途中下車のたび
息抜き作品です。
はっきり申し上げます。
あらすじ詐欺の100%ギャグ全振りの短編です笑
地獄の旅と言ったところでしょうか。
汚い話全開なので苦手な方はバック!バック!
新しい事業の入札が無事終わり、営業第一課の橋下はこれからの壮行会も兼ねた飲み会に参加していた。
春の居酒屋はアルコールと揚げ物の匂いが充満し、大学生の新歓や社会人の歓迎会など多種多様な人種が入り乱れたどんちゃん騒ぎだ。
今となっては絶滅危惧種のネクタイを頭に巻いたご機嫌な親父、一升瓶を抱えてイビキをかく若者、手を叩いて笑いっぱなしの若い女性。
昭和から地続きの酒の席であることを痛感していた。
「おう。橋下、今日の入札大変だったな」
橋下に声をかけてきたのは同期入社の久坂部だった。職位は同じであるものの、経理課で働く金勘定に小うるさい人間だ。
「お疲れ、久坂部。座れよ」
「お、悪いな」
そう言って自分の隣のあいた座敷を橋下はニ、三度叩く。勧められた久坂部も座布団に腰掛け手にした瓶ビールを空のグラスの橋下へと注ぐ。
「まあ、飲めよ」
「ありがとう」
グラスを手にして橋下は黄金色の液体が注がれる様を見つめる。手にはガラスコップ越しに冷たい温度を感じ、零れそうな泡に口をつける。
「いやあ、やっぱりうまいなあ。久坂部も飲めよ」
「おお、じゃあ一杯」
半分くらい残っていたビールを久坂部はグッと干し、橋下がその空になったグラスに注ぐ。同じように泡をこぼさないように飲む。
「んん、仕事終わりはこれに尽きるな」
「だよなあ」
二人は他愛ない話をしながらその夜を楽しんでいた。
「――でさあ、あいつのアタマの寝癖がすごくってさあ」
「あはははっ! そりゃあ傑作だなあ!」
酒も進むなか、橋下が新たに頼んだ料理が運ばれてきた。白子の唐揚げだ。
運ばれてきた途端に橋下はその白子に箸を伸ばす。
「ん、これ上手いな。久坂部も食えよ」
橋下は白子の唐揚げを頬張る。独特な柔らかいゴムのような食感がじんわり口の中に広がり、何とも言えない旨味を感じる。若干の生臭さはあるものの、この癖のある味が酒飲みにとってはたまらない。
「いや、俺はやめとくよ。どうもこのぐにぐに感が苦手でさ」
そう言いながら久坂部は白子の唐揚げに添えられてあったカットレモンをヒョイと取り、ビールから鞍替えしたソフトドリンクのコーラにその果汁をしぼる。黒く甘ったるい炭酸の渦に飲み込まれるエキスはコーラに同化していく。
「そうか、これがいいんだけどなあ」
「さすがに食べ過ぎだろ、痛風になるぜ?」
「ははっ、さすがに毎日じゃないから大丈夫だろ」
橋下は周囲を慮る様子も見せずにその白子の唐揚げを一人で平らげてしまった。
やがて宴も終わり二次会に行く者、店の前で駄弁る者、足早に家路につく者との小さな枠組みになっていく。
橋下は薄手のジャンパーのジッパーを首元までしっかりと閉め、ポケットに手を突っ込む。
「結構冷えるなぁ。お前、どうする? 二次会行くのか?」
久坂部はしなしなのコートの内ポケットからマルボロを取り出して、火をつける。百円ライターは何度か火花を散らし、ようやく安定した火を灯す。
「明日、朝イチから支部との経理会議があるからやめとくわ。お前は?」
「俺も明日朝から外回りだからやめとく」
「じゃ、駅まで向かうか」
「おう。その前にちょっと用だけ足してくる」
橋下は一度踵を返し店内の手洗いへと向かう。久坂部は吸い終えたマルボロを携帯灰皿に押し込み新しいもう一本に火をつける。フッーと吹き出す煙は四月の夜空の月明かりと重なっていた。
その二本目を吸い終えた頃に、橋下が帰ってきた。
「すまん。待たせた」
「ちょうどニコチン補充できたから大丈夫だ」
「思ったより個室が混んでてさ。さて、帰るか」
駅までの道のりはそう離れておらず、わずかな沈黙と馬鹿話を繰り返して駅へと着いた。
ごった返す改札前で二人は「じゃあ」「お疲れ」とだけ短いいつもの挨拶を交わし、帰路につく。
このとき橋下は、悪夢の始まりをまだ知る由もなかった。
――翌朝
春の日差しがカーテン越しでもわかるほどに輝いていた。
橋下はもぞもぞっとベッドから手だけ伸ばしてスマホを握る。
「やっべ……寝過ごした……!」
薄い掛け布団を蹴っ飛ばし、手早く寝癖を整えて顔を洗い、シャツに薄手のジャンパーを羽織る。昨日の居酒屋のなんとも言えない臭い匂いがこびりついていた。消臭剤を忘れていたことを思い出すが、このままでは遅刻だ。焦っているせいか身体が熱く、関節もバッキバキだ。
朝飯もとらずにワンルームから勢い良く飛び出す。マンションの三階、二階、一階へと階段を滑るように降り、駅前の信号まで一気に駆けていく。そんなに飲みすぎた記憶はないのだが、橋下は肩で息をしていた。
(よし……なんとかいつも通りの時間か。今日の朝飯はコンビニのサラダサンドだな)
ふと、腹が鳴る。出社前にいつもなら用を足すのだが、そんな余裕が今日はなかった。会社まで我慢の道のりである。
ホームに着く頃には腸の動きも沈静化し、何事もなかったように橋下は整列乗車で車両に乗り込む。車内は新入社員や新高校生と思しき人間で溢れていた。辛うじてつり革を掴み、目を瞑る。
静かな時間。
しかし、これが彼の絶望の『旅』の始まりだった。
橋下に最初の異変が起きたのは、二駅目を過ぎた頃だった。忘れていた便意が襲いかかったのだ。
(あ、これダメなやつだ。次、降りてトイレ行こう……)
三駅目で橋下は一度車両を降りて構内のトイレに入る。幸いなことに個室は空いており、橋下は、難なく用を足すことに成功した。
次の電車に乗り込む。
しかし、乗って五分と経たないうちに今度はムカムカしてきたのだ。
(あれ……なんか気持ち悪いな。また降りるか……)
再び次の停車駅で降りる。今度も個室は空いており、そこで胃の内容物がせり上がり、吐き出す。
「おえぇっ……あー……昨日、やっぱり飲みすぎたかなあ……まさか……な」
昨日の飲み会ではビールをコップ三杯。ハイボール二杯といつもと変わらない酒量だったはずだが、妙な気だるさと調子の悪さが出始めていた。
トイレの洗面所で口をゆすぎ口の気持ち悪さを軽減させる。
「ふう……まあ、行くか」
ホームからは列車の到着を告げるメロディとアナウンスが聞こえた。少しふらつく足取りで階段をのぼり、電車に乗る。
二度あることは三度ある。
橋下は便意と悪心のダブルパンチに襲われていた。薄手のジャンパーの下に着ているシャツは四月だと言うのに汗びっしょりだ。
まずい。
このままでは非常にまずい。
車内の高校生たちの会話だけが妙に耳にうるさい。口を真一文字に結び、括約筋に最大限神経を集中させていく。
呼吸する度に心臓の鼓動が強く脈打ち、胃の中の酸っぱい何かと、大腸の液体にほど近い何かを押し出そうとしていた。ポケットの中に左手を突っ込み、拳を握り締める。まぶたを閉じて、無念無想の境地を橋下は目指していた。
どれほどの時間が経っただろうか。
一分。あるいは一時間。ふと目を開くと車窓からはいつもの銀杏の街路樹が見えた。
会社まであと三駅で、次の停車駅まであと一分足らず。
胃の悲鳴と大腸の葛藤が橋下を苦悶に陥れる。
朝の通勤ラッシュですべてを解き放つわけにはいかない。
橋下は強い意志を持ちながら耐えていた。背中を伝う汗と痛む関節。
尊厳は保てるか。
運命とは残酷だ。
揺れる車両は彼のキャパシティを知ってか知らずか、急停車する。
「ただいま、列車を緊急で停止させる信号を受信し――」
車内アナウンスが無情に鳴り響く。奥歯をかみしめ、右手はつり革が壊れるほどに強く掴む。
限界か――
ここまでなのか。橋下の脳裏にそんな言葉が去来する。視線だけをわずかに動かすと駅のホームが見えていた。
もう、諦めるのか?諦めてしまえば楽になる。橋下の心はその濁流に飲まれそうになる。
しかし、それは決して許されるものではない。社会人として、いや『人』として。
あと。あと少し。
神は彼になんと過酷で孤独な試練を与えているのか。
車内のスピーカーからノイズが流れる。
「お客様にご案内とお詫び申し上げます。安全の確認が取れましたため、運転を再開いたします。大変お待たせいたしました――」
辛うじてまだ耐えられる。
絶望の淵にいた橋下の括約筋であったが、最後の最後まで筋肉は諦めてはいなかった。それは、胃も同じだ。何度も食道に襲いかかる鋭利な酸を押し留めていた。
やがて、橋下を乗せた車両は駅にたどり着く。ここが世界の始まりであり終わりである場所に違いない。
もしもこの世界に可視化できる限界メーターがあるとするならば、きっと彼のメーターは既に振り切っているどころか、壊れているだろう。
しかし、そんな世界の常識さえも打ち破り、彼は耐えた。耐え抜いたのだ。
走るのはダメだ。
一歩、また一歩。確実にその足を進める。
死地の長旅から生還した英雄のごとく、革靴はコンクリートの階段を鳴らす。
もう、そこにある。彼の旅はここで終わりを告げる。
たどり着く。希望の場所。
男子トイレ全個室、修理手配中――
呪詛のような言葉が虚しくA四の張り紙に薄い黒色の文字で踊っていた。
ここまでか。橋下は己の身を呪った。
日夜社会のために働き、貢献してきた人間に対するあまりにもひどい仕打ち。
天を仰ぐ。駅の低い天井が狭く暗い絶望を映すだけであった。旅の終わりは常に残酷なのか。
水の流れる音が聞こえた。
ハッと振り返ると、小さな赤子を抱いたワンピースの女性が真後ろのバリアフリートイレから出てくる。
橋下の目には彼女とその赤子が聖母マリアとキリストに映る。
アヴェ・マリア――
駆け込みながらドアの鍵を閉め、何もかもを解き放った。
ようやく、橋下の長い旅は終わりを告げるのであった。そのバリアフリートイレからは歓びの音が響く。
ありがとう括約筋。ありがとう胃袋。
神は乗り越えられぬ試練を与えはしないのだ。人は全ての試練を乗り越えるために生まれてくるのだ。
もちろん、彼が会社に遅刻したのは言うまでもない。
2026秋の企画「旅」の参加作品です。仕事の合間に息抜きとして書きました。
どうも私は企画に対してひねくれたことしかしない癖があるようで、前回のホラーも天邪鬼丸出しだったと思うのでたまにはキレイな作品(個人的に)も書いてみたいと思っています。




