第3話 うつわ、さがす きおの あさおと 前編
朝の音というのは、ひどく不思議な響きを孕んでいる。
それは、誰かが意図して鳴らすような鮮明なものではなく、木々を揺らす風の音でも、夜明けを告げる鳥のさえずりでもない。
ただ、世界という巨大な仕組みが静かに軋み、もう一度、誰かの存在をその腕に受け止めるための準備を始める、ただそれだけの淡い気配だ。
まだ誰も起きてこない、冷え切った三年前のホームの台所。
差し込む薄い朝光の粒子を浴びながら、リビングの棚に並んだ真っ白なマグカップたちが、まるで己の冷えた陶器の輪郭をそっとなぞるように、それぞれの静かな役目を思い出していく。
いつか降る雨を受けるための器、名もなき花を活けるための器、誰かの小さな空腹を満たすための器。
そして――たったひとりの、代わりのいない人生をその身で支えるための器。
どれほど美しい願いを胸に抱こうとも、どれほど深い優しさを湛えようとも、それを受け止める強固な器がそこに存在しなければ、あらゆる想いは行き先を失い、やがて時間の隙間へと零れ落ちてしまう。
だからこそ、人はひたむきに居場所を探し続けるのだろう。
だからこそ、人は大切な誰かを守るための、決して壊れない器をこの世界に作ろうとするのだ。
朝の音とは、きっと、
まだ誰も知らない希望が、その曖昧な光のなかで、静かに、静かに、みずからの輪郭をなぞり始めるための、
――切なくも愛おしい産声なのかもしれない。
◇
三年前。
合同会社『真清』、新設されたばかりの第二真清ホーム。
まだ新しい木材の、あの少しツンとした香りを残した玄関先で、佐野朝音は一度、歩みを止めた。
淡いクリーム色の外壁、光を多く取り込むための大きな掃き出し窓、そして足元の小さな花壇には、季節の移ろいを示す花々が丁寧に植えられている。
新築特有の、どこかよそよそしい硬さを残しながらも、そこには不思議と、誰かの手による確かな温度が息づいている建物だった。
その温度の主こそが、合同会社『真清』の代表、一ノ瀬夢人であった。
玄関の扉を開けた朝音を、彼は絵に描いたような温和な笑顔で出迎えた。
「佐野さんですね。お待ちしていました。今日からよろしくお願いします」
夢人の声は、春の陽だまりのように柔らかく、どこか人を無条件で安心させる響きを持っていた。
彼はまだ若い代表でありながら、その瞳には、生きづらさを抱えた人々に寄り添おうとする純粋な情熱の光が宿っているように見えた。
「こちらこそ、よろしくお願いします。新しいホーム、とても素敵な建物ですね」
朝音がそう答えると、夢人は我がことのように嬉しそうに目を細めた。
「ありがとうございます。……あ、気づかれましたか? 外の看板」
「ええ。会社名は『しんせい』で、こちらのホームの名前は『ますみ』なんですね」
「そうなんです。漢字で書くとね、どちらも同じ『真清』と書くんです」
夢人は愛おしむように、玄関の木肌にそっと手を当てた。
「実は、数年前に亡くした僕の妻の名前なんです。けれど、ただ彼女の名前を遺したくて付けたわけじゃないんです。僕にとっては、それぞれに別の大切な意味と覚悟を込めていまして」
「大切な意味、ですか」
まだよそよそしい静けさを残す玄関先に、夢人の声だけが優しく、しかし確かな輪郭を持って満ちていく。
「はい。会社名としての『真清』には、“真に清らかな心で、嘘偽りのない誠実な運営を行う”という、組織としての責任を刻みました」
彼のまっすぐな眼差しが、朝音の視線と静かに重なった。微かに震える声の奥に、決して退かない強い意志の灯火が宿っている。
「そして、このホームとしての『真清』には、“澄み渡る青空のように、利用者の皆さんの日々が穏やかで、清らかな笑顔に満ちた場所でありたい”という願いを込めたんです。――呼び方は違っても、どちらも僕がこの事業で、命を懸けて守りたいものだから」
夢人はそう言って、照れたように笑った。
「利用者の皆さんが、自分の家だと思って、のびのびと過ごせる場所にしたい。ルールで縛るのではなく、それぞれの個性をそのまま受け止められるような、そんな温かい器にしたい。それが僕の、この会社を作った一番の願いなんです」
その言葉に嘘はなかった。
夢人が語る理想は、福祉の原点にある美しく気高い祈りそのものであり、そのひたむきな姿勢に、朝音もまた深く共感していた。
この人と一緒なら、本当に必要とされる新しい居場所を作っていけるかもしれない。
新築の少し冷たい空気のなかで、夢人と交わした握手のぬくもりだけが、これからの確かな道標のように思えた。
◇
前任のサービス管理責任者との引き継ぎは、半日ほどで終わった。
穏やかな女性だった。
利用者たち一人ひとりの特徴を丁寧に説明しながら、時折どこか申し訳なさそうに笑う。
「本当はもう少し引き継ぎしたかったんですけどね」
「有給消化ですか?」
「そうなんです」
女性は苦笑した。
「一ヶ月ほどお休みをいただいて、そのまま退職になります」
朝音は素直に驚いた。
「そんなに有給が残っていたんですか」
「使うタイミングなくて」
あっさりと言ったその言葉の裏で、女性の使い古されたボールペンが、カチ、カチと小さなノック音を響かせていた。
傾いた西陽に透ける、彼女のひどく薄くなった爪の生々しさ。
朝音はこの時の彼女の乾いた声を、深くは考えなかった。
ただ、境界線のない底なしの優しさに磨り減っていったような、少しだけ疲れた笑顔が、なぜか冷たい予兆の影のように、朝音の心にいつまでも残った。
◇
夢人は良い代表だった。
「佐野さん、これ、今日の見学の方の資料なんですけどね」
そう言って管理者室のドアを開ける夢人の手には、いつも丁寧に淹れられたお茶が握られていた。
目元が優しく下がり、日だまりのような穏やかな笑みを絶やさない。
洗いざらしの優しい色合いのシャツはいつもピシッとしていて、彼の丁寧な人柄がそれだけで伝わってくるようだった。
夢人は、利用者の話をするとき、本当に嬉しそうに目を細めた。
「この方、前の施設ではなかなか馴染めなかったそうなんです。でも、うちのホームの写真を見たら『ここに行ってみたい』って言ってくださって。嬉しいなぁ。僕たちの場所が、その人にとっての新しい安心になれたら、こんなに幸せなことはないですよね」
その声には、一切の打算も、ビジネスライクな冷徹さもない。
ただ純粋に、生きづらさを抱えた人々に寄り添おうとする、ひたむきな善意だけが満ちていた。
職員への感謝も、彼は決して忘れなかった。
急なシフトの変更に応じてくれた非常勤職員がいれば「本当に助かりました、ありがとうございます」と丁寧に頭を下げ、夜勤明けのスタッフには「お疲れ様でした。しっかり休んでくださいね」
と、わざわざ玄関まで見送りにいく。
そんな代表だからこそ、利用者からも保護者からも、絶大な信頼を寄せられ、深く慕われていた。
保護者面談の席で、涙を流しながら「一ノ瀬さんにお会いできて本当に救われました」と手を合わせる母親の姿を、朝音は何度も目にした。
だから朝音も、このホームを良くしたいと思った。
この人と一緒なら、従来の福祉の枠に囚われない、本当の意味で利用者に寄り添った新しい居場所を作っていけるかもしれない。
そう信じているし、協力したいと心から思っている。
まだ見ぬ未来のホームの姿に、胸を躍らせるような期待を抱いていた。
もちろん、専門職としての小さな引っかかりが、全くなかったわけではない。
夢人が「あの人がそうしたいなら、少し融通を利かせてあげましょうよ」と、支援計画にない例外をあっさりと認めてしまう瞬間を目にすることもあった。
けれど、新設されたばかりのホームだ。
最初から完璧な仕組みなどあるはずがない。
何よりも、代表のあの純粋な想いは本物なのだから。
少しずつ話し合いながら、一緒に形にしていけばいい。
事務机の端、夢人が置いていった湯呑みから、白い湯気が優しく立ち上っている。
朝音はその温もりを両手で受け止めながら、代表の掲げる理想を支えようと、ただ前だけを見つめていた。
◇
数ヶ月後。
新設された二号棟は、少しずつ地域に溶け込み、順調に動き始めているように見えた。
「佐野さん、〇〇さんの今日の夕食なんですけど、少し柔らかめに刻んだほうが良さそうです」
「ありがとう。じゃあ、個別の調理手順書に追記しておくね」
新しく採用された非常勤職員たちと声を掛け合い、朝音はサービス管理責任者として慌ただしくも充実した日々を送っていた。
利用者がリビングでテレビを見て笑い、世話人がキッチンでリズミカルに包丁を動かす。
そんなありふれたホームの日常のなかで、朝音は夢人の理想を共に形にしている手応えを感じていた。
だが、その歯車は、目に見えないほど小さな音を立てて狂い始めていく。
新しく入ったばかりの、穏やかな50代の女性職員が、ある日の夕方、申し訳なさそうに管理者室にやってきた。
「佐野さん、本当に急で申し訳ないのだけど……今月いっぱいで辞めさせてほしくて」
驚く朝音に、彼女は困り果てた顔で、一人暮らしをしている息子にトラブルがあり、しばらく実家に戻ってくる彼を支えなければならなくなったのだと語った。
「ご家庭の事情なら、仕方がありませんね。お力になれずすみません」
朝音は彼女の言葉を疑うことなく受け入れ、温かく送り出した。
しかし、それが始まりだった。
二人目の、若い男性職員が辞めたいと言ってきたのは、そのわずか二週間後のことだった。
本業である昼の仕事の都合が変わり、どうしても夜勤のシフトに入れなくなったのだという。
「急に会社から言われてしまって……。せっかく慣れてきたのに、すみません」
さらに三人目の、いつも熱心に動いてくれていた40代の女性職員までもが、暗い顔で退職を希望してきた。
「最近、どうも夜中に動悸がして、眠れなくなってしまって。健康に不安がある状態では、大切な利用者さんの命を預かる仕事は続けられません」
一人。
また一人。
そしてまた一人。
退職の理由は、それぞれ違った。
家庭の事情、本業の都合、安定しない体調。
どれも嘘ではないのだろう。
語る彼らの目には、本当に申し訳なさそうな色があった。
けれど、朝音の胸の奥には、説明のつかない微かな違和感が、静かに澱のように積もり始めていた。
ある日の夜勤明けのことだった。
創業時代から夢人を支えている50代の古参世話人、榊原恒一が、誰もいない給湯室でコーヒーを淹れながら、朝音にポツリと声をかけてきた。
「佐野さん。また新しい人が辞めるんだって?」
「ええ……。皆さん、ご家庭の事情や体調不良で。タイミングが重なってしまって、本当に心苦しいです」
朝音がため息をつくと、榊原は白髪の混じる頭を少しだけ掻き、苦い笑みを浮かべた。
「みんな、良い人だからね。夢人さんの理想に共感して、役に立ちたいと思って入ってくる。でもね、優しいだけの場所ってのは、時に一番残酷なんだよ。気づいたときには、自分の削られた肉の痛みに耐えられなくなってる」
榊原はそれ以上何も言わず、淹れたてのコーヒーを持ってリビングへと戻っていった。
その広い背中を見送りながら、朝音は冷たい何かが背筋をなぞるのを感じた。
朝音は、使い古された事務机の上で、次々と削られていくシフト表をじっと見つめていた。
抜けた穴を埋めるために、自分の名前が夜勤の欄に増えていく。
明確な答えは出ないまま、ただ、静かな部屋にエアコンの微かな駆動音だけが響いていた。
◇
その頃だった、生野器音の入居についての話があったのは。
支援区分6。
他害あり。
その記載だけで、朝音には十分だった。
共同生活援助の枠組みで支えるには、相当な準備と体制が必要な利用者であることを、その紙の重みが無言で告げていた。
朝音はアセスメント資料から目を離し、静かに息を吐いた。
不安だった。
器音自身が、他利用者が、夜勤者が、環境を巻き込むこのホーム全体が、いつか均衡を失ってしまうのではないかという予感が、胸をかすめる。
だが夢人は、いつもの穏やかな笑顔で言った。
「この子にも居場所は必要ですから」
その言葉は正しかったし、朝音も否定しなかった。
ただ、心のどこかで思っていた。
居場所は願うだけでは作れないのだと。
荒れ狂う嵐のような衝動さえも、そっと包み込んで破綻させない、強固な支える器が必要なのだ、と。
資料が語る器音の過去は凄惨だった。
器音が利用中の日中支援型施設では、要求が通らないたびに激しい雄叫びを上げ、やがて他害行為へと発展したという。
職員だけでなく、他の利用者へも拳を振るうようになり、ついには退去を余儀なくされた。
入浴や口腔ケア、髭剃りに全身への軟膏塗布。
最高度を意味する「区分6」の彼に付き従う個別ケアの山は、どれもスタッフが1対1で張り付かなければならないものばかりだった。
法律の最低ラインである「スタッフ1人体制」で彼を迎え入れれば、そのケアの最中、残された利用者は完全に誰も見守れない空白に置かれる。
もし他害が起きれば、現場は一瞬で崩壊し、大事故に繋がるのは目に見えていた。
しかも、開設間もないこの第二真清ホームは、未経験者の職員が多く脆弱であった。
「今の体制で彼を受け入れるのは、あまりにも荷が重すぎます」
朝音の必死の進言にも、夢人は「ここで受け入れなければ彼に行く宛がない」と頑なに譲らなかった。
2名体制を求めても、満床に満たないホームには人件費の余裕がなく、そもそも福祉業界の深刻な人手不足で、雇いたくても人が集まらない。
法律の「最低限の人数」でギリギリの黒字を出さなければ潰れてしまう。
それもまた、目を背けられない現実だった。
福祉における純粋な理想は、時に全員を巻き込む引き金になる。
夢人は善意の人だ。
誰かを見捨てることができない。
だが善意だけでは、緊急時の修羅場は止められない。
他事業所からの応援も、スタッフの急なチェンジも、この慢性的な人手不足の中では絵空事だった。
今いる職員で、何が何でも現場を持たせるしかない。
それが、目を背けられない冷酷な現実だった。
朝音は、腹をくくった。
自分も支援に入ろう。
サビ管である朝音が現場に入るということは、行政が敷いたあまりに煩雑な書類を、すべて一人でクリアしなければならないことを意味している。
日中も常時の見守りが必要な器音のため、平日は外部の生活介護事業所へ通うことを提案した。
しかし、器音本人から「通所するのは最大週2日間」との希望が寄せられた。
残りの平日は、ホームで過ごすことになる。
介護サービス包括型の真清ホームが日中支援をするための手続きには、体制届と日中支援加算(Ⅰ)の算定にかかる届出書が必要となる。
朝音が生活支援員として専従する時間を明確に切り分けた、1分も偽りの許されないシフト表。
理由を克明に文字にした個別支援計画書の作り直しから、監査の目に耐えうる毎日の実施記録まで、そのすべてが朝音の双肩にのしかかる。
さらに、その事業所が休みになる土曜日と日曜日。
法律の冷酷なルールにより、土日祝日の日中の見守りは、本来の「日中支援加算Ⅰ」の対象外となる。
土日は加算がないから本来は支援はなく、ホームに職員が常駐しない「利用者だけになる時間帯」が生まれてしまう。
そんな職員不在のホームに彼を放置すれば、一歩間違えれば他害が起きる。
土日だけは、朝音が本来の事務仕事をホームに持ち込み、自らリビングに常駐して、実質的な支援員として見守る形を取るしかなかった。
不正請求を疑われぬよう、極めて狭い制度の隙間を縫うような、危うい書類処理を重ねる必要もある。
サビ管の負担は、これまでの倍以上に膨れ上がった。
夢を語る一ノ瀬夢人は、その裏で発生する加算申請の不透明な深淵も、朝音の肉体が削られていく事実も、何一つとして自覚していない。
危険は分かっている。
無理も分かっている。
それでも、夢人が見ている理想を、現実に落とし込む人間が必要だった。
ならば、自分がやるしかない。
湯呑みの中で完全に冷え切ったお茶の、その暗い水面を見つめながら、朝音は心の中で静かに、しかし激しく、まだ見ぬ彼を守るための無骨な器の設計図を引き直していた。
◇
器音との初対面は、思っていたよりも静かな時間のなかで訪れた。
玄関先で立ち止まった彼は、朝音の胸元で優しく揺れる、ルビを振られたネームプレートをじっと見つめていた。
「朝音?」
「そうです。佐野朝音です」
「漢字」
「漢字?」
「うん」
器音は、かすかに眉を寄せて、朝音の名前の最後の一文字をそっと指さした。
「音」
「音?」
「僕も、音だよ」
そう言って、彼は首から提げられたプラスチックの自分の名札を差し出した。
生野器音
朝音は、ほんの一瞬だけ胸の奥で息を止めた。
「……ほんとだ」
それから、張り詰めた空気をほどくように、できるだけ穏やかに笑った。
「私と同じ字ですね」
器音の口元が、かすかに、本当にわずかだけ緩んだ。
笑った、と形容するにはあまりに微かな兆候に過ぎなかった。
それでも、その仄暗い灯りのような表情は確かに、朝音の胸の奥深くへと残った。
短く切り揃えられた爪の先が、名札の硬質な角を何度も何度も擦っている。
強く。
何度も。
まるで、この世界のどこか尖った輪郭を、その指先の手触りだけで必死に確かめているようだった。
朝音は、その不器用な手元を見つめながら静かに思った。
この人は、本質的に危険な人間なのではなく、
あまりにも危険な状態へと、容易に追い込まれやすい人なのかも知れない。
だからこそ、本当ならば、この小さなホームではない場所の方がふさわしい。
もっと潤沢な人の手があり、冷徹な医療の目があり、彼が崩れ落ちる前に抱きとめられる場所の方がいい。
その冷めた確信は、初対面を終えてもなお、朝音のなかで変わることはなかった。
けれど、もう賽は投げられてしまったのなら。
この場所で彼を迎えるのだと、運命が決まってしまったというのなら。
少なくとも、自分だけはその本質を見誤ってはいけない。
他害という冷酷な記録の奥に潜んでいる、この人の果てしない不安の影を。
暴力を振るう人、として片付けるのではなく。
今にも崩れそうな自らの器を、壊れぬように必死に押さえている、一人の人間としての生野器音を。
朝音は、胸の奥底で静かに、深く呼吸を調えた。
守りたい、という祈りだけでは到底足りない。
何が何でも、守り抜ける形にしなければならないのだ。
◇
違和感は、夕闇が部屋の隅に溜まっていくように、少しずつ、けれど確実に積み重なっていった。
最初は本当に些細な、気にも留めないほどに小さな出来事だった。
朝音が入職して間もない頃、
第一真清ホームの夕勤に入った日のこと。
夕食の時間は夢人の考えで19時と定められていた。
だが、その日のリビングは、夜の更けゆく気配を忘れたかのように賑やかだった。
利用者同士のとりとめない会話が心地よく弾み、傍らに立つ職員もいつしかその和やかな輪に加わる。
空間を優しく満たす笑い声は、決して絶えることがなかった。
それ自体は、どこからどう見ても悪いことではなかった。
むしろ、福祉が目指すべき理想的な光景そのものだった。
夢人が理想のなかに描いていたのも、きっとこのような温かな場所だったのだろう。
けれど、壁に掛けられた時計の針は、容赦もなくゆっくりと進んでいく。
19時30分。
まだ、彼らの食事は終わらない。
20時を過ぎてもなお、利用者たちはリビングの明かりの下で、楽しそうに話を続けていた。
夜の服薬も、その絶え間ないおしゃべりの流れのなかに溶け込むようにして行われる。
やがて21時を回る頃になって、ようやく重い腰を上げるように入浴の支援が始まった。
一般的なグループホームであれば、そろそろ一日の終わりを告げ、消灯の準備を始める時間だった。
しかし、この真清ホームには、生活を律するための明確なルールが何ひとつ存在しなかった。
食事の時間。
入浴の時間。
リビングを利用する時間。
消灯の時間。
そして、眠りにつく就寝の時間。
どこのホームにも、まるで当然の約束事のように掲示されているはずの生活ルールが、ここにはどこを見渡しても見当たらない。
いつも夢人はいう。
「利用者さんによって、心地いい時間は違いますから」
「僕たちは、ここを誰もが自由に過ごせる場所にしたいんです」
その言葉の裏には、一片の悪意も混じっていない。
目の前の利用者をただ大切に思おうとする、そのひたむきな気持ちも、紛れもない本物だった。
だからこそ朝音も、それを正論で頭ごなしに否定することはできなかった。
だが自由とは、本来、何もない空白のなかに放り出されることではない。
人間が安心して息を吸い、過ごせるための境界線があってこそ、初めて成り立つものだ。
その違和感だけが、朝音の胸の奥底に、澱のように静かに残っていた。
22時。
夜勤支援員の遠野彩が出勤してきた。
その時間を過ぎても、リビングの明かりが落とされることはなく、そこにはまだ誰かの気配があった。
静かに温かいお茶を飲む人。
ぼんやりとテレビの光を見つめる人。
今日あった出来事を職員と熱心に話をする人。
夢人が掲げる方針では、利用者が目を覚ましている時間は、何をおいても利用者を優先する。
掃除や洗濯、日々の記録といった細々とした家事業務の手を動かすのは、すべての利用者が自室で寝静まってから。
職員が忙しそうに背中を向けていては、利用者がせっかくの頼りごとを諦めてしまうからだ、と。
その優しすぎる考えもまた、利用者への無垢な慈しみから生まれていた。
だから、誰もその方針に異を唱えることなどできない。
夜の23時を過ぎた頃。
ようやく、リビングに残っていた最後の利用者が、満足したように自室の扉の向こうへと戻っていく。
朝音は、退勤時間が過ぎてもその場に残り、状況を確認していた。
利用者のいなくなった静寂のなかで、壁の時計を見上げた。
23時28分。
本当の夜勤の戦いは、そこからだった。
溜まりに溜まった洗濯。
フロアの掃除。
翌朝の慌ただしい準備。
そして、今日一日の支援記録。
遠野は、手慣れた無駄のない手つきで、それらの山積みの業務を淡々と片付けていく。
利用者が起きている時間には決して手をつけられなかった仕事が、夜の帳が降りきったこの時間に、一気に押し寄せてくる。
全ての業務を終えた頃には、日付はとっくに変わり、深夜の静寂が深く深くホームを包み込んでいた。
リビングの片隅には、間に合わせの簡易的なソファベッドがぽつんと置かれている。
屏風を立てて、周囲からの視線を辛うじて目隠しをしただけの、あまりに心許ない仮眠スペース。
遠野は疲弊した身体を、そこへ滑り込ませるようにして横たえた。
だが、どれほど身体が重くとも、完全に深い眠りへ落ちることは許されない。
夜の闇のなか、あらかじめ決められた時間を刻む巡視の義務がある。
利用者によっては、心細さや不安から、「特定の時間には必ず部屋を見にきてほしい」と切実に希望する人もいた。
そして、静まり返った深夜。
足音も立てずに利用者がふらりとリビングへ出てくることも、決して珍しくはなかった。
「……お茶をください」
暗闇に響くそんな微かな声に、何度仮眠を破られ、身体を起こしたか分からない。
朝音は、深い眠りについた静かなリビングを、そっと見渡した。
誰も悪くないのだ。
ここで暮らす利用者も。
夜を削って動く職員も。
そして、理想を信じる夢人も。
皆、本当に、透き通るような善意のままで動いている。
だからこそ、朝音の胸の奥は、凍りつくように怖かった。
目の前の利用者の希望。
ともに暮らす他利用者のささやかな生活。
現場を支える支援員の休息。
そして、組織として命を守るための安全。
どれか一つだけを天秤にかけ、守ることは決してできない。
そのすべてを、誰の犠牲もなしに包み込める強固な仕組みが、今の真清にはどうしても必要だった。
それは、夢人が語る美しく脆い優しさを否定するためではない。
その優しさを、現実の濁流のなかで、決して壊さないためだった。
後編に続く




