”お人好し”
菅公とは、かの有名な菅原道真公のこと。多才にして、時の帝・宇多天皇に重用された忠臣であったと言われる。太宰府に左遷され、死後怨霊となったという逸話は多くの人が知るところだろう。
だがそんな恐れられる印象もあるものの、梅の花を愛し、牛を愛でていたという慈悲深く趣深い面もある。
「太宰府で生涯を閉じた菅公のご遺体を乗せた牛車の牛が座り込んで動かんようになった場所が墓所になったっちゅう話もある。その牛が、撫で牛になったて言われとる」
「そ、そうだったんだ……」
初名は、対して考えずに、怪我を肩代わりしてくれる優しい牛さんとしか考えていなかった自分を恥じた。
「もうちょっと由来とか調べてみます……」
「その由来やけど、他にも説があるんや」
「他にも?」
「いつ、どこで、とかの詳しいことはわかってないんやけどな、ある時菅公が刺客に襲われたことがあったらしい。そやけど、どこに真っ白な牛が駆けつけて、その刺客を退けたっちゅう話や」
辰三の自慢げな顔を見て、初名にも、薄々察しが付いた。
「もしかして……その白い牛が……?」
「そう。風見さんや」
辰三がニヤリと笑うと同時に、弥次郎は持っていた煙管に火を点けた。長く吐きだした息が真っ白な煙となって、天井までのぼっていった。
「もともとは足を怪我して働けんようになって、殺されかかっとったところを、菅公に引き取られたて言うてたな。あいつは、命を救ってもろたことをそれは恩義に感じとったんやと。そやから、菅公を傷つけようとする輩から絶対に守るて決めとったらしい」
「そやからかもなぁ……風見さんが行き場を無くした|者≪もん≫を放って置かれへん|質≪たち≫なんは」
その言葉が、ものすごくしっくりきた。
弥次郎も、辰三も、百花も、琴子と礼司も、きっと他の横丁のあやかしたちも……行き場が無いところを風見に拾われた。そして、彼らのために横丁という居場所を作った。
そして、横丁に住まう彼らを傷つける者を、風見は決して許さない。琴子と礼司を殺した老人に向けた視線が、それを物語っていた。
「都築さんも、半分は横丁の住人みたいなものなんですよね。だったら、私のことを許せないのは、やっぱり当然です」
「……え? 何でそうなるん?」
また自虐的な言葉をはく初名に、辰三は再び寒天をすくって差し出そうとした。だがそれを、横から弥次郎が止めた。
「”許せない”いうのはちょっと違う。あいつはな、必死なだけや。ここの奴らが、もう二度と傷つけられたりせぇへんように、な」
「それなら……」
「そやけど、キミは傷つける心配なんかあれへん」
「……え?」
弥次郎は煙草盆に灰を落とすと、再び火を点けた。隣では辰三も、うんうんと頷いている。
「いや、でも私……実績が……」
「事故やろ?」
「そうですけど」
「こんなお人好しで、たかがミイラに怯えて卒倒するようなんが、この横丁のあやかしどもにどうやって傷つけるねん」
「……俺が言いたかったんはそういうことちゃうけど……まぁ、そんなところや」
「えーと……つまりは……?」
弥次郎も辰三も、きょとんとしている初名を呆れたように見つめている。まだ、わからないのかと。
「まぁ、風見が怒っとるてどうしても思うんやったら……そうやな、軽く点数稼ぎでもしてみるか?」
「点数稼ぎ?」
「まぁ言い方は悪いが……百花の家と店、掃除しといたってくれるか? あの蜘蛛の体やったら、難しいやろ?」
「お店……残るんですか?」
「当たり前やろ。いつか戻ってくるんやろうし、な」
「! はい! 喜んで!」
初名は、矢も楯もたまらず、荷物をまとめて立ち上がった。琴子の団子を一串一気に頬張ると、弥次郎たちにぺこりと頭を下げ、風のように店から走って出て行った。
勢いよく開けたからか、引き戸が少し開いたままだった。
「忙しいやっちゃ……」
皿に載ったもう一串の団子をつまみ、辰三は言った。弥次郎も、中途半端に開いたままの戸を見て、苦笑していた。
「ホンマ、お人好しな子やな。掃除しろ言われて喜んで飛び出すとはなぁ」
「お人好しか……」
辰三が、意味ありげな視線を弥次郎に向けた。そして、何やら訳知り顔で、ニヤリと笑った。
「何やねん、気色悪い」
「いや……やじさんも人のこと言えんくらい、お人好しやなぁて思て」
辰三の言葉の意味するところに心当たりがあるのか、弥次郎がぐっとたじろいだ。だがすぐに、苦笑いして言った。
「……お前もな、タツ」
今度は辰三が眉をひそめた。何やら言い返そうとしたその時、二人の間に割って入るように、琴子が現れて、団子の皿を引き上げた。
「うちからしたら、やじさんもタツさんも、どっちも似たようなもんやわ」
朗らかに笑ってそう言われた二人は、お互いに、いや誰に対しても、返す言葉を無くしていた。




