第164話 『青の星』
そこでは宇宙空間から降下する俺たちの声だけが静かに響いていた。
「……終わったな」
胸の奥から吐き出すように、俺はつぶやいた。
魔龍とノンの姿はすでに光の粒子となって消え、残るのは青く丸い地球と、まばゆい太陽だった。
『ええ。そしてこれが地球なのね。この青い星であなたは生まれ育った」
リシアの声がする。
「そう。俺も実際に全体を見るのは初めてだけどね」
『でもまだ、次元の穴が開いたままよ。あれを閉じないといけないわよね、ママ』
黄金の光に包まれたセレスティアが静かに告げる。
「そうね。あれを閉じなければ、この世界には本来あってはならない魔力が流れつづけ、やがて大きな歪みを生むわ。急いで戻って、私と“魔煌剣”の力で閉じましょう」
俺は短くうなずきながらも、心の奥で別のことを考えていた。
(……そうだ。穴を閉じるってことは、俺自身がどちらかの世界で生きるかを選ばなきゃならないってことだ)
拳を握る指先が震える。
そんな俺の迷いを見抜いたように、リシアがそっと名前を呼ぶ。
「……凪」
「あ、ああ! 悪い……」
俺は顔を上げ、ほんの少し笑ってみせた。
「その前に、俺のわがままを一個だけ聞いてくれるか?」
* * *
――東京にあるとある病院の個室。
空からは朝日が差し込んでいる。
ベッドの上では、俺の妹、黒瀬静音が静かに眠っていた。
人工呼吸器の管が細く胸元へと伸び、モニターに映る脈拍だけが一定のリズムを刻んでいる。
その表情は幼い頃のまま、穏やかで――けれど、長い眠りの深さを物語っていた。
その時だった。
窓辺がふわりと金色に輝き、静かな光が差し込む。
やがてその光は人の形を取り、翼を持つ青年――黒瀬凪が、ゆっくりと降りてくる。
リシアが俺の中から声をあげる。
『……あの子! レイ!? そう、この子が……』
俺は静かにうなずき、ベッドに横たわる妹を見つめた。
「そう……彼女が静音だよ」
リシアは息をのむ。
『凪がいつも気にかけていた子……。ハクと同じでレイとは本当に瓜二つね……』
部屋の空気が揺れる。
まるで夜明けを告げる風が吹き込むように、病室の窓がガラリと開いた。
「――やっぱり、ここに来たか」
不意に響いた声に、俺は声の主を見る。
「その声……!」
病室の中から顔を覗いたのは見覚えのある青年だった。
高校時代からの数少ない友人、佐藤悠真。
薄暗い病室の中で、その笑顔は変わっていない。
「久しぶりだな、凪」
凪の目が大きく見開かれる。
「まさか……佐藤、か!」
俺は開いた窓からそっと病室へ降り立った。
佐藤が、変わらぬ笑顔でそこに立っていて、静かに俺の肩に手を置く。
「どうしてここに……!?」
俺の問いに、佐藤は少し照れたように笑って答えた。
「東京湾に現れた“化け物”のニュースで、今世界中がざわついてるんだ。
根拠はなかったけど、真っ先にお前の顔が浮かんだ。
もしこの騒ぎにお前が関わってるなら……絶対に静音ちゃんのところに来るだろうってな」
俺は胸の奥がじんと熱くなるのを感じながらうなずいた。
「……そっか。来てくれてありがとう」
「友達だからな。当然だろ」
小さな病室に、わずかな温もりが流れた。
「……なんだか、しばらく見ない間に変わったな、凪」
佐藤は俺をじっと見つめ、口角を上げた。
「そ、そうか? 俺は別に」
「いや、変わったよ。まるで別人みたいだ」
「……まぁ、色々あったからな」
それから、彼はふと真顔になる。
「それより、何か急いでるんだろ、凪」
「うん。俺にはまだやることがあって……すぐにまた地球を離れなきゃいけない」
佐藤は驚きと寂しさを混ぜた表情でうなずいた。
「そうか。だから静音ちゃんのところに……」
俺は彼に短く微笑み返し、静音のベッドの傍らへ歩み寄った。
そして、魔煌剣にそっと手をかけ、深く息を吸う。
「――≪魔法構築≫……≪水霊再生≫」
青く澄んだ魔力が部屋の空気を揺らし、まるで水面のように静音の身体を包み込む。
その光はやさしく、けれど確かな力を秘めていた。
佐藤はその様子を黙って見つめ、胸の奥で何かをかみしめるように息を吐いた。
「これは……凪?」
佐藤はその光景を黙って見つめ、胸の奥で何かをかみしめるように息を吐いた。
「……これは、凪?」
「ちょっとした魔法だよ」
青い光が静かに落ち着いていく。
「……う、うん……」
静音のまぶたが、かすかに動いた。
「まさか本当に……! 静音ちゃん!」
佐藤が声をかける。
「静音……」
俺もベッドの傍らで彼女を見つめる。
やがて、彼女の瞳がゆっくりと開いた。
その視線が、まっすぐ俺の方へ向けられる。
「お、お兄ちゃん……?」
俺は彼女の手を取り、なんとか笑顔を作った。
「ああ……静音。よかった、本当に」
「……あのね、夢の中でね……お兄ちゃんがすごく、頑張ってたの。本当に……すごく……」
人工呼吸器をつけながらも、彼女は必死に言葉を紡いだ。
その時、胸の奥でセレスティアの声が響く。
『黒瀬くん』
「ああ……行こう。セレスティア、リシア」
「お兄ちゃん、ありがとう……」
「うん。またな、静音」
俺は彼女の頭を撫でたあと、その手をしっかりと握った。
佐藤は察したように目を細めた。
「……もう、いっちまうんだな」
「ああ。ごめん。でも、いつか必ず……また来るよ、佐藤」
俺たちはしっかりと握手を交わした。
そんな短い言葉を交わし、俺は再び窓から空へと昇っていく。
夜明け後の陽の光が差し込み、病室の白い壁を金色に染めていた。
俺たちは、再び魔龍が開けた次元の穴の前に立っていた。
名残惜しくも、俺は一度だけ地球を振り返る。
「……また来るよ」
そう告げて、俺たちは精霊世界へと戻っていった。
* * *
「見て! みんな!」
リルが空を指差し、羽ばたきながら叫ぶ。
「……ちゃんと戻ってきたみたいね、黒瀬」
エアリアが、ほっとした笑みを浮かべた。
精霊世界の空で、俺は大きく息を吸い込み、次元の穴へ向かって魔煌剣を掲げる。
黄金の光が刃から溢れ、ひび割れた空間をひとつひとつ縫い合わせるように包み込んでいく。
やがて、空間の亀裂は完全に閉じ、元の澄んだ空へと戻った。
「……これで、終わった」
『ええ、終わったわね』
リシアの声が胸の奥で優しく響く。
俺たちは光の翼をたたみ、ゆっくりと精霊世界の大地へと降り立った。
頬をなでる風は、もう戦場の風ではなかった。
俺の中のみんなの魔力を通じてみんなの声が俺に届いている。
「みんな、ありがとう」
みんなに答えるように俺は心の中で何度も唱えていた。




