お礼を言いに
大学構内を歩いていると、四方から賑やかな声が聞こえてくる。
その数が高校の頃よりも格段に増えたことに、初名はまず驚いていたものだが、最近はようやく喧噪に慣れてきたところだ。
だが、耳に入ると、ふと足を止めてしまう音もある。
体育館の方から聞こえてくる稽古の音だ。剣道部は朝と夕、二度の稽古があると部活動の紹介冊子に書いてあった。
床を踏みならす音、竹刀と竹刀がぶつかり合う音、心技体を表すかけ声……どれも、半年ほど前まで自分も間近で耳にしていた音だ。
正直、その音を聞くと、体が疼く。
両手を構えて、間合いを詰め、呼吸を整え、そして一気に討つーー!
それがしたくて、でもできなくて、葛藤していた。だが、今日は少し違った。
また始めてみようとは、まだ思えない。それでも、疼く手を必死に押さえつける苦しみは、ほんの少し和らいだ。
『ずぅっと、苦しかったなぁ』
きっと、そう言ってもらえたからだ。
初名は小さく息を吐き出し、それらの音に背を向けて、駅へ向かって歩き出した。
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横丁へとやってくると、初名は迷わず『仕立屋 太夫』の前に立った。だが、なかなか入ることが出来ない。
昨日のことを思い出すと、なんだか気恥ずかしくて、いつも通りに戸を開けることができなかった。
いくら祖母と友達だった人とはいえ、あんなに子供のように甘えて、泣きついてしまった。百花の綺麗な着物を、自分の涙と鼻水で汚してしまった。そう考えると、到底顔向けできなかった。ということに、ここに来てようやく気付いてしまったのだ。
(私ってば何てことを……! クリーニングしなきゃ……それに手土産の一つでも持ってくるべきだった……!)
慌てて来た道を戻ろうとした、その時だった。
「初名ちゃん?」
低く、きれいな響きの、男性の声だった。
横丁の入り口に立っていたのは、ラウルだった。相変わらず、柔らかな表情で微笑む。
「この前はごめんな。怖がらせてしもて……風見さんに、えらい怒られたわ」
「い、いえ……お気になさらず」
そうは言ったものの、初名は一歩退いた。やはり喰われかけた恐怖は、なかなか拭えないのだ。だが、ふと奇妙な既視感にも見舞われた。
(こんな怖い感覚……どこかで……)
兄に置き去りにされたお化け屋敷とも違う、命の危機を感じた恐怖だ。
だが、今のまったく悪意のないラウルは、初名のそんな恐怖心を飛び越えてぐいぐい近づいてくる。
「怖い思いさせたお詫びにお茶でもごちそうするわ」
「え、結構です」
反射のスピードで断ったというのに、ラウルはニコニコと遮った。
「大丈夫やって。琴ちゃんとこに行こう。ちょうど美味しいお菓子買ってきたから、一緒に食べよ」
初名が頷くよりも先に、ラウルは腕を掴んでぐいぐい引っ張って歩き出した。傍から見ればかなり強引で、この様子も風見が見たら怒りそうなものだが……今はラウルに従うよりほかなかった。




