羅生村の鬼
『羅生村の鬼』
序章 鬼迎えの夜
夜は深かった。
月は雲に隠れ、山々は黒々とした影となって谷を囲んでいる。
松明の火が揺れていた。
燃え上がる赤い炎だけが、闇の中に列を成している。
その先頭には、一人の男が立たされていた。
鬼面を被せられている。
赤黒く塗られた木の面。
裂けたような口。
見開かれた両眼。
男の顔は見えない。
しかし、その震える肩だけは誰の目にも分かった。
広場を取り囲む村人たちは、一言も発しなかった。
静寂の中を風だけが吹き抜ける。
やがて社の前へ進み出た老人が、杖を地面へ突いた。
鈍い音が夜に響く。
それを合図に、村人たちは一斉に礫を握った。
男が身を強張らせる。
老人は低い声で告げた。
――穢れを負う者、ここに在り。
――村の災を背負う者、ここに在り。
そうして松明の明かりの中、鬼面の男を指差した。
次の瞬間だった。
最初の礫が飛んだ。
額へ当たる。
鈍い音がした。
男がよろめく。
続いて二つ、三つ。
小石が肩へ、背へ、脚へと降り注ぐ。
そのたびに村人たちは声を上げた。
「穢れを負うて谷へ帰れ」
礫が飛ぶ。
「二度と日の下へ戻るな」
礫が飛ぶ。
「穢れを負うて谷へ帰れ」
「二度と日の下へ戻るな」
声は次第に大きくなる。
まるで祈りのように。
まるで呪いのように。
男は逃げるように歩き出した。
村人たちが後を追う。
礫が飛ぶ。
罵声が飛ぶ。
鬼面が揺れる。
村の境へ続く細い山道を、男は転びながら進んでいく。
誰一人として助けようとはしなかった。
子供たちでさえ石を握りしめていた。
やがて男は村境へ辿り着いた。
その先は深い森だった。
二度と戻れぬ闇。
二度と名を呼ばれぬ場所。
男は一度だけ振り返った。
鬼面の奥からどのような表情をしていたのか、それは誰にも分からない。
次の瞬間、最後の礫が飛んだ。
鬼面の頬を打つ。
男はよろめき、そのまま闇の中へ消えた。
森が彼を飲み込む。
松明の火だけが揺れていた。
しばしの沈黙の後、老人はゆっくりと社へ向き直る。
そして告げた。
「日の気を迎えよ」
村人たちは深く頭を下げた。
「日の気を迎えよ」
その声は静かだった。
先ほどまでの罵声とはまるで違う。
どこか安堵したような。
何かを確かめるような声だった。
こうして追儺の夜は終わる。
鬼は谷へ追われ、
福は村へ迎えられる。
村人たちはそう信じていた。
――少なくとも、その鬼が再び帰って来るまでは。
第一章 鬼のいる村
私が物集院秋津と出会ったのは、大正十五年の秋であった。
当時の私は二十五歳になったばかりの駆け出しの探偵小説家であり、秋津は全国を渡り歩いては怪談や伝承ばかり蒐集している、どこの大学にも属さない無名の民俗学者だった。
後にその名が民俗学者たちの間で広く知られるようになるとは、この時の私は想像もしていなかった。
まして、その奇妙な男と十年以上にわたり全国各地を旅することになるなど、夢にも思わなかったのである。
事の始まりは、義兄から届いた一通の手紙だった。
十月も半ばを過ぎた頃である。
私は神田の下宿で新作の原稿と格闘していた。
締切は迫っているのに筆は進まない。
机の上には吸殻が山を作り、丸めた原稿用紙が床に散乱していた。
そんな折、一葉館の大家、桐野トメが郵便を持ってきた。
差出人を見る。
岡山県吉備郡。
嶋村秦一郎。
姉の嫁ぎ先であり、地方新聞社の編集長を務める義兄だった。
封を切ると、手紙と共に新聞の切り抜きが一枚落ちた。
私は何気なく記事へ目を通した。
見出しは大きな活字で、
『追儺祭を前に娘失踪』
とあった。
私は思わず煙草を灰皿へ押し付けた。
鬼。
その一文字だけで興味を引かれたのである。
記事によれば、備中の山中にある羅生村という寒村で、若い娘が一人姿を消したのだという。
失踪したのは、村長である吉見源之助の娘。
吉見咲江、十九歳。
村では古くから鬼の伝説が残されており、人々は口々に、
「鬼が攫った」
と噂しているらしい。
私は記事を読み終え、鼻で笑った。
鬼が人を攫うものか。
探偵小説作家としては、あまりにもありふれた話だった。
だが、続いて手紙を読むと少し事情が違っていた。
恒一君
君は以前、怪談や伝承に興味があると言っていたね。
この村はなかなか面白い。
村人たちは本気で鬼を信じている。
若い娘の失踪も鬼の仕業だと騒いでいるそうだ。
もっとも、私にはそうは思えない。
新聞記者をやっていると、ときどき妙な事件に出会う。
これはその手の一つだ。
新作の題材に困っているなら、一度取材してみてはどうかね。
秦一郎
私は椅子へ深くもたれた。
鬼。
山村。
祭。
娘の失踪。
探偵小説の題材としては申し分ない。
何より、締切から逃げる口実にもなる。
私はすぐ原稿を鞄へ押し込み、旅の支度を始めた。
今にして思えば、この時引き返していれば私の人生も少しは平穏だっただろう。
しかし人の運命というものは、案外一枚の新聞切り抜きで決まってしまうらしい。
三日後、私は岡山県へ向かう列車の中にいた。
車窓には秋の山並みが流れている。
向かいの席では老人が鼾をかいていた。
私は義兄から預かった記事を読み返していた。
そして記事の末尾に記された数行へ、再び目を留める。
追儺祭では、鬼面を被った若者が山へ入り、夜明けまで戻らない。
村人はこれを「鬼迎え」と呼ぶ。
私は少し眉をひそめた。
失踪事件よりも、むしろこちらに興味を引かれた。
なぜそんな風習が今も残っているのか。
なぜ村人たちは今なお鬼を恐れているのか。
私はまだ知らなかった。
その謎を、既に私より先に追っている男がいることを。
羅生村には一週間ほど前から、奇妙な学者が滞在していた。
鬼の伝説を調べるためにやって来た男である。
そして後に私の人生を大きく変えることになるその男は――
村人たちから、
「鬼を呼んだ男」
と噂されていた。
第二章 鬼を呼んだ男
羅生村へ辿り着くまでには思いのほか時間が掛かった。
岡山駅からさらに列車を乗り継ぎ、終着駅で降りた後は乗合馬車で山道を進む。
その馬車すら途中で終わり、最後は村人の案内で細い山道を歩かなければならなかった。
十月も末だというのに山あいには薄い霧が漂い、空気は東京より幾分冷たい。
やがて木立が途切れた。
眼下に村が見える。
谷間へ張り付くように家々が並び、その中央には古びた社が建っていた。
案内の男が顎でそれを示す。
「あれが鬼守神社ですよ」
「鬼守神社?」
「村の鎮守でしてな」
男は少し声を潜めた。
「鬼迎えもあそこから始まります」
私は立ち止まった。
「鬼迎え?」
「おや、聞いておりませんか」
「少しだけ」
「追儺祭の時にやるんです」
男はそこで口を閉ざした。
それ以上は話したくないらしい。
私は無理に聞かなかった。
こういう土地では、余所者が急いても良いことはない。
知りたいことは、自分の足で集めればいい。
村へ入ると、思った以上に空気は重かった。
失踪事件の影響だろう。
人々は妙によそよそしく、私を見る目にも警戒が混じっている。
旅人を泊めるための庄屋の離れへ荷物を置くと、私はさっそく聞き込みを始めた。
だが誰もが同じことしか言わない。
娘は鬼に攫われた。
鬼が帰ってきた。
今年の祭は良くない。
そんな話ばかりである。
そして半刻ほど経った頃、私はもう一つの噂を耳にした。
「学者先生のせいだよ」
縁側に腰掛けていた老人が言った。
「学者先生?」
「東京から来た先生だ」
老人は不機嫌そうに吐き捨てた。
「村中を引っかき回しておる」
「どういう方なんです?」
「知らん」
「何を調べているんです?」
「鬼だ」
老人は即答した。
「先生が来てから娘が消えた」
私は思わず眉をひそめた。
短絡的な話だった。
だが噂というものはいつだってそういうものだ。
よそ者。
得体の知れない学者。
鬼の伝承を調べていた男。
その直後に起きた失踪事件。
疑われる理由としては十分だった。
「その先生は今どこに?」
「寺だ」
老人は山の方角を指差した。
「あそこへ籠もっとる」
寺は村外れの斜面に建っていた。
古びた山寺だった。
石段には苔が生え、本堂の屋根もところどころ傷んでいる。
境内へ足を踏み入れると、人の気配はない。
その静けさが妙に気味悪く感じられた。
私は本堂の裏へ回った。
すると蔵の戸がわずかに開いている。
中から紙をめくる音が聞こえた。
誰かいる。
私は戸口から声を掛けた。
「失礼します」
返事はない。
紙をめくる音だけが続く。
「どなたかいらっしゃいますか」
やはり返事はなかった。
仕方なく中を覗き込む。
薄暗い蔵の中央。
積み上げられた古文書の山。
古い鬼面。
埃をかぶった絵巻。
木箱から半ば覗いた祭具。
その中に、一人の男が胡坐をかいていた。
三十前後だろうか。
痩せた体。
黒い背広。
少し伸びた黒髪。
膝の上には古びた帳面が広げられている。
男は私に気付きながらも顔を上げない。
一分。
二分。
三分。
男はひたすら紙を読んでいる。
私は徐々に腹が立ってきた。
「聞こえておられますか」
ようやく男が口を開いた。
「ええ」
私は呆れた。
聞こえていたのか。
「では、なぜ返事を」
「読んでいましたので」
男は平然と言った。
私は言葉を失った。
男はこちらを見た。
細い目だった。
しかしその視線だけは妙に鋭い。
まるで人を見るのではなく、その奥を見透かしているような目だった。
「何か御用ですか」
「折口恒一と申します」
私は名刺を差し出した。
「雑誌に探偵小説を書いております」
男は名刺を受け取らない。
ただ一言、
「そうですか」
と言った。
それだけだった。
私は人生でこれほど会話の成立しない相手に会ったことがなかった。
「あなたが鬼を調べている学者先生ですか」
男はようやく帳面を閉じた。
そして立ち上がる。
思ったより背が高い。
私より頭一つ分は高かった。
「ええ」
男は答えた。
「物集院秋津です」
その時はまだ知らなかった。
村人たちが彼を疑っていることも。
私自身、心のどこかで彼を怪しいと思っていたことも。
そしてこの男が、私とはまったく違うものを見ていることも。
私はただ、
無礼で変わり者の学者に出会った。
その程度にしか思っていなかったのである。
第三章 失われた娘
翌朝、私は村長である吉見源之助への取材を申し込んだ。
秋津も同行すると言い出したが、正直なところ気が進まなかった。
昨日会ったばかりだというのに、この男はどうにも人の神経を逆撫でする。
それでいて当人には全く悪気がないのだから始末が悪い。
だが、本人は当然のような顔で私の隣を歩いていた。
断る理由も見つからず、結局そのまま吉見家へ向かうことになった。
吉見家は村の中心部にあった。
高い石垣と古い門を備えた立派な屋敷である。
かつて庄屋であった家柄だという話も頷けた。
案内された座敷には、五十代後半ほどの男性が待っていた。
村長の吉見源之助だった。
顔色は悪い。
娘の失踪以来、ろくに眠っていないのだろう。
「取材なら構いません」
源之助は疲れた声で言った。
「娘を探してくださるのであれば、なおさらです」
私は頭を下げた。
一方で秋津は、畳の上へ正座すると静かに源之助を見ている。
何を考えているのかさっぱり分からなかった。
「まずお嬢さんについてお聞かせください」
私が尋ねると、源之助は深く息を吐いた。
「失踪したのは三日前です」
「追儺祭の準備中だったとか」
「ええ。鬼守神社で飾り付けをしていたそうです」
その後の話をまとめるとこうだった。
咲江は夕方頃までは友人たちと共に祭の準備をしていた。
しかし日暮れ頃、一人で帰宅したはずが屋敷へ戻らなかった。
村総出の捜索が行われた。
だが見つからない。
足跡も。
遺留品も。
何一つ。
「鬼隠しだと騒ぐ者もおります」
源之助は苦々しげに言った。
「馬鹿げた話です」
私は少し安心した。
少なくとも村長自身は鬼の仕業など信じていないらしい。
だがその時だった。
「鬼迎えは何時に行われますか」
秋津が突然そう尋ねた。
私は思わず顔をしかめた。
今そんな話をする場面だろうか。
娘が行方不明なのだ。
源之助も少し驚いたようだった。
「……祭の話ですか」
「ええ」
「来週末の夜です」
秋津は小さく頷いた。
「鬼面はどちらに保管されていますか」
「神社ですが」
「現在も同じですか」
「そうです」
質問は続く。
鬼面。
祭具。
祭礼の順序。
使われる祝詞。
昔の記録。
失踪した娘の話より熱心だった。
私は次第に苛立ちを覚え始めた。
この男は本当に娘を探す気があるのだろうか。
ようやく話が終わり、屋敷を辞する。
門を出たところで私は堪えきれず口を開いた。
「物集院さん、あなた、本気ですか」
秋津は私を見た。
「何がです?」
「咲江さんですよ」
「ええ」
「行方不明なんです」
すると秋津は少しだけ考えるような顔をした。
「存じています」
私は思わず額を押さえた。
話が通じない。
「なら、なぜ祭の話ばかり」
秋津は平然と答えた。
「失踪には理由があります」
「当然でしょう」
「それを探しているのです」
私は呆れた。
「鬼面の保管場所に、その理由があると?」
秋津は足を止めた。
そして鬼守神社の方角を見た。
「折口君」
「何です」
「人が消える時は理由があります」
静かな声だった。
「ですが伝承にも理由があります」
風が吹いた。
村の上を灰色の雲が流れていく。
「私はそちらが気になるのです」
そう言って歩き出す。
私はその背中を見つめた。
この時の私はまだ知らなかった。
物集院秋津という男が、人探しよりも伝承を優先しているように見えて、その実、人より深く人間を見ていることを。
ただ一つ確かなのは、私はますますこの男を信用できなくなっていた、ということである。
第四章 福の家、鬼の家
翌日、私は秋津と共に村を歩いていた。
咲江の失踪から既に四日。
村中の捜索は続いていたが成果は上がっていない。
鬼の仕業だという噂だけが日ごとに膨らんでいた。
そんな中、私たちは吉見家を出入りしていた青年団長の井上新吉から、村の案内を受けていた。
「羅生村には昔から二つの家があるんです」
新吉はそう言って谷の向こうを指差した。
朝霧の向こうに大きな屋敷が見える。
吉見家とは別の屋敷だった。
「あれが久坂家です」
「吉見家と並ぶ名家だとか」
私が言うと、新吉は曖昧に頷いた。
「昔はそうでした」
「昔は?」
「今は違います」
どこか歯切れが悪い。
私が続きを促そうとすると、秋津が先に口を開いた。
「追儺祭ではどちらの家が主を務めるのですか」
「吉見家です」
新吉は即座に答えた。
「昔からですか」
「ええ」
「久坂家が務めた記録は?」
「聞いたことはありません」
秋津は小さく眉を動かした。
私は見逃さなかった。
この男は何か気になることを見つけると、決まってこの顔をする。
「何か変なんですか」
私が尋ねると、秋津は歩きながら答えた。
「ええ」
「どこがです」
「長く続く祭礼というものは、支配する家が変わることがあります」
秋津は谷を見下ろした。
「百年、二百年と続けば尚更です」
「それで」
「一度も主が変わらないのは少し珍しい」
私は肩をすくめた。
相変わらず興味の方向がおかしい。
だが、新吉の表情は微妙に曇っていた。
「まあ……昔はいろいろあったらしいです」
「いろいろ?」
新吉は周囲を見回した。
誰も聞いていないことを確かめるように。
「吉見と久坂は昔から仲が良かったわけではありません」
そこへ別の声が割り込んだ。
「仲が悪いと言えばいい」
振り向くと、水野清人が立っていた。
無口な村役場の書記である。
「清人さん」
「どうせ村中が知っている話です」
水野は淡々と言った。
「吉見家は村長の家です」
「ええ」
「久坂家はそれに次ぐ家だった」
だった。
その言葉が妙に引っ掛かった。
「昔は対等だったんですか」
「むしろ久坂の方が力を持っていた時代もあります」
水野はそう言った。
だがそれ以上は話さなかった。
秋津が静かに尋ねる。
「今は違うと」
「今は違います」
そこで会話は終わった。
新吉も水野も、それ以上は語ろうとしなかった。
村役場を後にした頃には昼になっていた。
私たちは鬼守神社に向かっていた。
「追儺というのは本来、災厄を外へ追い出す儀式です」
鬼守神社の石段に腰掛けながら、秋津は言った。
「宮中でも行われていました」
「宮中で?」
「ええ」
そう言って懐から手帳を取り出す。
いつの間に書き留めたのか、小さな文字がびっしり並んでいた。
「『続日本紀』にも記録があります」
「また難しい本が出てきましたね」
「奈良時代の史書です」
秋津は気にした様子もなく続けた。
「大晦日に陰陽師が鬼を追う儀式を行う」
「それが追儺です」
「ではこの村の祭もそこから?」
「おそらくは」
秋津はそう言ったが、その顔は納得していなかった。
「何か問題が?」
「問題というより違和感です」
秋津は社殿を見上げた。
「本来の追儺は鬼を追い払って終わります」
「ええ」
「ところが羅生村は違う」
彼は村の方角へ目を向けた。
「鬼を追った後、必ず福を迎える」
「それがおかしい?」
「ええ」
少し考え込み、
やがて手帳をめくる。
「例えば『和漢三才図会』では鬼を陰気の象徴として扱っています」
「陰気」
「災いです」
そしてもう一度言った。
「災いは追い払うものであって、誰かに押し付けるものではありません」
私は首を傾げた。
「押し付ける?」
秋津は小さく頷く。
「この村の言葉を思い出してください」
私は昨夜聞いた話を思い返した。
『穢れを負うて谷へ帰れ』
『二度と日の下へ戻るな』
妙に生々しい文句だった。
「たしかに」
「鬼に向かって言う言葉とは思えません」
秋津は静かに言った。
「まるで人に向けているようだ」
私は思わず笑った。
「鬼も元は人だった、という昔話は多いですよ」
「そうではありません」
秋津の返答は即座だった。
「私が言っているのは伝承ではなく現実です」
風が吹いた。
石段の上を枯葉が転がる。
「追儺祭は鬼を追い出す儀式ではなく」
秋津は呟いた。
「誰かを鬼にする儀式だったのかもしれません」
鬼守神社を後にした私たちは、その足で久坂家へ向かった。
村の西側、小高い丘の上に屋敷はあった。
吉見家に劣らぬ大きさを持つと聞いていたが、実際に目にした印象は幾分違った。
石垣にはところどころ苔が生え、塀も傷んでいる。
庭木の手入れも十分とは言えない。
かつての繁栄の名残はある。
だが今は、その影だけが残されているように見えた。
私は思わず呟いた。
「思ったより寂れているんですね」
秋津は答えない。
屋敷をじっと見上げていた。
応対に出たのは久坂喜右衛門その人だった。
六十を過ぎた老人である。
骨張った顔立ちと鋭い眼光には、いまだ当主としての威厳が残っていた。
「学者先生か」
開口一番、そう言った。
「鬼の話を聞きに来たのでしょう」
「ええ」
秋津は平然と頷く。
「それと失踪事件についても」
喜右衛門は鼻を鳴らした。
「娘なら吉見家の娘でしょう」
その言い方に、私は少し眉をひそめた。
だが秋津は気にした様子もない。
「追儺祭について伺いたいのですが」
「祭?」
喜右衛門の目がわずかに細くなる。
「吉見の祭です」
「久坂家は関わらないと」
「昔は知らん」
老人は吐き捨てた。
「今は吉見の祭です」
そこへ襖が静かに開いた。
和服姿。
どこか疲れた顔をしている。
しかし整った目鼻立ちは美しかった。
「娘の雪乃です」
喜右衛門がぶっきらぼうに紹介した。
「久坂雪乃と申します」
雪乃は丁寧に頭を下げた。
私はその顔を見て気付いた。
ほとんど眠っていない。
目の下にうっすら隈がある。
失踪事件以来、心労が続いているのだろう。
秋津も同じことに気付いたらしい。
「吉見咲江さんとは親しかったそうですね」
雪乃の手が止まった。
少しだけ俯く。
「……はい」
「どのくらい」
「子供の頃からです」
その声はかすかに震えていた。
「咲江さんはどんな方でしたか」
私が尋ねる。
雪乃は小さく笑った。
泣きそうな笑顔だった。
「変わった子でした」
「変わっていた?」
「家で人を見ないんです」
私は首を傾げた。
雪乃は続ける。
「吉見だから。」
「久坂だから。」
「そういうことを考えない子でした」
ふと遠くを見るような顔になる。
「子供の頃からそうなんです」
夏祭りの日だった。
幼い咲江が久坂家の庭を走り回っていた。
本来なら入るべきではない場所だったが、そんなことは気にもしていない。
案の定、石につまずいて盛大に転んだ。
『いたーい!』
大きな声が響く。
膝を擦りむき、涙が滲んでいた。
そこへ修一が慌てて駆け寄る。
『大丈夫か』
『うん!』
咲江は笑っていた。
泣くのかと思えば笑っている。
『痛くないのか』
『痛いよ!』
『どっちなんだ』
『でも転んだら仕方ないもん!』
修一は呆れたような顔をした。
咲江は立ち上がると、今度は修一の袖を引いた。
『修一兄さまも行こう!』
『どこへ』
『あっち!』
指差した先には屋台が並んでいる。
『俺は当主になるんだからそんなところ』
『当主?』
咲江は不思議そうに首を傾げた。
『修一兄さまは修一兄さまでしょ?』
修一が言葉を失う。
『だから一緒に行こう!』
そう言って無邪気に笑った。
その笑顔に抗えず、修一はため息をつく。
『少しだけだぞ』
『やった!』
咲江は両手を上げて喜んだ。
雪乃は小さく微笑んだ。
「兄も昔は、よく面倒を見ていました」
少し間を置く。
「咲江は誰にでも同じでした」
「村長の息子にも」
「農家の子にも」
「駐在さんにも」
「犬にも猫にも」
私は思わず笑った。
何となく想像がつく。
「だから皆、あの子を好きだったんです」
雪乃はそう言った。
だが。
その言葉を聞いた瞬間。
私は修一のことを考えていた。
久坂家の跡取り。
将来を決められた少年。
常に"若様"として扱われる人生。
そんな修一にとって。
咲江だけは違ったのだろう。
久坂家の後継者ではなく。
若様でもなく。
ただの修一として接してくれる。
だからこそ。
彼はあの笑顔に救われ続けていたのかもしれない。
そこへ襖の向こうから足音が聞こえた。
静かな足取りだった。
やがて一人の老人が現れる。
白髪交じりの髪。
痩せた身体。
背筋は年齢の割によく伸びている。
長年この家に仕えてきたことが一目で分かる佇まいだった。
「失礼いたします」
深々と頭を下げる。
「忠蔵です」
喜右衛門が鼻を鳴らした。
「うちの使用人です」
忠蔵は茶の入った急須を持ち、静かに卓へ置いた。
「お客様をお通ししたのは久しぶりでして」
忠蔵は穏やかに笑う。
だが目だけが笑っていない。
秋津が尋ねる。
「長くこちらに?」
「はい」
忠蔵は頷いた。
「先代様の頃からです」
「では追儺祭もご存じですね」
一瞬だった。
老人の表情が固くなる。
「ええ」
「毎年見てまいりました」
それだけ答える。
それ以上語りたくないという態度だった。
その時。
縁側の方から物音がした。
忠蔵がちらりとそちらを見る。
視線の先には修一の部屋があった。
だが老人はすぐに目を逸らした。
「修一様は」
秋津が静かに言う。
「咲江さんのことを心配しておられるようですね」
忠蔵は僅かに目を伏せる。
「優しい方です」
「昔から」
言葉は短い。
だが私には妙に引っ掛かった。
それは評価ではなく、祈りにも似た響きだった。
まるで、
どうかそうであってほしい。
そんな願いを込めているような。
そして縁側から声がした。
「忠蔵」
私たちは振り返る。
一人の男が立っていた。
「兄の修一です」
雪乃が静かに言う。
痩せた男だった。
年の功は私と同じくらい二五歳前後。
頬はこけ、目の下には濃い隈がある。
数日まともに寝ていない顔だった。
「失礼します」
修一は頭を下げた。
「吉見家から話は聞いております」
その声には、妙な疲れが滲んでいた。
「咲江さんの件は残念です」
私が言う。
修一はほんの一瞬だけ表情を曇らせた。
「……ええ」
それだけだった。
だが私は妙な違和感を覚えた。
失踪した娘を心配する顔。
それにしては感情が深すぎる。
まるで身内を失った人間のように見えた。
秋津も修一を見ていた。
細い目をわずかに細めながら。
修一は縁側へ腰を下ろした。
秋の日差しが庭へ射している。
しかし彼の顔だけは妙に暗く見えた。
「村では色々噂されているようですね」
私が言うと、修一は乾いた笑みを浮かべた。
「鬼のことですか」
「ええ」
「この村では昔から何かあると鬼のせいになります」
そう言って視線を庭へ向ける。
「便利なんですよ」
「便利?」
私が尋ねると、
「鬼が悪いことにしておけば済みますから」
修一は静かに答えた。
その言葉に私は少し驚いた。
村人の多くは鬼を信じている。
少なくとも表向きは。
だがこの男は違うらしい。
「では、咲江さんの失踪も鬼ではないと?」
修一はしばらく黙った。
やがて小さく首を振る。
「そんなものがいるなら」
言いかけて止まる。
「……いえ」
それ以上続けなかった。
私は妙な違和感を覚えた。
咲江の名が出るたび、
この男は感情を隠そうとしている。
だが完全には隠し切れていない。
秋津が静かに尋ねた。
「お探しには参加されましたか」
「もちろん」
修一は即答した。
「三日間、山も谷も探しました」
その答えだけは妙に力が入っていた。
「見つかると思いますか」
秋津の問い。
修一は顔を伏せる。
そして低く言った。
「……生きていてほしいとは思っています」
私は返事に詰まった。
その言葉だけは演技に聞こえなかった。
やがて面会は終わった。
私たちは玄関へ向かった。
雪乃と喜右衛門が見送りに出てくる。
その途中。
廊下の角で一瞬だけ襖の奥が見えた。
おそらく修一の部屋だろう。
机が見える。
乱雑に積まれた帳簿。
書類。
そして――
小さな桐箱。
その上に置かれていたものを見て、
私は思わず足を止めた。
赤い縮緬の髪飾りだった。
椿の花を模した古風な細工。
若い女性の持ち物だ。
なぜそんな物が修一の部屋にあるのか。
一瞬だった。
すぐに襖が揺れ、見えなくなる。
「折口先生?」
雪乃の声に我へ返った。
「いえ、何でもありません」
私はそのまま屋敷を後にした。
しばらく歩いた頃だった。
背後から足音が聞こえる。
「先生!」
振り返る。
雪乃だった。
息を切らせながら駆けてくる。
「どうしました」
私が尋ねる。
雪乃は何か言いかけ、
唇を噛んだ。
そして深く頭を下げた。
「お願いします」
震える声だった。
「あの子を」
一度言葉を飲み込む。
「咲江を見つけてください」
顔を上げた雪乃の目には涙が滲んでいた。
「兄は何も言いませんけど……」
そこで初めて声が揺れた。
「兄だって、咲江がいなくなってから一度も眠れていないんです」
秋津は何も言わなかった。
ただ静かに雪乃を見つめていた。
そして、
「生きています」
とだけ言った。
第五章 穢れを負うて
久坂家を辞した頃には、すっかり夕暮れになっていた。
谷の向こうへ陽が沈み始めている。
「修一さんは本当に心配しているようでしたね」
「ええ」
「犯人には見えませんでした」
秋津は少し考えた。
「折口君」
「何です」
「心配していることと犯人でないことは別です」
私は思わず苦笑した。
相変わらず情緒のない言い方である。
しかし否定はできなかった。
秋津は続ける。
「むしろ犯人ほど心配している場合もあります」
「それは物騒な話ですね」
「そうですか」
本当にそう思っている顔だった。
私はため息を吐いた。
「今日は疲れましたね」
「そうですか」
秋津は相変わらずだった。
「私は面白かったですが」
「あなたは古文書さえあれば楽しいんでしょう」
「ええ」
即答だった。
私は思わず笑ってしまう。
一葉館ならこの辺で風呂だろうが、旅先ではそうもいかない。
私たちが泊まっている庄屋の離れには風呂がなかった。
代わりに共同浴場がある。
村外れの小さな湯屋である。
「折口君」
「何です」
「風呂へ行きませんか」
私は立ち止まった。
「あなただって風呂に入るんですね」
「失礼ですね」
「いえ、数日くらい平気そうなので」
秋津は少し考えた。
「三日は問題ありません」
「威張らないでください」
そんな会話をしながら二人で浴場へ向かった。
浴場は石造りの小さな建物だった。
中には幸い誰もいない。
湯気が天井近くに溜まっている。
「生き返りますねぇ……」
私は肩まで湯へ浸かった。
思わず声が漏れる。
向かいでは秋津が桶へ何か載せている。
「何を持ち込んだんです」
「過去帳の写しです」
「風呂で読むんですか」
「乾いていますから」
私は頭を抱えた。
この男は本当にどうかしている。
「そんなに面白いんですか」
「面白いですよ」
秋津は湯気の向こうで言う。
「百八十年前から鬼の記録が突然現れます」
「だから何です」
「それ以前は存在しない」
「それが?」
秋津は紙を閉じた。
「伝承は成長します。」
「成長?」
「人間と同じです」
湯気の向こうで細い目がこちらを見る。
「生まれる前の話を覚えている人はいません。」
「ええ」
「だから後から付け足せます」
私は少しぞくりとした。
「つまり誰かが鬼伝説を作った?」
「そういう可能性があります」
そこで入口の戸が開いた。
「ほう」
聞き覚えのある声だった。
「もうそこまで辿り着かれましたか」
振り返る。
円海和尚だった。
湯桶を抱えたまま立っている。
「和尚」
私は驚いた。
「お風呂へ来られるんですね」
「坊主だって汗をかきますからな」
円海は笑った。
そして湯へ浸かる。
しばらく無言だった。
湯の音だけが響く。
やがて和尚が口を開いた。
「先生」
「はい」
「鬼とは何だと思われますかな」
秋津は少しも考えなかった。
「人です」
和尚は目を細めた。
「やはりそうお答えになる」
「違うのですか」
和尚は答えない。
代わりにゆっくり立ち上がった。
「もし興味がおありなら」
手拭いを肩へ掛ける。
「寺へお越しなさい」
「寺へ?」
私が聞き返す。
「過去帳があります」
和尚はそう言った。
「鬼の記録も残っています」
秋津の目が少しだけ光った。
私はその表情を初めて見た。
獲物を見つけた猟犬のような目だった。
「見せていただけるのですか」
「ええ」
和尚は静かに笑う。
「先生がどこまで辿り着くのか、わしも見てみたくなりました」
そう言って湯気の向こうへ消えていった。
「折口君」
「何です」
「明朝、寺へ行きましょう」
「そうなると思っていましたよ」
こうして私たちは翌朝、長福寺の蔵に保管された過去帳を調べることになるのである。
翌朝。
私たちは長福寺を訪れていた。
鬼守神社の石段よりさらに奥。
杉木立に囲まれた古寺である。
本堂から煙が立ち昇っていた。
円海和尚は縁側に座り、庭を掃いていた。
「来られましたか」
そう言って穏やかに笑う。
だがその目は笑っていない。
秋津は本題から入った。
「過去帳を見せていただけませんか」
和尚の箒が止まった。
「学者というのは厄介ですな」
私たちは寺の蔵の中にいた。
薄暗い。
古い紙の匂いが漂っている。
積み上げられた木箱の前で、秋津は既に夢中になっていた。
私は帳面を一つ開いた。
過去帳だった。
村人たちの名が並んでいる。
没年。
戒名。
続く名前。
続く名前。
ひたすら続く。
「面白いですね」
秋津が呟いた。
「何がです」
「追放者の記録があります」
私は顔を上げた。
秋津は別の帳面を開いている。
「江戸後期です」
「追放者?」
「村から去った人々です」
私は席を移した。
そこには確かに、
死亡者とは別に、
村外へ移った者や追放された者の記録が残されていた。
理由も書かれている。
窃盗。
争論。
放火未遂。
借財。
姦通。
些細なものもある。
しかし。
「鬼」
私は思わず声を上げた。
ある頁にそう記されていた。
鬼として追放。
さらに数十年後。
鬼役。
また別の年。
鬼面を戴き村境へ送る。
「何ですこれは」
私が尋ねる。
和尚は苦い顔をした。
「昔の話です」
それだけだった。
秋津は黙ったまま頁を繰っている。
異様な集中力だった。
やがて動きが止まった。
「おかしいですね」
私はその言葉を聞き逃さなかった。
「何がです」
「鬼です」
秋津は帳面を指差した。
「記録が突然始まっています」
「突然?」
「ええ」
紙をめくる。
「それ以前には存在しません」
さらにめくる。
「百八十年前」
「はい」
「そこで初めて鬼が現れる」
私は首を傾げた。
「伝承ではもっと昔からあったのでは」
「そのはずです」
秋津は静かに言った。
「少なくとも村人たちはそう信じています」
そして別の帳面を開く。
「ですが記録にはない」
沈黙が落ちた。
風の音だけが聞こえる。
「つまり」
私が言った。
「鬼伝説は百八十年前に始まった?」
「少なくとも現在残る形は」
秋津は小さく頷く。
「もっと古い祭を誰かが作り替えた可能性があります」
私は思わず息を呑んだ。
鬼の伝説。
村の歴史。
追儺祭。
それらが同じものではない。
秋津はそう言っているのだ。
その時だった。
円海和尚は一瞬だけ視線を落とした。
僧衣の胸元。
何かを確かめるような仕草だった。
私はその時は気にも留めなかった。
古びた帳面か何かでも持っているのだろうと思ったのである。
だが今思えば、それは妙だった。
和尚は私たちを蔵へ案内して以来、一度もその懐を離そうとしなかった。
まるで何か大切なものを抱えているように。
和尚が低い声で言った。
「先生」
秋津が顔を上げる。
「鬼とは何だと思われますかな」
蔵の奥は薄暗かった。
秋津は少しも迷わなかった。
「人です」
私は思わず和尚を見た。
円海はしばらく黙っていた。
その間にも右手は無意識に懐へ触れている。
そこには、布に包まれた一冊の和綴じ本が隠されていた。
もちろん、その時の私たちは知る由もない。
やがて、
どこか寂しそうに笑った。
「そうかもしれませぬな」
その言い方が妙に引っ掛かった。
まるで、
同意しているようで、
していないような。
さらに言えば、
既に別の答えを知っている者のようにも聞こえた。
私は後になって何度も思い出すことになる。
あの時の円海和尚だけは、
私たちと違う何かを見ていたのではないかと。
長福寺を辞した頃には、既に日が傾き始めていた。
山門を出ると、冷たい風が杉木立を揺らしている。
私は思わず肩を竦めた。
「しかし驚きましたね」
「何がです?」
秋津は平然と歩いている。
「鬼の記録ですよ」
「ああ」
興味は既に別のところへ移ったらしい。
「百八十年前から突然始まる」
秋津は考え込むように言った。
「誰かが伝承を書き換えた可能性があります」
「そればかりですね」
「重要なことです」
そう言って黙り込む。
私は苦笑した。
娘が行方不明だというのに、この男の頭の中は鬼伝説でいっぱいらしい。
その時だった。
山道の向こうから人影が見えた。
杖をついた老人。
その隣には和服姿の女性がいる。
「あれは」
私が呟く。
「村長さんですな」
円海和尚が門前から言った。
近付いてきたのは吉見源之助だった。
そしてその隣にいる女性は。
「妻です」
源之助が静かに言った。
女性は深く頭を下げる。
「吉見登志と申します」
五十歳前後だろうか。
品の良い顔立ちをしていた。
しかしその顔はひどくやつれていた。
目の下には濃い隈があり、頬もわずかに痩せている。
「妻が寺へ参りまして」
源之助が言う。
「毎日です」
私は返す言葉を失った。
無理もない。
一人娘が行方不明なのである。
「咲江さんのために?」
私が尋ねる。
登志は小さく頷いた。
「仏様にお願いしているんです」
そこで言葉を切る。
「生きて帰ってきてくれるように」
風が吹いた。
誰もすぐには口を開けない。
やがて登志が秋津を見た。
「先生だそうですね」
「ええ」
「鬼のお話を調べておられるとか」
「はい」
登志は少しだけ笑った。
それは寂しい笑みだった。
「咲江も昔から好きだったんですよ」
「鬼がですか」
私が訊く。
「ええ」
登志は遠い日のことを思い出すように微笑んだ。
「怖いお話ではなくて」
「どうして鬼になったのかが気になると言っていました」
私は思わず秋津を見た。
秋津も少しだけ意外そうな顔をしている。
「どうして鬼になったのか、ですか」
「ええ」
登志は頷く。
「鬼も最初は人だったのでしょう、と」
その言葉に、私の脳裏へ長福寺の過去帳がよぎった。
鬼役。
追放者。
鬼面を被せられた者たち。
登志は続けた。
「変な子でした」
「吉見も久坂も同じ村人でしょう、とよく言っていました」
源之助が苦笑した。
「理想ばかり言う娘でした」
しかしその顔には僅かな誇らしさも混じっていた。
「久坂の雪乃さんとも仲が良かったそうですね」
私が言う。
「ええ」
登志は頷く。
「修一さんとも」
私は思わず顔を上げた。
「修一さんとも?」
「小さい頃からです」
登志は懐かしそうに笑う。
「咲江が転んで泣いていると、いつも修一さんが助けてくれました」
その言葉を聞いた瞬間、私は久坂家で見た修一の顔を思い出した。
あの疲れ切った表情。
咲江の名が出た時の沈黙。
何かが引っ掛かる。
だがその正体はまだ分からなかった。
「どうか」
登志が静かに言う。
「どうかあの子を見つけてください」
そして深く頭を下げた。
源之助も何も言わなかった。
ただ妻の肩をそっと支えている。
秋津はしばらく二人を見つめていた。
そして静かな声で言った。
「見つけます」
いつものように簡潔だった。
だがその言葉には、不思議と嘘がないように思えた。
登志は小さく頷いた。
その目には、わずかな希望の光が戻っていた。
第六章 鬼塚
翌朝。
私たちは青年団長の井上新吉に案内され、村の北にある山へ向かっていた。
空は朝から曇っている。
風も冷たい。
追儺祭を目前に控えた羅生村は、どこか落ち着かない空気に包まれていた。
「鬼塚というのは本当にあるんですか」
私が尋ねると、新吉は振り返った。
「ありますよ」
「昔からですか」
「さあ」
新吉は少し困ったように笑う。
「物心ついた頃にはありました」
秋津が口を開く。
「誰が建てたかは分からない?」
「聞いたことはありません」
「村の記録にも?」
「ありませんね」
秋津は黙り込んだ。
何か考えているらしい。
しばらく山道を登った頃だった。
前方から男が現れた。
炭俵を背負っている。
日に焼けた顔。
三十前後。
「新吉か」
「栄治さん」
男は私たちを見るなり露骨に顔をしかめた。
「また来たのか」
「誰がです?」
私が尋ねる。
「学者先生だよ」
三宅栄治だった。
青年団の一人であり、村でも特に鬼伝説を信じている男らしい。
「余所者が鬼のことばかり嗅ぎ回っている」
秋津は平然としている。
「興味がありますので」
「興味で済めばいい」
栄治は吐き捨てた。
「先生が来てから娘まで消えた」
場の空気が冷えた。
新吉が慌てて言う。
「栄治さん」
しかし栄治は止まらない。
「鬼を眠らせておけば良かったんだ」
秋津は少し考えた。
「鬼は眠っていたのですか」
私は思わず額を押さえた。
そんな返しをする人間を初めて見た。
「そういう話ではない!」
栄治が怒鳴る。
新吉が間に入り、ようやくその場は収まった。
栄治は忌々しげに私たちを睨み、
山を下っていった。
「悪い人じゃないんですが」
新吉が言う。
「咲江さんの件で神経質になってまして」
「鬼を信じているのですね」
秋津が言う。
「はい」
「本気で」
秋津は何かを書き留めた。
相変わらずである。
さらに山道を進む。
やがて木立が途切れた。
「ここです」
新吉が立ち止まった。
小さな広場だった。
中央に土が盛り上がっている。
古い石塔。
そして苔むした卒塔婆。
「鬼塚です」
私は思わず息を呑んだ。
空気が妙だった。
山の中だというのに不自然な静けさがある。
秋津はすぐ塚へ近付いた。
「折口君」
「何です」
「見てください」
土の一部が崩れている。
そこから木片が覗いていた。
秋津は慎重に掘り出す。
やがて全容が現れた。
鬼面だった。
黒ずんでいる。
しかし裂けるような口と見開いた目ははっきり残っていた。
私は思わず後ずさった。
「気味が悪いですね」
「江戸後期でしょう」
秋津は平然と観察している。
「かなり古い」
裏返す。
突然その手が止まった。
「これは」
鬼面の裏に文字が刻まれていた。
かろうじて読める。
『久坂』
私は思わず顔を見合わせた。
「久坂?」
新吉も驚いている。
「そんなはずは」
秋津は何も言わない。
鬼面を見つめ続けている。
その時だった。
背後から荒い声が飛んだ。
「何をしている」
振り返る。
鋭い目。
三宅栄治だった。
「勝手に鬼塚を荒らしやがって」
新吉が慌てる。
「栄治さん、これは調査です」
「調査?」
栄治は秋津の持つ鬼面を見る。
その瞬間。
本当に一瞬だけ。
顔色が変わった。
私は見逃さなかった。
「その面を返せ」
栄治が言った。
「何故です?」
秋津が尋ねる。
「村のもんだからだ」
「なるほど」
しかし返さない。
栄治の顔が険しくなる。
「先生」
新吉が困った声を出す。
「鬼面の保管先を教えてください」
秋津は全く違う質問をした。
「は?」
「以前はどこにありました」
「知らん」
即答だった。
だた栄治の視線は鬼面から離れない。
私は妙な緊張を感じていた。
その時。
山道の下から別の声が響いた。
「騒がしいな」
制服姿の男が現れる。
森下庄吉巡査だった。
四十過ぎ。
がっしりした体格。
いかにも警官らしい顔立ちだった。
「また先生か」
森下はため息を吐く。
「事件の捜査でもしているつもりですか」
「調査です」
「同じようなもんだ」
庄吉は私たちを見回した。
「鬼なんぞ追い掛ける暇があるなら娘を探してください」
私は思わず苦笑した。
どうやら秋津は村人だけでなく巡査にも評判が悪いらしい。
しかし秋津は鬼面から目を離さない。
「面白いですね」
そう呟いた。
私は鬼面を見る。
裏側には確かに刻まれている。
『久坂』
百年以上前の鬼。
久坂の名。
そして今、失踪事件の渦中にある久坂家。
その時の私は、
この鬼面こそが事件へ繋がる最初の手掛かりだと思っていた。
後になって分かる。
それは確かに手掛かりだった。
だが真実への道ではなく、
私たちを遠回りさせるための、
実に巧妙な偽りの道標だったのである。
秋津は鬼面を布で包んだ。
「持ち帰るのですか」
私は尋ねた。
「ええ」
「警察に渡さなくていいんですか」
「まだ何とも言えません」
秋津は鬼面を見つめた。
「ただ、この面について知っている人物がいる」
「誰です」
「円海和尚です」
秋津はゆっくり立ち上がる。
「長福寺は代々この村の記録を保管しています」
「和尚なら由来を知っているかもしれません」
「今夜にでも確認してみましょう」
山を下り始めた頃だった。
道の脇に三人の若者が立っていた。
青年団の面々である。
その中央にいた男が吐き捨てた。
「また鬼塚へ行ったのか」
新吉が顔をしかめる。
「庄一」
「余所者を連れて歩くなと言っただろう」
男は秋津を睨んだ。
「先生よ」
「鬼塚を掘り返して何が楽しい」
秋津は答える。
「知りたいだけです」
「何を」
「この村が何を恐れているのか」
男の顔がこわばった。
「余計なことを知るな」
「追儺祭が終わったら帰れ」
残りの二人も同調する。
「咲江さんが消えてからおかしくなった」
「鬼まで騒ぎ始めた」
「先生が来てからだ」
秋津は黙ったまま彼らの顔を順番に見た。
「あの人たち」
私は小声で言った。
「本気で鬼を信じてるんでしょうか」
秋津はしばらく考えた。
「信じているのは鬼ではありません」
「え?」
「村です」
そう言って彼は歩き出した。
村へ戻った頃には、空はすっかり鉛色になっていた。
宿へ向かう途中、秋津は何度も鬼面を取り出しては眺めていた。
「そんなに気になりますか」
私が尋ねる。
「ええ」
秋津は答えた。
「この鬼面も気になりますが、それ以上に気になることがあります」
「何です」
「鬼伝説です」
彼は鬼面を包み直した。
「折口君。この村の人々は、まるで昔から鬼伝説があったように話しています」
「違うんですか」
「分かりません」
秋津は少し笑う。
「だから調べるのです」
そしてふと、
「この面については和尚に聞いてみましょう」
と言った。
「円海和尚なら、何か知っているかもしれません」
「今からですか」
「ええ」
秋津は空を見上げた。
「今日はまだ早い」
日が沈み始めた頃。
私たちは長福寺を訪れた。
境内は静まり返っていた。
風が吹くたび、古い松が低く鳴る。
「和尚さん」
私が声を掛ける。
返事はない。
庫裏も暗かった。
「留守でしょうか」
「妙ですね」
秋津は眉をひそめた。
「提灯が点いています」
確かに本堂の裏手に明かりが見える。
誰かいるはずだった。
私たちは裏庭へ回った。
そこにある書庫の戸が半ば開いている。
中は暗い。
嫌な予感がした。
「和尚さん」
再び呼ぶ。
返事はない。
秋津が戸を押した。
ぎい、と古びた音が響く。
荒れていた。
書棚から本が引きずり出されている。
巻物が床に散らばっている。
過去帳も開いたまま投げ出されていた。
「これは……」
私の声が震えた。
何かがおかしい。
誰かが探していた。
何かを。
奥へ進んだ秋津が立ち止まる。
その背中が動かない。
「物集院さん?」
返事がない。
私は横へ回り込み――
息を呑んだ。
円海和尚が倒れていた。
仰向けだった。
目は見開かれている。
胸元の僧衣は血で黒く濡れていた。
私は思わず後ずさる。
「お、和尚さん……」
声が掠れた。
だが秋津は静かだった。
膝をつき、
亡骸の傍らを見ている。
床には一冊の過去帳が落ちていた。
開かれたままの頁。
そしてその上に――
小さな礫が一つ置かれていた。
秋津が低く呟く。
「犯人は」
その声は妙に冷静だった。
「和尚を殺しただけではありません」
「え?」
「何かを持ち去っています」
風が吹いた。
散らばった紙片が音を立てる。
まるで誰かが笑ったように。
秋津は開いた過去帳を見つめていた。
その目は、既に鬼ではなく、
もっと別のものを追っているように見えた。
第七章 鬼迎え
円海和尚が殺された翌日、羅生村は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
朝から人々が寺と神社の間を行き来している。
どこへ行っても同じ話だった。
和尚が殺された。
私は宿の食堂で味噌汁をすすりながら村人たちの噂話を聞いていた。
「やっぱり鬼だ」
「昔から言うじゃないか」
「祭の前に鬼を怒らせると祟るって」
隣で秋津は平然と漬物を食べている。
まるで聞いていない。
「物集院さん」
私は声を潜めた。
「和尚が殺されたんですよ」
「そうですね」
「気にならないんですか」
秋津は湯呑を置く。
「気になります」
「全然そう見えませんが」
「気になるのは和尚その人ではありません」
細い目がこちらへ向く。
「和尚が何を知っていたかです」
私は言葉に詰まった。
「過去帳ですよ」
秋津は続ける。
「鬼の記録は百八十年前から突然始まる」
「そんな話でしたね」
「和尚は知っていました」
そして静かに言う。
「だから殺されたのかもしれません」
その言葉が妙に冷たく聞こえた。
昼過ぎ。
私は祭の準備を取材するため鬼守神社へ向かった。
境内は慌ただしい。
しめ縄が張り替えられ、
提灯が吊るされ、
青年団の若者たちが走り回っている。
「折口先生!」
井上新吉だった。
「祭は予定通り行うんですか」
「中止にした方がいいという声もありました」
新吉は苦笑した。
「ですが村長が日程を遅れさせても続けると」
「和尚が殺されたのに」
「だからこそ、です」
私は返事に困った。
その時。
「やめておけばよかったんだ」
低い声がした。
三宅栄治だった。
鬼面を磨いている。
青い顔をしていた。
「和尚様は鬼を怒らせた」
「本気で言ってるんですか」
私が尋ねる。
栄治は真顔だった。
「先生は信じないでしょう」
「ええ」
「村にはいるんですよ」
鬼を。
私は言葉を失った。
その頃秋津は神社ではなく村役場にいた。
相変わらずである。
祭より帳簿。
人探しより資料。
役場の奥で向かい合っているのは水野清人だった。
「先生は祭に興味がないんですか」
「あります」
秋津は言う。
「しかし祭そのものより、それを維持する金に興味があります」
水野は苦笑した。
「なるほど」
そう言って古い帳面を取り出す。
「こちらを」
秋津が受け取る。
納税記録。
土地台帳。
借入登記。
静かな時間が流れた。
やがて秋津が顔を上げる。
「久坂家ですね」
水野の表情が変わった。
「分かりますか」
「数字が合いません」
秋津は淡々と言う。
「維持できる規模ではない」
水野はしばらく沈黙した。
そして小さく息を吐く。
「先生」
「はい」
「これは私が言ったことにしないでください」
「善処します」
全く安心できない返事だった。
水野は周囲を確認する。
「久坂家は終わっています」
秋津は黙る。
「借金が多すぎる」
「どの程度です」
「来年までもたないかもしれません」
その一言は重かった。
「村の人は知っているのですか」
「古い者は皆」
「吉見家は?」
「当然」
水野は帳簿を閉じた。
そして低い声で続ける。
「昔の話です」
「はい」
「この村では立場を失った家を追放したそうです」
秋津の目がわずかに細くなる。
「鬼ですね」
「そう呼んでいたらしいです」
水野は苦く笑った。
「時代遅れの話ですよ」
そして窓の外を見る。
「ですが」
「もし久坂家が潰れれば」
秋津は黙って続きを待った。
水野は静かに言った。
「村の年寄りは言うでしょう」
「次の鬼だ、と」
夕暮れ。
境内で再び秋津と合流した。
空は赤く染まっていた。
提灯に火が入る。
鬼迎えの前夜。
祭の準備は続いている。
しかし誰も笑っていない。
和尚は死んだ。
咲江は見つからない。
鬼面の裏には久坂の名があった。
そして久坂家は没落寸前。
私は境内を見回した。
まるで村全体が何かを待っているようだった。
鬼を。
あるいは――
鬼になる誰かを。
その時の私はまだ知らなかった。
追儺祭の夜が来る前に、
もう一つの真実が姿を現そうとしていることを。
第八章 谷底の帳簿
円海和尚が殺されてから二日。
羅生村の空気はさらに重くなっていた。
咲江は見つからない。 和尚は死んだ。
その日の朝、秋津は再び村役場へ向かっていた。
私は半ば呆れながら後を追う。
「本当に帳簿がお好きですね」
「好きではありません」
「嘘でしょう」
「嫌いでもありません」
結局好きらしい。
役場の奥で待っていたのは水野清人だった。
その隣には初老の男が立っている。
痩せた体。 深く刻まれた皺。
長年帳場に向かってきた人間独特の姿勢だった。
「忠蔵さん」
久坂忠蔵は静かに頭を下げた。
しかし顔色は悪い。
ここ数日でさらに老け込んだようにも見える。
「帳簿を拝見したい」
秋津は単刀直入に言った。
忠蔵は一瞬だけためらった。
その目が窓の外へ向く。
山の向こうにある久坂家の屋敷を見ているようだった。
「もう隠しても意味はありますまい」
低く呟く。
「わしは久坂家に拾われた人間です」
突然の言葉に私は顔を上げた。
「先代様にお情けをいただきました。使用人上がりの者に久坂の姓までくださった」
忠蔵は苦く笑う。
「本来なら一生かけても返せぬ恩です」
その声音には感謝を通り越した何かがあった。
信仰にも近い執着。
「だから何としても久坂家を残したかった」
皺だらけの手が震える。
「だが……無理でした」
そう言って風呂敷包みを机へ置く。
中から現れたのは古い帳簿だった。
秋津は頁を繰る。
私は横から覗き込んだ。
数字ばかりで頭が痛くなる。
しかし秋津の顔は徐々に険しくなっていった。
「借金はこの額ではありませんね」
忠蔵が顔を上げる。
「やはり分かりますか」
「こちらは表帳簿です」
沈黙。
忠蔵は深く息を吐いた。
「裏帳簿があります」
私は思わず顔を見合わせた。
やがてもう一冊の帳面が差し出される。
数字が違う。
いや。
全く違う。
「これは……」
私の声が震えた。
「粉飾です」
忠蔵が言う。
「十年以上前から続いております」
部屋が静まり返る。
「当主様は認めたがらなかった」
「修一様は立て直そうとされた」
「ですが、もう無理だったのです」
忠蔵は帳簿を見つめる。
まるで誰かの遺影を見るような目だった。
「久坂家は特別でなければならなかった」
誰に言うでもなく呟く。
「この村を導く家でなければならなかった」
その声には奇妙な熱が宿っていた。
「久坂家が終わるなど……あってはならなかったのです」
私は思わず息を呑む。
その言葉は経営者のものではない。
信者の言葉だった。
だが次の瞬間には力が抜けたように肩を落とす。
「それでも終わります」
「来年には競売でしょう」
静かな敗北宣言だった。
私は言葉を失った。
秋津だけが冷静だった。
「修一さんは知っていた」
「ええ」
「全て」
忠蔵は頷く。
「だから眠れなくなったのです」
その頃。
修一の脳裏には何度も同じ光景が蘇っていた。
春先。
まだ咲江が消える前。
二人は村外れの桜を見ていた。
「綺麗ですね」
咲江は笑った。
子供の頃から変わらない笑顔だった。
「そうだな」
修一はその横顔を見る。
「来年も見られますよね」
無邪気な言葉だった。
だが修一は答えられない。
来年。
その頃、久坂家は残っているだろうか。
屋敷は。
土地は。
家名は。
全て失われているかもしれない。
「修一さん?」
咲江が不思議そうに覗き込む。
「どうしたんです」
「いや」
修一は無理に笑った。
「何でもない」
咲江は納得していない顔だった。
そして突然言った。
「私、お父様に話そうと思っています」
修一の心臓が大きく脈打つ。
「何を」
「私たちのこと」
咲江は少し照れながら笑った。
「吉見も久坂も関係ありませんもの」
修一は目を伏せた。
咲江は知らない。
久坂家が既に崖の縁に立っていることを。
自分との未来など存在しないことを。
「咲江」
「はい」
「もし久坂家がなくなったらどうする」
咲江はきょとんとした。
「なくなるんですか?」
「例えばだ」
すると咲江は少し考え、
本当に不思議そうに答えた。
「なくならないでしょう?」
そして笑った。
「だって修一さんがいるじゃありませんか」
修一は何も言えなかった。
その無邪気な一言が、
どれほど残酷だったか。
帳簿を閉じた秋津が立ち上がった。
「折口君」
「何です」
「すこし見えてきました」
細い目が窓の外を見る。
山の向こう。
鬼塚のある方向だった。
「何がです」
私が尋ねる。
秋津は静かに言った。
「咲江さんの失踪です」
「え?」
「そして和尚殺し」
私は息を呑む。
「繋がっているんですか」
「まだ証明はできません」
秋津は帽子を取る。
「ですが」
一瞬だけその目が鋭く光った。
「犯人は鬼を恐れていた」
窓の外で風が鳴る。
「正確には――」
秋津は低く続けた。
「自分が鬼になることを」
その言葉を聞いた瞬間。
私の脳裏に鬼面の裏へ刻まれていた文字が浮かんだ。
『久坂』
そして初めて私は思った。
もしかするとこの事件は、失踪事件などではないのかもしれない。
もっと古く、もっと深い何かが動いているのではないかと。
第九章 鬼隠し
秋津は水野から借り受けた地籍図を広げたまま、宿の机に向かっていた。私は取材帳を閉じ、大きく伸びをする。
「まだ帳面ですか」
「今度は地図です」
「大差ありません」
秋津は答えなかった。しばらくして鉛筆の先が一か所で止まる。
「折口君」
「何です」
「ここに印があります」
地図の端を指差す。
山の西側。鬼塚からさらに奥の区域だった。
「鉱山跡でしょうか」
「そのようですね」
「今は?」
「閉山しています」
秋津は資料をめくった。
「三十年ほど前に廃坑になっています」
私は地図を覗き込む。
鬼塚。山道。谷。そして廃坑。
どこか嫌な感じがした。
私たちは森下巡査を訪ねた。
「今度は何です」
森下は露骨に嫌な顔をした。
秋津は平然としている。
「咲江さん失踪当日の話を聞きたい」
「今さらですか」
「今だからです」
森下は溜息を吐いた。
「新しい証言が一つだけあります」
「証言?」
「炭焼き小屋の老人がな。三日前、山で提灯の明かりを見たと言っている」
「夜ですか」
「夜だ」
私は顔を見合わせた。
誰かが山へ入っていた。
秋津は地図へ目を落とす。
提灯が見えた場所。
鬼塚。
廃坑。
ほぼ一直線だった。
昼頃。
私たちは再び久坂家を訪れた。
玄関先で雪乃が出迎える。
「先生」
その顔色はさらに悪くなっていた。
「兄さんはいません」
「どちらへ」
雪乃は答えなかった。
一瞬だけ迷う。
「……山です」
秋津が顔を上げる。
「毎日ですか」
雪乃は小さく頷いた。
「失踪してからずっと」
私は思わず尋ねた。
「探しているんですよね」
雪乃は返事をしなかった。
その沈黙が妙に気になった。
帰り際。
門の近くで忠蔵と会った。
老人は周囲を見回し、小声で言う。
「先生」
「何でしょう」
「若様をお疑いですかな」
私は息を呑む。
しかし秋津は否定も肯定もしない。
「何故そう思われます」
忠蔵は苦く笑った。
「昔から責任感の強い方でした」
「責任感」
「久坂家を背負い込んでおられた」
老人は少し俯く。
「背負い込み過ぎたのです」
そしてそれ以上は語らなかった。
その夜。
私は一人で取材帳を見返していた。
すると雪乃との会話が脳裏に浮かぶ。
登志の言葉も。
そして修一の名。
不意に一つの情景を想像した。
きっとこんな風だったのだろう。
咲江と修一。
村外れの土手。
「修一さん」
「何だ」
「祭が終わったらお話があります」
咲江は笑っている。
「また難しい相談か」
「違います」
少し照れて、
俯いてから言う。
「嬉しい話です」
修一は何も言わない。
「父もきっと分かってくれます」
「何を」
「私たちのことです」
咲江は本気で信じていた。
人が善意で動けば、
世界は良くなると。
けれど修一だけは知っていた。
久坂家にはその未来がないことを。
翌朝。
秋津は突然言った。
「折口君」
「何です」
「鬼隠しです」
「鬼隠し?」
「そう呼ばれたのでしょう」
机の上には地図が広がっている。
「ですが実際には違う」
細い指が山の西側を指した。
廃坑跡。
「咲江さんは山にいる可能性があります」
私は立ち上がった。
「本当ですか」
「まだ分かりません」
「先生」
「ですが」
秋津は静かに言った。
「犯人が長期間人を隠すなら、ここしかない」
窓の外で風が鳴る。
私は地図の黒い印を見つめた。
鬼塚の奥。
忘れ去られた廃坑。
そこでふと気付く。
鬼塚。
鬼面。
久坂。
失踪。
和尚殺し。
全ての線が、
山の奥へ向かっていた。
そしてその時。
宿の玄関で激しい声が響いた。
「先生!」
駆け込んできたのは井上新吉だった。
顔面蒼白で息を切らしている。
「大変です!」
「どうしました」
「久坂さんが!」
私と秋津は顔を見合わせた。
「久坂修一さんが昨夜から行方不明なんです!」
秋津の目が鋭く細められた。
鬼迎えの夜は、もう目の前まで迫っていた。
第十章 追放された者たち
村はまるで何事もなかったかのように追儺祭の準備を進めていたが、その空気の底には重苦しい緊張が沈んでいた。
長福寺から持ち出された過去帳と古文書は、いま久坂家の離れの一室で秋津と私の前に積み上げられている。
秋津は無言で紙を繰り続けていた。
「まだ何か分かるんですか?」
私が尋ねる。
「分かってきた」
秋津は顔を上げない。
「この村の鬼は、人を喰っていない」
「え?」
「代わりに、人を追い出している」
私は目をしばたたいた。
秋津は一冊の帳面を開く。
「これを見たまえ。百八十年ほど前から突然現れる鬼伝説。その時期と一致しているものがある」
「何です?」
「追放者だ」
帳面には歴代の村人の名が並んでいる。
その横に小さく墨で記された文字。
――穢れ。
――追放。
――村外へ。
同じ記載が何度も現れていた。
「しかし昔の村ではよくある話では?」
「数が異常だ」
秋津は静かに言った。
「しかも追放される家系が決まっている」
私は記録を覗き込む。
井上。
三宅。
森下。
そして見慣れない姓がいくつも並ぶ。
どれも現在は村に存在していない家ばかりだった。
「まさか……」
「鬼とは怪物ではない」
秋津が言う。
「共同体に都合の悪くなった人間へ貼られた烙印だ」
部屋の空気が冷えた気がした。
二人は駐在の森下を伴い、村外れの墓地へ向かった。
長い年月放置された墓石が並んでいる。
「ここは?」
「無縁墓ですよ」
森下が答える。
「昔、村を出された家の墓も混じってるそうです」
秋津は墓石の一つに目を留めた。
苔に覆われているが、かろうじて文字が読める。
森下家。
私は息を呑んだ。
「庄吉さんの?」
「先祖だろう」
その近くにも。
三宅家。
井上家。
同じ姓の墓が並んでいる。
まるで一箇所に集められたかのようだった。
「偶然ではありませんね」
「うむ」
秋津は石塔を見上げた。
「追放された者たちは死んでも村の中心には葬られなかった」
その夜。
青年団の詰所で井上新吉が酒を飲んでいた。
「だから言っただろう」
新吉は苦々しく言う。
「昔からそうなんだよ」
「何がだ」
栄治が尋ねる。
「井上も三宅も森下も、所詮は鬼の血筋だってさ」
部屋が静まり返る。
私は耳を疑った。
「本気で言っているんですか」
「俺が言ったんじゃねえ」
新吉は吐き捨てた。
「爺さんどもが言ってたんだ」
彼は笑った。
だがその笑いには怒りが混じっていた。
「子供の頃から何度聞いたか分からねえよ」
栄治が俯く。
庄吉も黙り込む。
誰も否定しなかった。
それが事実だったからだ。
帰り道。
山の中の細い道を歩きながら私は言った。
「つまり鬼伝説は、差別のために使われたということですか」
「そこまではまだ断定できない」
秋津は答えた。
「だが一つ言える」
「何でしょう」
「鬼は村の外にいたのではない」
秋津は暗い山を見た。
「村の中にいた」
風が木々を鳴らす。
遠くで祭囃子の練習の音が聞こえてきた。
追儺祭はもう目前だった。
その時だった。
秋津の足が止まる。
「どうしました?」
私が尋ねる。
秋津は一本の古い石碑を見つめていた。
半ば土に埋もれた石碑。
そこに刻まれていたのは――
「鬼塚再建 明治二三年」
という文字だった。
私は眉をひそめる。
「鬼塚はもっと古いものでは?」
「そのはずだ」
秋津の目が鋭くなる。
「だが明治二三年に建て直されている」
「何かおかしいんですか」
秋津は石碑の裏を指差した。
そこには建立者の名が刻まれていた。
久坂忠蔵。
私は凍りついた。
それは先日会った、久坂家の番頭の名だった。
「そんな……」
「ようやく見えてきたよ、折口君」
秋津は静かに言った。
「失踪事件、和尚の死、鬼伝説――すべてを結ぶ糸が」
その表情には確信が宿っていた。
そして山の闇の向こうでは、追儺祭の太鼓が鳴り続けていた。
まるで村そのものが、彼らを真実へと誘うかのように。
第十一章 山の鬼
追儺祭を翌日に控えた夜。
山には濃い霧が立ち込めていた。
秋津と私は提灯を手に、鬼塚の裏手に広がる山道を進んでいた。
足元には獣道のような細い道が続いている。
「本当にこの先なんですか」
私は息を切らせながら尋ねた。
「恐らくね」
秋津は前を見据えたまま答えた。
「鬼塚の位置、失踪時刻、古地図に残る坑道の位置。すべてが一致する」
風が吹く。
木々のざわめきがまるで誰かの囁きのようだった。
「しかし修一君が犯人だというのは、まだ信じられませんよ」
「私も残念に思っている」
秋津は静かに言った。
「だが事実は感情では変わらない」
しばらく進むと、崖下に黒い穴が見えた。
廃坑だった。
入口は草木で隠されている。
知らなければまず気付かない。
秋津は提灯を掲げた。
「ここだ」
二人が坑道へ入ろうとした時だった。
「待ってください!」
背後から声が飛んだ。
振り向くと森下巡査が駆けてくる。
制服は泥だらけだった。
「森下さん?」
「駐在さんから連絡を受けました。危険ですから私も同行します」
森下は息を整えながら言った。
「それに……」
一瞬躊躇う。
「俺もあの子を助けたい」
秋津は頷いた。
「来てください」
三人は坑道の奥へ進んだ。
内部は湿気に満ちていた。
天井から水滴が落ちる。
ぽたり。
ぽたり。
不気味な音が響く。
やがて坑道が広い空間に変わった。
その時。
「……ん」
かすかな声。
私が提灯を向ける。
「誰かいる!」
三人は駆け寄った。
岩壁の脇に少女が横たわっている。
手足を縛られていた。
「咲江さん!」
私が叫ぶ。
吉見咲江だった。
顔色は悪いが生きている。
森下が急いで縄を切った。
「大丈夫か!」
「……森下さん……?」
咲江はゆっくり目を開いた。
その瞬間、私は胸を撫で下ろした。
助かったのだ。
だが。
奥から足音が響いた。
ざり。
ざり。
三人が振り向く。
暗闇の中に一人の男が立っていた。
久坂修一だった。
手には鬼面が握られている。
「修一君……」
私は呟いた。
修一は疲れ切った表情で笑った。
「やっぱり来たか」
森下が前へ出る。
「久坂修一。吉見咲江さん誘拐の容疑で逮捕する」
修一は力なく首を振った。
「もう終わりだよ」
誰も動かなかった。
坑道の中に静寂が落ちる。
「なぜだ」
秋津が言った。
修一は鬼面を見つめた。
「分からないか」
その声は震えていた。
「久坂家は終わってたんだ」
私は息を呑む。
「借金だらけだった。家も土地も失う寸前だった」
「だから咲江さんを?」
「違う!」
修一が叫ぶ。
その声は悲鳴に近かった。
「俺はあいつが好きだったんだ!」
静寂。
修一の肩が震えている。
「だけど無理だった」
掠れた声が続く。
「吉見家はこれからも栄える。久坂家は沈む」
「……」
「結婚なんて出来るわけがない」
修一は笑った。
壊れたような笑みだった。
「だから全部終わらせようと思った」
「終わらせる?」
秋津が問う。
「鬼を作るんだよ」
修一は答えた。
「昔みたいに」
私の背筋が冷たくなる。
「祭りの日に咲江を見つけさせるつもりだった」
「何のために」
「鬼隠しだ」
修一は鬼面を握り締めた。
「村人はまた鬼伝説を信じる。誰も本当のことなんか見ようとしない」
「そして久坂家の問題から目を逸らさせる」
秋津が静かに言った。
修一は答えなかった。
それが答えだった。
秋津が一歩前へ出た。
「修一君」
「……」
「君は間違えた」
修一は笑う。
だがその目から涙が溢れていた。
「分かってるよ」
「君は咲江さんを守ろうとしたつもりだった」
「そうだ」
「だが君がやったことは、彼女を傷付けただけだ」
長い沈黙。
やがて修一は鬼面を落とした。
乾いた音が響く。
森下が近づく。
修一は抵抗しなかった。
「もう終わりだ」
手錠が掛けられる。
そして初めて。
修一は咲江を見た。
「……悪かった」
咲江は何も言わなかった。
ただ悲しそうに修一を見つめていた。
坑道を出た時には夜が明け始めていた。
東の空が白んでいる。
救出された咲江は毛布に包まれ、森下巡査の車のそばで休ませられていた。
「咲江!」
悲鳴のような声が響く。
振り返ると、坂道を駆け上がってくる人影があった。
吉見 源之助と吉見登志だった。
登志はよろけるように咲江のもとへ駆け寄る。
「お父さん、お母さん……」
咲江が小さく笑う。
次の瞬間、登志は娘を強く抱き締めていた。
源之助も二人を抱き寄せる。
「よかった……」
それ以上は言葉にならなかった。
肩を震わせ、何度も娘の名を呼ぶ。
咲江も黙ったまま母の背に腕を回している。
その様子を見ながら、修一は少し離れた場所で俯いていた。
両手を縛られ、地面に座り込んでいる。
その時だった。
「先生」
静かな声がした。
登志である。
咲江のそばを離れ、こちらへ歩いてきていた。
目元はまだ赤い。
しかし長福寺で会った時とは別人のような顔をしていた。
秋津が振り返る。
「何でしょう」
「長福寺でお会いした時のことを覚えておられますか」
「ええ」
秋津は頷いた。
登志は少し笑う。
「私はあの日、先生を見て不思議に思ったんです」
わたしは顔を上げた。
「不思議?」
「はい」
登志は秋津を見つめる。
「先生は鬼を調べに来たと聞いていました」
「ですから最初は学者先生だと思っていたんです」
少し言葉を選ぶように間を置く。
「ですが違いました」
「違う?」
登志は静かに頷く。
「先生は咲江の話を聞いている時、一度も死んでいるとは考えておられなかったでしょう」
その場が静まり返った。
秋津は何も答えない。
登志は続けた。
「希望を持たせる言葉もありませんでした」
「慰めもありませんでした」
「ですが」
そこで柔らかく微笑む。
「諦めてもいませんでした」
私は思わず秋津を見る。
秋津は少し困ったような顔をしていた。
「私は母親です」
登志の声は穏やかだった。
「だから分かりました」
「ああ、この人は探してくれるのだと」
「生きているものとして探してくれるのだと」
長福寺の山門でのやり取りが脳裏によみがえる。
娘の無事を願う母親。
そして秋津はただ一言、
『見つけます』
と答えた。
それだけだった。
だが登志には十分だったのだろう。
「ですから」
登志は深く頭を下げた。
「私は先生の言葉を信じることができました」
「ありがとうございました」
秋津はしばらく黙っていた。
やがて静かに言う。
「私は何もしていません」
「そんなことはありません」
登志は首を振った。
「先生は咲江を探してくださいました」
「それだけで十分です」
秋津は返す言葉を失ったようだった。
こういう場面で黙るのは珍しい。
登志はもう一度頭を下げる。
「本当に、ありがとうございました」
「先生」
低い声がした。
源之助である。
いつの間にか咲江の傍を離れ、こちらへ歩いてきていた。
頑固な村長らしい顔は影を潜めている。
ただ一人の父親の顔だった。
「わしは正直、諦めかけておりました」
源之助は苦く笑う。
「村の人間の前では強がっておりましたがな」
視線を娘へ向ける。
毛布に包まれた咲江は登志にもたれ、疲れ切った顔で座っている。
「もう駄目かもしれんと何度も思いました」
源之助は深く頭を下げた。
「娘を見つけてくださり、本当にありがとうございました」
秋津は困ったように帽子のつばへ手をやった。
「礼を言われることではありません」
「いいや」
源之助は首を振る。
「先生がおらねば、わしらは鬼に娘を奪われたと思い込んだままだったでしょう」
そこで小さく笑う。
「しかし先生は最初から鬼より人を見ておられた」
秋津は何も答えなかった。
源之助はそれ以上言わず、再び咲江のもとへ戻っていく。
登志ももう一度頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
朝日が山の端から差し始める。
その光の中で、二人は娘の待つ場所へ戻っていった。
秋津はしばらくその背中を見送る。
私はぽつりと呟いた。
「終わったんですね」
だが秋津は首を振った。
「いや」
「え?」
「まだ終わっていない」
秋津は山の頂を見上げた。
「修一君は誘拐犯だ」
「はい」
「しかし円海和尚を殺した犯人ではない」
私は息を呑んだ。
確かにそうだった。
修一は誘拐を認めた。
だが和尚殺しについては一言も話していない。
秋津の目が鋭くなる。
「真の鬼は、まだ村の中にいる」
遠くから追儺祭の太鼓が聞こえてくる。
祭りの日が始まろうとしていた。
そして秋津は、最後の真実へ辿り着こうとしていた。
第十二章 追儺の鬼
追儺祭の夜。
村の広場には篝火が焚かれ、鬼面を手にした若者たちが集まっていた。
だが祭は始まらない。
村人たちの前には、駐在の森下巡査、そして久坂忠蔵ら有力者たちが並んでいた。
中央に立つのは物集院秋津である。
私は、その異様な静けさを忘れることができなかった。
秋津が口を開く。
「まず、吉見咲江さん失踪事件についてお話ししましょう」
広場がざわめく。
修一は警察に挟まれ、うつむいていた。
「誘拐そのものは久坂修一君による犯行です」
誰も反論しない。
「咲江さんは鬼塚の裏手から廃坑へ運ばれました。祭りの準備で村人の目が祭場へ集まる時間を利用したのです」
秋津は続ける。
「鬼隠しに見せかけるためでした」
村人の顔色が変わる。
「しかし、修一君の真の目的は殺害ではありません」
修一がゆっくり目を閉じる。
「久坂家を救うためだったのです」
ざわめきが起こる。
久坂忠蔵が険しい顔になる。
秋津は帳簿を掲げた。
「これは久坂家の帳簿です」
私は息を呑んだ。
「長年にわたる粉飾決算が記されています」
村人たちがどよめく。
「実際には久坂家はすでに破綻寸前でした」
その言葉は雷鳴のように響いた。
「土地も財産も失われる寸前だった。にもかかわらず、村の支配者であり続けるため虚偽の帳簿を作り続けていたのです」
忠蔵が震える声で言った。
「証拠はあるのか」
「あります」
秋津は静かだった。
「そして円海和尚もその事実に気付いていました」
広場が静まり返る。
「和尚は過去帳を調べるうちに、久坂家の秘密に近づいた」
忠蔵の顔が蒼白になる。
「だから口封じされたのです」
誰かが息を呑んだ。
森下が前へ出る。
「久坂忠蔵殿。円海和尚殺害の容疑でお話を伺います」
「待ちなさい」
秋津が静かに言った。
森下が足を止める。
「もう一つ、まだ説明が残っています」
秋津は忠蔵を見た。
「あなたが寺から持ち去ったものです」
忠蔵の身体がびくりと震えた。
「何のことだ」
「円海和尚は亡くなる直前まで蔵の古文書を調べていた」
秋津はゆっくり続ける。
「古い記録は数多く残されていましたが、一つだけ不自然な空白がある」
忠蔵は黙ったままだった。
「和尚は何かを見つけた」
「この村の追儺祭の起源に関わる文書です」
ざわりと広場が揺れる。
「そして、その文書は今ここにない」
「……」
「帳簿ではありません」
「金でもありません」
「村の歴史そのものです」
忠蔵の額を汗が伝う。
「百八十年前」
「追儺祭が始まった理由」
「吉見家と久坂家の関係」
「鬼役が生まれた経緯」
秋津の声音は静かだった。
だが一歩も逃がさない。
「それらを記した古文書を、あなたは持ち去った」
「違う……」
忠蔵が掠れた声で言う。
「違わない」
秋津は首を横に振った。
「もし違うなら、なぜ和尚は殺されたのです」
沈黙。
「久坂家の粉飾だけなら、あなたは殺人まで犯さなかったでしょう」
忠蔵の肩が震える。
「和尚はもっと大きな秘密を見つけた」
「やめろ……」
「だから」
秋津は静かに告げた。
「あなたが他の誰かの目につくかもしれないような場所にそれを置いておけるわけない」
「いまもお持ちなんでしょう」
「その文書を出してください」
広場が静まり返る。
「この村で最初に鬼が生まれた理由が、そこに書かれているのでしょう」
長い沈黙。
やがて忠蔵は力なく笑った。
「さすが学者先生だ」
その声には敗北が滲んでいた。
震える手が懐へ伸びる。
ゆっくりと取り出されたのは、布に包まれた和綴じの古書だった。
「和尚様も同じところまで辿り着いた」
忠蔵は古書を見つめる。
「だから、わしは恐ろしくなった」
「久坂のために守ろうと思った」
「だが違った」
力なく首を振る。
「守っていたのは真実ではなく、嘘の方だった」
忠蔵は布包みを秋津へ差し出した。
秋津はそれを受け取る。
そして初めて表紙を見る。
掠れた墨文字が、篝火の明かりに浮かび上がった。
『備中国鬼守縁起』
秋津の目がわずかに細くなる。
「これが……」
百八十年隠され続けた秘密だった。
秋津はゆっくり村人たちを見渡した。
「しかし、皆さん」
その声は静かだった。
「本当に考えるべきはここからです」
誰も言葉を発しない。
「鬼とは何だったのか」
篝火が揺れる。
追儺祭の鬼面たちが赤く照らされた。
秋津は古びた書物を開いた。
先ほど忠蔵から受け取ったものだった。
表紙には『備中国鬼守縁起』と記されている。
秋津は数頁をめくり、内容を確かめるように目を落とした。
そして顔を上げる。
「私はこの村の古記録を調べました」
広場を見渡しながら言う。
「寺の過去帳」
「村役場の古文書」
「旧家に残された覚書」
「この書物のように露骨なものはありませんでした」
秋津は『備中国鬼守縁起』を軽く掲げた。
「ですが」
「ところどころに、先人たちの無念や後悔が残されていた」
私は秋津の横顔を見る。
その目はいつになく厳しかった。
「現在確認できる追儺祭の記録は約百八十年前から始まっています」
村人たちが顔を見合わせる。
「それ以前の記録は存在しません」
ざわめきが広がった。
「ですが羅生村そのものは、もっと古い」
秋津は続ける。
「つまり追儺祭は、この村と共に始まった祭ではない」
「ある時期に突然始まった祭なのです」
静寂。
誰も声を出さなかった。
「そして私はもう一つ奇妙な事実を見つけました」
秋津は谷の向こうを見た。
闇の中に久坂家の屋敷が見える。
「当時の記録には、吉見家と久坂家の争いが断片的に残されていました」
その瞬間。
村人たちの間に緊張が走る。
「百八十年前」
「羅生村では村の主導権を巡る争いが起きた」
「勝ったのは吉見家」
「負けたのは久坂家です」
ざわめき。
思わず声を上げる者もいた。
「もちろん記録は曖昧です」
「ですが、この縁起書を読んで私は確信しました」
秋津は頁を閉じた。
「最初の追儺祭は祭ではなかった」
風が吹く。
篝火が大きく揺れた。
「それは政治だったのです」
誰も動かない。
「敗者となった久坂家へ」
「穢れを負う鬼の役目を押し付けた」
忠蔵が顔を上げる。
「そして勝者となった側は」
「その出来事を祭として定着させた」
「そんな馬鹿な……」
誰かが呟く。
秋津は静かに続ける。
「最初は一度だけの出来事だったのでしょう」
「ですが続けなければならなくなった」
「始まりの理由を知られてはいけなかったからです」
「一年後も」
「十年後も」
「五十年後も」
「百年後も」
「祭を続ければ、やがて誰も疑わなくなる」
「そうして人々は忘れたのです」
「最初に鬼になった人々が、誰だったのかを」
闇の向こうの久坂家へ視線が向く。
「最初の鬼は怪物ではありません」
「久坂家でした」
誰も声を出さなかった。
「やがて鬼の制度は村に根付く」
「久坂家だけの話ではなくなった」
「井上家」
「三宅家」
「森下家」
「その他の家々」
「村に都合の悪い者」
「貧しい者」
「はみ出した者」
「そうした人々は鬼と呼ばれ」
「穢れとされ」
「共同体の外へ追いやられていった」
秋津は『備中国鬼守縁起』を閉じた。
「つまり」
「鬼は最初から存在しなかったのです」
「鬼とは制度です」
「追放のための仕組みです」
「人を鬼に変えるための言葉です」
夜風が吹く。
鬼面が揺れる。
まるで笑っているようにも見えた。
「そして百八十年の間」
「皆さんはその鬼を信じ続けた」
「自分たちで作った鬼を」
広場は静まり返っていた。
「追儺祭とは何だったのか」
秋津は静かに結論を告げる。
「それは鬼を追う祭ではありません」
「人間を鬼にする祭でした」
風が吹く。
篝火がぱちりと音を立てた。
「これが」
秋津は鬼面を見つめた。
「追儺の鬼の正体です」
第十三章 鬼にされた人々
翌朝。
修一は駐在所で取り調べを受けていた。
秋津と私も同席している。
長い沈黙の末。
修一が口を開いた。
「分かってたんです」
掠れた声だった。
「何がですか」
私が尋ねる。
修一は苦笑する。
「久坂家は終わる」
窓の外を見る。
「父も祖父も隠してたけど、俺には分かった」
「借金ばかりだった」
「もう支配者ではいられない」
沈黙。
修一は続けた。
「だから怖かった」
その目には涙が浮かんでいた。
「今度鬼になるのは俺たちだった」
私は言葉を失う。
「昔は他の家が鬼だった」
「井上も」
「三宅も」
「森下も」
「でも久坂が落ちれば次は久坂だ」
修一は俯いた。
「誰かが鬼にならなきゃ村は続かないんです」
「そう思っていたのかね」
秋津が静かに尋ねる。
「はい」
「だから鬼隠しを作ろうとした」
修一は泣いていた。
「伝説を復活させれば村は変わらないと思った」
だがそれは幻想だった。
百八十年以上続いた悪習を守ろうとした若者の悲しい誤りだった。
しばらく沈黙が続く。
やがて私が口を開いた。
「忠蔵さんは……どうして和尚さんを殺したんでしょう」
修一の肩が震えた。
だが答えたのは秋津だった。
「久坂家のためでしょう」
静かな声だった。
「忠蔵氏は久坂家を愛していた」
修一が顔を上げる。
秋津は続けた。
「血筋ではない」
「元は使用人です」
「番頭として久坂家に仕え、その功績を認められて久坂姓を許された」
「だからこそ、あの人にとって久坂家は人生そのものだったのでしょう」
修一はゆっくり頷いた。
「忠蔵はいつも言ってました」
『若様が久坂家を継ぐのです』
『若様が村を守るのです』
『若様こそ久坂家の未来です』
「俺より忠蔵の方が久坂家のことを考えてた」
秋津は目を閉じる。
「そして鬼守縁起を読んでしまった」
その言葉に修一は拳を握り締めた。
鬼守縁起。
久坂家の恥部。
村が隠してきた歴史。
「そこには追儺祭の真実が記されていました」
秋津が言う。
「久坂家は鬼退治をした英雄ではない」
「百八十年前の権力争いで敗れ、鬼の役目を押し付けられた最初の家だった」
私は息を呑む。
皮肉だった。
村を支配した久坂家こそ、最初に鬼へ落とされた家だったのである。
「忠蔵氏は受け入れられなかったのでしょう」
秋津は続けた。
「生涯を捧げた家の始まりが、そのようなものであったことを」
修一は俯いた。
「和尚は公表しようとしていました」
「村人たちへ」
「鬼守縁起の内容を」
「追儺祭の真実を」
「久坂家の始まりを」
沈黙。
「だから忠蔵氏は和尚を殺した」
秋津の声は静かだった。
「真実を守るためではない」
「久坂家を守るためです」
修一の頬を涙が伝う。
「馬鹿だ」
絞り出すような声だった。
「そんなもの守ったって」
「もうどうにもならなかったのに」
「それでも忠蔵は……」
言葉が続かない。
その時だった。
これまで黙っていた森下巡査が口を開いた。
「若様」
修一が顔を上げる。
「忠蔵は捕まった後も、お前さんのことばかり気にしていたぞ」
部屋が静まり返る。
「若様に手を出すな」
「若様は悪くない」
「全部わしがやった」
「そう言ってな」
森下は少し苦い顔をした。
「何度も同じことを」
修一は何も言えなかった。
ただ唇を噛む。
「最後まで」
森下は続ける。
「久坂家の番頭だったよ」
修一は顔を覆った。
肩が震えている。
嗚咽だけが部屋に響く。
秋津はそれを静かに見つめていた。
「忠蔵氏も」
やがて秋津が言った。
「君も」
修一が顔を上げる。
「鬼になったわけではありません」
静かな声だった。
「家に縛られた」
「村に縛られた」
「過去に縛られた」
「そして、自ら鬼にならねばならないと思い込んだ」
一拍の沈黙。
秋津は窓の外へ視線を向けた。
「私はこの村に鬼などいなかったと思っています」
誰も口を開かない。
「いたのは」
秋津は静かに言った。
「鬼にされた人々です」
夕暮れ。
忠蔵は岡山署へ移送されることになった。
修一もまた別室へ連れて行かれる。
二人が言葉を交わすことはなかった。
長年仕えた男と。
長年守ろうとした若者。
その背中だけが、それぞれ別の方向へ消えていった。
最後の追儺祭の準備は取りやめとなった。
鬼面は倉庫へ戻される。
広場は静かだった。
誰も祭を続けようとは言わない。
篝火も。
太鼓も。
囃子もない。
百八十年以上続いた祭は、その年初めて行われなかった。
村人たちはただ黙って広場を見つめていた。
鬼が消えたからではない。
鬼が初めからいなかったことを知ってしまったからだ。
そして。
自分たちこそが、その鬼を作り続けていたことを知ってしまったからだった。
十四章 羅生村の鬼
秋津と私は村を去る前に広場へ立っていた。
集まった村人たちは不安そうな顔をしている。
誰かが尋ねた。
「先生」
「結局、本当に鬼はいたんでしょうか」
沈黙。
すべての視線が秋津へ向けられる。
秋津は静かに答えた。
「鬼はいませんでした」
村人たちは安堵した。
肩の力が抜ける。
長年恐れてきた怪異は存在しなかった。
それが証明されたのだ。
しかし秋津は続けた。
「ただし」
再び静寂が訪れる。
「鬼にされた人々はいました」
誰も動かない。
「この村は百年以上、鬼を作り続けてきた」
井上新吉が顔を伏せる。
三宅栄治も。
森下巡査も。
代々その役目を押し付けられてきた家々だった。
「鬼とは怪物ではありません」
「恐怖でもありません」
「共同体が生み出した犠牲者の名前です」
風が吹く。
篝火の跡に灰が舞った。
「妖怪は存在しませんでした」
「ですが、人が人を鬼にすることはあります」
誰も言葉を発しなかった。
それこそが最も恐ろしい真実だったからである。
やがて秋津は脇に置かれていた一つの木箱へ手を伸ばした。
中には、あの鬼面が納められている。
追儺祭で使われ続けてきた久坂の鬼面。
百年以上、この村の恐怖の象徴だった。
村人たちの間に緊張が走る。
秋津はしばらく面を見つめていた。
そして木箱を閉じる。
「これは村のものです」
静かな声だった。
「先生が持って行かれるのでは……」
誰かが尋ねた。
秋津は首を横に振る。
「これは貴重な民俗資料です」
「そして皆さん自身の歴史でもある」
村人たちは顔を見合わせた。
秋津は続ける。
「燃やすのも自由です」
「保管するのも自由です」
「ただし忘れないでください」
その視線が鬼面へ向けられる。
「これは鬼の顔ではありません」
「皆さんが百年以上見続けてきた、自分たち自身の顔です」
誰も反論しなかった。
村人たちは黙って鬼面を見つめる。
その表情は恐怖ではなく、後悔に近かった。
やがて修一を乗せた警察車両が村を去っていく。
咲江は家族に迎えられた。
久坂家は没落し、その支配も終わった。
追儺祭は正式に中止と決定された。
百年以上続いた祭は、その年で幕を閉じた。
そして鬼面は村の集会所で保管されることとなった。
誰も触れようとはしなかったが、誰も捨てようともしなかった。
それもまた、この村の歴史だったからだ。
帰りの汽車の中。
私は車窓の外を眺めながら言った。
「事件は解決しましたね」
秋津は古い本を閉じた。
「そうだね」
「鬼はいなかった」
秋津は少し考えた後、微笑んだ。
「いや」
「いたのかもしれない」
「え?」
「人の心の中にね」
私は苦笑した。
「相変わらず曖昧な答えですね」
「学問とはそういうものです」
そう言うと秋津は再び本を開く。
汽笛が鳴った。
羅生村の山々が遠ざかっていく。
その向こうで、一つの時代が終わろうとしていた。
終章 秋月
羅生村を発った汽車は、ゆっくりと東へ向かっていた。
車窓には秋の紅葉した山々が流れていく。
私は向かいの席を見て、小さく溜息をついた。
秋津は、すでに読書に夢中になっていたからである。
膝の上には古びた和綴じの本。
事件が終わったというのに、この男はまるで昨日の続きを読むかのような顔をしている。
「物集院さん」
「うん?」
「せめて事件が終わったくらい休んだらどうです」
秋津は顔も上げない。
「休んでいるよ」
「それがですか」
「私にとってはね」
私は苦笑した。
結局、この人はどこへ行っても変わらない。
鬼の謎を追っていた時も。
村の帳簿を調べていた時も。
そして今も。
やはり本を読んでいる。
「次は何なんです?」
「備前の狐憑きについての報告書だ」
「もう次の事件ですか」
「事件とは限らないさ」
秋津は本から目を離し、窓の外へ視線を向けた。
「面白い話があるところには、人が集まるものだからね」
汽笛が鳴る。
私は流れていく山並みを眺めた。
羅生村で出会った人々。
鬼にされた者たち。
そして鬼になろうとしてしまった青年。
そのすべてが遠ざかってゆく。
だが不思議なことに、あの村での日々が終わった気はしなかった。
むしろ何かが始まろうとしているように思えた。
その日の夕方。
汽車は東京駅へ到着した。
見慣れた帝都の喧騒が出迎える。
人力車が行き交い、新聞売りが声を張り上げている。
「さて」
秋津が鞄を持ち上げた。
「帰るとするか」
「どちらへ?」
「君の家だよ」
私は思わず立ち止まった。
「家へ帰るんじゃないんですか」
「家がない」
さらりと言う。
「……はい?」
「家賃を滞納して追い出された」
私はしばらく言葉を失った。
羅生村の複雑怪奇な事件より、よほど理解不能だった。
「それで平然としているんですか」
「どうしようもないからね」
「いや、どうにかしてください」
秋津は肩をすくめただけだった。
一葉館は神田にある明治末期に建てられた洋館風下宿。
元は華族の別邸だったが、関東大震災後に改修され、文士・学者向けの下宿として営業している。
私は玄関を開けた。
「ただいま戻りました」
帳場から顔を出したのは大家の桐野トメだった。
「ああ、お帰り」
トメは私を見る。
次に、その後ろの秋津を見た。
秋津は軽く頭を下げた。
「少し部屋を借りたい」
私は慌てて口を挟んだ。
「ちょっと待ってください。いきなりそんな――」
だがトメは秋津を見つめたまま黙っている。
ほんの数秒。
何かを確かめるような眼差しだった。
やがて。
「貸そう」
あっさりと言った。
今度は私が驚く番だった。
「いいんですか?」
「ああ」
トメは頷いた。
「この人なら問題ない」
そう言うと、それ以上は何も説明しなかった。
秋津は会釈する。
「助かるよ」
私は首を傾げるばかりだった。
新しく借りた部屋には、早くも本が山のように積まれていた。
というより、部屋の半分が本に占領されている。
「これ、本当に全部読むんですか」
「一応そのつもりだよ」
「一応で済む量じゃありません」
秋津は笑った。
私は本の山の脇へ腰を下ろす。
静かな夜だった。
羅生村では、こんな風に落ち着いて話すことなどなかった。
しばらく沈黙が続く。
やがて秋津がぽつりと言った。
「しかし助かった」
「何がです?」
「君だよ」
私は首を傾げた。
「私ですか」
「あの村で一人だったら困っていた」
冗談めいた口調だったが、珍しく本心らしかった。
「聞き込みも苦手だし、人付き合いも得意じゃないからね」
「自覚はあったんですね」
「あるとも」
私は思わず笑った。
秋津も珍しく笑っていた。
「こちらこそ助かりましたよ」
私は言った。
「あの村へ行かなければ、あんな話は見られませんでした」
「そうかい」
「ええ」
少し迷ってから続ける。
「それに――」
私は言いかけて止まった。
これまではずっと「物集院さん」と呼んでいた。
だが今は、それがしっくりこない。
鬼塚も。
廃坑も。
追儺祭の夜も。
一緒に見てきた。
「どうしたんだい?」
私は少し照れ臭くなりながら言い直した。
「いや」
一呼吸置く。
「秋津」
秋津が目を瞬かせた。
だが意外そうな顔は一瞬だけだった。
「何だい」
あまりにも自然な返事だった。
私は少しだけ安心する。
「これからも面白い話があったら連れて行ってください」
秋津は考えるように顎へ手を当てる。
「保証はできないな」
「なぜです?」
「大抵は面倒事だから」
私は吹き出した。
「それはもう十分知っています」
二人で笑った。
後から思えば、あれが相棒になった瞬間だったのかもしれない。
後年。
私は作家として世に出ることになる。
民俗と怪異を題材にした奇談や探偵譚を書き、多くの読者に恵まれた。
その際、私は一つの筆名を用いた。
――秋月恒一。
友人たちは由来を尋ねた。
私はいつも笑って誤魔化した。
秋は、ある恩人の名から。
月は、暗闇にあって静かに道を照らすものから。
それ以上を語ったことはない。
その夜。
一葉館の一室。
本の山の中心で、秋津は新しく手に入れた和本を開いていた。
私は向かいの机で原稿帳を広げる。
静かに最初の一行を書いた。
――羅生村には鬼がいた。
いや。
違う。
私は筆を止めた。
行灯の灯に照らされた秋津の横顔を見る。
本の虫。
変人。
民俗学者。
そして、人が作り出した鬼から人々を救おうとする男。
私は少しだけ笑った。
そして改めて筆を走らせる。
――鬼はいなかった。
ただし、鬼にされた人々はいた。
それが、この物語の始まりである。
窓の外には秋の月が静かに浮かんでいた。
こうして私と秋津の奇妙な共同生活は始まった。
そして、それは後に数々の怪異と事件へ繋がることになる。
もっとも。
その夜の私は、まだ知る由もなかったのだが。
秋津と折口の出会いの話をお読みいただきありがとうございました。感想を簡単でももらえるとうれしいです。




