手を振って店から出ていく。それを見送ると、テオがにっこりと笑った。
「楽しかったかい?」
「……ああ」
エリオットは素直に頷き、肩にかけていたクーラーボックスを下ろす。
「それよりあんた、リオとふたりで何して時間潰してたんだ?」
「俺が仕事していた時は、ここで学校の課題をやっていたよ。意外かもしれないけどねエリオット、彼女、かなり頭良いよ」
それは本当に意外だ。彼女には悪いが。
「そのあとはお茶しながらカードゲームして遊んでた」
「……普通だな、おい」
テオは「そうでしょ」と言いながら、床に下ろされたクーラーボックスの蓋を開ける。そこには大量の魚が入っていた。
「うわあ、大漁だねぇ」
「俺が自分で釣った分と、今回の仕事の報酬として少し分けてもらったんだ」
「へえ、すごいねぇ。お約束の『魚釣れなかったから帰りに魚屋で買ってきた』って展開じゃないわけか。……ん? ってことはあれかな? ロールキャベツの材料は買ってきてない感じ?」
「当たり前だろ。魚は新鮮さが命なんだ。夕飯はもちろん魚。あとは今すぐ冷凍だ」
「当分魚か……ロールキャベツ食べたかったなぁ。あ、でも俺、魚捌けないから夕飯はエリオットよろしくね?」
どうせそんなことだろうと思ったよ。