魔法が解けたら(「魔法が解けるまで」のエドワードの物語)
「魔法が解けるまで(https://ncode.syosetu.com/n5569je/)」のエドワード視点です。
先に「魔法が解けるまで」を読むことをおすすめします。
『君が探していたナニーの件だけど、子どもが好きでも嫌いでもないニーナって女性をそちらに送るから』
「は?」
『あ、ごめん。そろそろ城に行かないと遅刻するから」
俺の疑問に答える前にエドガーは遠話魔法を終えた。
遠話魔法を使えるのはエドガーだけなので聞き直す術はない。
「子どもが好きでも嫌いでもないナニーって?」
確かに「資格も経験もなくていい」と言ったのは俺だが、「子ども好き」はナニーの最低条件でないのか?
エドガーに頼んだ時点で間違いだったのかもしれない。
「間違いならいくつも重ねてきたから、今更だな」
机の上にいつも置いてあるのは最初の妻であるリリアーナの絵。
自分の妻だったのに、残っているリリアーナの絵はこれ一枚だけ。
「リリアーナ」
絵の中のリリアーナはドレス姿ではなく軍服。
戦争中の野営地で、経緯は忘れたがみんなで画力を競うことになり、モデルは全員一致で画力がないリリアーナが選ばれた。
「お前も」と言われて渡された鉛筆と紙。
家庭教師の授業よりも真面目に取り組んだからか、それなりの絵が描けたと自負している。
––– 私より下手だったら笑ってやろうと思ったのに。
「つまらない」と不貞腐れたあと、「モデルがよかったからあなたが一番になれたのよ」と言って優勝者のためのちょっとだけ質のいいワインの半分を持っていった図々しい女。
一国の姫君だったリリアーナは粗野な戦場でも気品があって、兵士たちの多くが『戦女神』や『姫将軍』と呼んで慕っていた。
リリアーナが好きだった。
もし可能なら、あの幸せだった戦場に戻りたいと思うほど愛している。
「……リリィ」
そう呟いた途端、突然白い光が書斎に満ちた。
反射的に閉じていた目を開くと光の中心に女性のシルエットが見える。
リリアーナかと思ったが、彼女の稀有な白銀の髪とは比べものにならない平凡な茶色の髪が揺れて俺は冷静を取り戻す。
その女性は『ニーナ』と名乗った。
そして突然ここに現れた経緯を簡単に説明してくれた。
「なるほど。それが君が私の書斎に突然現れた理由か」
簡潔過ぎていろいろ情報が足りない気もするが、なんとなくそれで分かる説明をするニーナを見て、彼女がエドガーの友人だということは理解できた。
「ちなみに荷物は?」
「住み込みだと説明されたのが飛ばされる直前で、夜帰ってきて私がいなかったら採用されたと判断して荷物を送るそうです」
エドガー……。
「送り先は私の書斎だな」
「お手数をおかけします」
「いや、それがエドガーだしな」
エドガーのやることに驚いていたら身がもたないと言うと、深く共感された。
「話が変わってしまったが、君を子どもたちのナニーとして採用したい。契約書も用意してある、確認してくれ」
契約書を用意してあると言ったが、ナニーの入れ替わりは激しいのでテンプレートを何枚も用意してあっただけ。
契約書を読みながらニーナが部屋の窓や扉をチラチラ見ている、どうやら彼女は魔法が使えるらしい。ここに施してある結界は害意のある者を省く以外にも、この中では許可したものしか魔法が使えないようになっている。
この中に入れたということは『害意がない』と判断してもいいだろうが、「害意のある者がそんな頻繁に来るのですか?」と驚くニーナに俺は一応念を押しておく。
「扇情的な夜着にコートを羽織るだけの姿で突撃訪問。侍女姿で媚薬入りワインを持ってきた者もいるかな。誰かの胤を仕込んだ体でやってきて私に襲われたと訴え出る者もいた」
その他にも色々あるが過激過ぎるか。
ニ十代前半のお嬢さんだ、青褪める程度に釘を刺しておけば大丈夫だろう。
「怖がらせるのはここまでにして」
そう言うとニーナが軽く頬を膨らませた。
どうやらわざと怖がらせたことに気づいたようだ。
そして次の瞬間には俺に同情している。
不意にニーナの姿にリリアーナの姿が重なった。
素直な感情表現が似ているのだろうかと思い、「馬鹿なことを考えるな」と自分を戒める。
「子どもたちを紹介しよう。名前くらいは聞いているか?」
「アルバート様とブランシュ様と伺っています。愛称でお呼びしても構いませんか? 長いと舌を噛んでしまうので」
舌を噛む?
「魔法師ではないのか?」
「魔法は使えますが、魔法師ではありません。強いて言うなら、魔女?」
「魔法が使える女」だから魔女?
それなら「魔法が使える男」は……いや、それはいま関係ない。
何だろう、調子が狂う。
「でも魔法を使うのだろう? それなのに舌を噛む?」
ニーナは疑わし気な俺の言葉を肯定するように苦笑する。
やはりリリアーナに似ている。
繊細な見た目のくせにガサツなリリアーナは長い詠唱が苦手で、『着火』とか『爆破』の単語を呟いて魔法を使っていた。
あれでも魔法は起動するが、ロマンがない。
リリアーナは絵とか詩とか芸術的才能が皆無に違いない。
駄目だ。
一度リリアーナに似ていると思うと他にも似ている点が気になってくる。
「お父様」
子ども部屋の扉を開いた音に気づいたアルトが顔をあげると、隣からニーナの息を飲む音がした。
「白銀の髪に美しい顔立ち、アルト様は天使ですか!? あ、でも瞳の色は閣下と同じ紺青色の瞳ですね」
「なぜそこで落ち込む?」
天使が俺と同じ紺青色の目をしていてはいけないのか?
リリアーナと同じ杏子色の目ならいいのか?
「目の色だけは私に似ているが、あとは妻によく似ている」
リリアーナは見た目だけなら天使だった。
リリアーナは『故国を裏切った王女』と故国アイシアの王侯貴族に罵られているが、元アイシアの民は『救国の聖女』と今も慕っている。
生国アイシアとの戦争は被害者はゼロではなかったが、リリアーナがこっそり野営地を抜け出しては軍の進軍ルート上にある村の長などに「逃げろ」と伝えていたので戦いに巻き込まれた民間人の数は驚くほど少ない。
俺がそれを知っているのだから他にも知っている者は多いだろう。
しかし自軍の侵攻に影響はないし、お礼と言わんばかりに小麦や馬などを補給できたから逆にありがたくもあったので黙認されていたようだ。
よほどアイシアの王族や貴族は民に嫌われていたのだと実感する話だ。
「お父様?」
昔を振り返っていて、アルトの声と上着を軽く引っ張る力にハッとした。
何となく視線を感じてニーナを見ると、彼女はキラキラした目でアルトを見ていた。
リリアーナもよく可愛いものを見つけては、あんな目をして後で絵を描いていた。
下手の横好きであるが、いつも楽しそうだった。
「アルト。ナニーのニーナだ」
俺の言葉になぜかアルトは目を丸くした。
なにか変なことを言っただろうか?
「ナニーのニーナ。ナニーノニーナって魔法みたいですよね」
ニーナの言葉に、アルトは共感を得られたとばかりに彼女に駆け寄っていく。
あの人見知りのアルトがアッサリと。
ナニーノニーナ……短い、詩的センスがまるでない。
こんなのを魔法だなんて、まるでリリアーナみたいじゃないか。
「アルト様、『ナニーノニーナ』がどんな魔法かはあとで一緒考えましょう。先に小さな淑女の紹介をお願いできますか?」
「お父様?」
「構わない、お前が紹介してやりなさい」
俺の顔色をうかがうようなアルトの目が胸に痛い。
俺はずっとリリアーナが俺とアルトを捨てて、リリアーナの許嫁という男と一緒に駆け落ちしたと思っていた。その途中で馬車が横転し、男と共にリリアーナが死んだと聞いたときは罰が当たったのだとさえ思った。
男の死体は川から上がったが、リリアーナの死体は見つからなかった。
戦争が終わったとき、勝利を祝う宴に参加せずに彼女は「このままどこかに姿を消してしまおうか」と呟いていたから、その言葉通りになったのだと思った。
「ニーナ、妹のブランシュだよ」
ブランはリリアーナと離縁後、再婚したマーガレットが生んだ娘だ。
従姉妹のマーガレットは黒髪で、俺も黒髪で、ブランは白金の髪色をしている。
リリアーナの許嫁の男がブランと同じ白金の髪色をしていなければ、「そういうこともあるだろう」と俺は全てを受け入れたかもしれない。
リリアーナと別れたあとマーガレットが訪ねてきた。
あの夜、異様なほどに酔ったあの酒は本当に酒だったのか。
翌朝、ベッドで隣に眠るマーガレットを見て関係をもったと思っていた。
でも、あれだけ酔っていて本当に関係をもてたのだろうか。
ブランの白金の髪を見て思った。
俺があの日見た、夫婦の寝室で白金の髪の男と絡み合う白銀の髪の女は本当にリリアーナだったのか。
異様なほど「あなたの子だ」と言うマーガレットの姿に疑念がどんどん膨らみ、マーガレットがブランの髪を薬で黒く染めたときに疑念が確信になった。
全てマーガレットが仕組んだ罠だったのだと。
あのときの俺は狂っていたに違いない。
家の使用人を全員、拷問に近い取り調べをして真実を吐かせた。
そして母とマーガレットが共謀して暗殺ギルドにリリアーナを襲わせたと聞いたとき、俺の中の何かが切れた。
気づけばアルトが真っ青な顔で震えていて、アルトの腕の中でブランが大声で泣いていた。
「ブラン、ナニーのニーナだよ」
アルトが一音一音区切るようにブランに言って聞かせる。
ブランは耳が悪い。
話す言葉はしっかりしているので全く聞こえないわけではないようで、主治医によると叩くや揺さぶるなどで衝撃を受けた可能性も考えられるらしい。
「ブラン」
名前を呼ぶとブランは俺の顔をしばらく観察して、俺の機嫌を確認してから嬉しそうに両手を伸ばす。
アルト同様にブランも俺の顔色をうかがってしまっている。
ジッと俺を見るブランの瞳に、不貞を責める俺を『信じられない』というように見ていたリリアーナの目が重なった。
ニーナがナニーになると、子どもたちはあっという間に変わった。
気持ちが安定したというか、俺と接するときに屈託がなくなったような気がする。
「お父様、聞いて!」
今もそうだ。
帰宅した俺を出迎えたアルトは少し憤って『聞いて』を繰り返す。
よほど腹立つことがあったらしい。
「今日、ニーナが丸いケーキを買ってくれたんだ」
「良かったな。美味しかったか?」
「うん、おいしかった……って、そうじゃないの」
アルトが生まれて直ぐにリリアーナは死んでしまったため、アルトがリリアーナの話し方を知るわけがないのに、素直でちょっと単純なやり取りが驚くほどリリアーナに似ている。
「ケーキをね、僕とブランとニーナで分けて食べたの。八個に切って、ランチの前のお茶の時間に一つ、もう一つはランチの後のお茶の時間に食べたの」
「いっぱい食べたな、気持ち悪くならないか?」
「小さいのだから大丈夫」
にこっと笑ったあと、『言いたいこと』がまだ言えていないことに気づいてアルトはハッとする。
本当にリリアーナに似ているな。
「八個に切ったんだから、二個あまるでしょ?」
8-6=2
うん、合っている。
「それなのに一個もあまらなかったの。ニーナが食べちゃったの。僕たちには一つずつだったのに、ニーナは大人だから二個食べたんだ」
……大人げない。
子ども相手なのだから譲ればいいのに……。
「それで僕、ニーナと決闘したの」
「決闘?」
どうして、そうなった?
「気に入らないならお腹にためちゃう前に決闘で白黒つけたほうがいいってニーナが言うから。ケーキをかけて決闘したの」
なんて根性論……いや、俺とリリアーナも同じことをやったな。
戦場にやってきたリリアーナをお姫様の酔狂だと笑って、手袋を投げつけられて、夜通し決闘をした。
それで分かり合えたかと言うと、そんなことはない。
普通に話していることのほうが少なく、基本的にけんか腰で話しをしていた。
「しかし、ケーキは食べちゃったんじゃないか?」
「お父様に新しく買ってもらおうってなった」
おお、ちゃっかりしている。
「それで、決闘はどっちが勝ったんだ?」
「僕の負け! 悔しいからお父様、僕と特訓してください!」
「俺と? ニーナじゃなくて?」
「ニーナは教えるのが下手なんだって。三英傑の一人であるお父様なら教えるのが上手だろうからって」
三英傑、先の戦争で俺とエドガーとリリアーナについたあだ名だ。
魔法に関して「この三人なら間違いがない」というつもりでニーナは言っているのだろうが、「三英傑なら教えるのが上手い」は間違っている。
エドガーはさておき、リリアーナは教えられるタイプではない。
とにかく、あいつは……。
「ニーナの魔法は魔力量に頼り切った力技なんだって」
……え?
いや、そんなわけはない。
気のせい……。
「まほ、まほ」
ブランが足にぶつかってきたことで俺はハッとし、あり得ない想像を断ち切る。
ブランを追ってきたであろうニーナの、リリアーナと似ても似つかない姿に安堵する。
「ニーナはあっちに行っていて! お父様と特訓するんだから」
「アルト様、可愛い」
アルトが可愛いのは確かだが、この状況で「可愛い」と言われて喜ぶ男はいない。
あと少しで三歳というアルトは幼いが立派な男。
「可愛くない! 子どもじゃないんだから!」
「決闘に負けて泣いたのに」
火に油を注ぐ無神経さ。
ニーナはリリアーナの生まれ変わりか?
いや、生まれ変わりなら二歳より幼いはず。
それじゃあ、もしかしてブランが……。
「泣いてない!」
あ、まずい。
「負けてないもん、燃えよ、爆炎」
「青き精……」
「消火」
アルトの渾身のファイアーボール(マッチの火並み)はニーナのたった一言で消された。
しかも「放水」じゃなくて「消火」、屈辱だ。
しかし、魔法の起動が早い。
こんなに早いのは……
「ニーナ、いまのなに?『しょうか』ってなに?」
息子よ、負けた悔しさよりも飛んできた水のほうが気になるのか。
「『火を消す』って意味ですよ。何とかかんとか、ウォーターフローとか言うと舌を噛みそうになるので……詠唱中に舌を噛むとどうなるんでしょう」
ニーナと子どもたちの目が俺に向けられる。
まさに「何とかかんとか」と言おうとしていた俺としては答えが言いにくい。
「閣下?」
「……不発だな」
「では、詠唱を間違えると?」
「威力七割減。だから間違えないように練習するんだ」
「早口言葉の?」
「違う!」
リリアーナみたいなことを言うな。
「魔法詠唱だ」
「閣下、『Red lorry, yellow lorry(赤い大型トラック、黄色い大型トラック)』って三回噛まずに言えますか?」
こいつ、マジでリリアーナだ。
「Red lorry, yellow lorry Red lorry, yellow lorry Red lorry, yellow lorry ……いや、だから早口言葉じゃなくて……え?」
いま俺の目の前にリリアーナがいる。
アルトとブランに挟まれる形で、『すごい』と言う目を俺に向けている。
「ど……うして?」
リリアーナが首を傾げる。
いまはもう夢の中でしか触れられないと思っていた白銀の髪がさらりと揺れる。
「早口言葉、すごいじゃないですか」
声も、リリアーナだ。
錯覚……じゃない?
これはまるで認識阻害……エドガーだ。
***
「エドガー!!」
先触れなく部屋に怒鳴り込んできた俺を見て、エドガーはため息を吐くと人払いをした。
二人きりになると部屋に防音魔法をかける。
「思ったより早かったね。見た目を変えただけで人格はそのままだから、直ぐに分かるか」
掴みかかる俺にエドガーはため息を吐くと、頭の上から水がザバッとかけられた。
『頭を冷やせ』という意味なのだろう、中に入っていた氷が当たって痛かった。
「何て言って家を出てきたの?」
「仕事があると言った」
「彼女に何か言った?」
「いや、認識阻害の魔法が使えるのはお前だけだから。お前に先に話を聞こうと思った」
俺の言葉にエドガーは一息つき、「いい判断だったよ」と言って温風をぶち当ててきた。
一気に乾きはしたが……エドガーは本気で怒っている。
「『ニーナ』を君のところに送る三カ月くらい前、僕のところにリリアーナから連絡があった。誰にも知られず一人で来てほしい、一人で来なければ殺すとね」
「リリアーナがお前を?」
「相変わらず狡い女だよね。僕が彼女の頼みを断れないことを分かっていて、僕を呼び出すんだから」
エドガーはリリアーナを愛している。
それと同時にエドガーの半分であるエディスは俺を愛している。
傍から見れば変な三角関係かもしれないが、エドガーとエディスの俺たちに対する愛情は無償のもので、強いて言うなら俺がアルトやブランに感じているものに近い。
「リリアーナが呼び出したのはリリアーナが乗った馬車が転落したとされる滝壺から二十キロほど下流の洞穴。彼女は君の母君と奥方に雇われた暗殺者たちにアルトを人質に取られて殺されかけたこと、何とか生きて流れ着いたその洞穴で治癒魔法で自分を治していたことを話してくれた」
エドガーの言う滝壺は直ぐに分かった。
毎月百合の花を手向けていたあの場所、あの遥か下にある川に落ちたということか。
「リリアーナはどうしてお前に連絡を?」
「それはリリアーナに聞いてよ。僕が知っているのはリリアーナは僕も敵だと疑っていたこと、だから万が一のときは戦えるように力を十分回復させるまで僕にも連絡しなかったことだけだよ」
エドガーの言葉に俺は唇を噛む。
エドガーですら母たちの味方だと思われていたのだから、俺など彼女からすれば……。
「疑いが晴れた僕は彼女に聞かれるままにコレヴィル侯爵家のことを話した。当然君とマーガレット元夫人の再婚の話もね。リリアーナはよかったと言っていたよ」
俺とマーガレットの結婚が?
『よかった』?
やっぱりリリアーナは……。
「リリアーナはずっと自分のせいで君とマーガレット元夫人の婚約が駄目になったと思っていたよ」
は?
「君、説明しなかったの? マーガレット元夫人との婚約はとっくの昔に白紙になっていたのに、母君が君の了承もとらずに勝手に再婚約の手続きをしていたこと」
「説明した……いや、してない? いや、言った……と思う」
反射的に俺は腹を押さえた。
王都に凱旋した日、マーガレットに突然口づけられて訳が分からなくなくなり、とりあえずリリアーナに何か言わなければと思っていたら思い切り殴られた。
「見事なボディブローだったよね。君が護身用にと体術を教えたりするから」
「すっげえ、痛かった」
でも、リリアーナはもっと痛かったはずだ。
俺はどれだけ彼女を傷つけたのだろう。
「一年も穴倉生活だったのか……」
「まあ、見た目はああでも深窓の姫君じゃないからね。森での生活もそれなりに楽しんでいたみたい。彼女はさ、アルトがいなければ僕にも連絡を寄越さずに自分は死んだことにしたんじゃないかな」
––– このままどこかに姿を消してしまおうか。
あの日、そう呟いていた彼女は月に攫われてしまいそうなほど美しく、儚げだった。
そんな彼女を傍にとどめるため口付けし、花を散らし、その胎に胤を残した。
戦争は予定より短かったがそれなりに長く、俺は二十五になっていた。
幸い婚約者もいないし、凱旋後はマジフォード子爵になるリリアーナとの結婚も問題ないから子ができても構わないと思っていた。
リリアーナを一度抱いたことで箍が外れ、王都まで戻るときも隙を見つけては野営地から抜け出しひっそりと肌を重ねた。
「僕さ、君たちが抱き合っている最中に出くわしたことがあったろ?」
「ああ、リリアーナは気づかなかったがな」
軍隊の野営地周辺は命のやり取りの影響もあって彼方此方で男と女が喘ぎ声を漏らす。
リリアーナは知らないが、エドガーもエディスも精力的なタイプなので頻繁に野営地を抜け出していた。
「あれ見てさ、子どもの濡れ場を見た複雑な心境を味わいつつ『ようやく上手くいったか』って喜んだんだよね。それなのに、告白もせずに関係だけ持っていたなんて」
ぐうの音も出ない。
「子ども、できててよかったね」
「マジでそう思う」
「ちなみにリリアーナは民衆の人気が高い自分を侯爵家が無碍にできず、渋々君が結婚したと思っているから」
「は?」
「残念なことに、アルトがいる以上リリアーナは君の『愛している』を絶対に信じられないんだよ。義務感とか責任感でそう言っているって思っちゃって」
「……それじゃあ……それじゃあ、どうしろと」
時間は戻せない。
今更過去に戻って「愛している」と言うことができないのに。
「それでニーナの登場さ。姿も変えて記憶もなくした真っ新になり、リリアーナがエドワードに今も昔も深く愛されていることを理解したら『リリアーナ』の記憶を全て取り戻すようにしてある。ただこれは暗示だからね、君にずっと愛されていることを理解する前にリリアーナが記憶を取り戻す可能性もある」
「……そうなったら?」
「リリアーナの性格を考えれば、リリアーナがどうするか分かるでしょう?」
最低でもアルトの親権を自分のものにするだろう。
場合によってはアルトを連れて姿を消しかねない。
「それじゃあ、リリアーナが俺を思い出したとき……」
「君に愛されていることをリリアーナが理解できていなければ『おわり』だね」
***
エドガーの話を聞いて、俺はニーナのままでいてもらうことにした。
名前が違うだけだと自分に言い聞かせて。
エドガーの記憶操作は暗示に近い。
認識阻害と同じで何がキッカケで暗示が切れるか分からず、一番可能性が高いのは感情を揺らすことだ。
だから俺はニーナと雇用者と被雇用者の関係でいようと思った。
しかし、気づけば子どもたちが寝た後に酒を飲み交わす仲になってしまった。
「今日のワインは軽めだと思いまして」
「君は重めが好きなのか」
リリアーナがワインを好むのは知っていたが、白よりも赤。
軽めのものよりも渋みの強いものをゆっくり飲むのが好きだとニーナが教えてくれた。
「今度はもっと重いのを買ってこよう」
リリアーナのもつグラスの中で月の光が弾ける。
月の綺麗な夜はいつもこうして、リリアーナが向かいで微笑んでくれるのを想像しながら一人でワインを飲んでいた。
夢に見た光景をジッと見ていると、リリアーナが瞳を揺らす。
恋慕する俺の目に引き摺られるのだろう、最近彼女の瞳に恋慕がちらつく。
瞳に恋をするという意味をこうして理解するとは。
「リリアーナも重めのワインが好きだったんだ」
リリアーナの恋慕を消すために『リリアーナ』の名前を出す。
『リリアーナ』の名前を出せば、リリアーナの恋はすうっと冷めてニーナのままでいてくれる。
愛しげに見ることをリリアーナが許してくれるのは、俺が自分に亡き妻を俺が重ねていると思っているからだ。
『リリアーナ』の名前を出せば互いの勘違いを正すように恋慕をなかったことにしてくれる。
「閣下は……お友だちが少なさそうですね」
そんな目で自分を見て『飲み友だち』だと言い張るつもりなのか?
そう責められた気がした。
「何だ、突然。不敬だぞ」
「処罰したいならどうぞ。飛ぶ首は二つ、残り一つはエディスですし」
「とばっちりだと騒ぎそうだ」
「騒ぐでしょうね」
リリアーナが笑って、俺も笑う。
笑い終わったリリアーナが月のほうを見る、その姿は息を飲むほど美しい。
駄目だ。
「エドガーは早口言葉が得意だから、文句も長いし早いし……とにかく煩いんだよな」
俺たちの間に恋はない。
「閣下……」
「そう言えば」
もう少し甘いものを求めているであろうリリアーナの言葉を笑顔で遮る。
これ以上は駄目だ、踏み込まないでくれ。
「リリアーナもよくエドガーが煩いって文句を言っていたよ」
恋をしないで。
俺を思い出さないで。
「閣下、昇給をお願いします」
「なんでこのタイミングで昇給なのか分からないが、何か昇給に相応しいことでも?」
金の話に、息苦しくなるほど甘ったるい雰囲気が消える。
それを残念だと思う自分を叱る。
「アルト様がブラン様の絵です」
なぜかアルトとブランだと分かる不思議な絵。
「可愛いですよね、お礼の形はぜひ昇給で」
「惜しい。君の画力でなければ交渉成立だったが」
昔から不思議だったが、どうしてこんなに絵に自信があるんだ?
これならブランの絵のほうが上手い。
ブランと絵の勝負をして「負けた」と落ち込むリリアーナが容易に想像できた。
––– 私より下手だったら笑ってやろうと思ったのに。
あの日、戦場で悔しそうに褒めたのと同じ顔をするに違いない。
「全く、君は昔から下手の横好き……」
しまった。
「閣下……」
反射的に口を手で覆い、顔を背ける。
馬鹿だ、こんな反応をしたらさっきの言葉を誤魔化すことができない。
「閣下……」
「あっと……すまない、リリアーナと間違えた」
考えろ。
「リリアーナも絵が下手で。いや、描いてあるものは分かるのだから下手ではないのだろうが、ああいう絵を前衛的とでも言えばいいのか」
「ああ、そうでしたか」
リリアーナが納得してくれて、俺は乾いた喉にワインを流し込む。
「閣下、私も絵も前衛的という意味ですか?」
リリアーナの恨みがましい声にワインが喉に詰まって咽る。
「月が綺麗な夜ですもの、月に惑わされて失言なさったことにします」
ゲホゲホと咳き込む俺を仕方なさそうに一瞥すると、リリアーナは満月を見た。
今夜の月は綺麗で、とても大きくて近くにあるように見える。
「そうだな、今夜の月はとても綺麗だ」
あの日荒城で見た月のようだ。
「エディ……」
リリアーナの小さな呟きに時が止まった。
それはリリアーナだけが俺を呼ぶ愛称だ。
「ニーナ!」
違う、君はニーナだ。
リリアーナの体が白い光に包まれ、瞬く間に白い球になる。
「駄目だ! 違うっ、やめてくれっ、思い出さないでくれ! 頼む、リリアーナ!!」
必死に手を伸ばし光を掴んだが、開いたときには何もなかった。
***
「コレヴィル侯爵、お待ちください。エドガー師団長は現在会議中で」
エドガーの侍従たちと押し問答をしていたら、会議室の扉が開いてぞろぞろと魔法師団の幹部が出てきた。
ようやくエドガーと話ができると思ってエドガーを探したが……いない。
するとエドガーの副官が俺のところに来た。
「コレヴィル侯爵、エドガー師団長から伝言を預かりました。『死人を復活させる手続きを進めといて』だそうです。死人とはなんでしょう、アンデッドの実験でもするんでしょうか」
エドガーの魔法に対する並々ならぬ熱意を知っている副官殿の苦労は絶えないのだろう。
彼の中にエドガーへの信頼は欠片もないようだ。
しかし、死人を復活させるか。
「簡単に言ってくれる……いや、簡単にすませるつもりだな」
エドガーとリリアーナだ。
本人確認のために『手っ取り早い』で高火力の魔法をぶっ放す可能性がある。
「爵位と個人資産はアルトにあるから……あ、しまった」
俺とリリアーナは死別だと思われているが、実際は離婚後に彼女は死んだことになっている。
つまり生き返った彼女は俺の元妻、リリアーナ・マジフォード子爵になる。
「まずは謝って、次に愛してるって嫌がられるくらい言うか。リリアーナが根負けしたところでプロポーズだな」
いつ戻ってくるだろうか。
待つだけなのはつらいな。
あ……。
「後顧の憂いを晴らすために害虫駆除をしておくか。いや、あっさり殺したらリリアーナに怒られるか」
リリアーナが自分を捨て駒にした国王と異母兄姉たちに過酷な労働をさせていることを思い出す。
蝶よ花よと育てられたタイプには死よりつらい復讐になるという。
––– 馬鹿と鋏は使いようなのよ。
「俺もエドガーもあんな女のどこを愛しているんだか」
とりあえず『ただいま』といって帰ってきた二人と飲むために重めの赤ワインを買いに行くことにしよう。
読んでくださり、ありがとうございました。感想をお待ちしています。
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