第78話 クッキング ―料理―
コンコン──
「すごい! 卵を……片手で割ってる!」
ノエルが俺の動作を見て、素直な驚きの声を上げた。
俺はフライパンに魔物由来の卵を割って落としながら、ふっと笑みを浮かべる。
「これくらいは慣れたら誰でもできるようになるよ」
卵がジュウと音を立て、香ばしい匂いが立ちのぼる。
その間に俺は小鍋の中の野菜と香草を風味よく炒め、すかさず水を注いでスープへと仕立てていく。
火加減は火の魔法石を動力にした片足で踏む火力調整板を微妙に操り、まるで呼吸のような自然さで火力をコントロールする。
「すごい……同時に二つも……」
ノエルがつぶやくのが聞こえたが、俺はただ手を止めずに進める。
地球で当たり前にやっていたことでも、この世界では立派な“技”として映るらしい。
「慣れてますね……。凪さんって、もともと何をしていた人なんですか? どうしてここに居候を?」
不意に聞かれた問いに、俺は一瞬手を止める。
言葉を選びながら、静かに答えた。
「もともとはイグナスに住んでたんだ。でも色々あってついこの前までセルナの中央都市のナイランに。
そこでも居候だったんだけどね。で、今は……最終的にはイグナスに帰ろうと思ってるんだけど」
ノエルは少し考え込むように首を傾げた。
「それなら……セルナからゼクスラントを通った方が、早そうですけど」
俺は目玉焼きにふたをかぶせ、視線を落とす。
「……急にこの国でやらないといけないことが増えちゃってね。俺の妹が攫われて、それでこの国にいるみたいなんだ……」
ノエルは目を見開く――
「ええ!? そうだったんですか……ごめんなさい、そんな事情があるなんて」
「ううん。居候させてもらうんだから正直に言うべきところは言わないとね」
「その途中で、うちのお兄ちゃんと出会ったんですね」
「そういうこと」
俺は調理用の魔道具のスイッチを切った。
「とかなんとか言ってる間に――できた!」
俺がふたを外すと、ちょうどいい焼き加減の“目玉焼き”と“野菜スープ”が姿を現した。地球のものとは中身が全部違うけれど。
香ばしい香りが、部屋の空気をやわらかく染めていく。
* * *
二人は向かい合って椅子に座り、簡素なテーブルを挟んで食べ進めていた。
「うわぁ、凪さんは本当に料理がお上手ですね! 私が作ると、いつも真っ黒になっちゃうのに」
ノエルがぱくっと口に運びながら、目を丸くして言う。
控えめなノエルが興奮気味に喜んでくれたのが、俺はめちゃくちゃ嬉しかった。
「真っ黒になっちゃうんだ。喜んでくれて俺もすごく嬉しい!」
「美味しいです! 目玉焼きは白身はパリパリで、黄身はフワフワで……!」
「うんうん」
「野菜スープも風胡椒が効いてていい感じです!」
「わかってるねぇノエル」
その一言を返した瞬間、ふいに俺の胸をざわつかせる何かがあった。
目の前のノエルの姿に、重なる幻が見えた。
* * *
――それは、元の世界。
なんでもない日常の風景。
小さなダイニングテーブル、兄妹だけの静かな朝。
「美味しい! お兄ちゃんはやっぱり料理上手だよねー!」
「普通だよ普通。ほら、早く食べないとまた部活に遅刻するぞ?」
笑い声が響いていた。あの時は、確かに――幸福だった。
――だが場面は急激に色を変えたのだ。
路面を撃つ激しい雨が、俺の耳を叩く轟音を響かせる。
全身を濡らしながら、俺は妹を抱きかかえていた。
その身体はあまりに軽く、あまりに――冷たく。
(……おれの両手、まだ……あたたかい血が……)
* * *
「凪さん!?」
ノエルの声が、俺を現実へと引き戻した。
「……っ!? あ、ごめん! なんだった?」
「大丈夫ですか? なんだか、汗がすごくて……」
俺の額に流れる汗を見て、ノエルが心配そうに立ち上がる。
俺は苦笑を浮かべながら、自分の胸元に手を当てた。
心臓の鼓動が早い。
過ぎ去ったはずの記憶が、まだどこかに刻まれたままだった。
「凪さんは、休んでてください。片付けは、私がやりますから」
ノエルはそう言って、そっと食器を手に取る。
俺は軽く息を吐き、申し訳なさそうに笑った。
「……ごめん。じゃあ、そうさせてもらおうかな」
椅子に身を預けたその瞬間、俺の心を再び押し寄せる感情があった。
……時々、忘れかける
忘れかけるほどの安らぎに包まれることが、逆に恐ろしい。
俺は静音の元に戻らなきゃいけない。必ず、戻って……俺が……
その胸の奥底に沈む“黒い感情”。
焦燥、罪悪感、あるいは償いのような何か。
――だが、それを綺麗に掻き消したのは、キッチンから微かに聞こえてきた、ノエルの歌声だった。
それは何気無く歌われたものだった。
しかし、それはどこか俺の心を撫でる優しさがあった。
(……美味しい物を食べて、嬉しかったのかな。それとも、いつも一人で食べてたから……誰かと食べられたことが嬉しかったのか)
楽しげに食器を洗いながら歌う彼女の姿に、俺はふと問いかけた。
「……その歌って……」
ノエルの動きがぴたりと止まり、慌てたようにこちらを振り向く。
「ご、ごめんなさい! つい……。うるさかったですよね。下手だし、すみません……!」
「いや、違くて……。正直、めちゃくちゃ良い声だよ。……歌、好きなの?」
俺の素直な言葉に、ノエルの耳が赤く染まっていく。
彼女は恥ずかしそうに視線を落としながら、小さく頷いた。
「この国で今、すごく有名な歌い人さんがいて――」
ノエルが声を少し弾ませながら言った。
(アイドルか歌手のこと、かな)
「私、お兄ちゃんにも言ってないんですけど……その人の大ファンなんです。いま歌ってたのも、その人の歌で」
「そういえば……ここに来る途中、グッズを持ってる人を見かけたな。ポスターも、街角で何枚か貼ってあった」
「はい! 一年前から一気に有名になって……今では他の国からも彼女の歌を聴きに来る人がたくさんいるんです」
ノエルの表情は、いつもよりずっと明るく、生き生きしていた。
「一年前ね……。なんて名前の人?」
俺が尋ねると、ノエルは嬉しそうに戸棚から一枚の紙を取り出した。
「本名かどうかはわからないんですけど、“エアリア・リュシエール”って名乗ってます。ちょうど、次の音楽祭のチラシ……」
チラシを受け取った俺は、目を通しながら読み上げる。
──風に乗ってキミの心へダイブ!
──君と空をつなぐヴェントの歌姫!
──碧風のエアリア・リュシエール!
「へぇ。音楽祭、ライブみたいなものかな」
「ライブ? 聞いたことはないですけど……そういえばたまにエアリアもそんな表現をしていたような」
そう大きく書かれた文字の下に、ひときわ目を引く一人の少女が写っていた。
足元まで届く緑色のロングヘア。
舞台照明のように鮮やかなステージ衣装。
腰には着物の帯のようなライトグリーンの大きなリボンがついていて、彼女の髪と同じく長い“たれ”が目を引く。
その姿はどこか、異世界の中にあって異質なまでに洗練されていた。
そしてそれは――俺の中の何かが、心の奥に引っかかっていた。
俺は無意識にそのチラシを見つめたまま、しばし言葉を失っていた。
やがて大きく記された一文が目に留まった。
《次回公演:明日・夕刻 シルフステージ》
「……ねぇ、ノエル。エアリアの歌を聞きたい――会いに行けないかな?」
目に見えない何かに惹かれるように、無意識のうちに口をついて出た言葉。
「凪さん?」
ノエルは驚いたように目を瞬かせた。
☆今回の一言メモ☆
実は凪の料理スキルは作中のキャラクターの誰よりも高いです。第0話にも描写がありますが、妹にゾッコンだった彼は彼女のために料理スキルをカンストさせていたようです。それに加えて映像記憶という能力のお陰で、大抵のレシピや調理方法は彼の記憶の中にあります。




