第112話 水心動岩
ミーナの背後で、金属の擦れる音とともに鍵が開いた。
――ガチャリ。
「え!?」
「はい、これで動けるようになったかな?」
ミーナに静かに近づいた青年が、拘束具を外すと同時に優しい笑みを浮かべた。
「あ、ありがとうございます!」
ミーナが反射的にお礼を言うと、彼はにこりと笑って名乗った。
「僕は四闘神の一人、ロムバルド・ノルディス。僕のことは気軽に“ロム”と呼んでくれて構わないよ」
茶髪を持つその青年は、戦士というよりもどこか貴族的な気品すら漂わせていた。
「あと、これも忘れずにね」
彼から差し出されたのは――
「……私の杖!」
それはミーナの大切な杖だった。
「気を失っていた君をリオナちゃんから受け取って、あの部屋に運んだのは僕だったんだ。ロストくんの指示もあってね。だけど最近の彼の行動、どうにも不可解でさ。それに――美しいレディをこんな風に拘束しておくのは、どう考えても筋が通らないと思ってね」
彼はこともなげに言い、微笑んだ。
「は、はぁ……」
ミーナは唖然としながらも彼に問う。
「ひとつ教えてください!」
震える声で叫んだ。
「ロムバルドさん! 私が気を失ってる間に、なんでリシアさんとリオナさんが戦うことになってるんですか!?」
だがロムは、いつもの調子で肩をすくめる。
「ロムと呼んでくれていいよ、ミーナちゃん。……まぁ、話せば長くなるけど」
少しだけ眉をひそめ、彼は続けた。
「これは、もともとリオナちゃんが望んだ“決闘”だ。お互いに宿命めいたものを抱えていたからね。けど――」
そこまで言ったところで、ロムの言葉を遮るように――
キィィィィィィン!!
闘技場に甲高い金属音が響いた。直後、地面を割るような激しい地鳴りが起こる。
下でリシアとリオナが激しく戦っているのだ。
「ロストくんが……リシアちゃんに僕たちが見たことのない……黒の力を使った。それから彼女が……まるで人が変わったように、好戦的になってね」
ロムバルドの表情が曇る。
そして、再び闘技場に響くのはリオナの声――
「邪魔は入ったが……やっと、貴様と本気で戦える! この時を何年待ったか!」
リオナ・ラグナードが、燃えるような金の瞳でリシアを睨みつける。
「……」
リシアは黙したまま、ただ静かに剣を構えていた。
ミーナが言った。
「ある人が前に言っていました」
ぎゅっと杖を握りしめた。
「“黒の力”は魔法とは系統が異なる。あらゆる物と現象に干渉する規格外の力だって。……非現実的ですけど、たぶんあのロストっていう人は、リシアさんの心に干渉したんだと思います」
静かに語るその言葉に、ロムバルドは目を細め、ゆっくりとミーナを見つめた。
「では、ミーナちゃんはどうするんだい?」
その問いに、ミーナは迷いなく答えた。
「私はまず、あの大男さん――の治療に向かいます。そして……ロムバルドさん、あなたもリシアさんを止めるのに力を貸してください!」
その願いに、ロムはふっと笑った。
「ロムでいいって言ったじゃないか」
だが次の瞬間――その笑みは消え、静かな沈黙が彼の周囲を包む。
「……けれど、難しいな」
「え?」
ロムはゆっくりと首を振り、どこか遠くを見つめるように語った。
「この国、グラディアにはね。昔から一つの厳格な掟があるんだ。“個人対個人の決闘には、たとえ王であろうとも口出しも援助もしてはならない”――と」
「そんな……」
「他国籍のリシアちゃんやミーナちゃんがどうするかは無理強いしないよ。ただ僕がここで手を貸せば、彼女たちの意志そのものを冒涜することになるかもしれない。それはできない」
ミーナは息をのんだ。
彼の瞳は優しいままだったが、その奥には冷たく張りつめた“国の理”が確かにあった。
その少し離れた所で大剣を背負った四闘神の一人が動いた。
「……来る」
静かに目を閉じていた男――リュウガ・ヴォルゼンが、ふと眉をひそめた。
「強い力を持った者が……だが、なんだこの異質さは……」
その場に立ち上がると、まるで導かれるように観客席から一歩、また一歩と歩み出す。
彼の視線は闘技場ではなく、その“何か”を探すように遠くを見据えていた。
そして――
「うおおおおおッ!!」
リオナの雄叫びが闘技場に響き渡る。
対するリシア・F・アルステッドは声を発さず、ただ静かに、だが研ぎ澄まされた瞳で応じた。
広大な闘技場を駆け回りながら、二人の武器が幾度となくぶつかり合う。
大斧と刀――その衝突が生む轟音と、舞い上がる砂煙。そして散る火花。
それは、あまりに速すぎて観客には二人の姿を捉えることさえできない。
「う……ぐっ……!」
闘技場の壁際に崩れた巨体が、呻き声を漏らす。
バラン・ドッカー――その名に恥じぬ剛腕の戦士は、それでもなお立ち上がろうともがいていた。
「無理ですよ! バラン様、動かないでください!」
付き従う戦士たちが慌てて制止する。
そこへ――
「大丈夫ですか!?」
駆け寄った少女の声に、バランは顔を上げる。
そこにいたのは、つい先ほどまで囚われていた少女、ミーナ・サフィールだった。
「お前はリオナが連れてきた娘か……」
ミーナは杖を高く掲げ、すぐさま詠唱に入った。
淡い水色の魔力が彼女の手から溢れ出す。
だが――
「……戦いの最中に、施しなど受けん……」
バランの唸るような拒絶がそれを遮った。
ミーナはきょとんと目を丸くし、そして――
「……なに言ってるんですか! 命にかかわります!」
「命など四闘神にとっては取るに足らないものだ!」
バチン――!
乾いた音が、空気を裂いた。
バランの左頬に、ミーナの小さな掌が叩きつけられていた。
「……ッ!?」
その巨体がほんの僅か揺れる。
一瞬、時が止まったかのように静寂が訪れた。
ミーナの瞳が真っ直ぐバランを捉えている。
「命より大事なものがあるですって? ……ふざけないでください。死んだら全部、おしまいなんです!」
その声は震えていたが、確かだった。
「家族や、あなたを慕う人たちが……どれだけ悲しむか、わかってるんですか!?」
バランは、何も言えず、ただその場に佇んだ。
「ぬ……ぬう……」
巨躯の男の肩が、わずかに揺れる。
それは怒りでも屈辱でもなく――確かに“何か”を突き動かされた証だった。
「命を捨てることだけが、戦士の誇りじゃないはずです」
ミーナの声は優しく、けれど確かに、バランの心に届いた。
次の瞬間、彼女の足元から放たれた淡い蒼光が、精密な魔法陣を描きながら広がっていく。
その輝きは優しく、だが力強く――バランの全身を包み込んだ。
「癒しの精よ――汝が静穏をもって、傷を、痛みを、迷いを洗い流したまえ。
今ここに、命の泉を満たせ――水霊再生!」
「……これは……」
傷だらけだった身体が、見る見るうちに癒えていく。
割れていた鎧の継ぎ目が光に包まれ、血の気を帯びていた皮膚が元通りに戻っていく。
「なんという治癒力だ……」
そばにいた戦士が、息を呑んだ。
ミーナは、深く呼吸を整えながらも、笑顔を絶やさなかった。
「これで大丈夫です」
バランはそっと地に手をつき、自分の足で立ち上がる。
ゆっくりと彼女を見下ろし、静かに言った。
「……ミーナ、と言ったか。お前も、誇り高き戦士だったようだな」
ミーナはちょっと照れくさそうに、しかし胸を張って、
「えへんっ!」
と誇らしげに笑った。
バランの口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「いいだろう。ここは俺の負けだ。今日は潔く退こう」
☆今回の一言メモ☆
ミーナの優しさという強さが強情なバランを突き動かしました。




