謎の女性と『梅子』
建物の中に入ると、戒めはあっさりと解かれた。暗いと思っていた建物の中は、目が慣れるとそれほど暗くはなかった。
見回してみると、中は少し古風な造りの店となっていた。土間があり、品がいくつか置いてある。以前見た、弥次郎や辰三の店と似た造りだ。
だが置いてあるものは少しばかり趣が違う。
針や糸などの裁縫道具と、綺麗な着物、その布地などが棚に並んでいた。
だが肝心の店主がいない。自分をここへ引きずり込んだ者はいったい誰なのか。初名はもう一度、おそるおそる店の中を見回した。すると、棚の奥に、部屋が続いているのが見えた。辰三の店にもあった、私的な部屋だ。
そこは間違いなく、暗闇に見えた。そんな暗い場所から、ひゅう、という風のような吐息のような音が、聞こえた。
「…………梅子?」
息の次は、声らしきものが聞こえた。初名がおそるそる耳を澄ませてみると、声はもう一度聞こえた。
「梅子……来てくれたん?」
「梅子って……」
問い返そうとした初名の耳に、今度は別の音が聞こえてきた。ずる、ずる、と引きずるような音。今引きずられているのは自分ではない。この声の主が、何かを引きずっているのだ。しかし、いったい何を?
そんなことを考えていたら、奥から人影がゆったりと現れた。といっても、現れたのは肩から上。伏せた状態から這って出てきたような、人の顔だけだった。
「梅子……」
そう呟くのは、真っ白な顔をした女性だった。切れ長で凜とした瞳はうっすら潤んでおり、唇は血に濡れたように赤く、瑞々しかった。だが髪はまとめておらず、長い長い髪がだらりと垂れ下がっていた。そして真っ赤な襦袢を身につけていた。その赤が、肌の白さをより引き立てていた。
見たところ、初名よりも少し年上の、20代くらいの女性だが、その容貌は、初名が目にしたことがないほどに艶っぽく、美しかった。
風見のこともこの世のものとも思えないと感じたが、この女性は、また違った妖艶さを感じた。
そして白い肌に見合わないほどの真っ赤な唇が、か細い声でまた呟いた。
「梅子……来てくれたんやねぇ。うちに……」
そう言うと同時に、真っ白な腕が初名の頬まで伸びてきた。ゆっくりと撫でるその仕草は、まるで幼子を愛でるようだった。
優しい手だったが、初名は息をのんで固まっていた。その白い優しい手の向こうに見えたのは、優しい瞳と真っ赤な唇と、長い髪と……そして、女性の襦袢の奥に隠れていたもの。腕と同じくらい真っ白な脚……ではなく、真っ黒で、長い、蜘蛛の脚だった。
おそらく腰から下が蜘蛛の腹になっており、脚と同じく真っ黒だ。
その様を目にした瞬間、初名は思い出した。
ここに初めて来た際、集まっていた面々の中に、確かに蜘蛛のような女性がいた。あの姿を見て、ただの集まりではないとわかって戦慄したのだった。
「ひっ」
思わず身をよじって|後退≪あとじさ≫った。
すると、蜘蛛の女性もまた、ぴくりと動きを止め、震えだした。
「梅子……怒ってるんか? それとも、うちが……怖いんか?」
初名の頬を伝う真っ白な手は、力なく震えていた。まるで、彼女の方が怖がっているようだった。そして、悲しんでいるようだった。その手を、初名は払いのけることが出来なかった。
この女性が、初名を誰かと間違えていることは明白だった。だが、今回は見知らぬ他人に間違われているのではなかったのだ。
「梅子」の名を呼んで悲しそうに肩を震わせる女性を、初名はじっと見据えた。
「怒ってません。それに、怖くもありません」
「……ホンマに?」
顔を上げた女性は、涙で瞳をにじませていた。初名の言葉にほんの少し希望を見いだしたようだ。
その希望を砕くようでほんの少し気が引けたが、初名は、はっきりと告げた。
「私は『小阪初名』です。『梅子』じゃ、ありません」
そう告げた瞬間の女性の顔は、何とも形容しがたかった。悲しそうであり、驚いたようであり、落胆したようであり、でも同時に安堵したような……様々な感情が、そこに混在していた。
「そう……間違えてしもたわ。ごめんね」
そう言って、するりと下げた手を、初名が掴み返した。驚いて見返す女性に、初名はさらに告げた。
「あの……『梅子』って、もしかして……『青山梅子』じゃないですか?」
「そうやけど……なんで?」
「『青山梅子』は、私の祖母です」




