俺、サラリーマンなんだけど?
人生の底で、坂本健一(45)は耳を澄ませていた。
叩きつけるような冷たい雨が、深夜の町を黒く濡らしている。
薄暗い歩道橋の手すりに足をかけ、あとは重力に身を委ねるだけの場所。
実の親からは絶縁され、妻からは憎悪の言葉と共に離婚届を突きつけられ、身を粉にして働いた会社からも放り出された。自分の四十五年間は何だったのか。答えのない問いに疲れ果て、空っぽの人生を終わらせようとした、その刹那だった。
「――っ、う、あぁぁんっ!」
雨音を切り裂いて、不穏な破裂音と、か細い悲鳴が鼓膜を刺した。
視線を向ければ、無機質な住宅街の一角から、どす黒い煙と狂暴な赤が夜空へ噴き上がっている。火事だ。
「……っ」
気づけば、健一は歩道橋の階段を駆け下りていた。
死ぬはずだった命だ。恐怖など、とうに捨てたつもりだった。
だが、猛烈な熱気とパチパチとはぜる火の粉を前にした瞬間、健一の足はすくみ、喉が恐怖で爆ぜそうになる。
(なぜ、俺が助けなきゃいけない。俺は今から死ぬ男だぞ――)
自己保身の言い訳を塗り潰すように、煙の向こうから幼い泣き声が響く。
かつて、泥沼の離婚を迎える前、妻との間に子供を望んだ時期があった。もしあの時、不妊治療が実を結んでいたら。もし自分に、守るべき小さな命が、愛すべき我が子がいたなら。自分を「お父さん」と呼んでくれる小さな手を、一度でいいから握ってみたかった。
(今ここで、この声を見捨てて死ねば、俺は本当に誰の記憶にも残らないゴミクズのままだ)
(我が子にはもう会えない。だけど――あの命を、ここで終わらせてたまるか!)
激しい後悔と、家族の温もりへの飢餓感が、泥のようだった健一の身体を爆発的に突き動かした。
「うおぉぉぉ動け、俺の足ッ!」
獣のような咆哮をあげながら、健一は視界を真っ赤に染める炎のカーテンへと飛び込んだ。
視界を奪う黒煙、崩れ落ちる柱。皮膚が焼ける錯覚を覚えながら、奥の部屋でうずくまり、激しく咳き込む小さな男の子を見つけ出す。
「大丈夫だ、おじさんがいる……絶対に離すな!」
健一は、一生叶うはずのなかった「我が子」を抱くように、その小さな身体を壊れるほど強く抱き締め、炎の渦から外へと転がり出た。
「おい! 誰か、この子を!」
駆けつけた消防士の腕に、泣き叫ぶ子供を押し付けた――その、安堵の瞬間だった。
『ギチチ……ガシャァァァンッ!!』
不吉な軋みをあげ、燃え落ちた二階の巨大な梁が、健一の頭上へと容赦なく崩落した。
圧倒的な衝撃。一瞬で消える身体の感覚。
視界が急速に暗転していく中で、健一の心を支配したのは、決して美しい自己犠牲の満足感などではなかった。
(嫌だ。死にたくない。どうして俺の人生は、こんな惨めなまま終わらなきゃいけないんだ……!)
(親父、お袋、ごめん……。あいつとも、もう一度だけちゃんと話したかった。俺だって、あの子の父親に……!)
生への凄まじい執着と、呪詛のような後悔。それが、四十五歳の健一がこの世に遺した、最期の感情だった。
◇
「――はっ!?」
健一は激しく肺に空気を吸い込み、跳ね起きようとした。
だが、激痛を覚悟した身体には、傷一つない。それどころか、鼻腔を満たしたのは焦げ臭い煙ではなく、驚くほど冷涼で、どこか甘やかな草の匂いだった。
「ここは……どこだ?」
視界に飛び込んできたのは、世界の果てまで続くかのような、鮮烈なエメラルドグリーンの草原だった。
排気ガスに汚れた東京のコンクリートも、灰色の空もない。どこまでも高い蒼穹と、風に揺れる頼りない緑の波だけが広がっている。
混乱のまま、健一は自分の両手を見つめた。
深夜までのデスクワークで歪み、加齢でシミの浮き出ていた四十五歳のサラリーマンの手ではなかった。
白く、瑞々しく、万能感に満ち溢れた――かつて、人生の選択肢が無限にあると信じていた「十七歳の頃」の、自分の肉体だった。
「俺は……生きているのか? いや、若返って……?」
ゆっくりと立ち上がり、健一は胸の奥を確かめるように息を吐いた。
なぜこんな場所にいるのか、ここがどこなのかは分からない。だが、あの死の間際の激しい後悔と、子供を抱き締めた時の確かな温もりが、新しい肉体の奥底で熱く脈打っている。
「もし、これが神様の気まぐれだとしても」
健一は若き日の拳を、骨が鳴るほど強く握りしめた。
「今度こそ、間違えない。誰も見捨てない。俺の人生を、死に物狂いでやり直してやる」
見渡す限りの大草原の向こうから、彼の再出発を祝福するように、一陣の力強い風が吹き抜けた。




