第54話 お風呂のお約束
やがて屋敷の奥から、トーマスとレイが姿を見せた。
「グレイス様、黒瀬様も、おかえりなさいませ」
「はい……。静……いや、レイも無事に帰ってきてたんだな、本当に良かった!」
俺は思わず彼女の頭を撫でた。
「もう、お兄ちゃんってば大げさだよ!」
レイが照れたように笑う。
グレイスはミーナとトーマスに向かって、ふっと微笑んだ。
「ああ、お前たち。久しぶりだな」
その穏やかな表情に、ようやく姉妹の面影が重なって見えた。
「おや。ですが、どうして黒瀬様とご一緒にお戻りで、グレイス様?」
トーマスが不思議そうに首をかしげる中、ミーナは俺のびしょ濡れの姿に目を丸くした。
「それにナギさん、びしょ濡れですよー!」
「ああ、ちょっとな。彼の人助けの結果だ」
グレイスが答えると、すぐにトーマスが慌てて駆け寄ってきた。
「これはいけません! 風邪をひいてしまいますぞ! ささ、こちらへ!」
「え、あ、はい!」
俺は急かされるまま、またも屋敷の奥へと引っ張られていった。
残されたグレイスは、ミーナをじっと見つめる。
「さてミーナ。あの男はいったい、何者だ?」
「えーっと……ちょっと、話すと長くなるかも?」
目をそらしながら答えるミーナに、グレイスがじとっと視線を向けた。
「まぁいい。お前の拾い物は今に始まったことではないしな」
「えへへ」
ミーナが笑う。
それを見たグレイスも、ふっと口元を緩めた。
「彼が悪い人間ではないことくらい、私にもわかっている」
「え?」
「見た目こそ変わっているが、目を見ればわかる。あれは、人のために動ける優しくて強い人間だ」
そう言って、グレイスはミーナの頭を軽く撫でると、ぽつりと笑った。
「久しぶりに帰ってきたんだ。風呂でも一緒に入るとしようか、ミーナ」
「うん! 嬉しい!」
ミーナはぱっと顔を明るくさせた。その笑顔は、まるで小さな子どものようだった。
* * *
湯気がふわりと立ち上る夜の露天風呂。
石造りの縁に腕をかけ、俺はゆったりと湯に身を沈めていた。
「昨日は気づかなかったけど、露天風呂もあったんだな……」
高級感のある木製の湯舟。星空と淡い灯りに包まれたその空間は、まるで別世界のようだった。
「お金持ちって本当にいるんだなあ」
俺はつい、イグナスでの寮を思い出す。ビート達と狭い浴室で肩をぶつけ合った日々が、妙に懐かしい。
ざぶん、と軽く湯に浸かる音が響いた。
「はぁ……。生き返る……」
そんな俺の耳に、塀の向こうから声が飛び込んできた。
「お姉ちゃん、またおっきくなってない?」
「ミーナもじきに大きくなるさ。だがこの子のよりも小さいのは、どうも……」
「むむむ、レイさんも隅に置けない……!」
「恥ずかしいから見ないで!」
(なにを話してるんだ、あの人たちは……)
思わず、耳をそばだててしまう俺だった。
「そういえばミーナ。トーマスに聞いたぞ。また一人で“あの場所”へ行っていたんだってな」
「うん」
「お前は、もうすぐ王女として即位しなければならない身だ。ほどほどにな」
「でも……お父様は、お姉ちゃんにって……」
「私は、前線に立って市民やお前たちを守るほうが性に合っている」
姉妹のやりとりは、他愛のないじゃれ合いから、将来を見据えた対話へと変わっていった。
「それにミーナ、単純にお前の身が心配なのもある。このところ、魔物が凶暴化してきている。十年前から現れたモンスターの被害も続いている。最近では、イグナスが頻繁にモンスターと交戦していたようだ。いつこの国が被害に巻き込まれるかわからん」
その静かな声に、俺は湯の中で目を細めた。
(一応ここまで情報は来てるのか)
「うん、そうだね」
ミーナの声が少しだけ沈んだ。
「だがまあ……お前のことだ。私が駄目だと言っても、きっと行くだろうな」
その余韻が残る中――あろうことか、突然。
「黒瀬凪! 今の話聞いていたな?」
間が空く。
「えぇぇぇ!?」
「お兄ちゃん!?」
ミーナとレイの絶叫が上がる。
グレイスは塀越しに、まっすぐ俺の気配を見抜いていた。
(……あの人、達人かよ)
「……はい」
俺は観念して答える。
「いったいどこから聞いてたんですか!?」
ミーナが顔を真っ赤にしながら訊ねると、俺は正直に答えた。
「えっと……“お姉ちゃん、またおっきくなってない?” ってところあたりかな」
「ぜ、全部じゃないですかぁぁぁーー!!」
壁の向こうで、ミーナの叫びが夜空にこだました。
* * *
湯の温もりがまだ残る体で、俺が廊下に出ると――ちょうど三人が反対側から歩いてくるところだった。
「あっ、お兄ちゃん!」
「湯はどうだった?」
とグレイス。
「最高でした!」
思わず元気に返事をしてしまう。
……が、次の瞬間。
ちらりと視線を向けたミーナの頬が一気に真っ赤に染まる。
「ナギさんの、えっち」
「なんかすんません!!」
俺が即座に謝ると、グレイスは肩を小さく揺らして笑い――そしてすぐ、声の調子を真面目なものに戻した。
「というわけで、お前がこの屋敷に滞在する間。ミーナがまたああいう外出をする時は、お前が付き添ってくれ。お前はきっとイグナスでの戦闘経験があるのだろう?」
俺の動きが、ピタリと止まる。
「……なんで俺がイグナスから来たってことを? ミーナに聞いたんですか?」
ミーナは無言で首を横に振った。
グレイスのサファイアの瞳が、俺の目をまっすぐに射抜く。
(――この人、やっぱりただ者じゃない)
「……さっき、これを落としただろう」
グレイスが静かに、手元から小さな物を放る。
俺の胸元へと飛んできたそれを、あわてて両手で受け止めると――
「これ!」
俺の手の中にあったのは、イグナス軍の階級章。間違いなく、以前自分が身につけていたピンバッジだった。
「俺、落としてたんですね」
俺が苦笑まじりに言うと、グレイスは一歩、俺に近づいて言った。
「それに君の服の細部には、イグナス特有の織りがある」
「……すごいですね」
俺が素直にそう言うと、グレイスの目元がわずかに和らぐ。
「私は明日、また王宮へ戻る予定だ。さきほどミーナにも話したが、君のことを誰かに他言するつもりはない。だから、できれば君の口から事情を聞かせてほしい。私も、きっと何かの役に立てるだろう」
その瞳は、すべてを見透かすようでいて――決して、責める色ではなかった。
俺は、静かにうなずいた。
「……わかりました。話します」
俺はこの国の未来。
“王女の姉”であるグレイス・サフィールに、すべてを明かす決意を固めた――。
――そして、レイにも。
☆今回の一言メモ☆
グレイス→レイ→ミーナ




