第0話 『俺』
――教室の片隅。
いつも通り俺は窓際の後方の席に座っている。
今日は経済学の講義か。内容は退屈だが、つまらないのは講義のせいじゃない。
この世界そのものが、もうとっくに“終わって”るような気がしていた。
ノートを取る手は機械的に動いていた。
黒板の文字も、教授の話す言葉も、全て映像みたいに脳に記録されていく。
"映像記憶"
一度見たことは忘れない――それが俺の体質だった。
便利そうに思えるだろう?
でも、全部覚えてるってことは、何も“忘れられない”ってことだ。
どんなにくだらない陰口も、目を背けたくなる後悔も、全部そのまま脳裏にこびりつく。
たとえば――
妹の黒瀬静音が事故に遭った日のこと。
あの日、もし俺がもう少し早く家を出ていれば。
あと一歩、ほんの少しでも――何かが違っていたなら。
今も、病室のベッドで眠ったままの彼女を見ながら、俺は毎日それを思う。
講義が終わり、構内のベンチでひと息ついていると俺の後ろへ近づく足音。
見なくても誰かわかる。
「よぉ、凪」
気だるげな声とともに、佐藤悠真が自販機の缶コーヒーを差し出してきた。
高校からの付き合いで、数少ない“俺の友達”だ。
「また今日も、飯抜きか?」
「うん。家、帰ってからでいい」
「……あのさ、お前ちゃんと寝てんの?」
俺の顔をじっと覗き込んでくる。
心配してくれてるのはわかる。けど、どう返せばいいかわからない。
「ちゃんと寝てるよ。」
空を見ながら俺が言うと悠真はため息をついた。
「お前ってさ、頭も良いし運動もできるくせに、全然楽しそうじゃないよな。静音ちゃんの件は残念だけど、俺は今のお前が心配だ」
――そう言われるのは、これで何度目だろう。
俺だって、そうなりたくてなったわけじゃない。
でも気づいた時には、周りから浮いていた。
“なんかすごいヤツ”って扱われて、誰とも本当の意味で並んで歩けなかった。
静音だけは、そんな俺に普通に接してくれた。
だからこそ――俺は、助けられなかった自分を許せないでいる。
夕暮れ。自宅の玄関を開けると、重たい空気が全身にまとわりついてくる。
リビングのテレビは消えたまま、部屋の奥から物音もしない。
母さんは今日も、部屋にこもったままだ。
事故以来、母さんはまともに食事も取らず、父さんと話すこともない。
父さんとも、帰宅しても会話はなくなった。
家庭は、“声のない箱”になってしまった。
そして、その空気の原因は――"俺"だ。
◇ ◇ ◇
あの日の朝、静音は、いつものように家を出た。
だが、そのほんの直前――あのやり取りがあった。
「おぉ、静音、今日も早いな」
「あっ、お兄ちゃん!うん、大事な試合の前だから。いっぱい練習しないと……いたたっ」
「……どうした? 体調でも悪いのか?」
「最近ちょっと、頭痛とめまいが多くてね。ただの立ち眩みだと思うけど……なんか、"変な夢"も見るんだよね」
「おいおい……。いくら試合が大事でも、無理するなよ。今日くらい、休んだら?」
そんな俺の言葉に、彼女は少しだけ困ったように笑って――それから、いつものように言った。
「平気だってば!気合で乗り切るよ。じゃ、行ってきます!」
「あ、あぁ……行ってらっしゃい」
玄関が閉まる。
――その直後だった。
「って、あいつまた!」
置き忘れられた弁当箱に気づいた。
俺が毎朝、眠い目をこすりながら作ってる特製の卵焼き入り弁当。
「せっかく頑張ったのに、無駄にするわけにはいかないだろ!」
そう叫びながら、俺は玄関を飛び出した。
◇ ◇ ◇
住宅街の通りを抜け、俺は全速力で妹を追いかけていた。
その時――
『……急いで!!』
誰かの声が聞こえた気がした。
振り返っても、誰もいない。
「……気のせいか?」
けれど前方に見えた静音の姿に、胸がざわついた。
彼女は頭を抱え、ふらつきながら歩いていた。
――次の瞬間、彼女の足がふらりと車道へ踏み出した。
「おい、危ないっ――!」
その先には、すでにブレーキを踏む間もない大型トラックが迫っていた。
「し、静音――ッ!!」
駆け出す俺の叫び声は、虚しく朝の空へと消えていく。
何もかもが一瞬にして崩れ去る音がした。
その光景は、今でも鮮明に焼きついている。
まるで映画のように、何度も、何度も。
俺の脳内で“映像記憶”として再生され続けている。
◇ ◇ ◇
その夜。
俺は病院の一室にいた。
白く塗りつぶされた壁。
沈黙の中で、点滴の滴だけが落ちる。
ベッドの上には、静音。
どれだけ呼びかけても、目を開けることのない――俺の妹。
……どうして、俺だけが取り残されてるんだ。
あんなに元気だったのに。
大事な試合だって、応援してやりたかったのに。
なのに。
何もできなかった俺だけが、こうして生きている。
ただ呼吸しているだけの、無力な存在として。
――俺が代わりに事故に遭えば良かったんだ。
込み上げてくる感情を抑えきれず、俺は彼女の手を握る。
「……静音」
震える声が漏れる。
せめて、もう一度だけでいい。
お前の声を、聞かせてくれ。
そう願った――その瞬間だった。
耳の奥で、“声”が響いた。
『私の声が届いた。やっと。黒瀬凪、あなたに託す時が来ました。』
……これは、誰の……?
「……誰だ?」
思わず顔を上げた俺の視界に、揺らめく“光”が映る。
それは天井の蛍光灯でも、手元のスマホでもない。
光はゆっくりと降りてきて、俺を飲み込んだ。
……そして。
世界が、反転する。
次の瞬間――
すべてが、真っ白に染まった。
読んでいただきありがとうございます。
すでに40話以上の投稿したあとに0話の投稿です。
第1話では黒瀬凪という主人公が異世界に転移した直後から始まります。
しかし、そこからだと黒瀬凪という主人公の人物像や背景がわかりにくかったので、これを差し込むことにしました。