File zero 助けを求めるときは相手を選びましょう。
空が重くて、鬱陶しい。
朝から降り続けている雪は積もり、いつものレンガの街道は真っ白に染まっている。そこに加えられる、足跡。そして、白に滲む赤。
「はぁ……はぁ……っう」
荒い呼気は白く、あまりの寒さに身体は震える。それでいて、手や頬など至る所は真っ赤になっている。寒さは痛覚まで奪い去り、あちこちの傷からまだ血が流れ続けているにもかかわらず、痛みは全くなかった。
歩くために足を上げるのが酷く億劫だ。自然と足を引きずる形になり、同じように引きずっている剣は鍔元まで血で真っ赤に染まっている。元々着古していたコートはさらに切り裂かれ、血と汗とで元の色が判別できないくらい汚れていた。
灰色の空に溶け込むように、灰色一色の家屋が立ち並ぶ。道行く人々は、満身創痍の彼を見てひそひそと話しながら、遠ざかっていく。
ああ、この街ではよくあることだ。力のない者は死んでいく。傷ついた者から死んでいく。そこに手を差し伸べる余裕など、誰ひとり持ち合わせていない――まして、それが傭兵であれば尚更。
「寒い……寒い、寒い」
譫言のように、その言葉が繰り返し口から出る。
このままでは死ぬ。それは自分でも分かっていた。
それでも、足を止めれば『奴』が追いついて来てしまうような気がして、立ち止まれない。
剣だけを相棒にするようになって、もう十五年以上は経つ。それなりに実力はあった。自惚れなどではない。だから今回だって、楽勝だったはずなのに。
なのに。
「っ!」
脇腹の傷に激痛が奔る。耐え切れず、その場に倒れた。やっぱり痛みはなくて、ただ雪が冷たい。
――死ぬのかな、俺。
雪が、血で赤く染まっていく。
――それでもいい。やっと、自由になれる。
誰もが、倒れた人間を素通りしていく。憐みの視線は、かえって不快だ。
こんな世界、大嫌いだ。
――でも、仇を。
大嫌いな世界の中で、唯一手を差し伸べてくれた恩人の仇を。
――取りたかった、のにな。
「……団、長……ッ」
その言葉はあまりにも掠れ、自分の耳にさえ届かなかった。
天涯孤独の身になった俺を、拾ってくれた、ただひとりの――。
★☆
いつの間にか、世界は黒く染まっていた。
何も見えない。指一つ動かない。
かろうじて機能しているのは、聴覚だった。
深々と降り注ぐ雪の気配。
その雪を踏みしめ、歩く人の足音。
周りを憚るような囁き声。
……誰かが、すぐ隣で立ち止まったようだ。
死体処分の役人だろうか? 下町ではよくあることだ。
まだ俺は生きているんだけどな、と反論しようとも思わない。自分が生きているのかどうか自信が持てないし、遅かれ早かれ自分は死ぬだろう。
その人間は屈んだらしい衣擦れの音がする。
――と、頬に何かが押しつけられた。細い、何か――。
「おーい」
やけに間延びして、緊張感のない男の声。
「大丈夫?」
大丈夫に見えるのか。
「さすがに店の前で倒れられていると困るんだけど……」
そんなこと、知ったことではない。
「俺に何かしてほしいことあったりする?」
意外な質問に、うっすらと目を開ける。
頬にあたっていた細い何かが、傍で話しかけてくる男の人差し指だということに気付いた。こいつ、俺の頬をつんつんしやがって。
視線を上にあげると、そこには黒いコートを着込んだ男がいた。歳は……同じくらいであろう。温和というより眠そうでやる気のなさそうな目だったが、それでも構わなかった。
誇りなんてない。ただ、死にたくない。無様だろうが、笑いたければ笑えばいい。
「……助、けて……っ」
見ず知らずの相手に縋ることを躊躇なんてするものか。
小さく溜息を吐き出した音がする。
「まったく……今回限りだからね、タダなのは」
その言葉が聞こえたと同時に、ふっと身体が軽くなった気がした。
――ああ。
俺に手を差し伸べてくれる人は、他にもいたんだ。