第7話
鳥山亮32歳。両親が某有名漫画家のファンだったため、漢字違いでこのような名前となっている。
それはさておき、亮は最近悩んでいることがあった。
それは、転職、である。
このところ、会社の業績に不安を感じるようになってきた。
少しずつ少しずつ人がやめていき、真綿で首を絞めるように業務が増えていく。
更に気になることがもう一つ。親、である。
亮の親ももう60代。最近では、会うたびに「年取ったな」と思うようになってきた。
亮の実家は千葉の田舎町にある。一人っ子の亮は、就職先を考える際、関東でと思ったりもしたのだが、親からの「好きなようにしなさい」との言葉に、結局は大学で出た先の北海道で決めた。
それが最近、揺らいでいる。
この半年、婚活で知り合った女性と付き合っていたが、結局うまくかみ合わず、別れてしまった。特に北海道にいなければならない理由もない。
一つ一つ、ピースがはまっていくような、逆に欠けていくような感覚。
もしかすると、環境を変える時がきているのかもしれない。
占いといった類はあまり見ないが、なんというか、「流れ」のようなものは割と信じているたちであった。縁とかタイミング、そういうものはあると思っている。
その連絡があったのは、そんな風に感じている頃であった。
「亮、母さんが倒れた」
仕事中突然かかってきた電話越しに、疲れたような声の父が呟く。
さーっと背筋から血の気が引いていくのを感じた。
もしかしたら、いつかは、そんな風に感じていた日が、突然やってきた。
「ひとまず命に別状はない。けど、手術は必要になるみたいだ」
その一言に少しほっとする。
「脳の血管に問題があるみたいで、仕事中突然意識を失ったんだ」
「脳の…」その言葉に、眉間にしわがよる。手持無沙汰な左手で、がりがりと服にこびりついていた汚れを削る。
それは、大丈夫なのだろうか。手術をしたとして、生存確率は……。
ぐるぐるまわる意識の中、父は淡々と話を続ける。
「ひとまず手術の準備は整ってる。明後日には始まる予定だ。」
「わかった。なんとか休みとってすぐそっちに帰る」
電話を切ると、亮は頭をがりがり掻き、深呼吸をして気を落ち着けた。机の上に広げられた仕事の資料が目に入るが、今はそれどころではない。心ここにあらずのまま、亮は上司に電話をかけて事情を説明し、急ぎの休暇を取ることにした。上司は心配そうにしながらも快く了承してくれた。
夜、荷物をまとめながら、亮はこの数年間の出来事を思い返す。仕事で忙しく、実家に帰ることもままならなかった。北海道での生活は亮にとって充実していたが…。
翌朝早く、亮は新千歳空港から成田空港行きの飛行機に乗った。機内で、窓の外をぼんやりと眺めながら、母の手術、家族のこと、そして自分のこれからの人生について漠然と思考を巡らす。
こういうとき、胸の内をさらけ出せる誰かがいてくれたらいいのに。そんな風に思いながら。
飛行機が成田空港に到着すると、急いで電車に乗り、実家へと向かった。家に着くと、玄関には音を聞きつけて出てきてくれた父の姿があった。疲れた表情を浮かべながら自分を出迎える父を見て、亮は胸が痛むのを感じた。父も老いた。
「亮、おかえり」
父は亮を見て、ほっとしたように微笑んだ。口数が多い方ではないが、いつも穏やかな父とは、思春期にもあまりぶつかり合うことなく、男同士にしてはいい関係を築けていると思う。
「父さん、母さんは大丈夫?」
亮は一番気になっていたことを父に尋ねた。
「母さんは今、病院で手術前の検査をしてる。手術は予定通り明日だ」
亮は頷き、ひとまず玄関に荷物を放り投げ、そのままの足で父と一緒に病院へ向かった。病室に入ると、母はベッドの上に横たわっていた。顔色は少し悪いが、意識はしっかりしているようで、ぱっと見はいつもの母だった。
「亮、来たの」
母は微笑んで言った。
「倒れたって聞いてびっくりした」
普段は快活で、どちらかというと口煩い母が、不安からか体調からか、今日は酷く大人しかった。その様子に、亮の中にもうっすらと不安がこみあげる。だが、一番不安なはずの母に、自分がそんな顔をみせるわけにはいけない。努めて笑顔を見せるようにしながらーーぎこちない笑顔だったかもしれないがーー母と他愛もない話を続けた。
その後、父と揃って医者から手術の詳細説明を受けた亮は、久しぶりに父と実家でゆっくりと話をした。
「母さん、なんかちっちゃくなったな」
「そりゃお前、母さんが小さくなったんじゃなくてお前が大きくなったんだよ。昔はほそっこい子供だったんだから」
「手術……大丈夫かな」
「先生の話だと、8割がた元気になるみたいだったからな、大丈夫だろ」
「でも残りの2割は…」
「亮。今ここでうだうだ言っても何かが変わることはない。大事なのは、手術後の、母さんのケアだ。とりあえず今日はもう寝ろ」
30を超えたというのに、まだまだ子供のような自分。父のように、どしっと構えていられない。
だが、確実に老いは父と母を連れ去ってしまう。
これもいいタイミングなのかもしれない。夜、布団にくるまりながら、自分の未来が定まっていくのを感じた。
結局亮は、たまっていた有休を利用して、術後まで実家に滞在することにした。会社には再度事情を説明し、頭を下げながらも、快く了解してくれた上司に感謝した。会社に不安を感じながらも転職に踏み切らなかったのは、この尊敬できる上司がいたからである。合間に近所の神社にお参りもして、母親の手術成功を祈願する。
手術当日。亮と父は病院で待機していた。時間が過ぎるのが遅く感じられ、不安な気持ちが募る。万が一、万が一というものがありませんように。
膝の上で組んだ手をぎゅっと握りしめる。
数時間後、手術が終わったということで亮と父は手術室前に呼び出された。手術室のドアが開き、医師が現れた。亮と父は一斉に立ち上がり、医師の言葉を待った。
「手術は無事に終了しました」
医師の言葉に、亮と父はほーっと息を吐く。
「ただ、しばらくは安静が必要です。回復には時間がかかりますが、気長に頑張りましょう」
その言葉に、亮と父は「ありがとうございました」と深々と頭を下げた。
数週間後、母の回復が順調に進む中、亮は自分のこれからについて一つの決断を下した。北海道での生活も楽しかったが、親の近くにいたい。今回の件で、そう強く思ったのだ。
一先ず親の近くに戻ろう、と思った亮は、次の会社が決まる前に辞表を出した。事情を説明していた上司からは、「鳥山、お前思い切りのいいやつだとは思っていたが…あっちでもしっかりやれよ」と呆れ交じりの言葉をもらい、最後に部署あげての送別会を開いてもらったのが、今日というわけだった。
最後にしこたま飲まされ、2次会3次会と楽しんでさすがにそろそろ…とお開きになったところ、帰り路の途中で、いつもなら気づかない喫茶店の扉に気づいたのだった。
北海道最後の思い出づくりに、いつもは入らないような店に入るのもいいかもしれない、そう思って扉をくぐった先には、穏やかそうなマスターと背の高いウェイター、そして、カウンターに腰かける自分好みの女性がいたのだった。