横丁からのお詫び
「美味しい……!」
ラウルの出してくれたチーズケーキと、礼司の淹れてくれたコーヒーに、初名は思わず喚起の声を上げた。それまで感じていた恐怖だとか忌避だとかは、どこかに逃げてしまったようだ。
「うんうん、喜んでもらえて良かったわぁ。あんなことがあったから、嫌われてしもたかと思ったわ」
目の前にいるラウルは、どう見ても、親切で温厚で博識な|あの≪・・≫ラウルその人だった。狂ったように初名を追いかけてきたあの日のラウルは何者だったのか、初名は口には出さなかったが、首をかしげてしまった。
その間も、食べる手は止まらない。あっという間にコーヒーカップまでが空になってしまった。
すると、間を置かずにカップにコーヒーが注がれた。礼司がスマートな手つきでカップをそっと置いた。
「ありがとうございます」
「……怖い思いさせたお詫びに」
「え、礼司さんは関係ないんじゃ……?」
「同じ横丁の|者≪もん≫が迷惑かけたからな」
そう告げると、ぺこりと頭を下げて奥に戻っていった。さながら武士のような清廉な姿だった。
「なんだか、義理堅いというか……」
「この横丁は、そういうところなんや。皆、肩寄せ合って暮らしとる。だから他人事は自分事なんや」
「『一人は皆のために、皆は一人のために』……ですか?」
「四銃士か。そっちの方がええなぁ。まぁ迷惑かけてもうた僕が言うことちゃうけど」
ラウルはそう言って、チーズケーキをぱくりと一口食べる。本当に、迷惑を掛けた張本人の様子には見えない。
「あの……失礼かもしれませんが、今日はその……|大丈夫≪・・・≫なんですか?」
「大丈夫やで。この前はちょっと……長いこと”食事”してへんかったから」
気恥ずかしそうにそう言うラウルを見ていると、ふと、疑問が湧いたのだった。
「……”食事”って、どうするんですか? 今の日本で無差別に……っていうのは無理ですよね?」
「いややなぁ、前かて無差別に通り魔やっとったわけとちゃうよ。ちゃんと丁寧にお誘いして、お家に来てもろて、おもてなしして……いや、まぁその話は置いといて……」
そこまで聞くと、逆に気になるのだが、ラウルの咳払いでごまかされた。
「僕は、今は奥さんと娘が協力してくれてるねん」
そういえば、つい先日聞いたばかりだ。別居中の家族がいると。だが、今先日の話でも今の話でも、聞いている限り円満別居のようだ。家族のことを離すラウルは、いつも以上にニコニコしていた。
「奥さんが定期的に血をくれて、娘がそれを持ってくることになってるんや。そやけど、この前は娘が試験勉強するから言うて三週間ぐらい来んかったから……」
「三週間……絶食状態ですか?」
「そうなんよ。いやぁ……あれは辛いわぁ。お坊さんとかホンマに凄いなぁ。まぁもう試験は終わったみたいやから、明日あたり来てくれると思うねんけどな」
「そうなんですか、良かったです!」
絶食と聞いて、初名はさすがに同情していた。心から次の”食事”を喜んでいるような様子に、ラウルは少し驚いた顔を見せた。
「喜んでくれるんや……自分が餌にされる心配ないから……とか?」
「え、違いますよ。三週間ぶりのご飯て、どれだけ美味しいかなって思っただけですけど……そう思うのって失礼でした?」
「いや、そんなことはないけど……変わった発想やなぁ。なるほど……」
「何が”なるほど”なんですか?」
「風見さんらが気に入ってはるのもわかるなぁと思てね。あとは……」
それまでにこやかだったラウルの表情が揺らいだ。どんどん表情を曇らせていき、口ごもって以降、何かを言おうとしては失敗するということを繰り返していた。
視線は、初名を窺うようにちらちらと向けられている。何かを、気遣われているようだ。
「あの……私、何かあるんですか?」
「その……僕が言うのも何なんやけど、ちょっと心配になってな」
「何が心配なんですか?」
美味しそうにチーズケーキを頬張っていた口元が、緩んでいた目元が、次々口に運んでいた手が、落ち着きなくそわそわと動いている。
だが、ラウルは意を決したように、告げた。
「百花さんと一緒におって、君は平気か?」




