第8話
「そっか……そうだったんですね」
「ソウダッタンデス」
最後の心の声だけは伝えずに、奈緒子の言葉をおうむ返ししながら、亮は笑う。
「ま、そういうわけで、もう少ししたら千葉に戻るんですよ。転職活動しなきゃな~」
心底うんざりしたように空を仰ぎながらつぶやく。
「よく次の仕事決めずに辞めましたね。私なら無理かも……」
「いや、いつもの俺だったらそんなことしないんですけど。なんかあのときはそれが『タイミングだ』って思ったんですよね。不思議と」
「なるほど……。転職されるんだとしたら、婚活はしばらく無理ですね」
「まあ、こんな無職ニート野郎みんな嫌だろうし」
おどけたように話すその姿に、奈緒子もくすっと笑みをこぼす。
「いやしかし、ここが夢なのか現実なのか、自信なくなってきたな。奈緒子さんもマスターもシロさんも僕が作り出した夢なのかな」
そんな風に亮はまじまじと3人を見やりながらつぶやく。その気持ちはよくわかる。自分もまさにそう思っていたところだった。
「というか、俺はネタなんてないのに、なんで選ばれたんだろう?」
そう独り言ち首をかしげる亮に、マスターはにっこりと笑って答える。理由を教えるつもりはなさそうだ。シロがぼそっと「あんた縁結びじの神じゃないだろう……」とつぶやくが、その声は誰にも届かない。
「そうだ亮さん、これが夢じゃないことを証明するのに、よければ会う約束をしませんか?」
「あ、いいですねそれ!う~ん、奈緒子さんは仕事もあるだろうし、会えるとしたら近いとこだと夏のお盆当たりですか?」
「そうですね、お盆当たりなら会社も休みなので。じゃあ…8月10日とかどうですか?その日なら空いてます」
「おっけーです。待ち合わせ場所は…東京タワーとかどうでしょう」
「東京タワー、分かりやすくていいですね!朝一、展望室で会いませんか?」
「じゃあ時間は……」
そうして亮と約束を交わし終わるか終わらないかのその瞬間、パチンっと音がした。目の前には、壁。
奈緒子は、はっと周りを見渡す。
気づけば、ビルとビルの間にある自転車置き場のそばに立っていた。
目の前の壁をぺたぺた触ってみるが、先ほど確かにそこにあったはずの扉がない。ぷっぷーと、遠くで鳴っている気の抜けたようなクラクションの音が聞こえる。先ほどまで感じていたお香のような匂いの代わりに、夏に入りたてのむっとした匂いが鼻をつく。
「え、え~……」
シロが夢のようだと言っていたが、本当に夢だったのだろうか。
でも、こんなにはっきりした夢なんてある?ていうか時間まだ決めてなかったんだけどな。
そしてふと、気づく。
先ほどまで全く感じていなかった手のひらと膝の痛み。
奈緒子は「はあ……」とため息を一つつき、タクシーを捕まえるため、通りに出た。空を振り仰げば、弓なりになった月が目に入る。それはまるで、マスターやシロが笑った時の目元のような。
「ま、いっか!」
喫茶店で話すうちに、転ぶ前に感じていた憂鬱な気持ちはどこかにいってしまったようだ。そうして、奈緒子はまた日常に戻るため、歩みを進めた。
■
あの日以来、奈緒子は記憶にある場所付近を歩き回ってみたが、喫茶Si vous vouleを見つけることはできなかった。
暇になると、時間を変え、日を変え、ビルとビルの間を歩き回る。
もうあのマスターとシロさんには会えないのだろうか?
思い付きで、稲荷神社にお参りしたりもした。
お狐様を見ると、シロのあの顔を思い出す。そういえば弟がいるって言ってたけど…やっぱり弟もお狐様なのかしら。
そして約束の8月10日。
今年のお盆は実家に帰省することなく、東京タワーの展望室に一人で来ていた。
分かりやすいよね、ということでここで待ち合わせることにしたけど。本当に会えるのだろうか。時間を決める前に放り出されてしまったし。
スカイツリーができてからさびれているのかと思いきや、お盆休みということもあって意外と人が多い。
展望室をぐるっとまわりながら、ぼーっと外を眺めていた。
あの日のことは夢だったのだろうか?
すべては私の妄想?
そうだとしたら、今日も私は1人で東京タワーに来ただけ。寂しい奴。そう思うと「またネタが増えちゃった」と、笑えてくる。
トントン
その時、奈緒子の肩を叩く手があった。
振り返る奈緒子の顔に、驚きの後、笑顔が広がる。
■
その喫茶店は、あるときは東京に、あるときは北海道に……日本全国に出没するという。共通点は「裏通り」に現れること。そして、店主の気まぐれで選ばれた者だけが入れるということ。
渋めで笑い上戸のマスターと、口は悪いけれど面倒見のいいウェイターがお迎えします。
さて、今日はどんなお客様に会えるでしょう?
もしよければ、あなたも。
第一章 終