絡新婦・百花
現在の梅田駅界隈よりほんの少し南に、役人や商人が利用する遊郭があった。「曾根崎新地」と呼ばれたそこには、たいそう美しい太夫……位の高い遊女がいた。
その名は「|百花≪ももはな≫太夫」。教養も芸も美貌も抜きん出た存在であった。だが、その名が曾根崎新地界隈で知られていた期間は、ほんの僅かだった。
彼女は、ある日を境に、煙のように姿を消してしまったのだ。
そして人々の前から姿を消し、人の少ない田園地帯だった場所にてひっそり暮らすようになった。あやかし『絡新婦』として。
今は、太夫であった時の名をそのまま呼び名として、「|百花≪ももはな≫」と名乗っている。
「それで、ある日この店にいきなりやって来たんが、梅子やったんよ」
「そうなんですか……祖母はどうしてこの横丁に?」
「さぁ……それは風見さんの方に聞いて。うちは、針仕事してたらいきなり知らん女の子が入り口からじーっと手元を睨んでたところからしか知らんのよ」
「想像できます」
初名の祖母は、気になることがあるとつい凝視してしまい、相手を困惑させる癖があった。初名と兄が剣道の稽古をしているところ然り、学校の宿題をしているところ然り、お絵かきをしているところ然り……とにかく何にでも興味を示して、見つめていた。
そんな癖の話を、まさかここでも聞けるとは思っていなかった。
「へぇ……あの子、ちっとも変わってなかったんやねぇ。それも、いつの間にか娘どころか孫が生まれてたやなんて……びっくりしたわぁ」
「私も、まさかおばあちゃんのことを知ってる人と会うなんて思ってもみませんでした」
「あの子は元気にしてるん?」
「いえ、数年前に病気で……」
初名の言葉に、百花はほんの少し俯き、小さく、そう、と呟いた。
「まさか、あの子が……人間いうのは、そんなに早う亡くなるもんやったんやね。忘れてたわ」
百花は、赤い襦袢の下の白い手を伸ばし、棚に置いていた煙草盆を引き寄せた。昔ながらの古びた盆の中からキセルと煙草、そしてマッチを取り出し、素早く火を点けた。
「そういえば、このマッチもあの子に持ってきてもろたんやったわ」
「マッチで点けるんですか?」
以前、弥次郎の店で煙草盆を見た時には、火種を入れた火皿が用意されており、弥次郎はそこからキセルに火を点けていた。
「長いこと使ってなかったから、火種が用意できてないんよ。やじさんは、しょっちゅう吸ってるから絶やさんようにしてるだけよ」
深く息を吐き出すと、百花はその灰を落とした。その仕草までが、しなやかで艶やかだった。
思わず呆けて見ていると、百花はクスリと笑った。
「梅子……あんたのおばあちゃんも、ようそこで煙草吸うところをじっと見とったわ」
「だって……その、綺麗ですから」
「うふふ、ありがとう。梅子も、ようそう言うてくれたわ」
そう言って微笑む顔に、初名はドキリとした。相手が女性でも、思わず気恥ずかしくなってしまう美貌だった。
初名は目を逸らすと同時に、店の中をぐるりと見回していた。今日三度目だが。
「え、えーと……何のお店をしてらっしゃるんですか? 太夫さんだったってことは……三味線とかの芸のお師匠さんとか……」
「ううん、違う。『仕立屋 太夫』いいます」
「仕立屋……い、意外ですね」
言われてみれば、店内にあるのは裁縫の道具や着物ばかりだった。店の様子からは納得がいった。
だが、どことなく元太夫が仕立屋というのが、どうにもイメージとして結びつかないでいた。
「あんたも同じこと言うんやね」
「ご、ごめんなさい」
「うちは貧しい村の出でなぁ。それで郭に売られたんやけども、その前は家の手伝いばっかりやった。特に繕い物が得意でな。繕うだけやのうて、頼まれて妹や村の人のちょっとええべべ縫うたりしとったもんや」
「それで……仕立屋?」
「そう。あんた……その鞄、ほつれとるよ。縫うたげようか?」
「え」
百花がそっと指さした先には、ほんの小さな綻びが見えた。持ち手が一箇所、ほんの少し糸がほどけていた。
「えぇ……この前辰三さんに縫って貰ったばかりなのに」
「タツさんが? それを作ったん?」
「いいえ。作ってくれたのはおばあちゃんです。それがこの前、底が破けちゃってて……」
百花は、じっと初名の鞄を見つめていた。驚きと同時に、何か感慨深そうな視線だった。
「ふぅん、そう……梅子が、それを……」
そう言うと、小さく頷いた。
「ほな、それを繕うのはうちしかおらんな。その役目、タツさんには渡せへんわ」
「え、どうして……?」
「どうしても」
そう言って、にっこり笑うと、百花は裁縫道具の針山を見た。そして、また少し肩を落とした。
「ああ……あかんわ。針が、使われへんやなんて……」
針山に刺してあった針は、すべて錆びていた。使えないわけではないが、錆が布についたり、折れたりしやすい。
だが初名は、けろりとした声で言った。
「じゃあ新しい針買ってきます。三番街の方に、大きな手芸用品店があるみたいなんです」
そう言うや、初名は鞄を抱えて走り出した。
その後ろ姿を見守る百花が、その勢いに唖然としていることなど、気づきもせずに。




