第3話:戦争のはじまり
生まれて初めての乗馬だった。僕は縛られたままフォークスの前に乗せられて、揺れで落ちないよう、馬のたてがみにしがみついていた。
馬のたてがみって結構ゴワゴワなんだな……。
そんなことを思いながら、僕はモフモフサラサラだったウルフィナの毛並みに思いを馳せた。
やがて林を抜けて視界が開けた。
そこは荒涼とした土地だった。
「国境だ」
後頭部のあたりでフォークスが言った。
「逃げようなどと、変な気を起こすなよ。この場所で怪しい動きをするものは、ファングリットとアルディア、両側から銃口を向けられる」
釘を刺されずとも、そんな気はなかった。僕の上半身を縛る縄の端はフォークスがしっかりと握っているし、そうでなくたって、体が大きく爪も牙もある獣人を出し抜いて逃げようなどと……第一、どこへ逃げればいいのかもわからないのだ。
僕は前方を見渡した。枯れ木しかない不毛の大地。かつてはここも木々に覆われていたと見えるが、何度も交戦の舞台となったのか、今は雑草さえ見当たらない。
中央に、国境線らしい鉄条網が張られていた。
空気が重い。風はあるが爽やかではなく、肌に当たる感覚は悪い意味で生温かい。
先ほどの爆発音の発生源がどこかにあるのか、僅かに硝煙の臭いがした。
前方に構える騎兵隊の中に、ウルフィナの姿があった。
そして彼女が鉄条網越しに見つめる向こう、一キロは離れているだろうか、隊列をなす人間たちの姿が見えた。
遠目だが、武装しているのがわかる。
ヒュルルルル……
長く尾を引く、花火のような音が聞こえた。フォークスの片腕が、背後から僕の顔を覆うように回される。彼の毛並みも、ウルフィナほどではないがモフモフだった。
ズガァァァァン!!
至近距離での爆音。
心臓が口から飛び出すかと思った。フォークスの腕が回っていなければ、驚いた拍子に落馬していたと思う。
「な、な、なんですかこの音!?」
両手でフォークスの腕を押しやって前方を見る。鉄条網から数メートル先の地面が大きく抉れていた。
「問題ない、ただの砲撃だ。魔導兵たちがシールドを張っているから破片も飛んでこない」
「砲撃!?」
「アルセイヤめ。国境線のギリギリを狙ってきたな」
心臓の鼓動が収まらない。僕は今、戦場にでもいるっていうのか!?
間もなくして、人間族の集団の中から十騎ほどの騎兵と荷車がこちらに向かってきた。そして、鉄条網の手前で止まる。
隊列の中央にいた金髪碧眼のきらびやかな服装をした男が、馬を進めて最前に出た。
「やあ、ウルフィナ姫。久しぶりだね。また綺麗になったんじゃないかい?」
鉄条網のこちら側でウルフィナがしらけた笑みを浮かべる。
「無駄話はいい。これはどういうつもりだ、アルセイヤ王」
「ああ、すまないね。軍事演習中なんだが、数キロ先に配置した砲兵がやや目測を誤ったようだ。けれど幸いなことに国境線は越えていない」
「この一帯は非武装地帯としているはずだ」
「何代前の口約束かな。少なくとも我が国アルディアにそれを明確に記した文書はない」
アルセイヤの青い瞳がスッと細められる。
「そんなことより、『どういうつもりだ』はこちらが言いたい台詞だよ」
彼の後ろに待機していた荷車には、大きな布が被せられていた。それを兵のひとりが取り払う。
荷車の上には、ふたりの獣人が捕らえられていた。おそらくひとりは猫の獣人、もうひとりはフクロウだ。
遠目に見えるだけでも、明らかな拷問の痕。
猫のほうは耳介が両方ともない。そして片目を覆うように包帯が巻かれている。失明しているのかもしれない。
フクロウのほうも酷かった。体中の羽がほとんど毟られて、裸になった肌にいわゆる根性焼きのような火傷が無数にできている。くちばしも折れていた。
「ニーニャ! アウルゥ!」
ウルフィナが叫び、馬を下りた。鉄条網に上ろうとする彼女を、騎兵のひとりが慌てて引き留める。
「何故だ!? どうしてお前たちがアルディアにいる!? 北方のRM主機国の監視を任せたはずだ!」
「私が命じました」
と告げる声は、僕の頭上から聞こえた。馬が駆け出す。そして、前方の騎兵隊に合流すると、フォークスは僕を馬上に残して地面に降り立った。
「ウルフィナ姫、私がニーニャとアウルゥにアルディアでの諜報活動を命じたのです」
振り返ったウルフィナの目は、ゾッとするほどの怒りにまみれていた。雷光のごとき視線がキツネ男を射抜く。
「何故勝手な真似をする」
「必要だったからです。我が国にも、高い確率でアルディアの諜報員が潜り込んでいます。こちらの内情だけ筒抜けでは――」
「答えになっていない! 何故私に断りもなく、ふたりの任務を変えたのか聞いているのだ」
「ニーニャとアウルゥは本来、諜報向きの獣人です。北の拠点で監視活動だけさせておくなど、人的資材の無駄遣いも甚だしい」
「諜報向き? こうして捕まり、痛めつけられているのにか?」
「捕えられるまでの間に、ふたりは諜報員としての責務を十分果たしました。それにふたりとも、相応の危険は承知のうえです」
ぎらぎらと燃え盛るような憤怒を向けられていても、フォークスは毅然とした態度を崩さない。
「私も同様の覚悟のうえです。いかなる処分も受けましょう。すべては愛するファングリット王国の、永久の繁栄のために」
鉄条網の向こう側で、人間の兵たちが縛られた獣人兵ふたりを荷車から下ろし、地面に跪かせる。
人間族の王アルセイヤが軽やかな声音で言った。
「彼らをここに連れてきたのは他でもない、最期くらい故郷を眺めながら逝かせてあげたくてね。けれどまさか、ウルフィナ姫まで登場するとは」
「貴様、図ったな……」
「何を言うんだい。私は別に、きみや多くの獣人兵たちの前でふたりを見せしめに殺そうだなんて、思ってはいなかったよ。きみたちが勝手に集まってきたんだ」
フォークスが踵を返し、僕のほうへ歩いてきた。馬に乗るのかと思ったが、予想に反して彼は、僕を馬上から乱暴に引きずり下ろした。
「わっ、な、なんですか」
「黙れ」
そのまま確固たる歩調で国境線のほうへと戻る彼に、僕は強い力で連行される。
膝裏を蹴られて、ガクンと地面にくずおれた。痛い。
「アルセイヤ王、この者は貴国の諜報員です。捕虜交換の交渉を希望します」
ウルフィナがカッと振り向き、フォークスの胸倉を掴んだ。低く潜めた声で言う。
「貴様、どこまで勝手をする気だ」
「どこまででも。ニーニャとアウルゥを救える可能性が一縷でもあるのなら」
「知っているだろう、アルセイヤはヘマをして捕虜になるような兵士を助けたりしない。まして、こいつはおそらくスパイでも兵士でもないんだぞ」
「では他に方法がありますか? 姫様。今私たちは、アルセイヤ王の思惑どおりまんまと国境線までおびき出され、拷問により無残に傷つけられた仲間が処刑される姿を見せつけられようとしています。これ以上の無念と屈辱があるでしょうか。この状況を変えられる一手を、あなた様はお持ちですか?」
「私を見くびるな」
ヒュルルルル……
という音は、後方から聞こえていた。
「砲兵がいるのは、あちら側だけではない」
ドガァァァンッ!!
大地が震え、砂まじりの突風が巻き起こった。目が眩み、耳はキィンと鋭く痛む。
土塊や小石が雨のように降り注ぐ。
砲弾は、国境線たる鉄条網の一部を吹き飛ばしていた。
「遠吠え隊、ついてこい!」
ウルフィナが叫び、鉄条網の破壊と同時に地面にできた大穴を、人間にはおよそ不可能な跳躍力で飛び越えていく。彼女に呼ばれた部隊――オオカミの獣人たちがそれに続く。
彼女らの目的は捕虜の救出のようだったが、国境線を侵された人間族がそれを許さない。剣を抜く者、銃を構える者。
一キロ先に待機していた人間族の集団が、異変を察してこちらへ向かってくる。
それを迎え撃つため、獣人族の各隊が次々と国境を越えていく。
ひるがえる爪と牙。高い金属音。銃声。咆哮。悲鳴。
人間族の王アルセイヤの振り下ろした長剣が、ウルフィナの銀色の毛並みをかすめる。
「自分が何をしているか、わかっているのかな、ウルフィナ姫」
「覚悟なく弾を打つのは馬鹿だけだ」
「戦争を始めて不利なのは、四方を敵国に囲まれたファングリットのほうだよ」
「三方も四方も変わらない。私はこのオルデナ大陸をひとつの帝国にする。その最初の占領地となれることを光栄に思えアルセイヤ王!」
なんてことだ。
僕は土の上に伏せながら、震えが止まらなかった。
だって、銃弾らしきものが、こちら側の陣地に張られた透明なシールドに弾かれるのが見えるのだ。そしてこのシールドは、いつまで持つのか……。
ウルフィナたちはシールドを超えて向こう側へ行った。つまり飛び交う弾の中で交戦している。正気の沙汰とは思えない。
突然、縄をグッと引っ張られて体を起こされた。フォークスだった。手にはナイフを持っている。
「ひっ……! な、なにをっ」
「暴れるな」
刀身は僕の肌を切り裂かなかった。上半身を拘束していた縄が足元に落ちる。
「行け」
「……え?」
「貴様のような人間を姫様のそばに置いておきたくない。人間は人間の国へ帰れ」
「えっ、で、でも……」
こちら側にも弾が飛んでくるとはいえ、交戦の激しいのは明らかに向こう側だ。
その中へ、飛び込んでいけというのか、このキツネは!
「早く行け。行かないのなら、この場で殺す。姫様には流れ弾に当たって死んだと報告すればいい。さあ!」
ナイフの刃先を向けられて、僕は駆け出した。鉄条網の壊れた場所から向こう側へなんて無理だ。だから鉄条網沿いに横へ、戦線から離れることを目的に走る。
バシュッ
シュバッ
足元で土が跳ねた。走りながら振り向くと、フォークスが拳銃を向けている。
警告だ。早く向こう側へ行かなければ、地面ではなくお前を撃つぞ、という。
この世界の何もかもが恐ろしくなり、全身がガクガクと震えた。膝が崩れそうになったが、立ち止まるわけにはいかない。止まればきっと、あのキツネは撃つ。
僕は鉄条網に飛びついた。鉄線から突き出した棘の痛みに耐え、必死によじ登る。
頂上を跨いだところで頬を何かが掠め、それに驚くと共に地面に転がり落ちた。
頬を触ると、血が出ていた。
フォークスはまだこちらに銃口を向けている。
僕は立ち上がって走った。棘の刺さった手足の痛みも、銃弾の掠めた頬の痛みも、硬い地面に落下した痛みも忘れて、ただ死なないために走った。
遠い向こうには、人間族の後衛部隊がいた。




