オダリスク
「お姉様」
がりっ、と。
扉の向こうで音が響いた。
「お姉様。お姉様。お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様……」
がりっ。爪が扉面に食い込む音だった。
がりっ。指先の肉が潰れ血をにじませる音だった。
「お姉様、なぜお逃げになりますの……わたくし、こんなにもお姉様をお慕いしておりますのに……ねえ、お姉様」
私は両の手で耳朶を覆った。
聞きたくなかった。
すべてがただおぞましかった。扉の向こうで私を求めるこの女の、存在そのものを否定したかった。
「お姉様、お姉様、お姉様。なぜわたくしをそんなにも拒まれますの……
わたくし、お姉様に全てを捧げると誓いましたのよ。
なぜ答えてくださらないのですか、お姉様……」
――ああ神よ。唯一絶対たる我らが神よ。
――この悪魔から私をお救い下さい。
私は床に身を伏せ、ただ祈りを捧げた。
あの女を連れてきたのは、夫の部下だった。
鼻持ちならない、若い男だった。整った面立ちと如才なさでそこそこの地位こそ勝ち得てはいたが、それに見合うだけの功績はまだなかった。機を待ったところで今後挙げられるという保証もなかった。
そこで思いつくのが夫への贈り物による機嫌取りというあたりが、出自の卑しいこの男の品性を示している。
贈り物、すなわち美しい女だ。
夫の部下は、少なくとも女を見る目にかけては一級だったらしい。
夜空のように黒い濡れた瞳。肌は白磁で頬紅は薔薇。細く高い鼻梁からは気品さえ香るのに、小さく引き締まった唇はまだ少女の蕾にすぎない。明らかな不均衡が、女の顔の上で奇妙にひとつの造形美を織り成していた。
部下に紹介された女を見て、夫は唇の端を舐めた。
機嫌がいいとき特有の彼の癖だった。
「名前は?」
「『 』といいます」
夫の尋ねに女は歌うように答えた。
その声すらも気に入ったのか、夫は更に唇を舐めずった。ぴちゃり、と小さな水音が傍に控えた私の耳にも入った。
「『 』。これからここがお前の家になる」
夫が女の手をとった。
「緊張することはない、力を抜いてのんびりと過ごしなさい。それこそが私を慰めることになるのだからね」
「はい」
「そうそう、紹介しよう」
夫の視線が私に向いた。
「妻の『 』だ。そうだね、お前にとっては姉のような立場になるか。お姉様とでも呼びなさい」
「はい、お姉様」
女は私を見て、花のように笑った。
『陽気な』という意味の名を持つその女を、夫はその後数日間離さなかった。寝所に篭もってそのまま三日間出て来なかったのだ。
ここに来て一日目にして、夫にこれほどの執着を受けた女は他にいなかった。
「生意気な」
「何様だと……」
「北方の寒村の出だそうよ」
「道理で田舎臭い赤毛だこと」
数多いる夫の愛妾たちは、細く整えた眉をたわめ囁き合うようになった。
「ねえ、奥様もそうは思われませんこと?」
同意を求められた私は何も答えず、ただ冷たい目で相手の顔を一撫でした。
夫に特に深い寵愛を受けていたその女は、夫には決して見せない醜く歪んだ顔で私を見た。私はふいと目を逸らし、手にした扇で顔を軽く仰いでみせた。
女が奥歯を軋らせ、足早にその場を去るのを後ろに聞きながら、私は小さく息を漏らしていた。
下らない。
狭く閉じた世界で一人の男の寵を争って、その先に何があるというのか。
ある、と夫の愛妾たちなら言うだろう。
権力を独占し我が物顔に振る舞う。夫の子を産み世継ぎの母の栄誉を得る。成る程どちらも光溢れる道に違いない、十代やそこらでここに押し込められた哀れな女たちにしてみれば。
だが私には、いずれも無意味で愚かしいことに思えた。
媚びて罵って顔を歪めて夫の愛を得たとしても、代償として己自身を卑しめることになる。どれだけ美しく着飾っても、白粉や頬紅で表面を取り繕っても、拭い去れない穢れが心に沁みついてしまう。
誰しもいずれこの仮初めの生を終え、神の前に立つ時を迎えるのだ。万能の神は必ずやその穢れをお見抜きになる。己の醜さを知らぬ愚かな女たちには、正しい裁きが必ずや下るだろう。
――と。
「お姉様」
扇で口元を覆った私の耳元に、ふわりと柔らかな声が寄せられた。
「『 』?」
「はい、『 』です。先日はお話できませんでしたので、あらためてご挨拶をと」
あの女が、そこにいた。
長い睫毛をゆっくりと瞬かせて微笑む様は、やはりまだまだ少女のそれだ。
ここに来る前に部下の屋敷で教わったらしい、この国風の礼にも初々しさが残る。夫の愛妾たちはこの初心な印象さえも、男の目線を引くための手練手管と罵っていたが。
「あの方の御用はもう良いのですか」
「はい。別に御用事があるとのことで、先ほど発たれました。ようやくお姉様とゆっくりお話ができます」
「そう……」
愛妾たちの諍いに興味がないのと同様、私は目の前のこの女にも興味を持てなかった。
夫がどの女に心を注ごうと、私の関知するところではない。どんな女をどれだけ可愛がったところで、夫の正式な妻はこの私だ。神がその名の下に命じた通り彼に仕えるだけだ。
私の冷めた胸中を女は知らない。きらきらと双瞳を輝かせて私を見上げる。
「部下の方がお話しくださいました。お姉様は高貴なお家の姫君でいらしたと。不調法なわたくしに色々と教えてくださるだろうから、よくよくお話を伺えと」
「あの男が?」
自分が夫に献上したこの女と正妻の私を結びつけることが、出世の得につながるとでも思っているのか。とすればあまりに浅ましい。
私は首を振った。
「不要でしょう。慣例どおりならここに来る前に、夫にふさわしい女としての教育を受けたはずです。それで充分はありませんか」
「お姉様」
女は瞳を潤ませた。
「お姉様、わたくしは農村に生まれた卑しい娘です。村を襲った盗賊にかどかわされさえしなければ、今でも土にまみれて痩せた畑を耕していたに違いないのです。一年や二年やそこら教えを受けたところで、持って生まれた卑しさが繕いきれるとは思いません」
「夫は気にしていないようですよ」
私は短く突っぱねた。
「ここではそれが全てです。覚えておきなさい」
そのまま背を向けて歩み去るつもりだった。
それが叶わなかったのは女に袖を掴まれたからだ。
「お離しなさい。無礼ですよ」
つとめて威圧的に叱責したはずが、女は手を離そうとはしなかった。それどころか震える両の手により一層の力を込めた。
「お姉様。わたくしは寂しいのです」
「『 』……?」
満天の星をたたえた目が、縋るように私を射抜いた。
「生まれ故郷を遠く離れ、長い長い旅の果てにここまで来ました。いまさら村に帰ることなどできません。……ここのご愛妾の方々は皆、わたくしを狡賢い女狐とののしります。表立っては何も言わない方も影でひそひそと囁き合っています。お姉様のご夫君であるあの方はわたくしを可愛がってくださいますが、それはきっと珍しい鳥を愛でるのと変わりません。もう何ヶ月かすればきっと飽きてしまわれます」
袖を握り締めた手が、乞い願うように強く引かれた。
「お姉様だけがわたくしを貶めず、ただただ毅然と美しくそこにあられました。この薄暗い場所でただ一人、お姉様だけが……」
透き通ったしずくが女の目からあふれ出すのを、私は一言も発さず見つめていた。
――思えばあのとき、私は既にあの悪魔に魅入られていたのかもしれない。
夫の女への執着は、女が言ったほど簡単には薄れなかった。愛妾たちは女狐泥棒猫といよいよもって口汚く女を罵り、女は細い肩を震わせてそれに怯えた。
「お姉様」
愛妾たちといざござを起こすたび、というよりは一方的に罵倒や辱めを受けるたび、女が目を潤ませて私のもとに駆け寄ってくるのが常になった。
私は慰めや励ましを口にするでもなく、ただ黙して女が涙を流すのを見るだけだった。そして女の涙が枯れかけた頃、ようやく一言だけ声をかけてやるのだった。
「神の御心のままに――」
双方にとって何の得にもならないはずのこのやりとりが、なぜ途切れることなく続いたのかは分からない。何であれ女は日に二度三度と私のところにやってきて泣いたし、私も拒むことなく彼女を受け入れた。
夫の愛妾たちは、正妻である私が夫の気に入りである彼女を庇護しているものと思い込み、時として私をも攻撃した。私はそれに穢れた者への憐憫をこめた視線をもって応じ、大抵の場合相手はそこで黙った。癇症のように泣きわめくなり憎々しげに捨て台詞を吐くなりして相手が立ち去ると、女は謝罪と感謝と敬慕がないまぜになった目で私を見上げ、『お姉様』と一言私を呼んだ。
「お姉様は、どうしてそんなにお強くいらっしゃるのですか」
女に一度尋ねられたことがある。
「わたくしには、とても真似できません。お姉様のように強くはなれません」
「私は強くなどありません」
弦楽器の音を調えながら、私は淡々と答えた。
「全てを神にゆだねているだけです」
「神に……」
「この生も、この生が終わりを告げた後辿る道も、全ては神の御心のままに」
女はじっと考えるように私を見つめた。
「お姉様のように考えられる者は、きっととても少ないと思いますわ」
「そうでしょうか」
「そうでしょう」
女は頷いた。
「だからこそ、お姉様はそんなにもお強く、お美しくいらっしゃるのですね」
女は異教の民の出だった。私たちと同じ啓典を戴いてはいても、従う戒律は異なっていたはずだった。
そんな彼女に私の信仰が理解できるとは思わなかったが、女の真摯さ自体は神の教えに反するものではないと感じた。だから私は何も言わなかった。
ある夜、随分と久々に夫が私の寝所にやってきた。
作法に従い睦み合った後、鏡の前で髪を整える私に、からかうような口調で夫は言った。
「最近、『あれ』と随分と睦まじいようだな」
『あれ』が何を指しているのかしばらく考え、ようやくあの女のことだと思い至った。
「稀に話を聞く程度の間柄を、睦まじいと称して許されるものでしたら」
「相変わらずだな、我が妻『 』よ」
くっくっと夫は笑い声を立てた。
「おまえがどう思っているかは知らんが、あれは寄ると触るとお前のことばかりだ。話を聞くと簡単に言うが、一体何の話をしているのだ?」
「侮辱や罵倒、それに信仰や神の話を」
端的な答えに夫はまた笑った。
夫に仕えてそう長いというわけでもない私だったが、少なくとも既に一児をもうけていた。そういう意味では、夫は私に気安さを抱いていたのかもしれない。
「お前のことを語るあれは艶かしいぞ」
髪を結う私に、夫は背後から手を伸ばしてきた。
「息を弾ませ、目をきらきらと輝かせ、頬を染めて、お前がいかに賢く誇り高く美しいか語るのだ。一挙手一投足に溢れる気品、澄み渡った瞳の麗しさ、言葉少なにそれでいて優美に真実を語る唇……」
私は再び寝台に押し倒された。
既に一度満足したはずなのに、夫の目はまた情欲に燃え上がっていた。
私は妻の務めとして、夫の求めに応えるために体の力を抜いて目を閉じた。
それから夫は私と女を交互に訪れるようになった。
とうに飽きられたと思われていた私に再び夫の寵が戻ったと、愛妾たちは飛び立つ前の渡り鳥のように騒然とした。私はそれに対しまた冷たい視線で応じた。
夫が私をまた抱きはじめた理由が愛妾たちが想像しているようなものではないことは、あえて教えてやる必要もないことだった。
「お姉様」
女の様子が変わったのは、それからしばらく経った頃だった。
「お姉様、香水を作らせましたの。いかがですか」
「お姉様、楽をご一緒に奏しましょう」
「お姉様、お菓子のお相伴を」
「お姉様」
「お姉様」
「お姉様……」
最初はどうとも思わなかった。少し馴れ馴れしくなったと思っただけだ。
だがほどなく女の態度はその言葉で片付けられる範囲を超え、ついに寝所以外では私の傍を離れないまでになった。
とりわけ夫が訪れた夜の明くる日は、熱っぽい目をして語りかけてくるのだった。
「お姉様。昨夜はあの方とどんなお話をなさいましたの」
特に話すようなことはないと答えると、
「どんなささいなことでも構いませんのよ。ねえどうか教えてくださいませ」
それでも答えることを拒むと、
「お姉様、お願い意地悪をなさらないで。わたくしお姉様のことなら何でも知りたいのです」
私は女の瞳に燃え上がる情念を、一時の気の迷いと己に言い聞かせた。生まれ育った故郷とあまりにもかけ離れた環境に置かれたがゆえの熱病にすぎないと。
今思えば、私は逃げていただけだった。植物のように何にも心を砕くことなく、ただ神とのみ向き合っていたいがために、狂気の片鱗から顔をそむけた。
先に待ち受ける落とし穴の存在には薄々気づいていたはずなのに。
「お姉様」
ある日、女は私に言った。
「お姉様、わたくし、あの方の子供が欲しいのです」
内心私は安堵した。ようやく私への執着が薄れ、夫の所有物としての務めに邁進する気になったのだと思った。
私の緊張が緩んだのを女も悟ったのだろう。花弁のような唇から笑みがこぼれた。
「お姉様は、あの方の子をお産みになったのでしょう?」
「ええ」
子供は男の子だった。今のところは大過なく健やかに育っていた。今のところ夫に子は他にはなく、愛妾たちの中にはこれを羨む者も多い。
「なんて素敵」
女の薔薇色の頬が鮮やかさを増した。
「わたくしも子を産みたい。お姉様と同じようにあの方の子をこの胎で育てたい」
「ならお励みなさい」
答えた私の声音は、常よりは少し柔らかかったかもしれない。
「あなたも夫もまだ若い。寵が深まれば子を授かる日も遠くはないでしょう」
「はい、お姉様」
女は夢見るような顔でうなずいた。
それからほどなくして、女は懐妊した。
夫にとって二人目の子をあの女が孕んだ事実は、予想通り愛妾たちをざわめかせた。狂乱のあまり香水瓶を叩き割る女や、自分の頬を掻き毟る女もいた。
あの女が来るまで夫の寵を独占していた愛妾は、生まれ故郷のものらしい異国の言葉で鋭く叫んで女に掴みかかった。取り押さえられ床に這いつくばるその愛妾を、女はただにこにこと眺めていた。
罵詈雑言や悪意ある噂に、肩を震わせ怯えていた日が幻のようだった。これが母になるということかと、自分もその一人ということも忘れて私は感嘆した。
その感嘆が勘違いでしかなかったことは、後に悟らされることになるのだが。
「お姉様。今、子が腹を蹴りました」
微笑みながら女が言った。
同じ男の子を孕んだという連帯感のせいか、この頃には女の語りかけをそう異常とは感じなくなっていた。
「日に日に育っていくのが分かりますのね。母親になるとは何て素晴らしいことでしょう」
うっとりと呟く女に私は忠告した。
経過が順調だからといって気を抜かぬこと。医者の言いつけをよく聞いて心して生活すること。とりわけ食べるもの身につけるものには注意を払うこと。香水ですらも種類によっては体に障ること。
「分かっておりますわ、お姉様」
女は夢見心地の顔のまま、そっと自分の腹を撫でた。
「大事な大事な子ですもの。無事に生まれるよう心しますわ。ええ、それは勿論」
この期に及んで私は、女の満ち足りた顔を母性の表れととらえていた。
女の腹がどんどん膨らんでいくにも関わらず、夫は女と私の寝所を往復するのをやめなかった。
あまり無理をさせると流れてしまうのでは、という私の控えめな進言を、のらりくらりと夫はかわした。既に一人子を持つ夫にしてみれば、二人目の子にさほどの感心はなく、それよりは毎夜の愉しみのほうが遥かに勝るらしい。
それどころか唇の端を歪めてこう言いさえした。
「嫉妬か?」
――愚かなことを。
脳裏に浮かんだその一言を、むろん私は口にしなかった。夫に対する礼を失すれば、神の裁きを受けることになるからだ。
それを無言の肯定と取ったのか、その夜夫はいつもより激しく私を責めた。
私は夫の体を受け止めながら、これはあの女の口から直接乞わせるしかないと考えていた。
「『 』。話があります」
また腹を撫でているあの女に、私は声をかけた。
「何ですの、お姉様」
女の美しい顔にとろけるような笑みが浮かんだ。珍しく私の方から話しかけられたのが嬉しかったのかもしれない。
「よく聞きなさい」
私はゆっくりと女に説いた。
夫を悦ばせることはここに仕える全ての女の務めだが、夫の子を産むことはそれにも増して重い。しかもただの子ではない、健康で賢い、夫亡きあとその地位を継ぐにふさわしい子を産まなければならないのだ。
「そのためには時に拒むことも必要なのです」
妻の進言ならば聞き入れずとも、この女の懇願なら夫も耳を傾ける気になるかもしれない。それでなくとも、我が子を想う母の言葉は重いはずだった。
私の言葉を、女はぼんやりと焦点の合わない目で聞いていた。口元には相変わらずとろりとした笑みが浮かんでいた。
「……聞いているのですか、『 』」
私は女の名を呼んだ。
「必要なことですよ。一時の快楽に流されて子を流してしまうようでは、私たちにもこの場所そのものにも存在価値がありません。『 』? 聞こえていますか。『 』?」
「お姉様」
女は首を傾げた。
「ごめんなさいお姉様。わたくし、お姉様のおっしゃる意味がわかりませんわ」
「『 』?」
女は取り立てて賢くはないが、かといって愚かでもないはずだった。
「あんなに素敵なことを、なぜ拒まなければなりませんの? わたくし、あの方に抱かれるのが大好きですのよ」
ほんの一瞬。
女の笑みが艶かしく香り立った。
「だってあの方の腕は、お姉様を抱いた腕なんですもの。あの方に抱かれていると、お姉様と一つになれたような気がいたしますの」
女は自分の肩を抱いた。
「お姉様に口付けた唇に同じ口付けを受けて、お姉様が受け入れたのと同じ場所にあの方を受け入れて。ああ、お姉様もこんな風に声を上げたのかしら、こんな風に気持ち良かったのかしら、そう思いながら」
「『 』……?」
「わたくし、いつもあの方にお願いしますの。お姉様にするように抱いてくださいませ、って。あの方はお優しいから聞き入れてくださいます。お姉様のお名前で呼んでくださることもあります」
絶句する私に女はまた笑みかけ、せり出した腹にいとおしげに触れた。
「ああでも、子供ももちろん大事ですのよ。これもお姉様との繋がりですもの。お姉様がお胎の中で育てたのと同じあの方の胤が、わたくしのお胎の中で日に日に大きくなっていく。幸せですわ、とても。わたくし、今まで生きてきた中で今が一番幸せです」
目の前の女がとてつもなく異質に見えた。
「わたくし、これからもあの方に抱かれ続けますわ。そしてあの方の子をたくさんたくさん産みます。そうすればお姉様と同じになれますもの。お姉様ともっともっと一つになれますもの」
白く滑らかな手が私の顔へと伸びてきた。
身を引こうとしたときにはもう遅い。しっとりと温かい手のひらが、私の手を包み込んでいた。
「お姉様。愛しています」
ぞっと背筋が粟立った。
考えるより先に体が動き、女の手を強く振りほどいていた。
「お姉様……!」
作法を気にする余裕はなかった。
悲鳴めいた女の声を背に、私は全力で駆け出していた。
――それが、ほんの数時間前の出来事だ。
「お姉様」
がりっ。
「お姉様」
がりっ、がりっ。
「お姉様、お姉様、お姉様、お姉様」
がりがりがりがりがりがりがりがりがりがり……
扉はまだまだ掻き毟られる。
香油で磨き銀のやすりで切り揃えた美しい爪は、見る影もなく擦り減りとうに血まみれのはずだ。
逃げ込んだ寝所の扉を押さえつけ、私はなすすべもなく震えていた。
なぜだ。
なぜなのだ。
なぜ私なのだ。
私はただ神の御意思に身をゆだねていたいだけなのに。この仮初めの生が終わるまで清らかなままでいたい、それだけなのに。
「お姉様、お姉様、お姉様、お姉様、お姉様」
耳を塞いでも呼ぶ声は遮れない。
扉を掻き毟る音も絶えず聞こえてくる。
「お姉様、どうしてお逃げになりますの? わたくしがお嫌いになりましたの……?」
問いかける声は初対面のときと何ら変わらぬ可憐さで、それが余計に私の背筋を凍らせた。
「どうか返事をなさって。お姉様……」
――と。
扉を掻く音が、ふいに途切れた。
うって変わって怖いほどの沈黙がやってきた。
「……お姉様」
声が震えながら囁いたのは、どれほど時間が経った頃だったろうか。
「わたくし、お姉様と初めてお会いしたとき、胸の高鳴りを抑えきれませんでしたの」
凪いだ海のように静かな口調に、私は小さく息を呑んだ。
「生まれながらの気品。何をも寄せ付けない凛とした雰囲気。それに何より吸い込まれそうに黒い瞳。確かにわたくしを見ていながらわたくしを映してはいない、いいえこの世の誰一人として映すことのない二つの瞳」
厚い扉を間に隔て、むろん女の顔など見えはしない。
にも関わらず目に浮かぶようだった。潰れた指を意に介すこともなく、夢見るような表情で語るあの女の姿が。
「お姉様。神だけをご覧になり、神とだけ語り合われるお姉様。……あのときからわたくしは、ずっとお姉様だけを見つめてきたのです。お姉様の瞳にわたくしが映ることなど、未来永劫ないと知っていて、なお」
ひくっ、と、しゃくりあげるような声が耳をなぶった。
「ですから、お姉様。……お姉様。受け入れてなどと贅沢は申しません。ですがせめて……こんな拒み方だけは、どうかなさらないで」
涙混じりの声だった。
女は泣いているのだった。
私は呆然と目を見開き、思わず女の名を呼んでいた。
「ヒュッレム……」
「マヒデヴランお姉様」
涙ながらに呼びかけられて――私は抗えなくなった。
押さえ込む手を一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、緩めてしまった。
扉が開いた。
「お姉様」
歓喜に満ちた声が私を包んだ。
血まみれの手が頬に触れ、子を孕んだ胎にするようにいとおしげに撫ぜた。
「お姉様。愛しい、わたくしの愛しいお姉様」
可憐な唇に口を塞がれ、息も呑めずに私は床に押し倒された。
耳元で紡がれる愛の言葉を聞きながら、私の意識は遠のいていった。
「ここを出る?」
「はい」
眉をはね上げる夫に、私は跪いたまま頷いた。
「本気かね」
「はい。お暇をいただきたく存じます」
決意は既に定まっていた。夫に何を言われようと譲るつもりはなかった。
夫……いや、これが容れられれば夫ではなくなる。私と彼との婚姻は解消され、愛妾たちから新たな正妻が選ばれることになるだろう。
彼に仕えるという神の定めたもうた務めからも、これで解放されることとなる。
「惜しいな。せっかく面白くなってきた矢先だったのだが」
夫は自分の髭の先に触れた。
言葉に反して引き止める気はないらしかった。
そうだろう。彼の元には他にいくらでも女がいる。黙っていても後から後から送り込まれてくる。ただ一人の女に執着する理由などないのだ。正妻という立場も長子を産んだという事実も、彼にとっては何の意味もなさない。
「最後に何か望みは?」
「はい」
私は夫を見上げた。
「あの娘を可愛がってやって下さいませ」
「ほう」
面白そうに夫は唇を吊り上げた。
「お前の代わりに、というわけか」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「貴方様に抱かれ、貴方様の子を産むことだけが、今後あの娘にとっては支えとなりましょうから」
私はここを出る。二度と女には会うこともあるまい。
あの女は私を失って狂乱するだろうか。するだろう。せめて私を抱いた夫の腕が、少しでも女を慰められればと思った。
「なぜここから出て行くのか聞いても?」
「あえて問わずとも、貴方様なら命じて聞き出せましょう」
「自分の意思で言わせてこそ面白いと思うのでな。答えたければ答えろ。あの娘が恐ろしかったのか」
私は目を伏せた。
「いいえ」
しばしの間を置いて私は答えた。
「恐れたのはあの娘ではなく別のものです」
「何だ、それは」
かつて夫であった人が重ねて尋ねた。
私は答えなかった。
ただ深く頭を垂れそのまま辞した。
『お姉様』
門を出る間際あの女に呼ばれた気がしたが、私は振り返らなかった。
私は恐ろしかったのだ。
唇を重ねられたあのとき、胸に去来した酔いしれるような快楽が恐ろしかったのだ。
深い淵に引きずりこまれ二度と這い上がれなくなる予感があった。這い上がれなくなっても構わないと本気で思った。
あの感覚が何だったのかは分からない。この先突き詰めて考えることもないだろう。
夫の妻でもあの女の姉でもなくなった今、私の頭の中にあるのはただ一つのことだった。
――この仮初めの生を終え神の前に立ったとき、私はどんな裁きを受けることになるのだろう、と。
『十六世紀のオスマン帝国スルタン、スレイマン1世の正妻マヒデヴラン(ギュルハバル)は、一五三四年に後宮を辞した。
替わって正妻となった愛妾ヒュッレム(ロクセラーナ)はその後、スレイマン一世との間に三男一女を儲ける。そして大宰相イブラヒムの処刑、セリム・バヤズィトらの後継者争いなど、オスマン帝国の没落を招く数々の事件の引き金となるのである――』
ラスト数行があれば解説は不要かとも思ったのですが、力量不足で説明が足りていなかったときのために一応付け足します。
ロクセラーナことヒュッレム・スルタンは、文中にもある通りスレイマン1世の愛妾です。
出身はウクライナの寒村。ヒュッレムは「陽気な」、ロクセラーナは「ロシア人の女」の意。本名はアレクサンドラもしくはアナスタシアといわれていますが定かではありません。なお、ヒュッレムの名をつけたのはスレイマン1世であるとも、彼女をスルタンに献上した大宰相イブラヒムであるともいわれます。
ハレムの女奴隷でありながら正妻ギュルバハルことマヒデヴランを蹴落とし、新たに正妻の座を射止めた女(+スレイマン1世の後継者セリム2世の母后)として有名ですね。
本来は素敵この上ない悪女様なのですが、今回はちょっと解釈を加えて史実とは違った感じにしました。