第98話 シスター ―転移―
ザンッ!
翼を切り裂かれたゼロの悲鳴が、空中神殿に響き渡る。
「ギ、アアアアアアッ!!」
翼を失ったゼロが空中に飛び上がることは無く、地上でもがき苦しむ。
「ぐっ……クソが……俺の翼が……ッ!」
狂気を宿す赤い瞳が揺れる――だが、その姿を見ている俺の胸にも、痛みが走っていた。
「……ゼロ……」
俺は剣を強く握ったままつぶやく。
――ゼロは仲間を、妹を、容赦なく狙う“敵”。そのはずだ。けれど、それでも――かつてハクと共に戦った“仲間”だったというのなら。
もし、今も心のどこかに繋がりが残っているのなら――ハクなら――
「……ゼロ、もうここで終わりにしないか?」
それは、隣に立つハクの声だった。
まっすぐに、ゼロを見据えたまま、言葉を紡ぐ。
「俺は……お前を殺したくはない。お前と対立したことは事実だがそれでもずっと……俺はお前を仲間だと思っている」
静かなその声に、ゼロの表情がぴくりと動いた。
「……甘いなァ、ほんと。昔っから、そうやって……」
そして――笑う。
痛みに顔を歪めながら、それでも苦笑のような、どこか捻じれた笑みを浮かべて。
「そういうとこが、ムカつくんだよ……だったら――せめて目の前で見せてやるよ!」
ゼロが手を天へと掲げた瞬間――
「ぐ、うあああああっ!!」
空中に囚われていたレイの身体を縛る黒の鎖が、さらに強く締めつける。
少女の身体がのけ反り、悲痛な叫びが天へと突き抜けた。
「や、め……ッ!」
「レイッ!!」
「やめろゼロッ!!」
俺とハクの叫びが重なる。だが、黒の力は止まらない。
今にも、あの細い命を砕いてしまいそうなほどに。
「やむを得ん! 凪、ゼロを斬るぞ!」
「く、うん!」
――その時だった。
「……っ……あ……」
レイの瞳に光が宿った。
必死に痛みに耐えながら、意識の奥を探るように、微かに震える唇。
兄たちの声。
戦いの音。
叫び。
ゼロの言葉――そして、ずっと守ってくれていた兄達の記憶。
(私は……“お兄ちゃん”に……助けてもらってばかりじゃ、だめ。“私”が……“私”を、取り戻すんだ……)
その瞬間、レイの目が見開かれる。
「……思い出した……! 私……私はレイ! 転移――!」
黒の鎖の中心に、淡い光が走る。
空間に黒い魔法陣が展開され、その中心から彼女の身体がふっと掻き消えた。
「なッ……!?」
ゼロの目が見開かれる。
次にレイが姿を現したのは、俺たちの目の前だった。
傷だらけの身体で膝をつきながら、それでも確かに――彼女は、自らの意思で黒の檻から脱け出してきたのだ。
「……やっと……戻れた……兄さん……!」
痛みを滲ませた息遣いと、それでも浮かべる微笑。
それだけで、張り詰めた戦場の空気が一瞬、やわらいだ。
ハクはすぐに駆け寄り、レイの肩を抱き寄せる。
「……良かった。レイ……!」
「うん……兄さん……来てくれてありがとう」
静かに交わされるその会話は、俺にとっても救いだった。
けれど、同時に――複雑な感情も胸に渦巻いていた。
――彼女の記憶が戻ったということは、あの時の記憶も、すべて消えてしまったのだろうか。
レイが、そっとこちらを向いた。
その瞳には、もう迷いはない。彼女は、すべてを思い出している。
目を伏せながら、俺へと語りかけた。
「私、“お兄ちゃん”との記憶も……ちゃんとあるから」
一呼吸置いてから、少しだけ頬を赤らめて続ける。
「……その、お兄ちゃんも来てくれて……ありがとう」
その言葉に、俺の胸がいっぱいになる。
思わず笑って、うなずいた。
「……うん。本当に……よかった!」
思わず駆け寄り、彼女の肩にそっと触れる。
レイは少しだけ身を預けるように寄り添い、微かに微笑んだ。
「……二人とも、ありがとう」
その言葉に、ハクも歩み寄って、レイの頭を優しく撫でる。
「俺たちは……兄妹だからな。助けるのは当然だ」
その声にレイがうなずく。痛みに耐えながらも、どこか安心したような顔だった。
――ようやく、三人がそろった。
バラバラだった絆が、ようやくひとつになった瞬間だった。
しかし、その温かな空気を引き裂くように――
「……チッ」
ゼロが呻くように声を漏らした。
黒い瘴気をまとい、翼を失った身体で、なお立ち上がる。
「茶番は……終わったかよ……」
その声には、怒りでも憎しみでもない、ただ深く沈んだ虚無が滲んでいた。
「やっぱりよぉ……お前らは、ムカつくほど眩しいんだよ……」
赤い瞳が、震える。
血を流し、瘴気をまき散らしながら、それでもゼロは言葉を続けた。
「そうやって……手を取り合って……心が通じ合って……」
拳を握り、地面を蹴り上げる。
「だったら――その絆ごと、全部ぶっ壊してやるッ!!」
咆哮と共に、ゼロの身体から凄まじい黒の魔力が噴き上がる。
失ったはずの翼からも、瘴気が爆ぜ、戦場の空気が激しく軋む。
この男は――まだ、戦うつもりだ。
ゼロの咆哮と同時に、ゼロの身体が闇の瘴気をまとって膨張し始める。
ドクン、ドクン、と脈打つように黒い魔力が周囲を圧迫し、重苦しい風が辺りを包む。
「ッ……なんだ、この圧……!?」
「ゼロ……!? まさか……」
突如、彼の背中から――バサッ!と音を立てて、新たな翼が生える。
さきほど斬り落とされたはずの翼。漆黒の鱗に覆われ、先端は鋭利な鉤爪のように変化している。
「グ、グルルル……!」
ゼロの喉から漏れる唸り声。
その眼は赤からさらに濃く染まり、黒い縁取りの中で燃えるように光っていた。
――次の瞬間、彼の全身に変化が走る。
皮膚がひび割れ、全身に鱗状の装甲が現れる。
手足はごつく変形し、指は鋭い鉤爪に。
その身長すらも一回り、二回りと大きくなっていく。
右腕のモンスターの顔は更に巨大になり、まるでそちらが本体かのように俺達を睨みつけた。
「ゼロ……。それ以上は……!」
ハクの制止にも、ゼロはもう反応しない。
完全に理性を失った二組の眼が、俺たちを睨み据えていた。
「グアアアアアアアアァァァァ!!」
雄叫びとともに、地面が震える。
空中神殿の床石が砕け、亀裂が奔る。
「ッく……もう、止まらないのか……!」
ゼロの身体は、もはや人間のものではなかった。
異形と化した肉体――モンスターの鱗に覆われた“黒の暴走体”。
その姿は、力を求めすぎた代償。
「ゼロ……っ!」
俺は剣を構えながら、言葉を飲み込む。
あれは、もう、ゼロじゃない。
――だから。
今ここで、止めなければならない。
☆今回の一言メモ☆
レイの記憶が戻りました。彼女の記憶のなかった期間。水の国編の出来事の記憶を失くすことはありませんでしたので、彼女にとっては「兄さん」と呼べる存在と「お兄ちゃん」と呼べる存在の両方が残ったということになります。




