皆の抱えたもの
弥次郎と辰三に始まり、横丁のあらゆる人々に繕ったものを渡して行った後、百花はうきうきして「ことこと屋」に向かった。
「百花さん! 百花さんやないの!」
「琴ちゃん、元気にしとった?」
百花の姿を見た途端、琴子は号泣して抱きついていた。それをそっと抱き留める百花。二人の姿は、姉妹のようだった。
そして、百花が横丁中の人に愛される存在なのだと、わかった。
そのことを、「太夫」に戻ってから百花に伝えると、百花は、うふふとつややかに笑った。
「昔取った杵柄、いうもんかなぁ」
「今でこんな感じなら、昔はもっともっと大人気だったんじゃないですか?」
初名がそう冗談めかして言ったことに対して、帰ってきたのは沈黙だった。ふと、百花の顔を見た。百花が浮かべていたのは、意外にも、笑みだった。とても悲しそうな、笑みだ。「大人気……か。そうかもしれへんね。身請けされた先にまで追いかけてきて無理心中する男がおったんやから」
「……え?」
尋ね返した声に、百花は苦笑いして応えた。
「いややわ。恥ずかしい……」
「は、恥ずかしくなんか……今のお話、本当なんですか?」
「本当。でも、もうええのよ。うちはここの人らのお役に立てれば、それでいいんよ」
当の本人がこう言っているのだからと、初名は口をつぐんだ。
自分が想像していたよりも、ずっと彼らの心は重く暗いものに囚われているのかもしれない。
そんな思いを、百花はくみ取ったかのように、初名の頬をそっと撫でた。そして……むにゅっと両頬を引っ張った。
「は、ひたたたた! 百花さん?」
「暗い顔してるからや。可愛い顔しとるのに、もったいない」
「か、可愛くは……」
「可愛いで。自覚ないのん?」
百花はそのまま、餅をこねるようにように、初名の頬をむにむに触っていた。そして、おもむろに穏やかな笑みを浮かべた。
「なぁ、初名……ホンマに、もうええんよ。あの男のことは。もうずっと……ずぅっと昔のことなんやから」
「で、でも……」
初名はふと、琴子と礼司のことを思い返した。自分を殺した相手のことを、綺麗さっぱり忘れてしまっていた。そのせいで、殺した本人を前にしても、笑っていた。
だが百花は違う。はっきりと、その相手を覚えているようだ。それはつまり、死んでからずっと相手から受けた仕打ちを覚えているということだ。
何年経とうが、『もういい』なんて、言えるのだろうか。初名はそう思った。
だが、そんな初名に、百花はまたも首を振った。
「時が経つ、いうんは、そういうことや。川の水のように、流れて行ってしまうものなんよ、何事も。でも、流れた先で別のええことに出会えるかもしれへん。うちは、ここの人らに会えた。生きとったら、妾か遊女かしか道はなかった。あの時生き残っとったら、梅子にも会われへんかった。……ええことづくしや」
初名は、小さく頷いた。百花の明るい力強さが、まぶしかった。だが何よりも、祖母のことを”ええこと”と言ってくれたことが、嬉しかった。
「それにな、うちだけやないんよ。皆、一緒や」
「一緒って?」
「皆、何か抱えとるよ。やじさんも、タツさんも皆も……ここではお互いにそうやから、お互いに詮索はせぇへん。そやけど、聞いて欲しいことがあれば、いつでも聞く……そういう人らなんよ」
百花の手が、そっと初名の両手を包み込んだ。冷たい。だけど柔らかい。真綿に包まれているかのような感触が、どこかくすぐったかった。
「あんたも、何か苦しいんやったら、言うてみぃ」
「……え」
「さっきの剣道の話。なんや、辛そうに見えたから……違う?」
初名は咄嗟に首を振った。
「そんな、辛いだなんて……剣道は好きです。子供の頃も今も……でも……」
俯いてしまった初名に、百花の柔らかな声が降ってきた。
「辛いことを無理矢理する必要はないわ。でも、好きなことを無理矢理やめる必要もないんとちゃう?」
「好きです……続けたいです……でも、私にはそんな資格ないんです」
「……なんで?」
そう問われて、初名はゆっくりと顔を上げた。責めるわけでもない、詰問するわけでもない、ただまっすぐに初名の声に耳を傾ける百花の真摯な面持ちが、見えた。
不思議な瞳だった。凜としていて、氷のように冷たく、炎のように情熱的で、そして太陽のように温かだった。
その視線に惹かれて、初名はふわりと応えていた。
「人を傷つけてしまったのに、自分だけ好きなことを続けるわけには、いかないんです」




