第5話 怖い。逃げだしたい。でも助けにいく。
俺には関係ない。
でも、それでいいのか。
立ち尽くしていた俺の耳に、また一つ――“声”が響く。
『……黒瀬……凪……』
あの声だった。
どこか懐かしく、聞き覚えのあるような――
『待っているわ……あなたの“選択”を』
「……また。……あなたはいったい……?」
俺の頭に直接届くように言葉が響く。
やがてその声が消え、周りの音が戻る。
すると俺には不思議ともう迷いはなかった。
「たとえ俺自身が戦えなくても、逃げ遅れた人や、誰かの手助けくらいなら、俺にもできるはず!」
気づけば足が前に動いていた。
誰も俺に命じていない。
でも俺は――俺の意思で、戦場に向かっていた。
* * *
俺は混乱の街を駆け抜けていた。
崩れかけた石畳、泣き叫ぶ子供、叫びながら走る兵士。すべてがぐちゃぐちゃで、秩序なんてものはどこにもなかった。
そのときだった。
「リン……リン!? どこなの、返事して!!」
叫び声がひときわ大きく通りに響いていた。
声の主は一人の女性だった。髪が乱れ、目には涙がにじんでいる。あたりを必死に見回しながら、今にも倒れそうな様子で叫び続けていた。
「私の娘がまだ戻ってきてないの。誰か助けて……っ!」
俺は思わず足を止め、彼女に駆け寄った。
「落ち着いてください!どうしたんですか?」
「私の娘のリンが見つからなくって!」
狼狽しきった様子で彼女が言う。
「落ち着いて! 僕が捜しますから! どのあたりにいるかはわかりますか?」
「商店街のほう。昼頃に、買い物に行くって、でもそれきり、戻ってこなくて!」
それを聞き、女性の肩を持って俺は語りかけた。
「まず、あなたは避難してください。避難路は東側の路地から。軍人さんが誘導してるはずです。娘さんは僕が探しますから!」
女性は目を見開いた。
「どうかお願いします!」
「はい!」
俺はそう言って、女性の背を軽く押した。
「行ってください。娘さんは、僕が助けます」
俺は 瓦礫を飛び越え、走る人波をかき分ける。
俺には子供のころから変わった特技がある。意識的に集中して見た目の前のものを、写真や映像のように鮮明に記憶してしまうのだ。専門家によるとそれは「映像記憶」というらしい。
俺がここ数日の軟禁生活で読み漁った本のうちの一つ。この国、イグナスの地理。だいたい頭に入っている。
(商店街はこの先の通りを抜けた右手側だったはず)
「リンちゃんっ!」
――たとえ、俺にできることが少しでも。今は、それをやるだけだ。
商店街に入った瞬間、空気が変わった。
瓦礫と散らかった商品。倒れた屋台。誰もいない静寂の中、聞こえてきたのは――すすり泣く声。
「……!」
目を凝らす。
すると瓦礫の影で、小さな白いワンピースの少女がうずくまっていた。
だが。
女の子のその先には――“それ”がいた。
黒い体表。四足の強靭な手足、大人の熊ほどの巨体。前足には刃のように湾曲した爪。
化け物――。
「グオォォォォォ!!」
「……っ!」
少女は泣きじゃくり、体を丸めたまま動けずにいる。その化け物は一歩、また一歩と距離を詰めていた。
その光景が、俺の脳裏の“あの場面”と重なった。妹を自分が助けられなかった後悔。何度も何度も夢に見た、悔しさ。
震える足を、一歩、前に出した。
(逃げるな……逃げるな、俺……!)
倒れた兵士のすぐそばに、落ちていた一振りの剣。
――まだ使える。
「……借りるぞ」
そうつぶやき、両手で柄を掴んだ。思ったより重い。
腕が震える。
でも――
「うおおおおおっ!!」
目の前には、まだ泣きじゃくる少女。その少女に向かってモンスターの爪が、今にも振り下ろされようとしていた。
世界が、スローモーションになった。
今度こそ……今度は――!
モンスターの巨大な爪が振り下ろされる瞬間――
ただ駆け抜ける!そして、この手で、少女の体を抱き上げ、地面を転がった。
俺たちはモンスターの一撃から間一髪のところで難を逃れた。
「っ、く……!」
滑り込んだ際に地面に背中を打ちつけた痛みはある。
――でも、少女は生きている。今度は守れた!
少女をしっかりと腕に抱きかかえたまま、俺はゆっくりと体を起こす。
「……もう、大丈夫だよ」
呼吸が乱れて、喉は乾いて、心臓はうるさいほど暴れている。
それでも――今だけは、笑わなきゃいけない。
精一杯の笑顔を作って、少女の目を見た。少女は驚いたように目を丸くして、涙をためたまま小さな声で言った。
「……ありがとう、おにいちゃん」
「うん、よく頑張ったな。あっちに、お母さんが待ってる。走っていけば、絶対に会える。だから慌てず、しっかり逃げるんだ」
少女は何度も何度もうなずいたあと、名残惜しそうにこちらを見て、ようやく走り出した。
その小さな背中が遠ざかっていく。
少女の姿が完全に通りの角に消えたその瞬間――背後から、低いうなり声が響いた。
「だよな。ここからが本番だ」
俺はそっと少女の重みが消えた腕を下ろし、地面に落ちた剣を拾い上げた。
モンスターの眼光が、俺を捉えていた。黒く濁った瞳の奥で、明確な殺意だけが静かに燃えていた。
「……簡単にはやられねぇぞ……」
☆今回の一言メモ☆
モンスターという存在はこの異世界においても近年現れたばかりの新たな生物種。他でいうとエルフやドワーフといったような個別の括りといった具合です。このモンスターは魔物と似ていますが実際かなり差異があって、魔物とは一線を画す戦闘力や知能を持っています。古来より存在する魔物とは違って研究や対策も完全に進んでいないので、この世界の人々にとって脅威となっているわけです。